毒舌スターは、やさしく笑わない。 作:ひまんちゅ
高額会員プラン、といっても月額ではなかった。
一回きり、税込三万円。
限定配信のアーカイブ視聴権、年二回のクローズド配信参加権、長文の会員向けメッセージ、それから抽選制の少人数イベント応募権。内容だけ見れば、芸能人のファンクラブとしては法外とまでは言えないが、気軽に払える額でもない。
少なくとも、大学生の三島透には一瞬ためらう程度には高かった。
「……いや、高いな」
自室の机に肘をつき、透は改めて金額を見直した。
スマホの画面には、黒崎怜奈の公式コミュニティサイトが表示されている。黒を基調にしたシンプルなデザインで、過剰な煽り文句も、安っぽい装飾もない。まるで彼女本人みたいなページだった。
『夢を守れる方のみ』
短い一文が、妙に重い。
普通なら笑って流すところだ。アイドル商売のための上手い言い回し、あるいは選民意識をくすぐるコピーだと思う。
だが、昨日の握手会で怜奈本人があの言葉を本気で口にしたせいで、透はそれを軽く扱えなくなっていた。
「……まあ、一回きりだし」
誰に言い訳するでもなくそう呟いて、彼は決済ボタンを押した。
あまり気持ちのいい瞬間ではなかった。
課金という行為には、たいてい少しの敗北感がある。しかも相手は、正直まだ好きとも言い切れないアイドルだ。ライブパフォーマンスは一流。接触対応も奇妙な精度で完成されている。ただ、人として好きかと言われると、まだわからない。
それでも、見たいと思った。
あの“へえ”の一瞬の続きを。
入会完了メールが届き、サイト内の限定エリアが開放される。
透は少しだけ身構えながら、最上部に固定されていた最新アーカイブをタップした。
タイトルは簡素だった。
『会員向け配信 六月・前半』
サムネイルには、珍しく薄い色の部屋着らしき服を着た怜奈が映っている。髪もいつもの巻き髪ではなく、後ろで一つに結んでいた。
メイクも薄い。
いや、薄いというより、仕事用ではないだけかもしれない。
再生ボタンを押す。
暗転のあと、少し遅れて映像がついた。
『あー……入ってる?』
最初の一声で、透は反射的に一時停止しそうになった。
違う。
声そのものは怜奈だ。
でも、いつものように相手を切るために輪郭を立てた声ではなかった。もっと低くて、平らで、少しだけ眠そうで、拍子抜けするくらい自然だった。
『聞こえてるならコメントして。確認したいから』
画面の右を流れるコメント欄に、次々と文字が並ぶ。
『聞こえてます』
『こんばんは』
『今日もありがとうございます』
『無理しないでください』
どのコメントも驚くほど静かだった。
テンションが低いわけではない。浮ついていないのだ。普段のSNSならもっと騒がしくなるだろうに、ここでは誰も、必要以上に距離を詰めない。
『うん、見えてる。ありがとう』
黒崎怜奈はそう言って、少しだけ息を吐いた。
それからカメラの位置を直し、テーブルの上に置かれたマグカップへ手を伸ばす。その何気ない動作だけで、透は変な衝撃を受けた。
この人、ちゃんと“ありがとう”って言うんだ。
当たり前のことなのに、表のキャラが強すぎるせいで、それが不思議に思える。
『今日は喉休めてる日だから、あんまり声張れない。表のやつ期待して来た人いたらごめんね』
コメント欄に『それも好き』『こっちも大事』『謝らなくていい』と流れる。
『……そういうの、甘やかしすぎ』
言葉だけ聞けば少し刺しているようなのに、声色がまるで違うせいで、責めているようには聞こえない。むしろ照れ隠しに近かった。
透はヘッドホンをつけ直し、椅子に深く座り直した。
これは確かに、外には漏らせない空気だと思う。
