毒舌スターは、やさしく笑わない。 作:ひまんちゅ
黒崎怜奈の次のライブは、都内の中規模ホールで行われた。
ソロアイドルとしてはかなり大きい箱だ、と透は会場前に貼られたポスターを見ながら思う。以前なら、ただ「人気があるんだな」で終わっていたかもしれない。だが今は、そこに積み重なっているものの輪郭が少し見える。
テレビで求められる強さ。
配信で崩さないテンポ。
接触イベントで外さない精度。
限定コミュニティでだけ渡される静かな声。
その全部を矛盾なく回しながら、さらにステージそのものでも結果を出しているのだ。
普通に考えて、だいぶおかしい。
「……よくやるよな」
ひとりごとのように呟いて、透は電子チケットを確認する。
今日は前方ではないが、全体を見るには悪くない席だった。
場内に入ると、開演前特有のざわめきが満ちている。
ペンライトを確認する人、友人同士で曲順予想をしている人、静かに席につく人。客層はやはり二つに割れているように見えた。明らかに“怜奈というキャラ”を楽しみにしている人たちと、純粋に歌とダンスを見に来ている人たち。そして、そのどちらでもありうる曖昧な人たち。
少し前なら、透も後者だと思っていた。
今は、もう少しややこしい。
開演のブザーが鳴る。
照明が落ちる。
観客の空気が一斉に前へ傾く。
暗闇の中で、最初の一音が落ちた。
重低音。
鋭く切り裂くようなシンセ。
そこへ、怜奈の声が重なる。
ステージ中央に立った黒崎怜奈は、また完全に“黒崎怜奈”だった。
銀の装飾が走る黒い衣装。強い照明を跳ね返すような目線。指先ひとつまで制御された動き。映像やテレビで何度も見たはずなのに、実物はやはり違った。会場全体の空気を、彼女がひとりで掴んでいるのがわかる。
歌がうまい、だけでは足りない。
ダンスがすごい、でも足りない。
この人は、自分がどこで見られているかを知っている。
何秒目に視線を上げれば刺さるか、どのタイミングで声を抜けば次の爆発が効くか、それを全部身体で理解している。
一曲目が終わった瞬間、会場が息を吐いた。
張りつめていたものが、一気に拍手と歓声に変わる。
「はい、どうも」
MCに入った怜奈の声は、さっきまでの楽曲の熱とは別種の鋭さを持っていた。
「ちゃんと来たんだ。暇なんだね」
それだけで笑いが起きる。
会場の多くが、この切り返しを待っていたのだとわかる。
「今日初めて来た人いる?」
客席のあちこちで手が挙がる。
「へえ。逃げるなら今のうちだけど」
また笑い。
「嘘。逃がさないけど」
その言い方ひとつで歓声が強くなる。
毒舌キャラが、単にきついだけでは成立しない理由がよくわかる。彼女は観客が何を欲しがっているか、何を言えば熱が一段上がるかをわかっている。乱暴に見えて、実際は緻密だ。
透はステージを見つめながら、前に限定配信で怜奈が言っていたことを思い出していた。
求められてるなら磨くし、その代わり雑には渡したくない。
まさに、その通りだった。
二曲目、三曲目と進むにつれ、会場の熱は増していく。
怜奈は歌いながら煽り、煽りながら踊り、踊りながら完璧に音程を当てていく。ソロでここまで間を持たせられるのか、と透は半ば呆れながら見ていた。
そして中盤、少し落ち着いた曲で空気が変わった。
青い照明。
静かなイントロ。
さっきまでとは違う、柔らかく伸びる声。
会場が一気に“聴く空気”に変わる。
透はそこで、初めて少しだけ不安になった。
この曲を、あの人はどう歌うんだろう。
表の黒崎怜奈としてなのか、それとも。
だが、その心配は杞憂だった。
怜奈は、あくまで“ステージの黒崎怜奈”として歌っていた。
