最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
俺とオリアンは来た道を戻り、再びあの便所へ辿り着いた。
そして、そこから地下道へ入る。
相変わらず鼻を刺すような臭いだったが、今度は誰も一言も文句を言わなかった。
薬剤店へ戻ってきた時、屋内にはすでに人の気配がなかった。
寝具はきちんと畳まれている。
暖炉の火もとっくに消えており、煤で真っ黒になった鉄壺だけが、最後のわずかな温もりを残していた。
庭で剣気にめくり上げられた金盞花畑でさえ、土を戻され、踏み固められている。
まるで何事も起こらなかったかのようだった。
「ふんふん。あの老魔女、貴殿に相当怯えたのでしょうな。夜逃げしたに違いありませぬ」
オリアンは長く息を吐き、魔杖を軽く振った。
俺たち二人を包んでいた静音障壁《せいおんしょうへき》が解除される。
「逃げた、というわけではなさそうです」
俺は食卓の前へ歩き、卓上から一通の手紙を拾い上げた。
便箋は茶杯の下に押さえられている。
文字は整っていたが、どこか慌ただしさが滲んでいた。
俺は便箋を広げ、油灯の明かりを頼りに読み始める。
――
全てを見通される御方へ
卑しき奴僕が、別れの挨拶もなく去ることをお許しください。
貴方様が再び現世へお戻りになったという知らせは、夜を仰ぐすべての巫女にとって、この上ない奮い立つ報せでございます。
わたくしは一刻も早く、このことを上位の者へ報告しなければなりません。
薬剤店の鍵は、貴方様のために残しておきました。
店内のものは、すべてご自由にお使いください。
もしこの小屋がお目に留まるようでしたら、しばしの仮住まいとしてお使いいただければ幸いです。
近隣の兵士たちは、すでに買収済みでございます。
誰も貴方様の邪魔はいたしません。
また、双流城ではまもなく戦が起こります。
どうか一刻も早く、この地をお離れください。
今後、何かご用命がございましたら、ほかの町にある薬剤店を通じて、わたくしたちへご連絡ください。
最後に、改めて、不辞の別れをお許しください。
願わくば、貴方様の黒き栄光が、永遠にアラレン大陸を照らさんことを。
――貴方様の忠実なる奴僕、マーラ
「ははは!」
オリアンの声が、俺の肩越しに響いた。
「これで決まりですな。貴殿はあの老魔女の目には、完全に黒を司る神の化身として映っておりますぞ」
彼はにやにやしながら、卓の上に置かれていた鍵束を拾い上げ、手の中で軽く重さを確かめた。
「とはいえ、誤解されたとはいえ、収穫がないわけではございませぬ。少なくとも儂らは今、双流城でも地価の高い場所に、ただで一軒の店を手に入れたわけですからな」
「もういいです。からかわないでください」
俺は便箋を畳み、懐へしまった。
強制的に神扱いされるこの状況には、もうどうしようもないほどの徒労感しかない。
「オリアン。今夜泊まる場所がないなら、ここで休むことをおすすめします」
「儂も、まさにそのつもりでございました」
オリアンはどかりと寝台に腰を下ろした。
ばねが軋み、ぎい、と苦しげな音を立てる。
「“ハエの脚”酒場のあのぼろ宿には、とうに飽き飽きしておりましたからな。目が覚めたら、儂はあの**魔力薬剤(まりょくやくざい)**を飲むことにいたします」
そう言うと、彼は魔杖を寝台の頭側に立てかけ、凝った肩を揉んだ。
「年を取るといけませぬな。夜中に貴殿に連れ回されただけで、この老骨はもうばらばらになりそうです」
「では、俺は先に戻ります」
俺は扉へ向かって歩いた。
だが、手を戸板にかけたところで、ふと足を止める。
「明日、用事が済んだら、城東の民兵訓練営へ来てください」
「分かっております、分かっております」
オリアンは寝台に横になり、こちらへ顔だけ向けた。
「では、儂が貴殿を訪ねる時、ほかの者には我らの関係をどう説明すればよろしいのですかな?」