『この前のライブの話する。二曲目、落ちサビ強めに切ったの気づいた人いたね』
透の背筋がぴくりとした。
『本当は会場入った時点でちょっと迷ってた。音源通りでも全然いけたんだけど、前半のお客さんの呼吸が静かめで、たぶん聴くモードに寄ってるなって思ったから、あそこだけ少し圧を上げた。正解だったと思う』
あっさりと、昨日自分が言い当てたことの答え合わせが行われる。
コメント欄に『すごかった』『鳥肌立った』『そこ大好き』が流れる。
怜奈は目でそれを追い、ほんの少しだけ笑った。
『うれしい。ああいう細かいとこ拾ってもらえるの、ほんとは結構うれしいよ』
透は思わず画面を見つめた。
ほんとは、結構うれしい。
握手会では絶対に聞けない言葉だった。
『表で言うと変になるから言わないけどね。いや、言ったら終わりだから。あっちはあっちで完成させたいし』
マグカップを両手で持ちながら、怜奈は少しだけ視線を落とした。
『キャラ作ってるの、別に隠してないんだけど、勘違いされるのは嫌なんだよね。“本当は優しいんですぅ”みたいな消費のされ方、あれ一番つまんないから』
その言い方はきっぱりしていた。
だが、棘というよりは線引きだった。
『表の私は、ちゃんと私だから。嘘ではあるけど、偽物ではない、みたいな。……変な言い方だけど』
コメント欄に『わかる』『それでいい』『そこが好き』と流れる。
『好きって言い方も、まあ、ありがたいけど』
そこで少し間があった。
怜奈は、珍しく言葉を探しているように見えた。
『私、仕事って、受け取る側がいて初めて成立すると思ってるから。歌もダンスもそうだけど、キャラもそう。求められてるなら磨くし、その代わり雑には渡したくない。どうせ夢見るなら、ちゃんと質のいい夢見せたい』
透は無意識に、昨日の言葉を思い出していた。
全員に夢見せるのが仕事なんで。
あれは、本当にそのままの意味だったのだ。
『だから、ここ来てくれてる人たちには素で話すけど、それも“本当の私を見せてあげる”とかじゃなくて、信頼してるから渡してるだけ。外で“怜奈ちゃんは実は~”みたいなのやられると嫌なの、そういうこと』
静かな口調だった。
しかし、そこには揺るがない芯があった。
透は、自分が今少しだけ緊張していることに気づいた。
知らなくてもよかったはずの領域に、足を踏み入れてしまった感じがする。
限定配信というのは、もっと単純な“素顔公開”だと思っていた。
もっとサービス的で、もっと安易なギャップ萌えの場だと。
だが実際には逆だった。
ここでは、彼女はむしろ表より厳密だった。
何を見せて、何を見せないか。その境界を、表以上に丁寧に管理している。
『あと、前にね』
怜奈が少し表情をやわらげた。
『“あなたの罵倒は、言葉が雑じゃないから安心する”って感想もらったことあって。あれはうれしかった』
コメント欄が少しだけざわつく。
だが、そのざわつきも穏やかだった。
『別に人傷つけたいわけじゃないから。向いてない人にまで同じことしたくないし、イベントって短いけど、一応見てるよ。服とか、目線とか、声の速度とか。何言われたいか、何なら平気か、逆に何が地雷か』
さらりと、とんでもないことを言う。
透が昨日感じた“見抜かれている感じ”は、気のせいではなかったらしい。
『もちろん外す時もあるけどね。人間だし。でも、できるだけ外さないようにはしてる。高圧的キャラやるなら、そこだけは手抜きしたくない』
その瞬間、透はようやく理解した。
黒崎怜奈のドSキャラは、単なる過激営業ではない。
演技であり、技術であり、接客であり、ある種の対話なのだ。
刺すのではなく、相手が求めている輪郭で言葉を返す。そのうえで、自分の理想のキャラも崩さない。
