最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
「ぺっ!」
ダグは青石の路面へ濃い痰を吐き捨てた。
片手で自分の頬を揉みながら、不満そうな顔で俺とオリアンを見る。
「俺はもう、あの貴族老爷どもの面の皮の厚さがよく分かりましたよ。ちょっと頼み事をするだけで、あそこまで人を困らせる必要がありますかね? 身分証明書を一枚書くだけで、口を開けば金貨五十枚。強盗でもするつもりですか!」
「相手にとって、我々は初対面ですからな。警戒するのも無理はありません」
オリアンは一度言葉を切り、少し考え込んでから続けた。
「ご主人様、儂には他の都市に何人か旧知の友人がおります。手紙を書けば、助けになるかもしれませんぞ」
「それはいいです。時間がかかりすぎます」
俺は首を横に振った。
城外ではゴブリン大軍が迫っている。
双流城《トゥー・リバーズ・シティ》の城主も、いまだ幕の向こうに隠れたままだ。
手紙の返事を待つような時間が、今の俺にあるはずもない。
「名簿には、あと何家残っていますか?」
俺はダグへ顔を向けた。
ダグは皺だらけになった羊皮紙を取り出し、目を細めてざっと確認する。
すると、その顔色はさらに悪くなった。
「残っているのは最後の一家だけです。モンディカート家ですね。ですが旦那様、前の家々は全部きっぱり断ってきましたから、この最後の一家も望みは薄いと思いますよ」
彼は言うほどに肩を落としていった。
だが突然、何か名案を思いついたように目を輝かせる。
「旦那様! いっそ、こうしましょう。三軒目の老爵士が条件を出していたじゃないですか。旦那様が婿入りしてその家の娘婿になるなら、すぐに身分証明書を出してくれるって」
ダグは胸を叩いた。
「なら、私が旦那様の代わりに行きます! 少しばかり色香を犠牲にするくらい、このダグ、義を前にして辞するつもりはありません!」
俺は危うく自分の唾でむせるところだった。
「あなた、確かもう結婚しているでしょう? 子どもも二人いますよね」
「いやいや、それは問題ありません。昼は自分の家へ帰り、夜は向こうへ戻って貴族になる。どちらも邪魔しませんし、むしろ両方うまくいく名案です。旦那様、どう思います?」
ダグはまるで気にした様子もなく手を振った。
俺とオリアンは視線を交わした。
そして妙に息の合った動きで同時に背を向け、そのまま歩き出す。
「えっ、旦那様! 私は本気で言っているんですよ! 少し考えてみてくださいって――」
ダグの声が背後から追いかけてきた。
彼は小走りで俺たちに追いつき、なおもぶつぶつと何かを言い続けている。
だが、彼のせいで話が少し逸れたおかげか、先ほどまで胸に溜まっていた苛立ちは、いくらか薄れていた。
小半分ほど城内を抜けたところで、案内役のダグが広い鉄細工の門の前で足を止めた。
透かし彫りの鉄柵越しに、中の様子が見える。
綺麗に刈り込まれた庭園。
その中央には大理石の噴水が立ち、水がこんこんと湧き上がっていた。
「モンディカート家です。家主はトール男爵。主に薬草と酒の商売をしています。双流城周辺では、あの家がほとんど独占していると言ってもいいでしょうね」
ダグは門の前に立ち、羨ましそうに言った。
「見てくださいよ、この庭。あの噴水一つで、俺たち難民の隊全員が一か月食っていけますよ」
俺は屋敷を眺め、心の中でますます望みが薄いと感じた。
先ほど訪ねた家々は、どこも貧しくて首が回らないような状態だった。
それでも彼らは口を割ろうとしなかった。
これほど豊かに暮らしている家なら、なおさら出自不明の見知らぬ相手のために危険を冒す理由などないだろう。
どうやら、別の方法も考えておく必要がありそうだ。
ダグが鉄門についた銅の輪を叩く。
しばらくして、内側から執事らしき中年男が歩いてきた。
髪は一糸乱れず整えられ、黒い短衣を着ている。
顔には、職業的な笑みが貼りついていた。
「三名の貴客の皆様、誠に申し訳ございません。家主様はただいま来客中でして、外のお客様にお会いすることができません。恐れ入りますが、日を改めてお越しくださいませ」
