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「おぉ……すごいな……」
「ピカァ……!」
壁や床、天井。
そのすべてが、宇宙だった。
地下室の至る所に、果てのない宇宙空間が広がっている。
おそらく、この地下室が作られたあとに、宇宙の壁紙を隙間なく貼り付けたのだろう。だが、ただの壁紙とは思えないほどの没入感があった。
天井から吊るされた惑星やスペースコロニーは、わずかに揺れ、まるで本当に軌道上に浮かんでいるかのようだ。そこへ向かうように配置された宇宙船の模型は、今にも発進しそうな緊張を孕んでいる。
そして、足元に散らばる書類。
そこに書かれていた文字を、僕は拾い上げて読む。
「宇宙移民計画……」
かすれたインク。書き込まれた数式と専門用語の羅列。難しい言葉ばかりで、僕にはほとんど理解できない。けれど、この書類には、きっと両親や祖父母が残した“何か”が詰まっている。
そう思うと、胸の奥がわずかにざわついた。
うすチュウは、そんな僕の様子など気にすることもなく、きらきらと目を輝かせながら部屋の中を歩き回っていた。
「ピカァ……ピカピ……!」
無邪気な声が、やけに遠く聞こえる。
視界に入るものすべてが宇宙だからだろうか。
上下の感覚が曖昧になり、平衡感覚が少しずつ狂っていく。
どこが床で、どこが壁なのか。
距離も、奥行きも、現実感を失っていく。
僕は、地面に散らばる書類だけを頼りに、ゆっくりと足を進める。
ぐらり。
ぐらり、と。
視界が揺れた。
うすチュウの姿が、遠ざかっていく。
「待って———」
手を伸ばす。
けれど、その手はどこか歪み、届かない。
うすチュウの輪郭が、にじむように崩れていく。
「僕を、置いてかないで———」
声も、距離も、すべてが溶けていく。
そのとき。
『ババァルクゥッ!』
『かぶりん』
『デンショック!』
どこからともなく、声が聞こえた。
聞いたことのない、不気味な鳴き声。
『ヤー! ターン!』
『かがよふ』
『ドカグイイ!!』
なのに———
なぜか、恐怖は感じなかった。
それどころか、胸の奥がじんわりと温かくなる。
初めて聞くはずなのに、懐かしい。
帰ってきたような、そんな感覚。
『べのめのん……!』
そこには、白いカーテンのようなものが、ふわりと揺れていた。
光を柔らかく透かしながら、静かに、ゆっくりと。
あれは———ポケモン?
メノクラゲ? ドククラゲ?
プルリル? ブルンゲル?
いや、違う。
どれとも違う。
似ているのに、決定的に何かが違う。
これは、本当にポケモンなのか?
根本的に違う何か———
『べのめのん……』
白い存在が、ゆっくりと降りてくる。
僕に向かって。
包み込むように。
いや、
取り込むように。
『べのめのん』
「べの……めのん……」
言葉が、勝手にこぼれる。
『べのめのん』
「べのめのん……」
境界が、曖昧になる。
自分と、それとの区別が、消えていく。
「『べのめのん……!!』」
重なった。
声が。
意識が。
存在そのものが———
「ピカピッ!!!!」
「……え?」
鋭い鳴き声で、世界が引き戻される。
気づけば、白い存在はどこにもいなかった。
うすチュウが、心配そうに僕の膝にしがみつき、じっと顔を見上げている。
「……あっ、ごめんごめん。ついボーッとしちゃって」
「ピカピ……ピカチュウ……?」
「うん、大丈夫。ありがとね」
僕はうすチュウの頭を撫でる。
その温もりは、確かに現実だった。
じゃあ、さっきのは?
幻覚? 幻聴?
それとも。
わからない。
わからないけど———
この胸の奥に残っている感覚だけは、本物だった。
身体中の細胞が、待ち焦がれていたような不思議な感覚は、一体———
「ピカピ……ピッカ!!」
「あっ、おい、引っ張るなって。もういいのか?」
うすチュウが腕を掴み、外へと引っ張る。
「ピカピカピッ、ピッカ!!」
「……分かったよ。帰ろっか」
僕は導かれるまま、地下室を後にする。
もう、来ないほうがいい。
そう思う。
なのに。
心の奥底が、否定する。
また来たい、と。
違う。
地下室じゃない。
僕が求めているのは———
宇宙?
いや、それすら違う。
その先。
宇宙を超えた、どこか。
わからない。
わからないけど。
ひとつだけ、確かなことがある。
うすチュウは、僕のそばにいる。
その事実だけで、今は十分だった。
【とある科学者の手記】
息子様は、生誕時より原因不明のウィルスに侵されていると推測される。
これまで数多の症例を診てきたが、本件に該当するウィルスは前例がない。既知のいかなる病原体とも一致せず、現代医療技術を総動員しても、特定・分離すら叶わない未知の存在である。
本ウィルスは極めて緩やかに、しかし確実に宿主の身体機能を侵食していく。現段階では致命的な症状の発現には至っていないものの、長期的には死に至る危険性が極めて高いと判断される。
解決策は存在するのか。
その一点のみを考え続けた末、私はある仮説に辿り着いた。
先代会長であるリーリエ様と、その配偶者であるヨウ様。
お二人は若年期において各地を旅し、通常では到達し得ない領域へも足を踏み入れている。
すなわち、ウルトラホールを通じて接続される異界。
ウルトラスペース。
仮説:息子様を蝕む本ウィルスは、当該異界に由来する未知の病原体である可能性が高い。
感染経路については依然不明である。なぜ息子様のみに顕在化したのか、その理由も特定には至っていない。
しかしながら。
ウルトラスペースに到達し、かつ生還したお二人の身体には、何らかの適応、あるいは変異が生じている可能性がある。
私は直ちに、お二人の協力のもと詳細な生体検査を実施した。
結果:検出。
お二人の体内に、息子様と同一のウィルス反応を確認。
さらに、それに対抗する抗体様細胞の存在を発見した。
確信した。
これだ。
この抗体細胞を解析・培養し、応用することができれば、息子様の体内に存在するウィルスを中和、あるいは排除できる可能性がある。
現在、当該ウィルスの活動を一時的に抑制する薬剤の基礎設計は完了している。臨床投入には至っていないが、理論上は進行の遅延が可能である。
残るは、根治。
すなわち、完全な解毒薬の開発である。
完成時期は未定。
だが、時間的猶予は決して多くはない。
最近、財団内部では「宇宙移民計画」が正式に始動し、研究資金の大半がそちらへと移行している。
本研究は優先度の観点から後回しにされる可能性が高い。
だが。
対象が息子様である以上、会長並びに次期会長の判断により、例外的な資源配分が行われる見込みは十分にある。
その機会を逃さぬためにも、事前準備が不可欠である。
まずは抑制剤の試作および安定供給体制の構築。
並行して、本研究の正当性と緊急性を示す計画書の作成を進める。
必ず、間に合わせる。
待っていてください、息子様。
私は、必ず。
あなたを、この未知の侵食から解き放ってみせます。