白磁のゴースト ―幽霊と同居はじめました― 作:合歓木あやめ
夏の終わりの、あの日のことを話そう。
すべてが始まったのは、祖母の四十九日法要のために帰省した、八月最後の週末だった。
「……暑い」
白石千尋(しらいし・ちひろ)は、東京駅から新幹線と在来線を乗り継いで四時間、さらにそこからバスで三十分という果てしない旅路の末に、ようやく生まれ故郷の土を踏んだ。
空気が違う。湿度は高いが、東京のコンクリートが発する暴力的な熱気とは別種のものだ。草いきれと、遠くの川のにおいと、蝉の声。
スマホの画面には、グループチャットの通知が点滅していた。
【ギルド:限界集落】
ハゲニキ: ちひろん、もう着いたんか?
ピザデブ: 田舎とかマジ無理。ネット回線細そう(偏見)
ハゲニキ: おまえ外出ないやろ
ピザデブ: それはそう
千尋はふっと笑って、片手でフリック入力する。
ちひろん: いま着いた〜 回線は意外と生きてる、光来てた
ハゲニキ: 文明開化やん
ちひろん: 田舎バカにすんなしwww
ピザデブ: 法要終わったら夜レイド行けるか? 人足りないんだが
ちひろん: たぶん行ける、22時くらいには
ハゲニキ: 筋肉は裏切らないし、ちひろんも裏切らない。信じとるで
ピザデブ: キモい(直球)
ハゲニキ: ハゲに人権はないんか……
千尋はスマホをバッグにしまい、坂道を登り始めた。
祖母の家は、集落の外れにある古い一軒家だ。子供の頃は毎年夏休みに通った場所。両親が離婚してからは足が遠のいていたが、建物自体は祖母が几帳面に手入れしていたから、まだしっかりしている。
「おばあちゃん……」
玄関に立つと、自然と目頭が熱くなった。
祖母は千尋にとって、唯一無条件に甘えられる相手だった。両親の離婚後、母親は忙しさに追われ、父親とは没交渉。大学に入ってからは一人暮らしで、人付き合いは「しっかり者の白石さん」としての付き合いばかり。
本当の意味で心を開ける相手は、画面の向こうのネッ友たちと――もういなくなった祖母だけだった。
「……よし」
千尋は目元を袖で拭い、鍵を開けた。
法要は翌日だった。
親戚は少ない。母方の伯父が一人と、その家族。母親は海外出張で来られないと連絡があった。いつものことだ、と千尋は思った。いつものことだから、もう何も感じない。
……感じないことにしている。
法要自体は滞りなく終わり、伯父家族は日帰りで去っていった。遺品整理は千尋に一任された。大学生の姪に押し付けることへの罪悪感からか、伯父は「交通費も手間賃も出すから」と言い、千尋は「大丈夫です、おばあちゃんの物だから自分でやりたい」と答えた。
本心だった。
夕暮れ時、一人になった祖母の家で、千尋は居間に座っていた。
「……静かだなぁ」
蝉の声が遠くなり、ひぐらしの声に変わっている。西日がガラス戸から射し込み、畳を橙色に染めていた。仏壇の遺影の中で、祖母が穏やかに笑っている。
千尋はノートPCを開いた。回線は生きている。ギルドチャットを開くと、案の定あの二人が騒いでいた。
ハゲニキ: 法要お疲れやで。無理すんなよ
ピザデブ: 俺からも。まあ無理するなとは言うが、レイドは来い(鬼畜)
ちひろん: ありがと。大丈夫、元気だよ
ハゲニキ: 元気って言うやつが一番心配なんよなぁ
ちひろん: ハゲニキがイケメンすぎて禿げそう
ハゲニキ: もう禿げとるわ!!!