けれど、その声の奥に、少人数イベントや限定配信で聞いた静かな体温が確かにある。どちらか一方に崩れるのではなく、両方を抱えたまま、歌の中でだけ共存させている。
透は息を詰めた。
混ぜると雑になる、と思っていた。
たしかに、素をそのまま表に漏らすことは彼女はしない。
だが、積み重ねたものが深さとしてにじむことまでは、止めないらしい。
ステージの上の彼女は、以前より少しだけ立体的に見えた。
曲が終わる。
拍手が長く続いた。
その余韻を断ち切るように、怜奈が笑う。
「なに。今ちょっと、いい曲だからって優しくなったと思った?」
客席が沸く。
「残念でした。そう簡単に絆されないでほしいんだけど」
照れ隠しみたいな切り返しにしか聞こえない、と透は思った。
もちろん、それも演出のうちだろう。
だが、その演出の継ぎ目が、以前より少し見えるようになってしまっている。
ライブ終盤、最後のブロックに入る前。
怜奈は珍しく少し長めに話した。
「最近さ、“ギャップがいい”って言われること増えたんだけど」
その一言で、会場が少しざわつく。
普段の彼女なら、こういうメタな話題はわざわざ拾わない。
「まあ、ありがたいけど。正直、私はギャップって言葉あんまり好きじゃないんだよね」
透は姿勢を正した。
客席全体が、彼女の次の言葉を待っている。
「なんか、“ほんとはこうでした”って簡単にまとめられる感じするから」
怜奈は客席をまっすぐ見た。
「でも人間ってそんな単純じゃないでしょ。強い時もあるし、気を遣う時もあるし、機嫌悪い日もあるし、ちょっと素直になる日もある。それを勝手に一個だけ掴んで“本当”って言われても困る」
場内が静かになる。
「別に説教したいわけじゃないけど」
彼女は少しだけ笑った。
「雑に好きになられるの、あんまり得意じゃない。雑に持ち上げられるのも、雑に失望されるのも」
その言葉は、少人数イベントで聞いた話の延長線上にあった。
けれど、今日はもっと大勢に向けて言っている。
「だから、見てくれるなら、ちゃんと見て」
怜奈はそう言ってから、少しだけ目を細めた。
「歌でもいいし、ダンスでもいいし、キャラでもいい。どうせなら、あなたが好きだと思った部分を、あなたの言葉でちゃんと好きって言ってほしい」
透の胸が、どくりと鳴る。
周囲を見れば、みんな静かに聞いていた。
罵倒キャラを見に来た人も、歌を聴きに来た人も、たぶん同じように。
「まあ、難しいのはわかるけど」
怜奈は肩をすくめる。
「“やばい”“すごい”“神”だけで済ませる人、多いし」
笑いが起きた。
緊張が少しだけほどける。
「でも、それだとこっちも、どこが届いたのかわかんないからさ」
彼女は最後に、少しだけ声を落とした。
「ちゃんと受け取りたい時もあるんだよ。たまには」
その瞬間、透はなぜか目を逸らせなかった。
たぶん、客席の誰もが、あの言葉を自分に向けられた気がしたはずだ。
大勢に向けて話しているのに、妙に一対一の言葉みたいに聞こえる。それもまた、彼女の技術なのだろう。
最後の曲が始まる。
激しく、明るく、攻撃的なナンバーだった。
さっきまでの空気を切り替えるように、怜奈は再び完璧なドSアイドルとして会場を支配する。
「声小さい!」
歓声。
「それで満足してるなら、ほんとつまんない」
さらに歓声。
「もっと寄越して」
悲鳴みたいな歓声。
その強さに、透は笑いそうになった。
なんだこの人は。
真面目な話をした直後なのに、少しも空気を壊さずに元へ戻せる。
いや、戻しているように見せて、きっとさっきの言葉ごと熱へ変えている。
ライブが終わった頃には、拍手で手のひらが少し痛かった。
立ち上がる観客の顔はどれも満ち足りている。毒舌を浴びて喜ぶ人も、歌に圧倒された人も、きっとそれぞれに何かを持ち帰っている。
