最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
「父上! 父上!」
ジャックはバン、と書斎の彫刻扉を押し開けた。
だが、部屋の中にいたトール男爵の険しい表情を目にした瞬間、弾んでいた声は喉の奥で凍りついた。
書斎の中は、明るい灯火に照らされていた。
トール男爵は主座に腰かけている。
その向かいには、二人の人物が並んで座っていた。
左側にいるのは、丁寧に整えられた二本の口髭をたくわえた中年男だ。
椅子の背にもたれ、脚を組んでいる。
右側には、風霜を感じさせる顔立ちの老人が座っていた。
「もうすぐ十八歳にもなろうというのに、まだそんなに落ち着きがないのか! 入ってくる時に扉を叩くことも知らんのか! 私が今、アシュビー男爵と話をしているのが見えないのか!」
トール男爵は眉をひそめ、厳しい声で叱りつけた。
「す、すみません……父上、知らなくて……」
ジャックは思わず首をすくめた。
普段は温厚な父が、今日はなぜこれほど機嫌が悪いのか、少し理解できなかった。
「何を知らないと言うのだ! 礼儀もわきまえずに。出ていけ!」
トール男爵は苛立たしげに手を振った。
「申し訳ありません、俺は――」
「男爵旦那様、どうかお怒りをお鎮めください。ジャック若様も、あまりに嬉しいことがあり、つい礼を失してしまわれただけです」
執事が一歩前へ出た。
ジャックの前に立ち、腰を折ってそう言う。
「嬉しいこと?」
トール男爵は訝しげに執事を見た。
「申し上げます。ジャック若様とラム若様が、民兵訓練営で一人のタワーナイトとお知り合いになられました。その方が、わざわざ男爵旦那様を訪ねて来られております」
執事は腰を折ったまま、素早くトール男爵の向かいに座る二人へ視線を走らせた。
「ご都合が悪ければ、外でしばらくお待ちいただくよう申し上げますが」
「待て。タワーナイトだと?」
トール男爵の眉間の皺が、さらに深くなった。
その称号には聞き覚えがある。
王国東部国境のシリス丘陵で活動しているという、謎めいた組織だ。
魔法師との関わりが深く、所属する者はいずれも並外れた実力を持つと言われている。
だからこそ、誰も軽々しく侮ることはできない。
「そうです! そうなんです!」
父の声が少し和らいだのを見て、ジャックはすぐに興奮した様子で口を開いた。
「コロン旦那様は、品徳高潔な強き戦士です! 双流城《トゥー・リバーズ・シティ》へ来るまでの道中で、ゴブリンからどれほど多くの人を救ったか分かりません。今では民兵訓練営中にその話が広まっています。俺が必死にお誘いしなければ、来てくださったかどうかも分からないほどの方なんです!」
執事は傍らに立ったまま、気づかれない程度に口元を引きつらせた。
だが何も暴露しなかった。
「そういうことなら、門前でお断りするほうが、かえって私の失礼になるな」
トール男爵は少し考え込み、ゆっくり頷いた。
それから向かいの二人へ視線を向ける。
「申し訳ない、御二方。遠方より貴客が訪ねて来られた。しばし席を外すことをお許しいただきたい。我々の話は、後ほど続けるとしよう」
「構わん、構わん」
アシュビー男爵は、はははと笑った。
二本の口髭を撫でながら、その目に好奇の光を浮かべる。
「タワーナイトの名は、私も以前から聞いていたが、まだこの目で見たことはない。トール、そう避けることもあるまい。いっそ我々にも紹介してくれ」
そう言うと、彼は隣の老人へ顔を向けた。
「ウェバー先生は、どう思われますかな?」
「構わん」
ウェバーと呼ばれた老人は、軽く頷いた。
まぶたを持ち上げることすらせず、まるでこの件にまったく興味がないようだった。
トール男爵は難しい顔をした。
そのタワーナイトが何の用件で来たのか、まだ分からない。
それなのに、関係のない二人を同席させるのは、多少なりとも不適切だろう。
彼がやんわり断ろうとした、その時。
ジャックはすでに一足先に部屋の外へ駆け出していた。
「よかった! 俺が呼んできます!」
俺たち三人はラムに案内され、荘園の中を通り抜けた。
そして議事広間の奥にある書斎の前まで来たところで、扉に辿り着くより早く、急いで走ってくるジャックと出くわした。
「コロン旦那様! 父が書斎でお待ちです。すぐにこちらへ!」
「分かりました。案内をお願いします」
俺は頷いた。
表面上は平静を保ったが、胸の内ではひそかにため息をついた。
どうやら相手は、やはり俺の身分にいくらか疑いを抱いているらしい。
そうでなければ、男爵としての客を迎える礼儀を考えれば、本来なら自ら出迎えに来るべきだからだ。
書斎の入口まで来ると、二本の口髭を生やした中年男が、主座に座る人物へ向かって、懸命に何かを説いているのが見えた。
「トール、もう迷うな! 古い付き合いでなければ、この『火竜の涙《かりゅうのなみだ》』の独占販売権を、こんな安値で譲ることはありませんよ。 分かっているのか? この酒はロニクス王国全体でも、私の隣にいるウェバー先生だけが醸せるものなのだ!」
「それは分かっています。ウェバー先生が直々にここまで足を運んでくださったことにも、心より感謝しています」
トール男爵の声には、疲れが滲んでいた。