ピザデブ: 草
千尋は笑った。声に出して笑った。
この空間に、笑い声が響くのは久しぶりだろう。祖母が入院してから、この家には誰もいなかった。
レイドまで時間がある。千尋は遺品整理を始めることにした。
祖母の部屋は綺麗に片付いていた。箪笥の中の着物、古い写真のアルバム、手紙の束。どれも丁寧に保管されている。
押し入れの奥から、小さな木箱が出てきた。桐の箱で、表面に細かい紋様が彫られている。
「なにこれ……お守り?」
箱を開けると、中には白い石が一つ入っていた。親指の先ほどの大きさで、磨かれたように滑らかで、淡く光っているように見えた。
「綺麗……」
千尋が石を手に取った瞬間。
ぞわり、と。
背筋を何かが駆け上がった。
「――っ!?」
石が、熱い。いや、熱いのではない。脈動している。心臓のように。自分の心臓と同期するように。
千尋は反射的に石を手放そうとしたが、指が動かなかった。石が掌に吸い付いている。
「な、なにこれ、えっ、ちょっ」
部屋の温度が下がった。八月の、エアコンもない和室の温度が、明らかに下がった。吐く息が白い。
そして。
目の前に、光が集まった。
蛍のような淡い燐光が、無数に。それが渦を巻き、凝縮し、形を成していく。
人の形を。
小さな、小さな人の形を。
「――あ」
光が消えた。
そこに、少女がいた。
白い。すべてが白かった。髪も、睫毛も、肌も、纏っている薄い衣のようなものも。唯一の色彩は、閉じた瞼の下にあるはずの瞳だけ。
少女は畳の上に横たわっていた。呼吸はない。当然だ。
幽霊に、呼吸はない。
「…………」
千尋は、数秒間、完全にフリーズした。
ネットスラングで言うなら、鯖落ちである。
「…………え?」
再起動。
「…………ええ?」
状況認識。
「…………ええええ????」
パニック。
千尋は後ずさり、背中を箪笥にぶつけ、そのまま座り込んだ。手の中の白い石は、いつの間にか消えていた。いや、正確には――千尋の胸の中に、吸い込まれていた。
「いやいやいやいや待って待って待って。えっ、幽霊? これ幽霊? ガチのマジの幽霊?? いやそんなバグある???」
独り言が完全にネットの実況スレのそれだった。
少女が、かすかに動いた。
指先が、ぴくりと。
千尋は息を呑んだ。
少女の瞼が、ゆっくりと開く。
赤い瞳。
深い、深い、紅玉のような瞳。
その瞳が、千尋を見た。
「――あ」
少女の唇が、かすかに動いた。声は、風が鳴るよりも微かだった。
「……みえ、て……る?」
千尋は、ごくりと唾を飲み込んだ。
怖い、と思うべきだった。普通なら悲鳴を上げて逃げ出すべきだった。
けれど千尋の目が捉えたのは、恐怖の対象ではなかった。
消えかけている。
少女の体は半透明で、向こう側の畳の目が透けて見えた。輪郭は揺らぎ、蝋燭の炎のように不安定に明滅している。今にも消えそうだった。
そしてその赤い瞳には、恐怖が浮かんでいた。
消えることへの、絶望的な恐怖。
千尋の中で、「しっかり者の白石さん」のスイッチが入った。いや、それよりもっと深いところにある何かが動いた。
「見えてるよ」
千尋は、震える声で、でもはっきりと答えた。
「見えてる。ここにいるよ、大丈夫」
少女の赤い瞳が、大きく見開かれた。
「……ほん、と……?」
「うん。本当。嘘つかない」
少女の体が、ほんのわずかに、明滅の間隔を長くした。安定した、とまでは言えない。でも、消滅の速度が緩やかになったように見えた。
少女は何か言おうとして、でも声が出なかった。代わりに、透明な指先が千尋の方に伸びた。届かない距離。
千尋は、考えるより先に手を伸ばしていた。
触れた。
冷たかった。氷のように。でも、確かに「触れた」感触があった。少女の指先が、千尋の指先に重なった瞬間、微かな燐光が散った。
少女の輪郭が、ほんの少しだけ、はっきりした。
「……あった、かい……」
少女が呟いた。その声には、千尋が今まで聞いたことのないほどの切実さが込められていた。
「……何年ぶり、だろう……誰かに、触って、もらえたの……」