「あなたほど頭のいい人が、そんなことを俺に聞きますか?」
俺は振り返り、笑ってみせた。
「俺の端正な顔立ちに心を打たれ、心から追従することにした、とでも言ってください」
「ほほう」
オリアンは寝返りを打ち、布団を頭まで引き上げた。
「では、お手数ですが外から扉を閉めてくださいませ。ありがとうございます」
「はいはい。すぐ行きますよ」
木戸が背後で閉まり、小さな音を立てた。
夜の色はいっそう濃くなっていた。
街道には、人影一つない。
オリアンとの軽口で、少しだけ気分は軽くなっていた。
だが、人気のない通りに再び自分の足音が響き始めると、一度は押し沈めたはずの思考が、潮のようにまた押し寄せてきた。
城外へ迫るゴブリン大軍。
双流城城主が城堡の地下に隠している陰謀。
牢房に囚われていた、やつれた女たちと子どもたち。
その一つ一つが山のように重く、俺の肩へ沈み込んでいる。
正直に言えば、一瞬だけ、本気で考えた。
いっそ何もかも放り出して、トーヴやペトラたちを連れて、この面倒な土地から離れてしまおうか、と。
ひたすら北へ。
遠くへ。
できるだけ遠くへ。
俺のゲーム経験があれば、別の場所でもそれなりに順調に成長できるはずだ。
静かな小さな町を見つけ、簡単な依頼をこなし、暇な時には宝探しをする。
金が貯まったら、自分の店を一つ開く。
そして、穏やかに暮らす。
だが、その考えが浮かんだ瞬間、俺は自分で首を横に振って否定した。
現実的ではない。
少なくとも、今はまだ無理だ。
トーヴはケリィ叔母を探している。
ペトラはケン隊長の帰還を待っている。
アルベルトには、面倒を見るべき家族がまるごといる。
たとえ彼女たちが俺についてくると言ってくれたとしても、すぐに身を引ける状況ではない。
それに、難民の中にいる老人や子どもたち。
彼らは俺を支えにしている。
俺がここで尻を払って逃げたら、彼らはどうなる?
そして何より――地下牢に囚われていた女たちと少女たち。
牢房の隅で身を丸め、空洞のような目をしていた影。骨ばった手。まともに身体を覆う布もなく、傷だらけになった体。
俺は本当に、あれを見なかったことにできるのか?
「ああ、もう。面倒くさいな!」
俺は足を止め、自分の額を強く叩いた。
冷たい風が熱を持った肌を撫で、ほんの少しだけ頭が冴える。
いい。
今後どう選ぶにせよ、まずは目の前にある一番差し迫った問題を処理するべきだ。
騎士職業認定任務。
そう考えた瞬間、また頭が痛くなってきた。
“領主”という職業路線が難しいことは、前から覚悟していた。
だが実際にこの段階まで来てみると、俺はやはり、その面倒さを甘く見ていたのだと分かる。
ゲームでは、領主職への昇格路線を選んだプレイヤーにとって、三つの任務は実はそこまで難しくなかった。
第一の“正当なる名分”。
これは金を払って、貴族身分を持つプレイヤーを何人か雇い、証明書類を書いてもらえばどうにかなった。
第三の“抜きん出た実力”。
これも同じく金で解決できる。自分より等級の高いプレイヤーを何人か雇って決闘を申請し、わざと負けてもらえばいい。
唯一、“轟く名声”だけが、ゲームでは最も時間のかかる任務だった。
大量の依頼をこなし、声望を積み上げる必要がある。
仲間と組んで刷ることはできるが、それでも反復任務にかなりの手間がかかった。
だが、この現実の世界では、状況が完全に逆転している。
第二の任務こそ、むしろ一番簡単になっていた。
この数日の逃亡と戦闘を経て、俺はこの難民たちの間で、なぜかかなり高い威望を得ている。
任務達成まで、残りはたった38人だ。
38人。
ゲームなら、それはさらに何十回も任務を走り、数日かけて声望を刷らなければならないことを意味する。
だが今の俺なら、より多くの難民に信頼され、ついてきてもらえれば、それだけで自然と達成できる。
逆に、第一と第三の任務こそが、俺の昇格路線に立ちはだかる最大の障害になっていた。
失算だ!!!
