毒舌スターは、やさしく笑わない。 作:ひまんちゅ
ライブの翌日、透は大学の講義にほとんど集中できなかった。
ノートは一応取っている。
板書も写している。
教授の声も聞こえてはいる。
だが頭の片隅には、昨夜のコミュニティ投稿がずっと引っかかっていた。
『“混ぜていないのに、積み重ねたものが深さとしてにじむ”って表現、すごくよかった。そういうの、ちゃんと伝わるんだなって少し安心した』
どう考えても、タイミングが良すぎる。
名前が出ていない以上、断定はできない。だが、断定できない程度にだけ余白を残してくるあたりが、いかにも黒崎怜奈らしかった。
「……三島」
「はい」
名前を呼ばれて立ち上がる。
教授がやや呆れた顔をしていた。
「今の説明、聞いてたか」
「えっと、段階的な変化が外から見て連続でも、中身では閾値を越えた瞬間に相が変わる、みたいな話でした」
「聞いてるならいい」
着席する。
周囲の何人かが小さく笑った。
透はため息をこらえた。
ライブの余韻で講義を飛ばすほど子供ではないつもりだが、頭の中で反芻してしまうものは仕方がない。
積み重ねたものが深さとしてにじむ。
あの言葉を、自分でも気に入っていた。
少し格好つけすぎたかと思ったが、少なくとも怜奈には届いたらしい。そこが余計に厄介だった。伝わってほしいと思って送ったのだから、本来ならうれしいはずなのに、実際に届くと妙に落ち着かない。
講義が終わり、スマホを見る。
通知は増えていない。
当たり前だ。
あれで終わりだろう。
あの投稿自体が、十分に返事のようなものだったのだから。
「三島、最近なんか機嫌いい?」
学食へ向かう途中、友人の榊がそう言った。
高校時代からの付き合いで、透が人に勧められたものへ案外素直にハマることも知っている。
「別に」
「いや、なんかちょっと違う。バイト決まったとか?」
「違う」
「彼女?」
「違う」
「じゃあ推し?」
「……まあ、近い」
「うわ、珍し」
榊は遠慮なく笑った。
「でも、お前、そういうのハマっても距離置いて見るタイプじゃん。顔がいいとか、かわいいとかで騒ぐ感じじゃなくて」
「今も騒いではない」
「でも気になってはいる」
「気にはなってる」
そこは否定しなかった。
榊は面白そうに眉を上げる。
「どんな子?」
「子っていうか、アイドル」
「へえ」
「歌とダンスがすごい」
「王道」
「あと、性格が悪い」
「は?」
「正確には、性格悪そうなキャラで売ってる」
「意味わかんな」
「握手会で“応援してます”って言うと、“あっそ”とか言う」
「終わってるじゃん」
「でも満足度高い」
「もっと意味わかんな」
榊はしばらく黙り、それから腹を抱えて笑い出した。
「お前、そういう変なもん好きだったっけ」
「好きかどうかはまだわからない」
「その言い方もうだいぶ好きだろ」
「違う。……いや、わからないけど」
「めんどくせえな」
他人に説明すると、改めて変な話だと思う。
だが、黒崎怜奈を単に“変なアイドル”でまとめたくないという気持ちも強かった。
「たぶん、雑に見たくないんだと思う」
気づけば、そんなことを口にしていた。
「何それ」
「いや、向こうがそういう感じだから。雑に褒めるな、みたいな」
「めんどくさい推しだなあ」
「そう」
「で、お前はそういうの嫌いじゃない」
「……たぶん」
榊は学食のトレーを取りながら、妙に納得した顔をした。
「まあでも、お前、相手がちゃんと考えてるタイプだと弱いよな」
「弱いって何」
「雑じゃないやつに弱い。作品でも人でも」
その言葉に、透は少しだけ考え込む。
そうかもしれない。
怜奈に惹かれている理由を一つだけ挙げるなら、たぶんそこだ。表の毒舌も、限定配信のやわらかさも、近い距離で見せる中間の温度も、全部が思考された結果として存在している。
自然体に見えるものまで含めて、彼女はたぶんかなり意識的だ。
それが窮屈そうにも見えるし、同時にひどく美しくも見える。
その日の夜、会員コミュニティに新しい配信告知が出た。
タイトルは簡素だった。
『打ち上げというほどではない雑談』
開始時刻は二十二時。
透は少し早めに風呂を済ませ、飲み物を用意して待機した。
時間ぴったりに配信が始まる。
『こんばんは』
画面に映った怜奈は、昨日よりさらに気が抜けた格好だった。
黒のTシャツに、ラフに結んだ髪。メイクも薄い。ライブ翌日だからか、少しだけ眠そうに見える。
『ライブ来た人はお疲れ。来てない人もまあ、普通にこんばんは』
コメント欄が静かに流れる。
『昨日しゃべりすぎた気がするから、今日はあんまり深い話しない。適当に流す』
