最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
身につけている【烏の編み羽】のおかげで、俺は守衛の誰にも気づかれることなく、無事に野営地へ戻ることができた。
この時、野営地の篝火はすでに燃え尽きかけていた。
橙赤色の熾火が、微風の中で明滅している。
ここまでずっと気を張り詰めていた難民たちは、緊張が一気にほどけたせいか、皆ぐっすりと眠っていた。
ただ一人、火のそばに背筋を伸ばして座っている影を除いて。
ペトラは膝の上に抜き身の長剣を横たえていた。
けれど、その視線は剣には落ちていない。
時折、顔を上げて営門のほうをちらりと見る。
夜番をしているようにも見えたし、誰かを待っているようにも見えた。
「ペトラ、どうして休んでいないんですか? 今夜はあなたの見張り番ではなかったはずですが」
相手を驚かせないよう、俺はわざと遠回りし、彼女の正面にある天幕の裏から姿を現した。
俺を見た瞬間、ペトラの目がはっきりと明るくなった。
だがそれもすぐに抑え込まれ、彼女はただ小さく頷いただけだった。
「トーヴと代わった。彼女には、ほかの仕事があるから」
ペトラは少し困ったように肩をすくめ、隣の天幕のほうへ顎を向けた。
「ほかの仕事?」
俺は首を傾げ、彼女の視線を追った。
見ると、今のトーヴは毛布の上で大の字になって眠っていた。
手にはまだ、途中まで読んでいた本を握っている。
本の背は緩み、胸の上で開いたままになっていた。
呼吸は穏やかで長く、口元には無防備な笑みが浮かんでいる。
彼女の周囲には、子どもたちが何人も思い思いの格好で眠っていた。
ある子は彼女の腕を枕にしている。
ある子は彼女の脇の毛布に顔を埋めている。
まるで、巣穴を見つけた小動物の群れのようだった。
俺はその光景を見て、思わず少し笑ってしまった。
普段は大ざっぱなトーヴが、まさかここまで子どもに懐かれているとは思わなかった。
「ああ、子どもたちを寝かしつける仕事のことですか」
「そう」
ペトラの声が横から聞こえた。
そこには、かすかに柔らかい響きが混じっている。
「ただ、本を読んでいる途中で、自分が先に眠らなければ、もっとよかった」
「はは。それは彼女には難しいでしょうね。文字を見るとすぐ眠くなるタイプですから」
俺は首を横に振り、ちょうど向きを変えようとした。
だがその時になって初めて、ペトラがいつの間にか俺のすぐそばまで来ていることに気づいた。
彼女は表情を変えないまま、俺をじっと観察している。
鼻先が、ほんのわずかに動いた。
それから、声を潜めて尋ねてくる。
「こんな遅くに出かけていたのは、酒を飲みに行ったから? 少し、臭う」
俺は内心でぎくりとし、思わず二歩ほど後ろへ下がった。
トーヴのあの鋭い目だけでも十分警戒していたのに、今度は鼻の利くペトラまで出てくるとは。
「ああ、ええ。そうです」
俺は曖昧に答えた。
「城北のほうにある小さな酒場へ行って、自称メイジの老先生と会いまして。話が合ったので、少し飲みすぎました」
「……本当は」
ペトラは俯いた。
声は次第に小さくなり、最後にはほとんど聞き取れないほどだった。
「あなたが無理をしているなら、皆に話してもいいと思う」
「今、何か言いました?」
「な、何でもない」
ペトラは慌てて首を横に振った。
それから、俺の外套を指さす。
「外套を脱いで。洗っておく。明日は天気がよさそうだから、半日もあれば乾く」
俺は一瞬、呆気に取られた。
自分の外套を見下ろす。
確かにかなり埃を被っているし、汚水が染み込んだような暗い染みもいくつか残っていた。
恐らく、地下牢で擦ったものだ。
臭いもそこから漂っているのだろう。
「ありがとうございます。でも、これ以上あなたに迷惑をかけるわけにはいきません。自分でやります」
そう言いながら、俺は襟元の紐を解こうと手を伸ばした。
冗談ではない。
こんなことまで彼女に頼むわけにはいかない。
だが予想外だったのは、ペトラの動きが俺より早かったことだ。
彼女は一歩先に、俺の襟元へ手を伸ばしていた。
「任せて。これは……あなたに剣術を教えてもらっている礼だから」
