毒舌スターは、やさしく笑わない。 作:ひまんちゅ
少人数トークイベントの会場は、都内のどこにでもありそうな雑居ビルの一室だった。
黒崎怜奈という名前から想像するような、きらびやかな特設ホールでも、真っ黒な幕で世界観を作り込んだイベントスペースでもない。受付のあるフロアはやけに現実的で、むしろ拍子抜けするくらいだった。
参加者は十数人。
年齢も性別もばらばらで、しかし全員に共通しているのは、騒がしさがないことだった。誰も大声で推し語りを始めないし、意味もなく距離を詰めない。壁際に立ってスマホを見ている人、静かに水を飲んでいる人、配布された注意事項を読み返している人。空気が落ち着いている。
透は受付で名前を告げ、番号札を受け取った。
三番。
微妙に前の方だ。
「うわ……」
思わず小さく呟くと、隣で受付を終えた先輩ファンらしい女性が、少しだけ笑った。
以前、握手会のあとに話しかけてきた、あの会員証の色が違った人だ。
「あ、どうも」
「どうも。来たんだ」
「来ました」
「向いてる人だけ来て、って書いてあったのに」
「それ言われると、来ちゃいけなかったみたいじゃないですか」
「実際、向いてない人はたまにいるから」
さらりとした口調だった。
脅すわけでもなく、事実を述べるだけの声音。
「向いてない、って?」
「近い距離で見られると、急に“特別な関係になれるかも”って勘違いする人とか。表のキャラだけ壊そうとする人とか。逆に、素の方だけ本物だと思い込む人とか」
女性はそこで肩をすくめる。
「どっちも雑なんだよね」
「……なるほど」
「まあ、ここまで来る人は大体平気だけど」
透は頷きながら、会場の奥に目をやった。
簡易な椅子が半円状に並べられ、その先に低いステージがある。ステージといっても段差が一段あるだけで、照明も控えめだ。机と椅子が一脚ずつ置かれ、横にはミネラルウォーターのペットボトルが一本。
距離が近すぎる。
座ったら、たぶん普通に表情まで見える。
「ちなみに」
女性が小さな声で言った。
「今日の怜奈ちゃん、たぶんちょっと素寄り」
「そうなんですか」
「少人数トークは表と裏の中間みたいなものだから。完全に限定配信の感じではないけど、テレビの時ほど尖らせない」
「なるほど……中間」
「一番危ないやつね」
「危ない?」
「ギャップで死ぬ人が出る」
冗談なのか本気なのかわからない口調だった。
ほどなくして開場が終わり、スタッフが注意事項を読み上げる。
録音録画禁止。イベント内で知ったプライベート情報の過度な拡散禁止。接触目的の迷惑行為禁止。会話は長めだが独占しないこと。
そして最後に、少し迷うような間のあと、スタッフはこう付け足した。
「演者本人が望む形で、安心して話せる場にしたいと考えております。ご協力お願いいたします」
それは普通のイベント注意ではなく、この場に合わせて作られた文言のように思えた。
照明が少し落ちる。
小さく拍手が起きた。
黒崎怜奈が現れた。
透は、一瞬だけ息を呑んだ。
衣装ではない。
もちろん私服と呼ぶには洗練されているが、普段のテレビ出演やライブで着ているような、攻撃的な華やかさはなかった。黒の細身のパンツに、少しゆるい白シャツ、その上から薄いグレーのジャケット。アクセサリーも小さく、髪もきっちり作り込まれてはいない。
それなのに、いや、それだからこそか、本人の輪郭が異様に際立って見えた。
派手なものに頼らなくても成立してしまう人間の強さ、みたいなものがある。
「……近っ」
ステージの中央に立った怜奈は、客席を見回して最初にそう言った。
会場に小さな笑いが広がる。
「わかって来てるんだろうけど、思ってたより近いでしょ」
マイクは使わないらしい。地声でも十分届く距離だった。
いつもの挑発的な声色に比べると、今日は少し丸い。
「一応言っとくけど、近いからって勝手に親しくなった気にならないでね。あと、変な幻想も持たないで。私は普通に機嫌いい日と悪い日あるし、眠い時は眠いし、甘いもの食べすぎて後悔する日もあるから」
また笑いが起きる。
毒舌というほどではないが、怜奈らしい捻り方だった。
「ただ、せっかく人数絞ってるから、いつもよりはちゃんと話す。表のイベントより会話長いし、聞けることも多い。……答えたくないことは答えないけど」
最後だけ少し鋭く区切る。
線引きは崩さない、という宣言でもあった。
「じゃ、最初ちょっとだけ全体で話して、そのあと順番に」
椅子に腰掛け、怜奈は水を一口飲んだ。
「最近ね、ありがたいことに“キャラなのに丁寧”みたいな言われ方をたまにするんだけど、あれ、ちょっと変なんだよね」
視線が客席をゆっくりなぞる。
一人ひとりを確認するみたいに。
「キャラだから雑でいい、って話にはならないでしょ。むしろキャラやるなら、その中でどう丁寧にするか考えないと駄目だし。……っていう、わりと普通のことを、私は普通にやってるだけ」
