最強ギルドマスターは十年前のゲーム世界に転生した 〜未来知識だけを武器に、見習い傭兵から王座を目指す〜   作:窮北の風

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第85話 火竜の涙

「もうよい!」

 トール男爵が、鉄木の肘掛けを重く叩いた。

 

 硬さで知られ、本来は家屋の梁や馬車の車軸にしか使われないその木材が、ぱきりと乾いた音を立てる。

 掌の当たった部分から、細かな亀裂が四方へ広がっていった。

 

 俺はわずかに眉を上げた。

 少し意外だった。

 

 鉄木を掌一つで叩き割れるとなると、この男爵は少なくとも鉄級戦士ほどの実力を持っている。

 双流城第一の酒商という地位を保っていられるのは、どうやら商才だけが理由ではないらしい。

 

 書斎に満ちていた喧騒は、トール男爵の一声で押し沈められた。

 

 トール男爵は息を一つ吐き、室内の者たちを見回してから、ゆっくりと口を開いた。

「ここは、仮にも私の屋敷だ。皆、できる限り自制していただきたい。この書斎は比武場ではない。諸君の間に、深い仇があるわけでもあるまい」

 

 アシュビー男爵は軽く鼻を鳴らし、再び椅子へ腰を下ろした。

 脚を組み直す。

 その隣にいたウェバー先生は、なおも俺を睨みつけていた。

 だが、アシュビー男爵に袖を引かれると、不満そうながらも渋々座り直した。

 

「コロン殿。先ほど、あなたはまだ来訪の目的を話し終えていなかったな」

 トール男爵は俺を見る。

 ただし、その態度は明らかに先ほどより冷えていた。

「続けていただこう」

 

 俺は彼の態度の変化を見逃さなかった。

 胸の内で、素早く考えを巡らせる。

 

 入室した時にわずかに得られた好感は、先ほどのやり取りでほとんど削られてしまった。

 今、当初の予定どおりに、

『あなたと取引がしたい。薬草を買いたいが、その代わりに身分証明書を出してほしい』

 などと正面から切り出したところで、おそらく最後まで話す前に、何かしらの理由をつけて退室を促されるだろう。

 

 そう考えながら、俺の視線は何気なく卓上に置かれた一本のガラス酒瓶へ滑った。

 中には、淡い緑色の酒液が半分以上入っている。

 それを見た瞬間、一つの考えが素早く頭の中で形を成した。

 

「トール殿。実は、俺の親戚も酒の商いに携わっております。本日お伺いしたのは、あなたと協力の話をしたかったからです」

 

 酒の商いと聞いた瞬間、トール男爵の身体は無意識に椅子の背へ預けられた。

 目にあったわずかな集中も、すぐに薄れていく。

 

 彼の酒類事業は、ロニクス王国南境一帯に及んでいる。

 最も安い麦酒から、競売場でしか見られない百年物の古酒まで、彼の手を経た名酒は数百種を下らない。

 今となっては、本当に希少な酒でもなければ、彼の興味を引くことは難しい。

 ましてや、目の前のこのタワーナイトは、どう見ても潤沢な資金を持つ人物には見えなかった。

 相手の言う『協力』とやらも、おそらくは自分のところから酒を仕入れ、持ち帰って売りたいという程度の話だろう。

 この手の取引なら、彼は毎日のように十数件は受けている。

 目的がそれだと分かっていれば、先ほどわざわざ屋敷へ入れるべきではなかった。

 

 アシュビー男爵とウェバー先生も、互いに目を合わせて笑った。

 その笑みには、『また身の程知らずが来たか』という嘲りが滲んでいる。

 

「なるほど。協力の話ですか」

 礼儀上、トール男爵はなおも一言尋ねた。

「では、どのような協力をお望みで?」

 その一方で、彼の頭の中では、すでに穏便に断るための言葉が組み立てられていた。

 