「ごきげんよう。儂の名はオリアン。一環魔法師です」
オリアンが一歩前へ出た。
胸元の六芒星徽章が見えるよう、意識して身を向ける。
「本日トール男爵を訪ねたのは、確かに相談したい用件があるためです。お手数ですが、取り次いでいただけませんかな」
執事の視線が、六芒星徽章の上で一瞬止まった。
態度がすぐに数段恭しくなる。
「これは魔法師閣下でございましたか。大変失礼いたしました。ですが、家主様が現在来客中であるのは事実でして、私めの一存ではどうにもいたしかねます。誠に申し訳ございません。誠に申し訳ございません」
言葉はますます丁寧になった。
だが身体は門口をしっかり塞いだまま、一歩も引いていない。
オリアンの眉がぴくりと動いた。
今にも何か言い出しそうになったところで、俺は手を伸ばし、彼の腕を軽く押さえる。
そして前へ出た。
「お手数ですが、トール男爵閣下へお伝えください。俺はシリス丘陵から来た高塔騎士です。この魔法師は、俺の従僕にあたります」
そう言いながら、俺は腰の革袋からあの貴族徽章を取り出した。
徽章に刻まれた紋様が見えるよう、相手へ示す。
「今回訪ねたのは、男爵閣下と酒の取引について直接お話ししたいことがあるためです。どうか取り次ぎをお願いいたします」
言葉を続ける間に、俺の左手は何気ない動きで銀貨を一枚差し出していた。
次の瞬間、銀貨は執事の広い袖口の中へ消える。
執事は顔色一つ変えなかった。
軽く咳払いすると、俺たちへわずかに身を屈める。
「三名様、少々お待ちくださいませ。すぐにお伝えしてまいります」
しばらくすると、脇門が再び開いた。
執事が戻ってきたのだ。
彼は身体を横へずらし、どうぞ、という仕草をした。
「三名様、こちらへどうぞ。家主様の来客はまだ終わっておりませんので、恐れ入りますが、まずは庭園でしばらくお待ちくださいませ」
門の内側の砂利道を抜け、執事は俺たちを庭園の片隅にある石卓のところまで案内した。
「三名様、こちらで少々お待ちください。家主様のお手が空き次第、すぐに参ります」
そう言うと、執事は軽く頭を下げ、そのまま立ち去った。
石卓の上には何もなかった。
水一杯すらない。
「俺たちをここに放っておいて、水の一口も出さないとはね。モンディカート家は見た目こそ立派ですが、客のもてなしは大したことありませんな」
ダグは鉄細工の椅子にどかりと腰を下ろし、左右に体を揺らしながら、小声でぶつぶつ言った。
「焦る必要はありません。門の中へは入れました。少しくらい待ってもよいでしょう」
オリアンは椅子に座り、背もたれに身を預けて目を閉じた。
俺も椅子の背へ身体を預ける。
暮れかけた庭園へぼんやりと視線を向けながら、久しぶりに訪れたわずかな静けさを味わっていた。
ほどなくして、大門のほうから笑い混じりの話し声が聞こえてきた。
「午後に俺が使ったあの『突き』、どうだった? もう少しでお前を倒せただろ?」
「俺を倒す? あれは足元の石につまずいただけだ」
「認めなくてもいいさ。どうせ俺の剣術の天賦は、お前より上だからな」
「俺より上で何になるんだよ。そんなに言うなら、レオナルドと比べてみろよ……」
二人は言い合いながら、互いに皮肉を飛ばしている。
その合間に、時折大きな笑い声が混じった。
さらにその間へ、執事が焦りながら、わざと声を潜めて注意する声が挟まる。
「お二人の若様、どうかお静かに。庭園でお客様がお待ちです」
「客?」
一人の若者が足を止め、執事へ尋ねた。
「どんな客だ?」
「その方は、ご自身をシリス丘陵の高塔騎士と名乗っておられます。魔法師の従僕を一人伴い、家主様と酒の商談をしたいとのことでした」
執事は少し迷った後、ようやく低い声で答えた。
「高塔騎士? 聞いたことないな」
若者は鼻を鳴らした。
「前にも、父上の遠縁だと名乗る奴が訪ねてきただろ? 結局あいつは小偷で、屋敷の中を下見しに来ただけだった。最後に父上が見破ったからよかったものの」
彼は少し考えてから言った。