「ただ、一ガロンの酒に金貨三十枚。さらに月歌草《げっかそう》を二十斤。さすがに、その価格は高すぎます」
「高いだと!? 少しも高くない! この酒が世に出てから、どれほど売れているか知っているのか!? 王都では一ガロンにつき金貨六十枚まで値が上がっている。それでも品薄で手に入らんのだぞ! お前が何を迷っているのか、私にはまったく分からん!」
「しかし、月歌草二十斤だけでも、すでに金貨二十枚の価値があります。そこに人件費、輸送費、保管費を加えれば、私には利益が残りません」
「ふん。トール男爵が高いと思うなら、我々は双流城の他の酒商に話を持っていってもよい」
今度口を開いたのは、あの老人だった。
その声は、ひどく気軽だった。
「ただし、次に話す時は、この値ではないがな」
「ウェバー先生、私は拒絶しているわけではありません」
トール男爵の声に、ようやくわずかな譲歩の響きが混じった。
「こうしましょう。もう少し考える時間をいただけませんか」
書斎の中が、再び静かになった。
「旦那様。コロン様がお着きになりました」
執事が入口で告げる。
「お通ししろ」
主座のトール男爵は我に返ったように顔を上げた。
向かいに座る二人も、同時にこちらを見る。
その目には、こちらを品定めするような色があった。
俺はわずかに頷き、ゆっくりと部屋へ入る。
オリアンは半歩後ろに控え、落ち着いた様子で続いた。
最後尾のダグだけは、両手をどこに置けばいいのか分からないようで、少し緊張している。
それも無理はない。
これまで訪ねた七家も、一応は貴族だった。
だが、どこも没落しているか、あるいは気勢に欠けていた。
目の前のトール男爵とは、まとっている空気がまるで違う。
長年権力を握り、潤沢な家産を持つ者だけが備える、独特の気度だった。
もっとも、その程度の圧は、俺にとっては大したものではない。
ゲーム時代なら、男爵どころか、ロニクス国王本人と同じ卓で食事をしたことすら一度や二度ではなかった。
「トール男爵閣下、初めまして。俺はコロンと申します。こちらの二人は俺の従僕、オリアンとダグです」
俺は主座へ向かってわずかに頷いた。
語調は、卑屈にも傲慢にもならないよう保つ。
俺の落ち着いた態度を感じ取ったのだろう。
トール男爵は品定めするような視線を収め、顔に礼儀正しい微笑を浮かべた。
彼は隣の空席を手で示し、口調もいくらか熱を帯びる。
「タワーナイトの威名は以前より耳にしておりました。今日お会いしてみれば、閣下の気度は確かにただ者ではありませんな。どうか私のことはトールとお呼びください。遠慮なさらず、さあ、お座りください」
「ありがとうございます」
俺はトール男爵の右手側にある空席へ腰を下ろした。
オリアンとダグは左右に分かれ、俺の後ろに立つ。
「コロン殿。わざわざ私を訪ねてくださったとのこと、光栄に思います。とはいえ、今回お越しくださったご用件は何でしょうか?」
「トール殿。実を言えば、今回伺ったのは、まず閣下にご挨拶したかったからです。そしてもう一つは――」
「お前は……お前はダグか? ははは、そうだ! どこかで見た顔だと思った!」
俺が言い終える前に、向かい側の二本口髭の中年貴族が突然手を上げた。
俺の背後を指さし、大げさな驚きの声を上げる。
「アシュビー? どうした。コロン殿と知り合いなのか?」
トール男爵が訝しげに尋ねた。
「いやいや、コロン殿とは初対面だ」
アシュビー男爵は手を振った。
だが、その顔に浮かぶ笑みは、ますます意味ありげなものになっていく。
「しかし、彼の従僕なら私は知っているぞ。野犬のダグだ。双流城の傭兵と関わったことがある者なら、この男を知らぬ者はいないだろう」
彼は椅子の背にもたれ、脚を組み直した。
戯れるような目で、ダグを上から下まで眺める。
「ただし、この男は手癖があまりよろしくないと聞いている。人を騙したり、嵌めたりする仕事を専門にしているそうだな」
それを聞いたトール男爵は、一瞬言葉を失った。
顔に浮かんでいた笑みが、少しずつ冷めていく。
彼はゆっくりと顔を向け、ダグへ視線を落とした。
その眉間には、隠しもしない審査と距離の色が浮かんでいる。
ダグはその目を向けられた瞬間、もともと白っぽかった額に、たちまち冷や汗を浮かべた。
まさか、自分の素性が男爵の前で暴かれるとは思ってもみなかった。
それ以上に彼を不安にさせたのは、この件が間違いなくコロン旦那様に迷惑をかけるということだった。
確かに彼は、コロン旦那様に毒を飲まされ、脅されて従っていた。
だが数日を共に過ごすうちに、彼は少しずつ相手の行いを知り、その人格に惹かれるようになっていた。
いつの間にか、心の奥にあった不満や恨みは消えている。
代わりに、言葉では言い表せない敬意のようなものが芽生えていた。
彼はひそかに、こんな想像をしたことすらある。
いつかコロン旦那様が毒を解いてくれたら、その時は厚かましく頼み込み、正式に自分を受け入れてもらう。
たとえ使い走りや雑用係の下っ端であっても構わない、と。
しかし今日、アシュビー男爵の軽い一言だけで、その幻想は粉々に砕かれた。
これが、底辺傭兵の運命なのだろう。
まして自分は、救いようのないろくでなしだ。
ろくでなしは、泥の中で生きるべきなのだ!