「先ほど門の外で、皆様が『火竜の涙《かりゅうのなみだ》』という名酒について話しているのを、偶然耳にしました」

 俺は三人の反応をすべて目に収めながら、微笑んで続けた。

「どうでしょう。我々も、その酒の商売について話してみませんか」

 

「ん?」

 トール男爵が茶杯を持つ手を止めた。

 その目に、再び集中の色が戻る。

「あなたは、この酒を知っているのか?」

 

 一方、気性の荒いウェバー先生は、今にも椅子から跳ね上がりそうになった。

 だが隣のアシュビー男爵が慌てて彼を押し留める。

 そして、『まず相手が何を言うか聞こう』という目配せを送った。

 

「もちろんです」

 俺は頷いた。

 そしてゆっくりと卓の前へ進み、そのガラスの酒壺を手に取る。

「この酒は北部の樅郡《もみぐん》を原産とすると聞いています。酒色は翠緑で、澄みきって透き通っている。口に含むと、まず清冽な涼しさが広がり、喉を滑り落ちたあとに、ゆっくりと熱が立ち上がってくる」

 俺は酒液を眺めながら続けた。

「最も妙なのは、酒が舌の根に触れた瞬間、ごく軽い破裂感があることです。まるで火花が舌先で跳ねるような感覚。そのため、この名がつけられた」

「火竜の涙《かりゅうのなみだ》、と」

 

 トール男爵はゆっくり頷いた。

 その目には思案の光が浮かんでいる。

 

 火竜の涙《かりゅうのなみだ》が世に出てから、まだ数か月しか経っていない。

 価格は高く、生産量も少ない。

 それをここまで正確に語れる者が、単なる伝聞だけで知ったとは考えにくい。

 このタワーナイトの親戚とやらは、おそらく火竜の涙《かりゅうのなみだ》の販売権を得た地方代理商なのだろう。

 

 ぱちぱちぱち——

 向かい側から拍手の音が響いた。

 

「見事だ、見事だ。火竜の涙《かりゅうのなみだ》について、そこまで理解している者は珍しい」

 アシュビー男爵は手を叩きながら立ち上がった。

 そして隣にいる白髪の老人を指し示す。

「だが、この酒を誰が考案したか知っているかな? まさに私の隣にいる、このウェバー先生だ」

「もし君がトール男爵とこの酒の商売を話したいというのなら、やめておくことだ。ロニクス王国全体で、火竜の涙《かりゅうのなみだ》の供給と価格を決める資格を持つ者は、ただ一人しかいない」

 彼は得意げに言った。

「それが、ウェバー先生だ」

 

「ふん。小僧、お前は自分をタワーナイトだと言ったな」

 ウェバー先生は花白い髭を撫でながら、得意げに笑った。

「帰ったら、シリス丘陵周辺の分売商がどこなのか、しっかり調べてやる。調べた後はな――」

 

 トール男爵は眉をひそめた。

 彼は商人である。

 何よりも、和をもって財を成すことを重んじていた。

 一時の意地で供給元との関係を悪くすることは避けたい。

 

「コロン殿。ウェバー先生に謝罪したほうがよいでしょう」

 トール男爵は声を潜めて忠告した。

「同じ業界に関わる者同士、関係を修復できないほどこじらせる必要はありません」

 

「お気遣いありがとうございます、トール殿。ただ――」

 俺は微かに笑った。

 そして、向かい側の得意満面な老いた顔をまっすぐ見つめる。

 一字一字、はっきりと言った。

「俺が今日ここへ来たのは、まさにこの商売をするためです」

 

「ははは。いいぞ。若者には勢いがある」

 アシュビー男爵は両手を広げた。

「言うべきことは私も言った。トールも忠告した。これで仁義は尽くしたと言えるだろう」

 彼はウェバー先生へ顔を向けた。

「ウェバー先生。いかがなさいますか?」

 

「小僧、よく聞け」

 ウェバー先生はゆっくりと立ち上がった。

 歯を食いしばるようにして言う。

「今ここで、はっきり教えてやる。お前の親戚の分売商がどこなのか、私が戻って調べ上げたらな、値上げなどせん。条件を厳しくするだけでもない」

 彼は言葉を切り、満足そうに笑った。

「その家への供給を、直接、完全に、一切の相談もなく断つ。一滴も残さずにな」

 

