最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
「ぺっ!」
ダグは青石の路面へ濃い痰を吐き捨てた。
片手で頬を揉みながら、不満そうな顔で俺とオリアンを見る。
「俺はもう、あの貴族様どもの面の皮の厚さがよく分かりましたよ。ちょっと頼み事をするだけで、あそこまで人を困らせる必要がありますかね?身分証明書一枚で、口を開けば金貨五十枚。どうして直接強盗しないんですかね」
「なにしろ初対面ですからな。相手が警戒するのも、人情というものでしょう」
オリアンはしばし考え込んだあと、俺へ視線を向けた。
「ご主人様、儂には他の都市に何人か旧知の友人がおります。手紙を書いて送れば、助けになるかもしれませんぞ」
「それはいいです。時間がかかりすぎます」
俺は首を横に振った。
城外のゴブリン大軍は、いまも迫っている。
双流城の城主も、幕の裏に隠れたまま、何を企んでいるのか分からない。
こんな時に、十日も半月もかけて返事を待てと?
手紙が戻ってくる頃には、城外のゴブリンどもが城門税を取り始めているかもしれない。
「名簿には、あと何家残っていますか?」
俺はダグへ顔を向けた。
ダグは懐から皺だらけの羊皮紙を取り出し、目を細めて上から下まで確認する。
その顔色は、すぐにさらに悪くなった。
「残っているのは最後の一家だけです。モンディカート家ですね」
彼は少し間を置き、ため息をついた。
「ですが旦那様、前の家々は全部きっぱり断ってきました。この最後の一家も、望みは薄いと思いますよ」
そう言い終えた直後、ダグは何かを思いついたように目を輝かせた。
「旦那様!いっそ、こうしましょう!」
「三軒目のあの老爵士、旦那様が婿入りしてその家の娘婿になるなら、すぐに身分証明書を出すと言っていたじゃないですか」
「なら、私が旦那様の代わりに行きます!」
ダグは胸を張った。
顔には、妙に大義めいた表情が浮かんでいる。
「旦那様の大業のため、このダグ、少しばかり色香を犠牲にするくらい、義を前にして辞するつもりはありません!」
俺は危うく自分の唾でむせるところだった。
「あなた、確かもう結婚しているでしょう?子どもも二人いますよね」
「いやいや、それは問題ありません」
ダグはまるで気にせず手を振った。
「昼は自分の家へ戻り、夜は向こうへ行って貴族になる。どちらも邪魔しませんし、両方うまくいく名案です。旦那様、どう思います?」
俺はオリアンを見た。
オリアンもちょうど俺を見ていた。
次の瞬間、俺たちは妙に息の合った動きで背を向け、そのまま歩き出した。
「えっ――旦那様!私は本気で言っているんですよ!もう少し考えてみてくださいって――」
ダグの案はあまりにも突拍子がなさすぎて、どこから反論すればいいのか一瞬分からなくなった。
だが、そのおかげで、先ほどまで胸に溜まっていた苛立ちは、いくらか薄れていた。
小半分ほど城内を抜けたところで、ダグはようやく広い鉄細工の門の前で足を止めた。
透かし彫りの鉄柵越しに、中の様子が見える。
綺麗に刈り込まれた庭園。
庭の中央には大理石の噴水が立ち、澄んだ水が像の縁を伝ってこんこんと流れ落ちていた。
その奥には、三階建ての石造りの屋敷がそびえている。
壁面には、濃い緑の蔦が一面に這っていた。
その一目だけで分かる。
ここに住む者は、間違いなく金に困っていない。
「モンディカート家です。家主はトール男爵」
ダグは門の前に立ち、柵越しに中を覗き込んだ。
その声には羨望が滲んでいる。
「主な商いは薬草と酒類です。双流城周辺では、ほとんど独占していると言っていいでしょうね。見てくださいよ、あの噴水。あれを造る金だけで、俺たちの難民隊が一か月は食っていけますよ」
俺は彼の指すほうを一瞥し、今回の訪問に対する期待をさらに少し下げた。
前に訪ねた、家紋まで質に入れかねないほど貧しい貴族たちでさえ、首を縦に振らなかった。
このトール男爵がこれほど豊かに暮らしているなら、出自不明の見知らぬ相手のために危険を負う理由など、なおさらないだろう。
やはり、別の方法も先に考えておくべきだ。
ごん、ごん、ごん
ダグが鉄門の銅環を掴み、強めに叩いた。
ほどなくして、屋敷のほうから執事らしき中年男が歩いてきた。