それは限定配信で聞いた話と地続きだった。
ただ、配信より少しだけ外向けに整えられている。
「でも、普通のことを普通にやるのって、案外めんどくさいから」
怜奈は少しだけ笑った。
「そこを見てくれる人がいるのは助かる。以上、珍しく真面目な前置き終わり」
拍手が起きる。
大きすぎず、小さすぎない拍手だった。
そのあと、一人ずつ順番に会話する時間が始まった。
前列から順に呼ばれ、用意された椅子に座って話す形式らしい。怜奈と参加者の距離は二メートルもない。周囲に聞こえないほどではないが、内容まではわからない絶妙な距離だ。
一番目の参加者は、落ち着いた中年の男性だった。
何か言うたびに、怜奈が短く返す。ときどき笑いも起きる。表のイベントほど鋭くはないが、甘やかし一辺倒でもない。
二番目は高校生くらいの女の子で、緊張しきっていたらしい。怜奈は珍しくかなり柔らかい口調で話していた。相手によって明らかに温度を変えている。
そして、三番目。
「三島透さん」
呼ばれた瞬間、心臓が一つ強く鳴った。
椅子に座る。
近い。
本当に近い。
画面越しでも、ライブでもなく、現実の距離で見る黒崎怜奈は、想像以上に普通で、想像以上に普通ではなかった。
顔が小さい、とか、目が綺麗だ、とか、そういう雑な感想ももちろん浮かぶ。だがそれ以上に、目の前の人間がこちらをしっかり見ていることの圧の方が強い。視線が逃げない。怖いというより、誤魔化せない感じがした。
「どうも、暇な人」
怜奈が言った。
「また来たんだ」
「覚えてるんですか」
「自意識過剰」
「違うんですか」
「……少しは」
ほんの一拍置いてから、そう付け足す。
客席の何人かが小さく笑った。
「限定配信も見た?」
「見ました」
「へえ。で、がっかりした?」
「何にですか」
「近くで見ると、思ったより普通だなって」
「いや」
透は考えるより先に答えていた。
「普通に見せようとしてるのが、むしろ普通じゃないなって思いました」
一瞬、怜奈の眉がわずかに動く。
それはほんの小さな変化だったが、たぶん彼女にとっては予想外の返しだったのだろう。
「……なにそれ」
「注意書きにもあったので。普通です、がっかりしない人だけ来てください、って」
「あれは牽制」
「でしょうね」
「でも来た」
「来ました」
「物好き」
「たぶん」
怜奈は水を一口飲んだ。
それから、少しだけ椅子の背にもたれる。
「じゃあ聞くけど、何が見たくて来たの」
「確認、ですかね」
「何の」
「表のキャラと、限定配信の声が、ちゃんと同じ人なのか」
それを言った時、自分でもずいぶん失礼なことを口にしていると思った。
だが怜奈は怒らなかった。
むしろ、少しだけ面白そうに目を細めた。
「で?」
「同じ人でした」
「雑」
「いや、かなり具体的です」
「どの辺が」
「相手を見て言葉を選ぶところ。表では刺す方向に、配信では安心させる方向に寄せてるだけで、根っこは同じだと思いました」
怜奈は黙った。
黙って、透の顔をじっと見る。
その時間が少し長かったせいで、透は自分でも緊張してきた。変なことを言っただろうか。踏み込みすぎたかもしれない。
けれど彼女は、やがて小さく息を吐いただけだった。
「……そういうとこだよね」
「何がですか」
「人の逃げ場なくす言い方」
「そっちに言われたくないです」
「私は仕事だからいいの」
「ずるい」
今度は、はっきりと笑いが起きた。
怜奈本人も、少しだけ口元を緩める。
「でもまあ、たしかにそう。極端に変えてるつもりはない。表は役割として尖らせてるだけで、別人やってるわけじゃないから」
「そこが安心しました」
「安心?」
「全部営業だったら、ちょっと怖いので」
「全部営業だけど」
「そういう意味じゃなくて」
「わかるよ」
その一言が、意外なほどやさしかった。
透は少しだけ息をつく。
会場の空気も、さっきより柔らかくなっている気がした。
「あなた、テレビとか配信だと、絶対に素を見せないですよね」
「見せないね」
「なんでですか」
「見たいの?」
「少しは」
「素直で気持ち悪い」
反射的に刺してくるのに、その声に以前ほどの棘はなかった。
「でも、見せない理由は簡単。みんながみんな、同じもの見たいわけじゃないから」
怜奈は指先でペットボトルのラベルを撫でる。
「歌とダンスだけ見たい人もいる。強いキャラが好きな人もいる。罵倒されたい人も、ネタとして見てる人もいる。その全部に、なるべくそれぞれの形で成立するものを渡したい」
「だから、混ぜない」
「そう。混ぜると雑になるから」
その言葉は、透の胸にすとんと落ちた。
彼女は秘密主義なのではない。
届け先ごとに、渡すものの形を変えているのだ。
それはサービス精神とも言えるし、職人的とも言えた。
「じゃあ、ここは」
「中間。限定配信よりは外向き、でも表よりは近い。……一番難しい場所」