「いや、本当にそこまでしてもらう必要は――」
俺たちが妙に近い距離で押し問答をしていた、その時だった。
背後にある天幕の垂れ幕が、細くめくれた。
レオナルドがズボンを押さえながら、眠たげに出てくる。
彼はまず、ぼんやりと篝火を見た。
それから、俺とペトラへ視線を移す。
まばたきを一つ。
それから目をこする。
まだ完全には目が覚めていないようだった。
だが口元だけは、すでに勝手に緩み始めている。
「おおー……道理でペトラ姉さん、今夜はどうしても見張りをやるって言ってたわけだ」
彼は欠伸をしながら、わざとらしく語尾を長く引いた。
まるで俺たち二人に聞かせるために言っているようだった。
「コロンの旦那を待ってたんですねぇ」
その言葉を聞いた瞬間、ペトラの顔が一気に赤くなった。
そこでようやく、自分がコロンに近づきすぎていたことに気づいたらしい。
彼女は慌てて一歩下がり、急いで弁解する。
「ち、違う。何もない。ただ、外套を脱がせようと……いや、外套を洗おうとしただけ」
だが残念ながら、その途切れ途切れの説明は、焦った末の言い訳にしか聞こえなかった。
そこへ真っ赤になった彼女の顔が加わると、説得力はますます薄くなる。
もっとも、レオナルドはまったく気にしていないようだった。
彼の目には、コロンの旦那ほど優れた人物に女の子が好意を寄せないほうが、むしろよほど不自然に映るのだろう。
子どもたちに囲まれて眠っていたトーヴも、その騒ぎで目を覚ました。
彼女は寝ぼけ眼のまま身体を起こし、ペトラを見て、それから襟元を半分ほど解きかけている俺を見た。
数秒ほど固まった後、何かを突然理解したように、目をほんの少し輝かせる。
ペトラは彼女に誤解されまいと、必死に目配せしていた。
だが、トーヴはまるで気にした様子もなく、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「ペトラなら、別にいいと思うよ」
「トーヴ、あなた!!」
ペトラの顔が、一気に真っ赤になった。
彼女はトーヴをきつく睨みつけた。
今にも外套を丸めて相手の口に押し込みたそうな顔だった。
そしてすぐに、勢いよく背を向けると、ぎこちない足取りで遠くへ歩いていく。
「み、水を汲んでくる!」
数歩先から届いた声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。
「いや、本当に皆が考えているようなことじゃありません。夜に少し出かけて、外套を汚しただけです。ペトラが洗ってくれようとしただけで」
「へえー」
俺が説明すると、レオナルドはすぐに興味をなくしたらしい。
欠伸をしながら、そのまま用を足しに行ってしまった。
だが、トーヴの反応は俺にとってかなり意外だった。
彼女はぴんと背筋を伸ばし、まるで山積みの金貨でも見るような目で俺を見ている。
「コロン、もしかして皆に内緒で、どこかへ宝探しに行ってたの?」
トーヴはそっと俺のそばへ跳ねるように寄ってきて、小首を傾げながら小声で尋ねた。
「な……何を言っているんですか。あなた、寝ていたんじゃないんですか?」
俺は少し後ろめたくなり、思わず視線を逸らした。
後ろめたくならないわけがない。
魔杖、魔力薬剤、そしてあの技能巻物。
この三つは確かに、今の俺が双流城で見つけられる数少ない“宝”だったのだから。
「ふふん。実はさっき、ずっと寝たふりをしてコロンの帰りを待ってたんだよ。だって、こそこそ出ていくところ、私ちゃんと見てたもん」
トーヴは胸を張った。
まるで、当然のことを告げているかのようだった。
「はいはい。それは本当にお疲れさまでした、トーヴ様」
俺は彼女の鳥の巣のようになった髪をちらりと見て、さらに口元に残っている涎の跡に気づき、危うく吹き出しそうになった。
「宝探しじゃないなら、何をしに行ってたの?」
「……確認したくないことを、いくつか確認しに行っていました」
俺は少し沈黙してから、ようやくそう答えた。
トーヴはそれ以上、追及しなかった。
ただ小さく頷き、その曖昧な答えを受け入れたようだった。
