最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
ハリンは俺とライチェ主教を連れて、三本分の通りを走り抜けたところで、ようやく足を緩めた。
俺が疲れたわけではない。
ライチェ主教が、一台の食べ物屋台の前で座り込み、どうしても動こうとしなくなったのだ。
ハリンがいくら引っ張っても、まったく効果がなかった。
「彼らは、もう追ってこないでしょう」
俺はそう言った。
「はぁ……はぁ……」
ハリンは息を切らしながら、俺へ深く頭を下げた。
「助けてくれて、本当にありがとうございましためぇ。今回はあなたのおかげですめぇ。そうじゃなかったら、私とライチェ主教はまたあの人たちにいじめられていためぇ」
そう言って、彼女は先ほど俺が渡した銀貨を差し出してきた。
さらに、小さな紙袋を一つ、俺の手のひらに載せる。
「このお金は、絶対に受け取れませんめぇ。この蜜糖は、私たちを助けてくれたお礼ですめぇ」
「いやいや、これは蜜糖を買うための金です。どうして――」
言いかけたところで、俺はハリンの目とぶつかった。
続きの言葉は、喉の奥へ引っ込んだ。
その眼差しを、俺はよく知っている。
苦しみを経たあとに残り、それでもなお折れることを拒む頑固さだ。
どれほど日々が苦しくても、心の中にある何かだけは絶対に倒させない。
そんな目だった。
「分かりました。では、この蜜糖、ありがたくいただきます」
俺は紙袋を受け取り、中から一つ摘まんで口に入れた。
甘い。
柔らかな甘さだ。
炒った麦の香ばしさもある。
蜜糖という名ではあるが、作り方は麦芽糖に近いのだろう。
主な材料は小麦ともち米。
ただし、ハリンの作ったこれは、少量の蜂蜜も加えてあるはずだ。
そうでなければ、ここまで甘みは強くならない。
「すごく美味しいですね!」
俺は思わずそう口にしていた。
ハリンは大きな満足を得たように、眉をふわりと緩めて笑った。
「こんなに美味しい蜜糖をもらったんです。代わりに、俺が食事をご馳走しましょう」
俺はライチェ主教のほうを指さした。
「ちょうど、ライチェ主教が食事場所まで選んでくれたようですし」
ハリンは一瞬、ぽかんとした。
そこでようやく、後ろに主教がいることを思い出したらしい。
慌てて振り返る。
そして、見た瞬間に顔色を変えて駆け寄った。
この時のライチェ主教は、先ほどまでの子どもっぽい様子とはまるで違っていた。
彼は屋台の店主を相手に、妙に真面目な顔で滔々と何かを語っている。
店主は嫌そうな顔をしながら、手に持った蠅叩きを、まるで蠅を追い払うように彼へ向かって振っていた。
最初、俺はまた主教がふざけているのだと思った。
だが近づいてみると、どうにも様子がおかしい。
「逃げよ、早く逃げるのだ!」
ライチェ主教は、目の前の蠅叩きなどまったく見えていないかのように、背筋を伸ばして大声で叫んでいた。
その語調は奇妙で、まるで詩を朗読しているようだった。
「正義はすでに蒼白く力を失い、緑の疫病がまもなく双流城《トゥー・リバーズ・シティ》全体を呑み込む! 行け、白を司る神の民よ。正午の太陽に従い、遠くへ進むのだ――」
ハリンは慌てて彼の口を塞ごうとした。
だが、その拍子に屋台の上の調味料を倒してしまう。
「ごめんなさいめぇ! ごめんなさいめぇ!」
彼女は謝りながら、素早く蜜糖を一掴み取り、ライチェ主教の口へ詰め込んだ。
「むぐぐぐ……」
口いっぱいに詰め込まれたおかげで、先ほどの騒がしい声はようやく止まった。
俺も急いで手伝いに向かう。
だが不思議なことに、俺が近づいた瞬間、ライチェ主教は自分から静かになった。
そしてくるりと向きを変え、椅子を一つ見つけて腰を下ろし、手の中の小石で勝手に遊び始めた。
「これは、どういうことですか?」
「見たとおりですめぇ」
ハリンは肩を落とし、どうしようもないという顔をした。
「ライチェ主教は、普段はだいたい子どもみたいなんですけど、たまにさっきみたいに、急におかしなことを言い出すんですめぇ」
「ああ。まあ、皆もう慣れちまったよ」
屋台の店主もため息をついた。
卓を拭きながら、蠅叩きでライチェ主教の頭を軽くぽんと叩く。
「ただ、苦労してるのはハリンのほうだな。この数年、この子がどうやって耐えてきたのか、俺には分からんよ」
二人の言葉は、自然に聞こえた。
だが、俺にはどうしても、どこか引っかかるものがあった。
それが何なのかは、すぐには言葉にできない。
俺はもう一度、頭を押さえながらにこにこと小石で遊んでいるライチェ主教を見た。
そして首を振る。
おそらく、ここ最近いろいろなことを経験しすぎて、俺が少し過敏になっているだけだろう。
「ハリンがそれだけ苦労しているなら、今日はちょうど、しっかり食べましょう。もちろん、店主さんにも少しご迷惑をおかけしますが」