そう言ってから、怜奈は少し笑った。
『……って言うと、たいてい嘘になるんだけど』
その自己認識の正確さに、透は小さく息を吐く。
配信は本当に最初のうち、他愛のない話から始まった。
差し入れでもらった焼き菓子が予想以上においしかったこと。
ライブ後はテンションが変に残って寝つきが悪かったこと。
ステージ衣装は見た目より動きやすかったこと。
最近、部屋の加湿器の調子が悪いこと。
限定配信での怜奈は、こういう日常の話をする時が一番不思議だった。
強いキャラのままでも、毒舌を封印したわけでもない。
なのに、そのへんにいる普通の二十代の女性が少し疲れた顔でしゃべっているような瞬間が、ふいに混ざる。
『あ、そうだ』
コメントをいくつか拾ったあと、怜奈がマグカップを置いた。
『昨日のアンケート、読んだ。ちゃんと書いてくれた人、ありがと』
透の指先が少し止まる。
『“よかったです”“最高でした”でも気持ちはうれしいけど、やっぱり細かく書いてもらえると、届いた場所がわかるから助かる』
そこまでは、昨夜の流れの延長だった。
しかし次の瞬間、怜奈はほんの少しだけ目線を逸らし、気まずそうに言った。
『で……その、何件か、保存した』
コメント欄が少しざわつく。
『保存?』
『スクショ?』
『珍しい』
『どれどれ』
『うるさい』
怜奈は即座に切った。
『別に全部じゃない。あと見せない。調子乗るから』
透の喉が、妙に渇いた。
たぶん違う。
たぶん自分のものだとは限らない。
そもそも複数あると言っている。
それでも、心臓が勝手に反応してしまう。
『なんか、あとで読み返したい言い方ってあるんだよね』
怜奈は言葉を選ぶようにゆっくり続ける。
『褒められてうれしいっていうより、“ああ、これで伝わるんだ”って確認できるやつ。自分の中で曖昧だった感覚を、外から言葉にしてもらえると助かる時がある』
それは、思っていた以上に正直な告白だった。
配信画面の向こうで、怜奈は少しだけ照れたようにカップへ口をつける。
その仕草を見ていると、彼女が今かなり珍しいことを話しているのがわかる。
『だから、まあ……たまにある。保存するやつ』
そこで少し間があった。
『昨日のも、ひとつ保存した』
透は自分でもわかるほど、無駄に姿勢を正した。
コメント欄には『いいなー』『どんなの?』『引用して』などが並ぶ。
怜奈は当然のように切り捨てた。
『嫌。本人が死ぬでしょ』
『本人w』
『怜奈ちゃん優しい』
『優しいって言うな』
そのやりとりに笑いながらも、透の脳内ではひとつの単語だけが大きく響いていた。
本人が死ぬ。
それはつまり、個人がある程度想定できる程度には具体的な文章ということだ。
『でも、ちゃんと考えて書いてくれるの、ありがたいよ』
怜奈は少し真面目な顔に戻った。
『私、わりと“褒める側の語彙力”に期待してるとこあるから』
『厳しい』
『重い』
『ファンにも努力を求める女』
『嫌なら適当に“かわいい”って言っとけば』
怜奈は肩をすくめた。
『ただ、私はそれだけだと、あんまり受け取れない時があるってだけ』
透は、ああこの人は本当にそうなんだな、と思う。
意地悪で言っているわけではない。
たぶん生まれつき、人の言葉を雑に処理できないのだ。
だからこそ、自分が渡す言葉も、受け取る言葉も、できるだけ輪郭を持たせたがる。
『あ、でも』
怜奈が少し笑う。
『“かわいい”だけで成立する日もある。衣装とか髪型とか、明らかにそこ狙ってる日』
『あるんだ』
『あるよ。昨日は違ったけど』
『昨日は?』
『昨日は……』
そこで彼女は一拍置いた。
『ちゃんと見てほしい日だった』
透は思わず息を止めた。
ライブの構成、あの長めのMC、アンケートフォーム。
全部が一本につながる。
ちゃんと見てほしい日。
その言い方は、ずるいと思った。
そんなことを言われたら、昨夜の言葉たちがますます特別な意味を帯びてしまう。
『毎回そうじゃないの?』
『毎回ではないかな』
『違うんだ』
『違う。もちろん毎回手抜きはしないけど、“今日はここを受け取ってほしい”みたいなのはある』
怜奈は少し考えてから続けた。
『昨日は、強いとか怖いとか、そういうわかりやすいところだけじゃなくて、もう少し奥まで見てほしかった』
『見えた』
『伝わった』
『泣いた』
『泣くのは勝手だけど』
怜奈は小さく笑う。
『でも、何人かには届いたっぽいから、まあよかった』
その“何人か”の中に、自分が入っているのかどうかはわからない。
けれど、少なくとも完全な見当違いではなかったらしい。
配信の終盤、コメント読みの流れになった時だった。