髪は一糸乱れず整えられ、仕立てのよい黒い短衣を着ている。
顔にはすでに、欠点の見つけようがない職業的な笑みが貼りついていた。
「三名の貴客の皆様、誠に申し訳ございません」
執事は門のそばまで来ると、俺たちへ軽く一礼した。
「家主様はただいま来客中でして、外のお客様にお会いすることができません。恐れ入りますが、日を改めてお越しくださいませ」
「ごきげんよう。儂の名はオリアン。一環魔法師です」
オリアンが一歩前へ出た。
胸元の六芒星徽章が見えるよう、わざと身体の向きを整える。
「本日トール男爵を訪ねたのは、確かに相談したい要件があるためです。お手数ですが、取り次いでいただけませんかな」
執事の視線は、六芒星徽章の上で一瞬止まった。
すると、腰がすぐにさらに低くなる。
「これは魔法師閣下でございましたか。大変失礼いたしました。ですが、家主様が現在来客中であることは事実でして、私めの一存ではどうにもいたしかねます。誠に申し訳ございません。誠に申し訳ございません」
言葉はどんどん丁寧になっていく。
だが、彼の身体は相変わらず門口をしっかり塞いだまま、半歩も退かなかった。
オリアンが眉をひそめ、さらに口を開こうとしたところで、俺は手を伸ばして彼の腕を押さえた。
「お手数ですが、トール男爵閣下へお伝えください」
俺は鉄門の前へ進み、腰の革袋からあの貴族徽章を取り出した。
執事に、そこに刻まれた紋様が見えるよう示す。
「俺はシリス丘陵より参りました。タワーナイトです。この魔法師は俺の従僕にあたります」
「今回の訪問は、酒類の取引について男爵閣下と直接お話ししたいことがあるためです。どうか取り次ぎをお願いいたします」
話しながら、俺の左手は柵の隙間から銀貨を一枚差し出していた。
次の瞬間、その銀貨は音もなく執事の広い袖口へ消えた。
その一連の動きは、まるで彼が毎日何十回も練習しているかのように滑らかだった。
執事は顔色一つ変えず、軽く咳払いした。
そして改めて俺へ腰を折る。
「三名様、少々お待ちくださいませ。すぐにお伝えしてまいります」
やはり、貴族徽章と銀貨一枚の組み合わせは、単なる一環魔法師よりずっと効き目があるらしい。
およそ半刻ほど経つと、鉄門の脇にある小門が再び開いた。
執事が身体を横へずらし、どうぞ、という仕草をする。
「三名様、こちらへどうぞ。家主様の来客はまだ終わっておりませんので、恐れ入りますが、まずは庭園でしばらくお待ちくださいませ」
俺たちは門の奥に続く砂利道を歩き、荘園の中へ入った。
執事は俺たちを庭園の片隅にある石卓のそばまで案内し、簡単に一言告げると、そのまま立ち去った。
「俺たちをここに放っておいて、風に当てるだけ。水一杯も出さないとはね」
ダグは鉄細工の椅子にどかりと腰を下ろし、左右に身体を揺らしながら、小声でぶつぶつ言った。
「モンディカート家は見た目こそ立派ですが、客のもてなしは大したことありませんな」
「焦る必要はありません。門の中へは入れました。少しくらい待ってもよいでしょう」
オリアンは別の椅子に座り、背もたれに身を預けて目を閉じた。
俺は何も言わず、暮れかけた庭園へぼんやりと視線を巡らせた。
噴水の水音。
葉が擦れ合う、かすかな音。
そして遠くで使用人が行き交う軽い足音。
それらが重なり合っていた。
ここ数日は、逃亡か、策を練るかのどちらかだった。
こうして静かに腰を下ろす時間は、本当に久しぶりだ。
残念ながら、その静けさは長く続かなかった。
鉄門の方角から、若者たちの笑い混じりの声が聞こえてくる。
「午後に俺が使ったあの突き、どうだった?もう少しでお前を倒せただろ?」
「俺を倒す?あれは足元の石につまずいただけだ」
「認めなくてもいいさ。どうせ俺の剣術の天賦は、お前より上だからな」
「俺より上で何になるんだよ。そんなに言うなら、レオナルドと比べてみろよ……」
二人は言い合いながら互いに皮肉を飛ばしていた。
その間には、執事の焦った注意も混じっている。
「お二人の若様、どうかお静かに。庭園にはお客様がお待ちです」
「客?」
足音が止まった。
執事は少し迷ったあと、意識して声を落とした。
「相手の方は、シリス丘陵から来たタワーナイトを名乗っておられます。魔法師の従僕を一人伴い、家主様と酒類の商談をしたいとのことでした」
