最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜   作:窮北の風

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第66話 営地へ戻る

 俺とオリアンは来た道を戻り、再びあの便所へ辿り着いた。

 そして、そこから地下道へ入る。

 

 相変わらず鼻を刺すような臭いだったが、今度は誰も一言も文句を言わなかった。

 

 薬剤店へ戻ってきた時、屋内にはすでに人の気配がなかった。

 寝具はきちんと畳まれている。

 暖炉の火もとっくに消えており、煤で真っ黒になった鉄壺だけが、最後のわずかな温もりを残していた。

 庭で剣気にめくり上げられた金盞花畑でさえ、土を戻され、踏み固められている。

 まるで何事も起こらなかったかのようだった。

 

「ふんふん。あの老魔女、貴殿に相当怯えたのでしょうな。夜逃げしたに違いありませぬ」

 オリアンは長く息を吐き、魔杖を軽く振った。

 俺たち二人を包んでいた静音障壁《せいおんしょうへき》が解除される。

 

「逃げた、というわけではなさそうです」

 俺は食卓の前へ歩き、卓上から一通の手紙を拾い上げた。

 便箋は茶杯の下に押さえられている。

 文字は整っていたが、どこか慌ただしさが滲んでいた。

 

 俺は便箋を広げ、油灯の明かりを頼りに読み始める。

 

 ――

 

 全てを見通される御方へ

 卑しき奴僕が、別れの挨拶もなく去ることをお許しください。

 貴方様が再び現世へお戻りになったという知らせは、夜を仰ぐすべての巫女にとって、この上ない奮い立つ報せでございます。

 

 わたくしは一刻も早く、このことを上位の者へ報告しなければなりません。

 薬剤店の鍵は、貴方様のために残しておきました。

 店内のものは、すべてご自由にお使いください。

 もしこの小屋がお目に留まるようでしたら、しばしの仮住まいとしてお使いいただければ幸いです。

 近隣の兵士たちは、すでに買収済みでございます。

 誰も貴方様の邪魔はいたしません。

 

 また、双流城ではまもなく戦が起こります。

 どうか一刻も早く、この地をお離れください。

 今後、何かご用命がございましたら、ほかの町にある薬剤店を通じて、わたくしたちへご連絡ください。

 

 最後に、改めて、不辞の別れをお許しください。

 願わくば、貴方様の黒き栄光が、永遠にアラレン大陸を照らさんことを。

 

 ――貴方様の忠実なる奴僕、マーラ

 

「ははは!」

 オリアンの声が、俺の肩越しに響いた。

「これで決まりですな。貴殿はあの老魔女の目には、完全に黒を司る神の化身として映っておりますぞ」

 彼はにやにやしながら、卓の上に置かれていた鍵束を拾い上げ、手の中で軽く重さを確かめた。

「とはいえ、誤解されたとはいえ、収穫がないわけではございませぬ。少なくとも儂らは今、双流城でも地価の高い場所に、ただで一軒の店を手に入れたわけですからな」

 

「もういいです。からかわないでください」

 俺は便箋を畳み、懐へしまった。

 強制的に神扱いされるこの状況には、もうどうしようもないほどの徒労感しかない。

「オリアン。今夜泊まる場所がないなら、ここで休むことをおすすめします」

 

「儂も、まさにそのつもりでございました」

 オリアンはどかりと寝台に腰を下ろした。

 ばねが軋み、ぎい、と苦しげな音を立てる。

「“ハエの脚”酒場のあのぼろ宿には、とうに飽き飽きしておりましたからな。目が覚めたら、儂はあの**魔力薬剤(まりょくやくざい)**を飲むことにいたします」

 そう言うと、彼は魔杖を寝台の頭側に立てかけ、凝った肩を揉んだ。

「年を取るといけませぬな。夜中に貴殿に連れ回されただけで、この老骨はもうばらばらになりそうです」

 

「では、俺は先に戻ります」

 俺は扉へ向かって歩いた。

 だが、手を戸板にかけたところで、ふと足を止める。

「明日、用事が済んだら、城東の民兵訓練営へ来てください」

 