そんな面倒なことを、彼女は笑いもせずにやっている。
『あ、そうだ。昨日の握手会』
何気ない調子で怜奈が言った。
『珍しく、こっちの仕込みじゃない感じで細かく見てる人いた。二曲目の話した人。たぶん新規かな』
透の心臓が止まりかけた。
コメント欄に『いたね』『珍しい』『なんて返したの?』と流れる。
『別に普通。暇なの? って言った』
少しだけ間があってから、怜奈は視線を逸らした。
『でも、悪くなかった』
たったそれだけ。
それだけなのに、透は耳の奥が妙に熱くなるのを感じた。別に名前が出たわけでもないし、特別扱いされたとも思わない。
ただ、自分が見たものを、向こうも見返していたのだとわかった。
『ああいう人、たぶん表のキャラ自体はそこまで好きじゃないんだろうなって思う。パフォーマンスをちゃんと見てるタイプ。そういう人に認められると、ちょっと安心する』
怜奈はそこで小さく笑った。
本当に小さく、照れた時みたいな笑い方だった。
『……って、こういうこと言うと調子乗るから、外では言わないけど』
コメント欄に優しい笑いが流れる。
誰も大騒ぎしない。ただ、その言葉を受け取っている。
透はしばらく、画面の前で動けなかった。
好きかどうかはまだわからない、と思っていた。
だが少なくとも今、尊敬に近い感情が芽生えているのは確かだった。
この人は、きっと誰よりも“雑に好かれること”を嫌う。
その代わり、雑ではない視線に対しては、同じだけ誠実に返そうとする。
配信の終わり際、怜奈は最後にこう言った。
『ここにいる人たちは、表の私も、今しゃべってる私も、どっちかだけ切り取って消費しないでいてくれるから助かる。いつもありがとう』
そして少し迷ってから、付け足すように続ける。
『……まあ、ほんとに助かってる。かなり』
そこで配信は終わった。
画面が暗くなっても、透はしばらく再生画面を閉じられなかった。
部屋は静かで、エアコンの音だけがしている。さっきまで確かにここにいた声が消えたせいで、逆に現実感がなくなっていた。
「……ずるいだろ、これ」
思わず口に出る。
表の彼女を見て、面白いキャラだと思う人がいる。
性格ごと好きになって、罵倒を求める人もいる。
歌やダンスの実力に惹かれて来る人もいる。
その全部に対して、彼女はそれぞれの形で成立する“黒崎怜奈”を渡している。
そして、ほんの一部の人間にだけ、この静かな声を渡す。
そりゃ民度も高くなる。
雑に扱えないのだ。こんなふうに信頼の形を差し出されたら。
透はスマホを伏せ、天井を見上げた。
もう後戻りできない気がした。
ただの興味本位では、ここにはいられない。
机の端で、通知が一件光る。
会員限定コミュニティの投稿更新だった。
『来月、少人数トークイベントやります。いつもより少し長く話せるやつ。向いてる人だけ来て』
本文の最後には、短く一言だけ添えられていた。
『“褒め方が雑じゃない人”は歓迎します』
透は、その画面を見たまま、しばらく固まった。
「……いや、絶対見られてたな」
昨日の数秒で。
たぶん、思っていた以上に。
黒崎怜奈は、人を夢見させるために嘘をつく。
でもその嘘は、受け取る相手を見て、丁寧に形を変える。
だったらきっと、次に会う時もまた、こちらがどんな人間かを一瞬で見抜くのだろう。
それが少し怖くて、同時に楽しみだった。
透は通知を開き、イベント詳細へ進む。
応募ボタンの下に、小さく注意書きがあった。
『近くで見ると、思ったより普通です。がっかりしない人だけ来てください』
その一文に、彼はとうとう吹き出した。
「普通なわけないだろ」
だが、画面の向こうの彼女が、少しだけ困ったように笑っている姿は、容易に想像できた。