彼は深く息を吐いた。
そして覚悟を決めたように一歩前へ出ると、主座と向かいの人々へ深く腰を折った。
「だ、旦那様方……実は私は、コロン旦那様の案内役にすぎません。後になって、旦那様が私を哀れに思い、好意で拾ってくださっただけでして……今回連れて来ていただいたのも、ただ私に世間を見せようとしてくださっただけです」
彼は声を震わせながら続けた。
「も、もし私めが旦那様方のお目障りでございましたら、ただちに退かせていただきます……」
そう言うと、もう一度深く頭を下げ、そのまま背を向けようとした。
だが足を踏み出すより早く、その腕は後ろからしっかりと掴まれた。
「あなたは俺の奴僕です。ほう。主人がまだ何も仰っていないというのに、勝手に下がるつもりか?」
俺は眉をひそめ、彼を見た。
声には責める響きを含ませた。
しかし、腕を掴んだ手は離さなかった。
「で、ですが旦那様、あなたに……」
ダグは振り返った。
声がわずかに震えている。
「それに、ここはトール男爵の屋敷です。たとえ出ていくにしても、まずは主の意見を聞くべきでしょう。違いますか?」
トール男爵はそれを聞き、わずかに眉を上げた。
口元も少しだけ動く。
俺の言葉が、意外だったようだ。
だが彼が何かを言うより早く、隣から嗤う声が響いた。
「ほう。実に感動的な場面だな」
アシュビー男爵の隣に座っていた老人が、袖を軽く払った。
その声は、どこか気軽だった。
「だがな――詐欺師を自分の奴僕に雇うような者だ。その主人とやらも、まともな人物とは思えんな」
「ははっ」
俺は顔を向けた。
視線がアシュビー男爵と、その老人の上を順に滑る。
「寛容な胸すら持たない者が、貴族を名乗る資格などないと思いますが!!」
その言葉は、はっきりと響いた。
語調も、断固としていた。
「小僧、どういう意味だ!」
老人の顔色が一瞬で変わった。
彼は勢いよく立ち上がると、トール男爵のほうを見る。
「トール! この身の程知らずの小僧は、私に向かって無礼な言葉を吐いた。今すぐ叩き出すべきだ! その代わり、『火竜の涙《かりゅうのなみだ》』の価格は、一ガロンあたりさらに金貨五枚下げてやろう!」
「そのとおりだ」
アシュビー男爵も横から口を添えた。
「私は、このいわゆるタワーナイトが本物かどうかも怪しいと思っている。まさか詐欺師ではあるまいな?」
そう言うと、彼は部屋の外へ向かって声を張った。
「誰か来い! この者たちを連れていけ。よく調べるんだ!」
書斎の空気が、一瞬で凍りついた。
ジャックとラムはその場に立ち尽くし、顔いっぱいに慌てと困惑を浮かべている。
執事に至っては、額にびっしり汗を浮かべていた。
彼にはどうしても理解できなかった。
タワーナイトを名乗るこの若者が、部屋に入った途端、なぜ主人の取引相手とここまで険悪な空気になるのか。
さらに分からないのは、樅郡《もみぐん》から来た醸造の名匠ウェバー先生が、たった一言でここまで怒り出し、値下げを持ち出してまで主人に客を追い出させようとしていることだった。
しかし、ダグだけは別のことを考えていなかった。
彼はその場に立ち尽くし、唇を固く結んでいる。
顔は真っ赤になり、胸の中では何かが激しく沸き立っていた。
その背後で。
オリアンはわずかにまぶたを伏せ、何食わぬ顔で腰の魔杖へ手を伸ばしていた……