「分かっております、分かっております」

 オリアンは寝台に横になり、こちらへ顔だけ向けた。

「では、儂が貴殿を訪ねる時、ほかの者には我らの関係をどう説明すればよろしいのですかな?」

 

「あなたほど頭のいい人が、そんなことを俺に聞きますか?」

 俺は振り返り、笑ってみせた。

「俺の端正な顔立ちに心を打たれ、心から追従することにした、とでも言ってください」

 

「ほほう」

 オリアンは寝返りを打ち、布団を頭まで引き上げた。

「では、お手数ですが外から扉を閉めてくださいませ。ありがとうございます」

 

「はいはい。すぐ行きますよ」

 

 木戸が背後で閉まり、小さな音を立てた。

 

 夜の色はいっそう濃くなっていた。

 街道には、人影一つない。

 

 オリアンとの軽口で、少しだけ気分は軽くなっていた。

 だが、人気のない通りに再び自分の足音が響き始めると、一度は押し沈めたはずの思考が、潮のようにまた押し寄せてきた。

 

 城外へ迫るゴブリン大軍。

 双流城城主が城堡の地下に隠している陰謀。

 牢房に囚われていた、やつれた女たちと子どもたち。

 その一つ一つが山のように重く、俺の肩へ沈み込んでいる。

 

 正直に言えば、一瞬だけ、本気で考えた。

 いっそ何もかも放り出して、トーヴやペトラたちを連れて、この面倒な土地から離れてしまおうか、と。

 ひたすら北へ。

 遠くへ。

 できるだけ遠くへ。

 

 俺のゲーム経験があれば、別の場所でもそれなりに順調に成長できるはずだ。

 静かな小さな町を見つけ、簡単な依頼をこなし、暇な時には宝探しをする。

 金が貯まったら、自分の店を一つ開く。

 そして、穏やかに暮らす。

 

 だが、その考えが浮かんだ瞬間、俺は自分で首を横に振って否定した。

 現実的ではない。

 少なくとも、今はまだ無理だ。

 

 トーヴはケリィ叔母を探している。

 ペトラはケン隊長の帰還を待っている。

 アルベルトには、面倒を見るべき家族がまるごといる。

 たとえ彼女たちが俺についてくると言ってくれたとしても、すぐに身を引ける状況ではない。

 それに、難民の中にいる老人や子どもたち。

 彼らは俺を支えにしている。

 俺がここで尻を払って逃げたら、彼らはどうなる?

 

 そして何より――地下牢に囚われていた女たちと少女たち。

 牢房の隅で身を丸め、空洞のような目をしていた影。骨ばった手。まともに身体を覆う布もなく、傷だらけになった体。

 俺は本当に、あれを見なかったことにできるのか?

 

「ああ、もう。面倒くさいな!」

 俺は足を止め、自分の額を強く叩いた。

 冷たい風が熱を持った肌を撫で、ほんの少しだけ頭が冴える。

 

 いい。

 今後どう選ぶにせよ、まずは目の前にある一番差し迫った問題を処理するべきだ。

 騎士職業認定任務。

 

 そう考えた瞬間、また頭が痛くなってきた。

“領主”という職業路線が難しいことは、前から覚悟していた。

 だが実際にこの段階まで来てみると、俺はやはり、その面倒さを甘く見ていたのだと分かる。

 ゲームでは、領主職への昇格路線を選んだプレイヤーにとって、三つの任務は実はそこまで難しくなかった。

 

 第一の“正当なる名分”。

 これは金を払って、貴族身分を持つプレイヤーを何人か雇い、証明書類を書いてもらえばどうにかなった。

 

 第三の“抜きん出た実力”。

 これも同じく金で解決できる。自分より等級の高いプレイヤーを何人か雇って決闘を申請し、わざと負けてもらえばいい。

 

 唯一、“轟く名声”だけが、ゲームでは最も時間のかかる任務だった。

 大量の依頼をこなし、声望を積み上げる必要がある。

 仲間と組んで刷ることはできるが、それでも反復任務にかなりの手間がかかった。

 

 だが、この現実の世界では、状況が完全に逆転している。

 

 第二の任務こそ、むしろ一番簡単になっていた。

 この数日の逃亡と戦闘を経て、俺はこの難民たちの間で、なぜかかなり高い威望を得ている。

 任務達成まで、残りはたった38人だ。

 38人。

 ゲームなら、それはさらに何十回も任務を走り、数日かけて声望を刷らなければならないことを意味する。

 だが今の俺なら、より多くの難民に信頼され、ついてきてもらえれば、それだけで自然と達成できる。

 

 逆に、第一と第三の任務こそが、俺の昇格路線に立ちはだかる最大の障害になっていた。

 

 失算だ!!!

