最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜 作:窮北の風
「もうよい!」
トール男爵が、座椅子の鉄木の肘掛けを重く叩いた。
硬いことで知られるその木材に、ぱきり、と音を立てて数本の亀裂が走る。
俺は思わず眉を上げた。
鉄木を素手で叩き割るには、少なくとも鉄級戦士ほどの実力が必要なはずだ。
どうやら、彼が双流城第一の酒商という地位に座り続けていられるのは、商才だけが理由ではないらしい。
先ほどまで剣呑だった書斎は、一瞬で静まり返った。
トール男爵はゆっくりと息を吐き、俺たちを順に見回す。
「ここは、仮にも私の屋敷だ。どうか皆、できる限り自制していただきたい。私の書斎は比武場ではない。諸君の間に、解けぬほど深い仇があるわけでもあるまい」
アシュビー男爵は軽く鼻を鳴らし、再び椅子の背へ身体を預けた。
脚を組み直す。
ウェバー先生は、なおも俺を睨みつけている。
アシュビー男爵に袖を引かれて、ようやく不満そうに元の席へ腰を下ろした。
「コロン殿。先ほど、あなたはまだ来訪の目的を話し終えていなかったな。続けていただこう」
トール男爵は改めて俺を見た。
ただ、その声は明らかに先ほどより冷えている。
俺はその変化を見逃さなかった。
頭の中でも、考えが素早く回り始める。
入室した直後に少しだけ積み上がっていた好感は、先ほどの口論でほとんど削り取られてしまったはずだ。
このまま当初の予定どおり、
あなたの手元から薬草を買いたい。
ついでに、俺のために身分証明書を一通出してほしい。
などと正面から切り出せば、おそらく後半を言い終える前に、執事から丁寧に荘園の外へ案内されるだろう。
そう考えた時、俺の視線が何気なく卓上のガラス酒壺をかすめた。
壺の中には、淡い緑色の酒液が半分以上入っている。
その瞬間、新しい考えが頭の中で形になった。
「トール殿。実は、俺の親戚にも酒の商いをしている者がおります」
俺は座り方を少し整え、ゆっくりと言った。
「今日お伺いしたのは、あなたと協力の話をしたかったからです」
「酒の協力、か」
トール男爵は、それまでわずかに前へ傾いていた身体を、再び椅子の背へ戻した。
目に戻りかけていた集中も、いくらか薄れている。
指先が、肘掛けを軽く叩く。
顔には、商人がありふれた客に向ける、礼儀正しくも距離のある笑みが浮かんだ。
そのわずかな動きだけで、俺には彼の考えがだいたい読めた。
ダグの調べでは、モンディカート家の酒類事業はロニクス王国南境一帯に広がっている。
最も安い麦酒から、競売場でしか見られない百年物の古酒まで、彼の手を経た酒は数百種を下らないだろう。
俺のように、大した資産を持っているようにも見えないよそ者が突然訪ねてきて、協力したいなどと言ったところで、低値で酒を仕入れたい小商人と見なされる可能性が高い。
そしてその手の人間なら、彼は一日に十人以上は相手にしているはずだ。
その推測を裏づけるように、向かいのアシュビー男爵とウェバー先生は互いに目を合わせ、同時に嘲りを含んだ笑みを浮かべた。
「なるほど、協力の話か」
トール男爵は礼儀として、なおも辛抱強く尋ねた。
「では、コロン殿は私とどのような協力をしたいと?」
「先ほど門の外で、皆様が火竜の涙という名酒について話しているのを、偶然耳にしました」
俺は彼らの反応をすべて目に収めながら、微笑んで続ける。
「どうでしょう。せっかくですから、その商売について話してみませんか」
「ん?君はこの酒を知っているのか?」
トール男爵が茶杯を持ち上げかけた手を、空中で止めた。
ウェバー先生の身体も、びくりと動く。
今にも立ち上がろうとしたところを、アシュビー男爵が片手でその腕を押さえた。
「もちろんです」
俺は頷き、席を立って卓の前へ向かった。
そして、あのガラス酒壺を手に取る。
「この酒は、北部の樅郡《もみぐん》を原産とすると聞いています。酒液は翠緑で、澄みきって透き通っている。口に含むと、まず清冽な涼しさが喉を滑り落ち、その後から熱がゆっくりと立ち上がる」
俺は酒壺を見つめながら続けた。
「最も特徴的なのは、酒液が舌の根に触れた瞬間、細かな破裂感が生まれることです。まるで火花が舌先で跳ねるような感覚。それゆえに、火竜の涙と呼ばれている」
トール男爵は小さく頷いた。
その目に浮かんでいた社交辞令めいた色は、すでに消えていた。
俺を見る眼差しも、先ほどより明らかに真剣になっている。
当然だ。
ただの聞きかじりの素人が、この酒の特徴をここまで正確に語れるはずがない。
ぱち、ぱち、ぱち
不意に、向かい側から拍手が響いた。
「見事だ、見事だ。火竜の涙について、そこまで理解している者は珍しい」
アシュビー男爵は手を叩きながら立ち上がった。
そして隣の白髪の老人を指す。
「だが、この酒を誰が発明したか知っているかな?まさに、私の隣にいるウェバー先生だ。もしトール男爵とこの酒の商売を話したいというのなら、やめておくことだ」
アシュビー男爵の笑みは、ますます濃くなっていく。