会場の外に出た透は、人の流れから少し離れた場所で立ち止まった。
夜風が熱を冷ましていく。
スマホが震えた。
会員コミュニティの通知。
『今日のライブありがとう。珍しく長くしゃべったから、ちょっとだけ反省してる』
短い文章のあとに、続きがあった。
『でも、あれくらいは言っといた方がいい気もした。伝わる人にだけ伝わればいいやつ』
透はその一文を何度か読み返した。
伝わる人にだけ伝わればいい。
その言い方は、突き放しているようでいて、実はとても信じている。
全部を理解されなくてもいい。
でも、ちゃんと受け取る人はいると思っている。
そういう諦めと期待の混ざり方が、妙に彼女らしかった。
そのままスクロールすると、会員向けに簡単なアンケートフォームが貼られていた。
『今日のライブで印象に残ったところ、時間あれば書いて。短くてもいいけど、なるべく雑じゃないやつだとうれしい』
透は思わず笑ってしまう。
結局そこなのか、と思う。
だが同時に、あまりにも自然で納得もした。
ちゃんと見てほしい。
ちゃんと届いたか知りたい。
それを、黒崎怜奈はきっと回りくどい形でしか言えないのだ。
透は会場近くのベンチに腰を下ろし、フォームを開いた。
入力欄は意外なほど大きい。短文で終わらせるにはもったいないくらいに。
何を書こうか、少し迷う。
歌がよかった。
ダンスがすごかった。
MCが刺さった。
どれも本当だ。
だが、それだけでは足りない。
しばらく考え、透は打ち始めた。
『中盤の静かな曲で、表のキャラを崩さないまま、でも限定配信や少人数イベントで感じた体温が声の奥にあったのが印象的でした。混ぜていないのに、積み重ねたものが深さとしてにじんでいた気がします。あと、“雑に好きにならないで”の話をした直後に、最後の曲でいつもの強さに戻したのが、戻したというより全部同じ人の中にあるものだとわかる構成でよかったです』
書き終えて、自分で少し驚く。
ずいぶん長くなった。
しかも、かなり真面目だ。
「……重いかな」
独り言のように呟く。
けれど、たぶん彼女はこういうのを求めていた。
送信ボタンを押す。
画面に『ありがとうございました』と表示される。
そのすぐあとだった。
会員コミュニティの投稿が更新される。
『“混ぜていないのに、積み重ねたものが深さとしてにじむ”って表現、すごくよかった。そういうの、ちゃんと伝わるんだなって少し安心した』
匿名の引用ではない。
だが、タイミングがあまりに露骨だった。
透はスマホを見たまま固まる。
「……いや」
数秒遅れて、耳まで熱くなる。
「絶対これ、今のだろ」
もちろん名前は出ていない。
特別扱いだとも言えない。
たまたま似た感想かもしれない、と理屈では思う。
でも、たぶん違う。
会場のざわめきはまだ少し離れたところで続いている。
それなのに、ベンチの周りだけ妙に静かだった。
黒崎怜奈は、雑に好かれるのが苦手だと言った。
それはきっと、自分を正しく見てほしいからだ。
同時に、相手の言葉も正しく受け取りたいからなのだろう。
好きになってもいい。
でも、雑にするな。
その要求は面倒で、少し傲慢で、ひどく誠実だった。
透は深く息を吐き、スマホを胸の上に乗せた。
この人を追うのは、たぶん楽ではない。
単純に“かわいい”“好き”“最高”だけで済ませてくれないから。
見る側にも、それなりの解像度を要求してくるから。
けれど、その面倒さごと惹かれている自分がいる。
夜のビルの窓に映る光をぼんやり見上げながら、透は思った。
次に言葉を渡す時は、もう少しだけ正確にしたい。
ちゃんと見たと思うなら、それに見合うだけの言葉で返したい。
そう思わせる時点で、もう十分に、この人のペースなのかもしれなかった。