完全に失算だった!!!
そう考えながら、俺はまた属性面板を開き、改めて確認した。
【姓名:コロン】
【種族:人類】
【職業:落ちぶれ貴族(Lv5)】
【経験値:168/50】(レベルアップ不可)
【力量:2(7)+5】
【知力:1(3)+1】
【敏捷:2(5)】
【耐力:2(7)+2】
【白獅子剣術Lv2(1/100)、基礎剣術Max、基礎格闘Lv4(13/40)、急救、騎術】
【技能点数:45】
【技能:剣気斬、剣気圧縮】
【剣気斬:基礎剣術を極限まで修めたのち、体内に宿る一縷の鋭き意。刀剣を装備している時、武器を通して放つことができる。冷却時間一時間】
【剣気圧縮:習得後、放出する剣気の射程が二倍、貫通力が二倍に上昇し、同時放出数+一】
【天賦:無畏】
(生命本源損傷により、発動不可)
【装備:石の中の剣、洞察の指輪、烏の編み羽】
――――
「そもそも、どうして俺はこんな職業を選んだんだ……!」
自分にはまだ“生命本源損傷”というデバフが残っている。
それなのに、自分より等級の高い相手を少なくとも三人、正面から受け止めるか撃退しなければならない。
相手は最低でも鉄級戦士か、一環メイジ以上の存在になる。
そう考えるだけで、奥歯が痛くなってきた。
俺もゲーム時代の定番手段を真似ようとは考えた。
金を払って、誰かに芝居へ付き合ってもらうのだ。
だがいくら考えても、この世界へ来てから俺が知り合った中で条件を満たす者など、片手で数えられるほどしかいない。
片腕のレシオ。
巫女のマーラ。
オリアンが無事に昇格できれば、彼も数に入る。
そして?
それで終わりだ。
レシオは今、どこかの隅で傷を舐めているかもしれない。
マーラは夜のうちに姿を消した。
オリアンは目の前にいるようなものだが、だからといって本当に彼と戦うわけにもいかない。
万が一、剣気の加減を誤って、この就任したばかりの老侍従を傷つけでもしたら、俺はどこでまた、タロットをいじれて、歴史にも詳しく、銀貨十枚で身売りしてくれるメイジを探せばいいのか。
そう考えると、俺は思わずため息をついた。
歩く速度も自然と落ちる。
顔を上げると、いつの間にか民兵訓練営の外まで戻ってきていた。
営門は半ば開いている。
中からはいくつかの篝火の温かな光が漏れ、夜風の中でゆらゆらと揺れていた。
火のそばには、毛布にくるまった人影がいくつか散らばっている。
すでに深く眠って、規則正しい寝息を立てている者。
まだ小声で何かを話している者。
時折、曖昧な笑い声も一つ二つ聞こえてくる。
粗末な野営地だった。
だがそこには、言葉にしがたい静けさと、確かな安心感があった。
俺は営門の外に立ち、しばらくそれを眺めていた。
背後から吹いてくる夜風には、路地の奥に残った冷たさが混じっている。
けれど、その冷気は、目の前で揺れる火明かりに遮られているように感じた。
さっきまで胸の中に詰まっていた苛立ちが、何かにそっと撫でられるように、少しずつほどけていく。
この先にどれほど厄介なことが待っているとしても。
こうしてそばにいてくれる人たちがいるなら――
それも、案外悪くないのかもしれない。