『“近くで見ると、思ったより普通”って注意書き、あれほんと好き』
『わかる』
『あれで余計気になる』
『牽制になってない』
『なってるよ』
怜奈は即答した。
『あれで引く人はたぶん来ない方がいいし』
『普通って言われるの嫌じゃない?』
そのコメントを見て、怜奈は少し首を傾げた。
『文脈による』
しばらく考えてから、彼女はそう答える。
『“つまらない”って意味の普通なら嫌。でも、“ちゃんと生活してる人間なんだな”って意味なら、別に嫌じゃない』
そこで少しだけ目を細める。
『むしろ安心する人もいるでしょ。こっちも、向こうも』
そして、まるで思い出したように付け足した。
『普通に見せようとしてるのが普通じゃない、って言われた時は、ちょっと面白かったけど』
透の手から、危うくスマホが滑り落ちそうになった。
コメント欄には『それ好き』『誰それ天才』『言い回し強い』と流れていく。
怜奈は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
『ああいう、変に覚る言い方する人、たまにいるよね』
『嬉しかったんだ』
『保存案件?』
『本人死ぬやつじゃん』
『うるさい』
怜奈は笑いを噛み殺すような顔で言った。
『別に、嬉しいっていうか。……使える表現だなと思っただけ』
完全に照れ隠しだった。
透はソファにもたれ、片手で額を押さえる。
これはもう、たぶん間違いない。
少なくとも、あの言葉は彼女の中に残っている。
それがうれしいのか、恥ずかしいのか、自分でもよくわからなかった。
配信が終わったあと、コミュニティに短い投稿が上がった。
『今日はありがとう。言葉って、たまに他人から借りた方が正確になるね』
そのあとに、さらに短く一文。
『保存したやつはそのうち自分の中で勝手に使うかもしれないので、見覚えあっても黙ってて』
透はその文章を見て、小さく笑った。
「黙ってて、か」
ずるい言い方だと思う。
肯定も否定もせず、でもちゃんと伝わる余白を残す。
黒崎怜奈は、こういうところが本当にうまい。
それはファンサービスなのかもしれない。
あるいは、単に思ったことを思った通りに言っているだけなのかもしれない。
たぶんその両方だ。
翌日、大学帰りに本屋へ寄った。
理由はない。ただ少し歩きたかっただけだ。
文芸の棚、評論の棚、雑誌コーナーと回っているうちに、ふとノート売り場で足が止まる。
黒い表紙の、小さめのリングノート。
持ち歩けるサイズだ。
透はしばらく迷ったあと、それを手に取った。
レジへ向かいながら、自分でも何をしているのかと思う。
帰宅後、机に向かってノートを開く。
白いページの上に、しばらくペン先を止める。
そして一行目に、こう書いた。
『黒崎怜奈に渡した言葉と、もらった言葉』
自分で書いて、少しだけ笑ってしまう。
重い。だいぶ重い。
だが、スマホのログに埋もれさせたくない気持ちは本物だった。
次のページに、昨夜送ったアンケートの文章を書き写す。
その下に、コミュニティでの投稿をメモする。
『混ぜていないのに、積み重ねたものが深さとしてにじむ』
『普通に見せようとしてるのが普通じゃない』
『ちゃんと見てほしい日だった』
『言葉って、たまに他人から借りた方が正確になる』
並べて書くと、まるで短い詩みたいだった。
いや、詩というには生々しすぎるかもしれない。
でも少なくとも、ただのログではなくなる。
透はペンを置き、ページを見下ろした。
黒崎怜奈は、夢を見せるために言葉を選ぶ。
そして、選ばれた言葉の中に、ときどき他人の言葉も混ぜる。
それは盗むのではなく、借りるのだ。
自分だけでは届かない場所へ、もう少し正確に触れるために。
そういう人なら、自分ももう少しちゃんとした言葉を持っていたいと思う。
好きになっているのだろうか、と改めて考える。
たぶんもう、かなり好きだ。
ただ、その“好き”を雑に言いたくないせいで、まだ簡単には認めたくないだけで。
スマホに新しい通知が入る。
公式アカウントからだった。
『次回配信予告 テーマ:最近もらって印象に残った言葉』
透はその文字列を見て、ゆっくりとまばたきする。
「……いや」
胸の奥が、嫌な意味ではなくざわつく。
「それ、絶対よくないだろ」
言いながらも、口元は少し緩んでいた。
保存された言葉が、どんなふうに彼女の中で使われるのか。
それを知りたいと思ってしまった時点で、もう十分に深く入っている。
黒いノートを閉じ、透は机の上に置いた。
その表紙には、部屋の照明が淡く映っている。
まるで、ステージの上の黒い衣装みたいだと、ふと思った。