「なにしろロニクス王国全土で、火竜の涙の供給と価格を決める資格を持つ者は一人しかいない。その方こそが、ウェバー先生なのだからな」
「ふん」
ウェバー先生は花白い髭を撫で、先ほどの倨傲な様子を取り戻していた。
「小僧、お前はシリス丘陵から来たと言っていたな。戻ったら、お前の親戚がどこの分売商から仕入れているのか、しっかり調べてやろう」
「調べがついた後はな……」
彼はわざと声を引き延ばし、最後まで言わなかった。
だが、その得意げな老いた顔には、脅しの意味がはっきりと刻まれていた。
トール男爵は眉をひそめ、声を低くして俺へ忠告した。
「コロン殿。ウェバー先生に謝罪したほうがいい。同じ業界に関わる者同士、関係を修復できないほどこじらせる必要はない」
その声音からして、彼が完全にウェバー先生側に立っているわけではないことは分かった。
ただ、目の前の供給元を一時の口論で怒らせたくないだけだろう。
商人が和をもって財を成すことを重んじるのは、理解できない話ではない。
「お気遣いありがとうございます、トール殿」
俺は微かに笑った。
そして、ウェバー先生の得意げな表情をまっすぐ見据え、一字一字はっきりと言う。
「ですが、俺は今日、まさにこの商売をするために来たのです」
「ははは、いいではないか!」
アシュビー男爵は両手を広げた。
完全に見世物を待つ顔だった。
「若者はやはり肝が据わっている。忠告すべきことは私も言った。トールも言った。これで十分、義理は果たしたと言えるだろう」
そう言って、彼はウェバー先生へ顔を向けた。
「ウェバー先生。ご意見は?」
「小僧、よく聞け」
ウェバー先生はゆっくりと立ち上がり、歯を食いしばるように言った。
「私が戻って、お前の親戚がどこの分売商から仕入れているかを調べ上げたなら、値上げなどせん。条件を厳しくするだけでもない」
「その家への供給を、直接、完全に、一切の相談もなく断ってやる」
彼はそこで一息置き、吐き捨てるように続けた。
「一滴も残さずにな!」
ようやく溜飲が下がったのか、彼の顔には満足げな笑みが浮かんだ。
そしてトール男爵へ向き直る。
「トール男爵。この小僧にこれ以上時間を使う必要はないだろう。身の程知らずで、大言壮語ばかりの者だ。これ以上もてなす価値はない。すぐに追い出すべきだ」
「お待ちください」
俺は片手を上げた。
顔に浮かべた笑みは、少しも崩さない。
「俺はまだ話し終えていません。どうしてもう追い出す話になるのですか。ウェバー先生、あなたは先ほど、火竜の涙は当家独自の製法だと言いましたね?」
「ふん、当然だ。この件については、ロニクス王国中の酒商が証人になれる」
ウェバー先生は顎を上げた。
「アシュビー男爵閣下も、そうお考えですか?」
アシュビー男爵は俺をまともに見ることすらせず、ただ笑いながら首を横に振った。
俺はゆっくりと身体を向けた。
顔に浮かべていた笑みを少しずつ収め、最後に主座のトール男爵を見る。
「もし俺が、このウェバー先生は実は詐欺師だと言ったら?」
「何を馬鹿なことを!」
「はあ!?」
ウェバー先生が勢いよく拳を握り締める。
アシュビー男爵の笑みも、一瞬だけ止まった。
だがすぐに、また見物を楽しむような表情へ戻る。
「ほう?」
トール男爵は、今度こそ本当に興味を持ったようだった。
身体をわずかに前へ傾け、俺の目をじっと見つめる。
「ウェバー先生が詐欺師だと言うのか。何か証拠はあるのか?まさか、君の親戚もこの酒を醸せるとでも?」
「その親戚は醸せません」
俺は笑って首を横に振った。
そして、片手で自分を指す。
「醸せるのは、俺です」
書斎の中に、短い沈黙が落ちた。
次の瞬間、ウェバー先生がしわがれた大笑いを響かせる。
「ははははは!笑わせるな!では、私は銀級戦士だとでも言っておこうか!酒造りを、水を飲むように簡単だと思っているのか?ましてや、お前は製法すら持っていない。それで醸せるなどと、よく言えたものだ!」
アシュビー男爵も、それに合わせて笑い出した。
「ここにいるトール男爵はその道の専門家だ。ウェバー先生は、言うまでもなくこの酒の創造者である。そこまで言うなら、この場で製法を語ってみてはどうかな。真か偽か、聞けばすぐに分かる」
トール男爵は椅子の背へ身体を戻した。
その目に浮かびかけていた興味も、いくらか薄れている。
その眼差しから察するに、俺はどうやら、少しばかり聞きかじった知識で専門家の前に出てきて得意げに語る、身の程知らずの若者に分類されたらしい。
書斎の四方八方から、疑いの視線がこちらへ向けられた。
ジャックとラムは緊張のあまり、呼吸まで小さくしている。
管家は扉のそばに立ち、かすかに首を振った。
ダグの拳は固く握られ、力の入った指の関節が白くなっていた。
ただ一人。
オリアンだけは、相変わらず俺の背後で静かに立っていた。
その口元には、かすかな笑みすら浮かんでいる。
「この程度の簡単なものに、わざわざ製法を暗唱する必要などありません」
俺はそれらの視線を受け止めながら、ゆっくりと言った。
「この場で、俺が作ってみせます」