「駄目だ。俺が見極めに行く。もし詐欺師なら、その場で化けの皮を剥いでやる」
「態度は良くしろよ。もし本当に商談に来た相手なら、失礼があってはいけない」
もう一人の若者が諭すように言った。
「分かってる、分かってる。俺にも分別はある」
その会話は、意識して声を潜めて行われていた。
普通の人間なら、庭園の半分以上離れた場所からは、せいぜい曖昧な低い声がいくつか聞こえる程度だろう。
だが俺には、一語一句がはっきりと聞こえていた。
俺は心の中で苦笑した。
ようやく門の中へ入れたと思ったら、今度は疑り深い若様が二人か。
どうやら、この家も望み薄らしい。
「面倒が来ました」
俺はオリアンとダグへ目配せし、声を潜めて言った。
二人はすぐに意図を理解し、先ほどまでの気の抜けた姿勢を正した。
しばらくして、足音が近づいてくる。
二人の若者が木陰から現れた。
前を歩いているのは背の高い少年だ。
茶色い巻き髪を持ち、歩く時は顎をわずかに上げている。
若者特有の派手さと自信が全身から滲んでいた。
後ろについているのは、やや背の低い少年だった。
こちらは肩幅が広く、歩き方も落ち着いている。
顔にはそばかすが浮かんでいた。
二人は老いた槐の木を回り込み、石卓の前へやってくる。
そして、同時にその場で固まった。
背の高い少年は目を見開き、口を大きく開けた。
先ほどまでの傲岸不遜な雰囲気は、一瞬で跡形もなく消える。
背の低い少年の表情はもう少し抑えられていたが、その瞳に浮かぶ衝撃は隠しようがなかった。
二人は顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に驚きの声を上げる。
「コロン旦那様? オリアン様? どうしてお二人がここに!?」
今度は、俺たち三人が固まる番だった。
俺は顔を上げ、目の前にある二つの若い顔を眺めた。
頭の中で必死に記憶を探る。
だが、どうしても思い当たる人物と結びつかない。
「あなたたちは?」
「覚えておられないかもしれませんが、俺はジャックです。こいつは従弟のラムです」
背の高い少年は、自分と隣の少年を指しながら、早口で答えた。
興奮のせいで、声が少し上ずっている。
「俺たちはどちらも民兵訓練営で学んでいます。今日の午後、旦那様と握手もさせていただきました!」
ラムという背の低い少年も慌てて頷き、言葉を足した。
「そうです、そうです。俺が最初に旦那様と握手しました」
俺はどうにか記憶を辿った。
確かに、そんなことがあった気がする。
まさか、こんな場所でまた会うことになるとは思わなかった。
「なるほど、あなたたちでしたか」
俺は頷き、流れに乗って尋ねた。
「それで、二人はどうしてここに?」
「ここは俺の家です! トール男爵は俺の父です!」
ジャックの顔には、抑えきれない興奮が浮かんだ。
彼は我先にと答える。
「トール男爵は俺の叔父です」
ラムが横から補足した。
「旦那様は父に会いに来られたのですか?」
ジャックは従弟の口出しなど気にした様子もなく、満面の笑みで俺を見た。
「ええ」
俺は頷いた。
「ただ、男爵閣下は来客中だと聞いたので、こちらで待たせていただいています」
「来客って何の来客ですか! どうせ商会の老いぼれどもと無駄話をしているだけです。旦那様にお会いすることのほうが、よほど大事でしょう!」
ジャックはそう言うと、勢いよく執事を睨んだ。
その声には、明らかな不満が込められている。
「執事! こちらはコロン旦那様だぞ! どうして貴客を庭で冷たい風に当てているんだ? 水一杯も出さずに! 果物は? 菓子は?」
執事の表情は、実に見ものだった。
唇が何度か動く。
ジャックを見て、俺を見る。
そして袖口の中にまだ温もりが残っている銀貨のことを思い出したのか、最後にはただひたすら腰を折って笑みを浮かべるしかなかった。
「は、はい……若様のお叱り、ごもっともでございます……すぐに用意してまいります……」
「用意など後でいい!」
ジャックは手を一振りした。
「すぐ中へお通ししろ! 俺が父上を呼んでくる!」