怜奈はそこで少しだけ天井を見た。
「正直、今日はちょっと緊張してる」
「え」
「意外?」
「かなり」
「失礼」
そう返しながらも、彼女はどこか楽しそうだった。
「近いと、こっちも読まれるから」
「あなたが?」
「そう。いつも読む側でいられると思ったら大間違い」
「それはちょっと安心しました」
「何に」
「無敵じゃないんだなって」
「無敵なわけないでしょ。そんなのつまんないし」
無敵じゃない。
その言葉が、怜奈を急に人間らしく見せた。
とはいえ、脆く見えるわけではない。
むしろ逆だった。自分が無敵ではないと知ったうえで、それでも完璧に近いものを渡そうとしている。その事実の方がよほど強い。
「最後に一個だけ」
透は言った。
「この前、“ちゃんと刺してきて”って言いましたよね」
「言ったね」
「じゃあ、今日は逆に、言われてうれしかった感想って何ですか」
怜奈の目が少し見開かれる。
そして数秒、考えるように黙った。
会場も静かになる。
「……“キャラを言い訳にしないところが好き”って言われた時」
やがて彼女は、静かに答えた。
「それはうれしかった」
透は頷いた。
その答えは、妙に彼女らしかった。
「ありがとうございました」
「うん」
立ち上がりかけた時、不意に怜奈が付け足した。
「あと」
「はい」
「今日のは、前より褒め方ましだった」
「それ、かなり高評価じゃないですか」
「調子乗んな」
「でも前進ではある」
「……そういうとこ、ちょっと腹立つ」
今度の笑いは、さっきより少し大きかった。
席に戻ると、隣の先輩ファンの女性が小さな声で言った。
「生きてる?」
「なんとか」
「よかった。今の、かなり会話成立してた」
「そうなんですか」
「怜奈ちゃん、乗ってない時はもっと切るから」
「怖いこと言わないでください」
「事実」
女性は楽しそうに笑う。
「でも、気に入られたって意味ではないよ」
「わかってます」
「うん。そのわかってる感じがたぶんいいんだと思う」
イベントはその後も続き、最後に全員で軽い質疑応答があった。
好きな食べ物の話、最近よく聴く曲、オフの日に何をしているか。怜奈は答えられる範囲で答え、答えたくない質問は淡々とかわした。その姿勢に嫌味はなく、ただ境界が明確だった。
終盤、誰かが「ファンに求めることはありますか」と尋ねた。
怜奈は少し考えてから言った。
「勝手に理想化しすぎないこと。あと、勝手に失望しすぎないこと」
会場が静まる。
「私は仕事としてできる限りいいもの出すけど、受け取る側まで支配はできないから。でもせめて、雑に持ち上げて雑に落とすのはやめてほしい。見てくれるなら、できればちゃんと見てほしい」
そこで彼女は、少しだけ笑った。
「……まあ、難しいけどね」
イベントが終わり、参加者たちが静かに帰り支度を始める。
外へ出ると、夕方の空気は思ったより冷たかった。
透はビルの前で立ち止まり、小さく息を吐く。
近くで見ると、思ったより普通です。
あの注意書きを思い出す。
たしかに彼女は、眠い時は眠そうな顔をするし、水も普通に飲むし、少し考え込むこともある。そういう意味では普通だ。
けれど、その普通を、こんなにも慎重に差し出す人間は、まったく普通ではなかった。
スマホが震える。
会員コミュニティの通知だった。
『今日はありがとう。近いの、こっちも思ったより緊張した』
短い投稿の下に、さらに一文。
『あと、“普通に見せようとしてるのが普通じゃない”はちょっと面白かった。覚えとく』
透はその画面を見たまま、しばらく動けなかった。
「……いや」
思わず呟く。
「それ、覚えなくていいだろ」
なのに頬が少し熱い。
特別扱いではない。たぶんない。
ただ、会話の断片が向こうに残っていた。それだけで、十分すぎるほどだった。
ビルのガラスに映る自分は、少し間の抜けた顔をしている。
透は小さく首を振って歩き出す。
黒崎怜奈は、夢を見せるために嘘をつく。
でもその嘘は、現実から遠ざけるためのものではなく、たぶん現実の人間同士がぎりぎり無理なく触れ合うための、精密な距離の調整なのだ。
だから近づいたと思っても、踏み込みすぎれば壊れる。
だが、正しく近づけば、ちゃんと熱が伝わる。
そのことが、今日ようやく少しわかった気がした。
帰り道、透はふと、次のライブ日程を確認する。
以前なら、曲を聴くためだけに見ていたはずの予定表が、今は少し違って見える。
ステージの上で強く笑う彼女も、
限定配信で静かに息をつく彼女も、
今日、近い距離で少し緊張していた彼女も、
たぶん全部、同じ黒崎怜奈だ。
それを知ってしまった以上、もう以前と同じ見方はできない。
スマホをしまい、夕暮れの街を歩きながら、透はぼんやり思う。
次に会う時は、もう少しだけ、まともな言葉を返したい。
ちゃんと見たなら、ちゃんと刺してきて。
あの時の言葉を、今度は別の意味で思い出していた。