千尋の目から、涙がこぼれた。
なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。ただ、この小さな存在が途方もなく長い時間を一人で過ごしてきたことが、言葉にしなくてもわかった。
共感力が高い。面倒見が良い。小柄で庇護欲をそそる相手に弱い。
千尋の持つすべての属性が、最悪の――いや、最高の化学反応を起こしていた。
「ねえ」千尋は涙を拭いもせずに言った。「名前、教えて」
少女は、消えかけの唇で、微かに笑った。笑おうとした。
「……こと、ね。小鳥遊、琴音……」
「琴音ちゃん」
「……うん」
「私は白石千尋。千尋でいいよ」
「……ちひろ」
「そう。よろしくね」
なぜ幽霊に自己紹介をしているのか。なぜ握手のように手を繋いでいるのか。なぜ泣いているのか。すべてが意味不明だったが、千尋は確信していた。
この子を放っておくことは、自分にはできない。
琴音の体がまた揺らいだ。明滅が激しくなる。
「っ……だめ……消え、たく、ない……」
「消えないで!」千尋は両手で琴音の手を包んだ。「ここにいて。お願い」
燐光が散る。千尋の胸の奥で、消えたはずの白い石が脈動する感覚があった。
琴音の体が、かろうじて安定した。透明度は高いまま。でも、消えはしなかった。
「……ちひろ、が……依代に、なってる……」琴音が途切れ途切れに言った。「あの石、が……ちひろの中に……だから、私……消えないで、済んでる……」
「依代?」
「幽霊は……何かに、くっついてないと……消えちゃう。私は……あの石に、くっついてた。でも……石も、限界、で……」
「それが私の中に入ったから、今は私が依代ってこと?」
「……ごめんなさい。勝手に……ちひろの体、使って……」
「謝んないで」千尋はきっぱりと言った。「結果オーライでしょ。琴音ちゃんが消えなくて済んだんだから」
琴音が、信じられないものを見る目で千尋を見た。
「……怖く、ないの?」
「めちゃくちゃ怖いよ。さっきまで心臓バクバクだったし、正直今もちょっと手震えてる。でもさ」
千尋は、泣き笑いのような顔で言った。
「怖いのと、放っておけないのは、別じゃん」
琴音の赤い瞳から、光の粒がこぼれた。幽霊の涙。それは重力に従わず、ふわりと浮かんで、蛍のように消えた。
「……泣いて、いいの?」
「好きなだけ泣きな」
琴音は、声もなく泣いた。何十年分か、何百年分かわからない涙を、静かに流した。
千尋はその間、ずっと手を繋いでいた。
どのくらいそうしていたのかわからない。
窓の外は完全に暗くなり、蛙の声が響いていた。千尋のスマホが振動している。見なくてもわかる。レイドの時間だ。
「……ちひろ」
琴音の声が、さっきより少しだけはっきりしていた。
「うん?」
「……あの……ずっと手、繋いでくれてて……ありがとう。でも……痺れてない?」
「正直に言うとめちゃくちゃ痺れてる」
「! ご、ごめんなさい……!」
琴音が慌てて手を離そうとするのを、千尋は離さなかった。
「離したら消えちゃうんでしょ?」
「……少しなら、大丈夫。依代がちひろになったから……近くにいれば……たぶん」
「たぶん?」
「……自信ない」
「じゃあ離さない」
「で、でも……」
「大丈夫大丈夫、片手あればスマホ打てるから。ちょっとだけフレに連絡させて」
千尋は器用に片手でスマホを操作した。
【ギルド:限界集落】
ちひろん: ごめん、今日レイド無理かも。ちょっとリアルで色々あった
ハゲニキ: おう、気にすんな。なんかあったんか?
ちひろん: 幽霊拾った
ハゲニキ: ??????
ピザデブ: ?????????????????
ハゲニキ: いよいよネトゲのやりすぎで脳がバグったか
ピザデブ: 俺に言われたくないだろうがちひろん、少し外に出ろ。いや出るな、レイドに来い(矛盾)
ちひろん: マジのガチのまじ。かわいい女の子の幽霊がいるんだが
ハゲニキ: うーんこれは嘘松
ピザデブ: エビデンスは?