「タワーナイト?聞いたことないな!」
一人の若者が、すぐに声を上げた。
「前にも、父上の遠縁だと名乗る奴が訪ねてきただろ。結局あいつは、屋敷の中を下見しに来ただけの小偷だった。最後に父上が見破ったからよかったものの」
「駄目だ。俺が見極めに行く。もしまた詐欺師なら、その場で化けの皮を剥いでやる」
「態度は良くしろよ。もし本当に商談に来た相手なら、失礼があってはいけない」
もう一人の声は、明らかに落ち着いていた。
「分かってる、分かってる。俺にも分別はある」
彼らは意識して声を潜めていた。
だが、こちらとの間にあるのは庭園の半分ほどだけだ。
今の俺の感知力なら、一語一句まではっきり聞き取れる。
俺は心の中で苦笑した。
ようやく門の中へ入れたと思ったら、今度は疑り深い若様が二人か。
どうやら、この最後の一家も望み薄らしい。
「面倒が来ました」
俺はオリアンとダグへ目配せした。
二人はすぐに、先ほどまでの気の抜けた姿勢を改める。
ほどなくして、足音が近づいてきた。
二人の若者が木陰から現れる。
前を歩いているのは、背の高い少年だった。
茶色い巻き髪をしており、歩くたびに顎をわずかに上げている。
全身から、若者特有の派手さと自信が滲んでいた。
後ろに続く少年は少し背が低い。
だが肩幅は広く、顔にはいくつかのそばかすがある。
足取りも、隣の少年よりずっと落ち着いていた。
二人は庭園の老いた槐の木を回り込み、石卓の前へやってきた。
そして、同時に足を止める。
背の高い少年は目を見開き、口まで開けた。
先ほどまでの、詐欺師を問い詰めようとしていた勢いは、一瞬で跡形もなく消えている。
背の低い少年は少し早く表情を整えたが、それでも目に浮かぶ衝撃は隠しきれていなかった。
二人は顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に驚きの声を上げる。
「コロン旦那様?オリアン様?どうしてお二人がここに!?」
今度は、俺たち三人が固まる番だった。
俺は顔を上げ、目の前にいる二つの若い顔をじっと眺めた。
頭の中で必死に記憶を探る。
だが、どうしても思い当たる人物と結びつかない。
「あなたたちは?」
「覚えておられないかもしれません」
背の高い少年は自分を指し、それから隣の少年を指した。
あまりの早口で、言葉がほとんど一つにつながっている。
「俺はジャックです。こいつは従弟のラム。俺たちはどちらも民兵訓練営で学んでいます。今日の午後、旦那様と握手もさせていただきました!」
「そ、そうです!俺が最初に旦那様と握手しました」
ラムという少年も、慌てて頷いた。
そこまで聞いて、俺はどうにか記憶の中から二つのぼんやりした顔を掘り出した。
今日の午後、民兵訓練営で、確かに若者が二人、人群れの一番前に押し出ていた。
まさか、こんな場所で再び会うことになるとは思わなかった。
「なるほど、あなたたちでしたか」
俺は頷き、その流れで尋ねた。
「二人はどうしてここに?」
「ここは俺の家です!トール男爵は俺の父です!」
ジャックの顔には、抑えきれない興奮が浮かんだ。
彼は我先にと答える。
「トール男爵は俺の叔父です」
ラムが横から補足した。
「旦那様は父に会いに来られたのですか?」
ジャックは従弟の言葉をそのまま聞き流し、満面の笑みで俺を見た。
「ええ」
俺は頷いた。
「ただ、男爵閣下は来客中だと聞いたので、こちらで待たせていただいています」
「来客って何の来客ですか!」
ジャックは振り返るなり、執事を睨んだ。
「どうせ商会の老いぼれどもと話しているだけでしょう。旦那様に会うことのほうが、よほど大事です!執事、こちらはコロン旦那様だぞ!どうして貴客を庭で冷たい風に当てているんだ?水は?果物は?菓子は?」
執事の職業的な笑みが、その場で固まった。
唇が何度か動く。
ジャックを見て、俺を見る。
最後には、袖口の中でまだ温もりの残っている銀貨を思い出したのか、ただひたすら腰を折って笑うしかなかった。
「は、はい……若様のお叱り、ごもっともでございます。すぐに用意してまいります……」
「用意など後でいい!」
ジャックは片腕を振った。
「すぐ中へお通ししろ!俺が父上を呼んでくる!」