 そう言い終えると、ウェバー先生はトール男爵へ顔を向けた。

「トール男爵。この小僧に時間を使う必要はないだろう。身の程知らずで、大言壮語ばかりの者だ。これ以上もてなす価値はない。すぐに追い出すべきだ」

 

「お待ちください」

 俺は片手を上げた。

 顔に浮かべた笑みは、少しも崩さない。

「俺はまだ話し終えていません。どうしてもう追い出す話になるのですか?」

 

 それから、俺はウェバー先生へ視線を向ける。

「ウェバー先生。先ほど、この火竜の涙《かりゅうのなみだ》は、あなたの家にしかない独自の配方だと言いましたね?」

 

「ふん。当然だ。この件については、ロニクス王国中の酒商が証人になれる」

「アシュビー男爵閣下も、そうお考えですか?」

 

 アシュビー男爵は俺をまともに見ることすらせず、笑いながら首を横に振った。

 答えるのも面倒だ、と言わんばかりの態度だった。

 

 俺はゆっくりと身体を回した。

 そして顔の笑みを消し、トール男爵へ向き直る。

 

「もし俺が、このウェバー先生は詐欺師だと言ったら?」

「何を馬鹿なことを!」

「はあ!?」

 

 ウェバー先生は勢いよく拳を握り締めた。

 アシュビー男爵は一瞬動きを止めた。

 だがすぐに、また見物を楽しむような嗤いへ戻る。

 

「ほう。彼が詐欺師だと」

 トール男爵は興味を抱いたようだった。

 俺の目を見つめて尋ねる。

「何か証拠はあるのか? まさか、君の親戚もこの酒を醸せるとでも?」

 

「俺の親戚は醸せません」

 俺は笑いながら首を横に振った。

 そして周囲の者たちへ視線を走らせた後、片手を上げて自分自身を指す。

「醸せるのは、俺です」

 

 短い静寂が落ちた。

「ははは、笑わせるな。なら、私は銀級戦士だとでも言っておこうか!」

 ウェバー先生は、しわがれた大笑いを響かせた。

「酒造りを水を飲むように簡単だとでも思っているのか? ましてや、お前は配方すら持っていない。それで醸せると言うのか?」

 

「若者よ。そこまで言うなら、こうしようではないか」

 アシュビー男爵も笑いながら口を開いた。

「火竜の涙《かりゅうのなみだ》の配方と製法を、この場で皆の前で語ってみるといい」

「ここにいるトール男爵は酒の専門家だ。ウェバー先生は、何よりこの酒の創造者である。君の言葉が本物か偽物か、聞けばすぐに分かる」

 

 トール男爵は椅子の背にもたれた。

 その目には、失望の色が少し増えていた。

 

 彼はこれまで、身の程を知らぬ若者をあまりにも多く見てきた。

 ほんの少し聞きかじった知識だけで、素人相手に得意げに語る者たちだ。

 火竜の涙《かりゅうのなみだ》の配方は、彼らのように何十年も酒商を続けてきた者でさえ、見抜けずにいる。

 外から来た若者が、それを知っているはずがない。

 おそらく、似たような配方を適当にでっち上げ、誤魔化すつもりなのだろう。

 

 書斎全体に、四方八方から疑いの視線が向けられた。

 

 ジャックとラムは緊張のあまり、息を潜めている。

 執事は傍らで、わずかに首を振っていた。

 ダグの拳は固く握られ、爪が今にも掌へ食い込みそうになっている。

 ただ一人。

 オリアンだけは、相変わらず俺の背後で静かに立っていた。

 その口元には、淡い笑みが浮かんでいる。

 

「この程度の簡単なものに、わざわざ配方を暗唱する必要などありません」

 俺はその視線を受け止めながら、ゆっくりと言った。

「この場で、俺が作ってみせます!!」

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