ちひろん: 写真撮れるかわかんないけど待って
千尋はカメラを起動して琴音に向けた。
「琴音ちゃん、写真撮っていい?」
「……え? しゃしん?」
「うん、友達に見せたくて」
「……と、撮れるの? わたし、幽霊だけど……」
「試してみよ」
シャッターを切る。画面を確認すると、そこには薄ぼんやりとした白い人影が映っていた。心霊写真そのものだった。
「あー……これはこれで証拠になるか……?」
ちひろん: [画像]
ちひろん: これなんだが
ハゲニキ: ヒエッ
ピザデブ: ファッ!? なにこれガチの心霊写真やんけ!!!
ハゲニキ: いやいやいや加工やろ、今時のアプリなら余裕やで
ちひろん: 加工じゃないんだが……今隣にいるんだが……
ピザデブ: ちひろんがネタ言うタイプじゃないのは知ってるが、これはさすがに
ハゲニキ: せやな。ちひろんは嘘つけん性格やし……マジなん?
ちひろん: マジ中のマジ。消えかけの幽霊の女の子がいて、なんか私が依代になったっぽい
ハゲニキ: 依代て
ピザデブ: それもうホラゲのシナリオじゃん
ハゲニキ: 大丈夫なんか? 体に異変とかないんか?
ちひろん: 今のところ大丈夫。琴音ちゃん優しい子だし
ピザデブ: 名前まで聞いてるの草
ハゲニキ: ちひろんの「放っておけない」センサー発動したやつやん……
ピザデブ: またか
ちひろん: またかってなに!?
ハゲニキ: いやだって、おまえサークルの後輩が困ってたら必ず首突っ込むし、野良猫見たら追いかけるし、今度は幽霊て
ピザデブ: 対象がどんどんスケールアップしてるの面白すぎる
琴音がスマホの画面を覗き込んでいた。
「……ちひろの、お友達?」
「うん。ネットの友達。実際に会ったことはないんだけど、もう三年くらいの付き合い」
「……あったことないのに、お友達?」
「そういう時代なんだよ。声だけでめちゃくちゃ仲良くなれるの」
「……すごい」琴音は素直に感心した。「私が生きてた頃は……そんなの、なかった」
千尋は聞きたいことが山ほどあったが、今は我慢した。琴音の体はまだ半透明で、かなり不安定だ。負担をかけたくなかった。
「ねえ琴音ちゃん。私、明日東京に帰るんだけど……一緒に来る?」
琴音が目を丸くした。
「……いいの?」
「依代が私なんでしょ? 離れたら消えちゃうんなら、一緒にいるしかないじゃん」
「……でも、迷惑じゃ……」
「迷惑とかじゃなくて。琴音ちゃんが消えちゃう方が嫌だから」
琴音は、また泣きそうな顔をした。
「……ちひろは、変な人」
「よく言われる」
「……ほめてる」
「知ってる」
千尋は笑った。琴音も、ほんの少しだけ、笑った。
翌朝。
千尋は祖母の家の戸締りをして、バス停に向かった。隣には琴音がいる。日光の下では更に透明度が増して、ほとんど見えない。かろうじて陽炎のような揺らぎがある程度だ。
「琴音ちゃん、大丈夫?」
「……うん。日の光は、ちょっと苦手……でも、大丈夫」
バスに乗り、電車に乗り、新幹線に乗った。千尋は一人分の席に座り、隣の席に琴音がいる。透明だから誰にも見えない。車掌にも気づかれない。
ある意味、最強の無賃乗車だった。
「……ちひろ」
「ん?」
「……新幹線、はやい」
「時速三百キロくらい出てるからね」
「……さんびゃく」琴音は絶句した。「……馬、何頭分?」
「馬で換算するの!? えっと……馬力に換算すると……いやそういう計算じゃないな」
「……ちひろは、すごい乗り物に乗ってるのに、平気なの?」
「慣れだよ慣れ。琴音ちゃんが生きてた頃って、いつ頃?」
琴音は少し考えた。
「……よく、覚えてない。ずっと石の中にいたから……時間の感覚が、曖昧で。でも……電気は、あった。電車も……もっと遅いのは、あった」