 完全に失算だった!!!

 

 そう考えながら、俺はまた属性面板を開き、改めて確認した。

 

【姓名:コロン】

【種族:人類】

【職業:落ちぶれ貴族(Lv5)】

【経験値:168/50】(レベルアップ不可)

【力量:2(7)+5】

【知力:1(3)+1】

【敏捷:2(5)】

【耐力:2(7)+2】

【白獅子剣術Lv2(1/100)、基礎剣術Max、基礎格闘Lv4(13/40)、急救、騎術】

【技能点数:45】

【技能:剣気斬、剣気圧縮】

【剣気斬:基礎剣術を極限まで修めたのち、体内に宿る一縷の鋭き意。刀剣を装備している時、武器を通して放つことができる。冷却時間一時間】

【剣気圧縮:習得後、放出する剣気の射程が二倍、貫通力が二倍に上昇し、同時放出数+一】

【天賦:無畏】

(生命本源損傷により、発動不可)

【装備:石の中の剣、洞察の指輪、烏の編み羽】

 

 ――――

 

「そもそも、どうして俺はこんな職業を選んだんだ……!」

 

 自分にはまだ“生命本源損傷”というデバフが残っている。

 それなのに、自分より等級の高い相手を少なくとも三人、正面から受け止めるか撃退しなければならない。

 相手は最低でも鉄級戦士か、一環メイジ以上の存在になる。

 そう考えるだけで、奥歯が痛くなってきた。

 

 俺もゲーム時代の定番手段を真似ようとは考えた。

 金を払って、誰かに芝居へ付き合ってもらうのだ。

 だがいくら考えても、この世界へ来てから俺が知り合った中で条件を満たす者など、片手で数えられるほどしかいない。

 片腕のレシオ。

 巫女のマーラ。

 オリアンが無事に昇格できれば、彼も数に入る。

 そして?

 それで終わりだ。

 

 レシオは今、どこかの隅で傷を舐めているかもしれない。

 マーラは夜のうちに姿を消した。

 オリアンは目の前にいるようなものだが、だからといって本当に彼と戦うわけにもいかない。

 万が一、剣気の加減を誤って、この就任したばかりの老侍従を傷つけでもしたら、俺はどこでまた、タロットをいじれて、歴史にも詳しく、銀貨十枚で身売りしてくれるメイジを探せばいいのか。

 

 そう考えると、俺は思わずため息をついた。

 歩く速度も自然と落ちる。

 顔を上げると、いつの間にか民兵訓練営の外まで戻ってきていた。

 

 営門は半ば開いている。

 中からはいくつかの篝火の温かな光が漏れ、夜風の中でゆらゆらと揺れていた。

 火のそばには、毛布にくるまった人影がいくつか散らばっている。

 すでに深く眠って、規則正しい寝息を立てている者。

 まだ小声で何かを話している者。

 時折、曖昧な笑い声も一つ二つ聞こえてくる。

 粗末な野営地だった。

 だがそこには、言葉にしがたい静けさと、確かな安心感があった。

 

 俺は営門の外に立ち、しばらくそれを眺めていた。

 背後から吹いてくる夜風には、路地の奥に残った冷たさが混じっている。

 けれど、その冷気は、目の前で揺れる火明かりに遮られているように感じた。

 さっきまで胸の中に詰まっていた苛立ちが、何かにそっと撫でられるように、少しずつほどけていく。

 

 この先にどれほど厄介なことが待っているとしても。

 こうしてそばにいてくれる人たちがいるなら――

 それも、案外悪くないのかもしれない。

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