俺は屋台の上に掲げられた看板を見上げた。
『黒石炭火焼き』。
「俺の勘違いでなければ、この店で売っているのは、双流城名物の赤尾鶏の炭火焼きですね?」
「おや、客人は双流城に詳しいじゃないか。地元の人かい?」
「いいえ。ただ、少しの間、田舎に住んでいたことがあるんです」
かつて、俺は知り合ったばかりの三人のプレイヤーと組み、ロニクス王国南境に丸半月ほど滞在したことがある。
レベル上げと言えば聞こえはいいが、実際には大半の時間を物見遊山に費やしていた。
その後、あの三人の仲間とは少しずつ別れ、それきり二度と会うことはなかった。
それでも、初めてゲームの世界へ踏み込んだ時の、あの青さと単純さは、今でも俺のゲーム人生の中で最も大切な記憶の一つだ。
やがてレベルは上がり、装備も良くなった。
俺は後になって、わざわざ何度かこの地へ戻ったことがある。
かつて野営した場所。
任務を受け渡しした冒険者ギルド。
そして、仲間と一緒に泊まった宿。
場所は何一つ変わっていなかった。
だが、あの時の感覚だけは、もう二度と戻らなかった。
今こうして、双流城の名物料理をもう一度味わえるというのは、まさに幸運な巡り合わせと言えるのかもしれない。
記憶を頼りに、俺は看板料理を三つ注文した。
焼き野菜の盛り合わせ。
雲茸の炭火焼き。
そして、大皿いっぱいの赤尾鶏の炭火焼き。
店主は、肩幅の広いがっしりしたおじさんだった。
俺が奢ると聞くと、特別に冷やした林檎酢を一壺つけてくれた。
もちろん、値段も安くはない。
全部で銅貨二十六枚だった!
「めぇ! こんなに豪華なの……」
ハリンは卓上いっぱいの料理を見て、どうしていいか分からない様子だった。
「食べてください」
俺は焼き野菜を彼女の前へ押し出した。
「足りなければ、また頼みます」
ライチェ主教はすでに待ちきれなかったらしい。
鶏の脚を一本掴むと、そのままかぶりついた。
油が髭を伝って滴っているが、本人はまったく気づいていない。
ただ満足そうに、もぐもぐと噛み続けていた。
ハリンは主教が美味しそうに食べているのを見て、しばらく迷っていた。
やがて箸を取り、焼いた筍を一本摘まむ。
塩を少しつけて、小さな口で少しずつ食べ始めた。
二人の手の動きが少しずつ速くなっていくのを見て、俺は胸の奥に少し苦いものを覚えた。
ハリンとライチェ主教の暮らしは、相当厳しいのだろう。
おそらく、まともな食事を口にするのは本当に久しぶりだったに違いない。
俺は箸を置き、店主に焼き野菜をもう一皿追加で頼んだ。
それをハリンの前へ押し出す。
ハリンの箸が止まった。
彼女はふいに顔を上げ、俺を見た。
「さっき、道で聖光浄化が必要だって言っていましためぇ……。もしかして、とても重い傷を負っているんですかめぇ?」
俺は隠さなかった。
チカ町からここまで難民を護送してきた経緯を、簡単に話した。
細かいことは言わない。
ただ、ゴブリン、逃亡、亜空間、そしてあの戦いについてだけ触れた。
ハリンは聞きながら、どんどん目を丸くしていった。
手に持っていた箸を下ろすことすら忘れている。
「めぇ!? あなた、そんなにすごい人だったんですめぇ……」
彼女はぽつりと呟いた。
「すごいも何もありません。全部、生き延びるためにやったことです」
俺は軽く手を振った。
「ところで、よければ俺たちの野営地にいる負傷した難民を、少し診てもらえませんか? 高度な魔法でなくても構いません。簡単に傷口を処置してもらえるだけで十分です」
「もちろんできますめぇ!」
ハリンは力強く頷いた。
ようやく、自分にもできることを見つけたような顔だった。
「高位の祝福はまだできませんけど、簡単なものならできますめぇ。だって、こんなに長く教会にいるんですから、何もできないわけじゃないめぇ……」
その真剣な瞳を見て、俺は思わず笑ってしまった。
食事を終えた後、俺は勘定を済ませた。
ハリンはまだ少し申し訳なさそうにしていたが、俺はそれを制した。
「今日はわざわざ、別の場所まで来てもらうことになります。その報酬だと思ってください」
彼女は少し迷った。
だが最後には、もう断らなかった。
そして改めて、丁寧に腰を折る。
「ありがとうございますめぇ」
ライチェ主教はそばに立ち、大きなげっぷを一つした。
それから、少し離れた場所にある木立を見つめ、ふいに呟く。
「あの老いた橡の木、まるで空の雲みたいだね」
ハリンはため息をつき、彼の手を取った。
「行くめぇ」
俺は前を歩き、一人の老人と一人の少女を連れて、静かな路地をいくつか抜けていった。
野営地へ向かって進む。
ただ、俺は知らなかった。
俺たちが去ってしばらくしてから、あの木立の中から一つの人影が現れたことを。
その人物はその場に立ち、俺たちが遠ざかっていく背中を、静かに見つめていた。