「じゃあ大正とか昭和初期くらい?」
「……たいしょう。その言葉は、聞いたことある……気がする」
百年近く前。千尋はその途方もない時間に眩暈がした。
「……ねえちひろ」
「うん?」
「……窓の外、すごく綺麗。田んぼが、光ってる」
千尋は窓の外を見た。晩夏の水田が、午後の陽を受けて金色に輝いている。
「うん、綺麗だね」
「……私ね、ずっと石の中で、何も見えなかった。何も聞こえなかった。時々、少しだけ意識が浮かんで……でもすぐ沈んで。それが何回も何回も繰り返されて……」
千尋は黙って聞いていた。
「……消えたくなかった。ずっと、ずっと。なんで消えたくないのかもわからないのに。ただ、消えるのが怖かった」
琴音の声は淡々としていた。でもその淡々さが、かえって痛かった。
「……それで昨日、もう本当にだめだと思った時に、ちひろが石を手に取ってくれた」
「おばあちゃんの遺品の中にあったんだよね、あの石」
「……あのおばあさん。優しい人だった……石の中から、かすかに感じてた。話しかけてくれてた、時々」
千尋の目が潤んだ。祖母らしい、と思った。
「……でもおばあさんは依代にはなれなかった。たぶん……相性みたいなものがある。ちひろは、ぴったりだった」
「相性……」
「……うん。なんでかは、わからない。でも、ちひろの中に入った瞬間、すごく安心した。あったかくて……怖くなくて……」
千尋は鼻をすすった。
「……琴音ちゃん、それ反則だから。電車の中で泣かせないで」
「……ごめんなさい」
「謝んなっつったでしょ」
「……ごめ、……あっ」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
東京に着いた。
千尋のアパートは、大学から自転車で十分の場所にある1Kのワンルーム。学生の一人暮らしとしては標準的だが、一つだけ異質な点がある。
デスクの上に鎮座する、ゲーミングPC。
光るキーボード、光るマウス、光るヘッドセット、二十七インチのモニター二枚。その周辺機器の総額は、ちょっとした中古車が買える。
バイト代の大半がここに消えている。
「……ちひろ」
「ん?」
「……あれは、何?」
琴音が指差したのは、モニターの横に置かれたフィギュアだった。
「あー、それはゲームのキャラの……って、そこからか。えっと、あの光ってる箱がパソコンっていう機械で、何でもできるすごいやつ。テレビみたいな画面がモニターで……」
「……てれび、は知ってる」
「おお、じゃあ話が早い。テレビの超すごい版がパソコン。これで世界中の人と話したり、ゲームしたり、調べ物したりできるの」
「……世界中の人と?」
「そう。さっきスマホで話してた友達とも、これで一緒にゲームしてるんだ」
千尋はPCを起動した。ログイン画面が表示され、ゲームのランチャーが立ち上がる。
琴音はふわふわとモニターの前に移動し、画面を食い入るように見つめた。幽霊なので、デスクの上を通過しても物を倒さない。便利だな、と千尋は不謹慎なことを思った。
「……すごい。絵が動いてる。しかもすごく綺麗……」
「これがMMORPG。大勢の人が同じ世界で一緒に冒険するゲーム」
「……ぼうけん?」
「剣で戦ったり、魔法使ったり、ダンジョンに潜ったり」
琴音の赤い瞳がきらきらと輝いた。幽霊の瞳でも、興味の光は同じなのだと千尋は思った。
「……見てていい?」
「もちろん。あ、そうだ。今ログインしたら二人にも紹介するね」
千尋はヘッドセットを装着し、ボイスチャットに接続した。
『おっ、ちひろん来たやん! 生きとったんかワレ!』
ハゲニキの声。低くて太い、よく通る声だ。
『お、来た来た。昨日のレイド、結局俺とハゲニキとサブメンバーでやったけどボロ負けだったわ。ちひろんのヒーラーがいないと話にならん』