そして身を屈め、自分の後ろから手巾に包まれたものを取り出し、俺の前で広げる。
それは、こんがりと焼けた一枚の平たいパンだった。
表面からはまだわずかに湯気が立っている。
上には濃い色の干し葡萄がいくつか散らされており、独特の穀物の香りがふわりと漂った。
「食べて。コロンの分、残しておいたの」
彼女はそのパンを俺の手に押し込んできた。
俺は手の中のパンを見下ろし、それから彼女を上から下まで眺めた。
「このパン……どこから手に入れたんですか?」
「もちろん、私が野営地で作ったんだよ」
トーヴの声には、少し得意げな響きがあった。
「でも小麦粉があまり多くなかったから、最後に六枚しか作れなかったの。ほとんど皆に配っちゃった。この一枚は、コロンのためにこっそり残しておいたんだ」
「小麦粉はどこから?」
「ローランおじさんがくれたんだよ。チカ町で製粉所をやっていたローランおじさん。あそこの家で挽いた小麦粉は、細かくて白くて、焼くと独特の麦の香りがするの」
彼女の声は最初、軽やかだった。
だが“チカ町”と言ったところで、声が自然と低くなる。
「でも、これからは……もう買えないかもしれないね」
彼女が何を思い出したのか、俺には分かった。
チカ町はすでに陥落した。
あの製粉所も、ローランおじさんも、彼女の知っていた人や物も、おそらくもう残っていない。
「そんなことはありません」
俺はパンを一口かじり、よく噛んだ。
できるだけ軽い口調になるよう意識して言う。
「ゴブリンは、いつか必ず敗れます。その時になったら、あなたが欲しいだけの小麦粉を、俺が買ってきます」
トーヴはすぐには答えなかった。
しばらく俯き、地面を見つめている。
だが再び顔を上げた時には、もう笑顔に戻っていた。
そして、パンをさらに俺の手へ押し込む。
「早く食べて。冷めちゃうよ」
パンは確かに美味しかった。
外側は少し焦げていて、噛むとぱりっとする。
けれど中は柔らかく、しっかりとした噛み応えがあり、穀物本来の自然な甘みがあった。
もしこれがゲームだったなら、このパンにはきっと、“体力回復速度上昇”のようなバフ効果が表示されていただろう。
いや。
この本物の世界では、こうして腹の奥から広がる温かさのほうが、どんな状態欄の文字よりもずっと確かだった。
俺は大口で食べながら、ふと一つ思い出し、口の中にパンを含んだまま曖昧に呟いた。
「そういえば、双流城へ来る途中、あなたが小麦粉を持っているところなんて見ませんでしたけど」
「あ、実は橡の森に閉じ込められていた時に出そうとしたんだけど、この竹筒がどうしても開かなかったの」
トーヴは腰から、ずっとぶら下げていた小さな竹筒を外し、手の中でくるりと回してみせた。
「その後、主道に戻ったら食べ物も足りていたから、そのまま忘れちゃってて……」
「竹筒が開かなかった?」
俺は咀嚼を止め、その目立たない竹筒へ視線を落とした。
見た目はごく普通だ。
トーヴの身につけているこまごまとした小物の中に紛れていれば、まったく目を引かない。
「そうだよ」
トーヴは竹筒を俺の前へ差し出した。
「これ」
俺は受け取って、軽く重さを確かめる。
ひどく軽い。
中に重いものが入っているようには思えなかった。
軽く振ってみると、硬いものがぶつかり合う細かな音がした。
まるで、乾いた石片か小さな木片がいくつか入っているような音だ。
「これに、小麦粉の袋が入るんですか?」
俺は疑わしげにそれを眺めた。
「もちろん、そのまま入れるわけじゃないよ」
トーヴは竹筒を受け取り、目を閉じた。
何かに意識を集中しているようだった。
数秒後、彼女は筒口を下へ向け、地面へ傾ける。
ざららっ。
雑多な品々が、何もない空間から彼女の足元に現れた。
一本の麺棒。
小さな平鍋。
いくつかの瓶や壺。
手縫いの粗末な人形が数体。
そして、丸められた布切れの束。
数こそ多くはない。
だが、二人の間の空間は、それだけでほとんど埋まってしまった。
俺は固まった。
口の中のパンを噛むことすら忘れていた。
「次……次元収納袋《じげんしゅうのうぶくろ》? トーヴ、どうしてそんなものを持っているんですか!?」