ピザデブの声。意外にも穏やかなバリトンだ。
「おつおつ、ごめんね昨日は。でもマジで大変だったの」
『例の幽霊か? まだ信じてないからな俺は』ピザデブが言った。
『まあまあ。ちひろんが嘘言うわけないやろ。で、実際どうなん? その幽霊ちゃんは今もおるんか?』
「うん、今隣にいる。ね、琴音ちゃん」
琴音はおどおどと千尋の横に浮かんでいた。
「……こ、こんにちは……」
『聞こえへんな。幽霊の声ってマイクに乗らんのか?』
「あー、そうみたい。琴音ちゃんの声、私には聞こえるんだけど。じゃあ私が通訳するね。琴音ちゃんが『こんにちは』って」
『おお、こんにちはー! ワイはハゲニキや! 本名は桐生大地、先天性スキンヘッドの筋トレマニアやで! 筋肉は裏切らない!』
「……はげにき? はげ……?」
千尋は吹き出した。「禿げてるんだって、頭。生まれつき」
「……かわいそう」
「琴音ちゃんが『かわいそう』って」
『同情ーーーー!? いや笑えよ!! そこは笑うとこやろ!! 同情が一番効くんやって!!!』
「えっ、笑った方がいいの……?」千尋越しに聞こえる反応に琴音は困惑した。
『いや同情でもなんでも反応もらえるだけ嬉しいわ。ありがとう琴音ちゃん。優しい子やな』
「……あ、ありがとう、ございます」
『俺はピザデブ。本名は片桐翔太。名前の通りのピザ体型でござる。ネトゲ歴は十五年、ランカーとしてそこそこ名が知れている。よろしく頼むでござるよ』
「……ぴざ、でぶ? ぴざ?」
「ピザはイタリアの食べ物で、デブは太ってる人のこと。自分で名乗ってるだけだから、悪口じゃないよ」
「……変わった人たち」
「琴音ちゃんが『変わった人たち』だって」
『正しい』『否定できない』
二人の声がハモった。千尋は笑い、琴音もつられて小さく笑った。
『しかしマジで幽霊なんか。いやあ、ワイは割と信じるタイプなんよ。犬飼ってるとわかるんやけど、うちのベルクが時々なんもない場所をじーっと見てることあるやん。あれ絶対なんか見えてるやろ』
「あ、犬飼ってるの?」琴音が反応した。
「琴音ちゃん、犬好き?」
「……好き。動物は、みんな好き。生きてた頃も……野良猫とか野良犬が、よく寄ってきた」
「えー、いいなぁ。ハゲニキ、琴音ちゃん動物好きだって。犬に好かれる体質らしい」
『マジか! ベルクに会わせたいわ。セントバーナードやで、でっかいぞー。今度ビデオ通話で見せたるわ。……あ、幽霊ってビデオに映るんか?』
「映らないっぽい。さっき写真撮ったら心霊写真になった」
『草ァ!!!!!』
「……ねえ、ちひろ」
「ん?」
「……みんな、怖がらないの? わたしのこと」
千尋はヘッドセットのマイクをミュートにした。
「怖がってないよ。びっくりはしてるけど」
「……普通は、怖がるのに。……今まで、見えた人は……みんな、逃げた。それか……お祓いしようとした」
千尋の胸が痛んだ。
「うちのギルドメンバーは変人しかいないから大丈夫」
ミュート解除。
「ねえ二人とも、琴音ちゃんが『みんな怖がらないのか』って心配してる」
『怖がるわけないやん。ちひろんが「いい子」って言うなら、それで十分や。ワイらもう三年の付き合いやぞ? 信頼関係ナメんなよ。筋肉と同じや、日々の積み重ねが信頼を作るんや』
『同意でござる。そもそも俺は自室から出ないから幽霊に会う確率ゼロだし。ネット越しなら何も怖くない。むしろ幽霊のフレとかレアすぎて誇らしい。攻略wikiに載ってない隠しキャラじゃん』
琴音は黙って聞いていた。千尋にしか聞こえない声で、ぽつりと言った。
「……いい人たち」
「でしょ?」
「……うん」
千尋はマイクを通して言った。「琴音ちゃんが『いい人たち』だって。ほら、褒められたよ」
『照れるわ。ハゲが更にツヤツヤしてまう』
『お前のハゲにツヤがあるのは認める。Discordのアイコンで見た』
『見た目だけは天下一品やぞワイの頭は』
琴音がくすくす笑った。透明な体が、微かに揺れた。
その夜。
千尋はベッドに横になり、天井を見ていた。琴音は部屋の隅に浮かんでいる。幽霊は眠らないらしい。
「……ちひろ、寝なくていいの?」
「うん、ちょっとだけ話したくて。明日から大学だし、色々確認しておきたいこともあるし」
「……確認?」
「琴音ちゃんのこと。わかる範囲でいいんだけど、いくつか聞いていい?」
「……うん」
「依代のこと。私から離れたらどのくらい大丈夫なの?」
「……近くにいれば……たぶん、同じ建物の中くらいなら平気。でも遠くなると……不安定になる」
「じゃあ大学にも一緒に来てもらう感じかな。透明なら誰にも見えないし」
「……いいの?」
「選択肢がないでしょ。置いてったら消えちゃうかもしれないんだから」
琴音は黙った。
「……ちひろ」
「うん?」
「……なんで、そこまでしてくれるの」
千尋は少し考えた。
「……なんでだろうね。理屈じゃないんだよね。琴音ちゃんが消えそうだった時、反射的に手を伸ばしてた。考える前に体が動いてた」
「……」
「あとね、正直に言うと……私も寂しかったのかも」
琴音が小さく首を傾げた。
「……ちひろが? 寂しい?」
「うん。一人暮らし長いし、リアルの友達は『しっかり者の白石さん』としか見てくれないし。本当の自分で話せるのはネッ友くらいで。おばあちゃんがいなくなって、唯一甘えられる人もいなくなっちゃった」
言葉にしてみると、思った以上に素直な気持ちが出てきた。普段は絶対に言わないことだ。
「……だから、琴音ちゃんが来てくれて……ちょっと嬉しかったのかも。変だよね、幽霊に取り憑かれて嬉しいとか」
「……取り憑いてるわけじゃ……」
「わかってるわかってる、言葉の綾」
沈黙。
「……ちひろ」
「ん?」
「……私も、嬉しい」
千尋は天井に向かって笑った。
「よし、じゃあ同居決定ね。幽霊と人間のルームシェア。家賃は私持ちだけど、琴音ちゃんは家賃タダでいいよ。物理的に何も使わないし」
「……ただ、なの?」
「幽霊に家賃請求する大家はいないでしょ」
「……ちひろって、変」
「それ今日二回目」
「……三回くらい言いたい」
「言っていいよ、何回でも」
琴音は、闇の中でふわりと微笑んだ。暗い部屋で、その微笑みだけがほのかに光っていた。
深夜二時。
千尋は結局眠れず、PCを起動してギルドチャットを開いた。琴音は千尋の椅子の後ろに浮かんで、モニターを覗き込んでいた。
ハゲニキとピザデブはまだオンラインだった。この二人の生活リズムは常に終わっている。
【ギルド:限界集落】ボイスチャンネル
『おっ、ちひろん来たやん。眠れんか?』
「まあね。色々あったし」
『そらそうやろ。幽霊拾った翌日にぐっすり眠れたら逆に心配やわ』
『それな。で、琴音ちゃんもいるの?』
「いるよ、後ろで画面見てる」
「……こんばんは」
「琴音ちゃんがこんばんはだって」
『こんばんはー。夜更かし仲間やな』
「琴音ちゃん、ゲーム見てみる? 私がプレイしてるの見ててもいいよ」
「……うん。さっきから気になってた。あの剣を持った人は何?」
「あれは私のキャラ。この世界の中で、私の分身みたいなもの」
千尋はキャラクターを動かして見せた。白魔導士のローブを纏った小柄なキャラクターが、フィールドを走り回る。
「……わぁ……」琴音は目を輝かせた。「すごい、ちひろが動かしてるの?」
「そう、このキーボードとマウスで。こうやって移動して、こうやって魔法を……えいっ」
画面の中で、白魔導士が回復魔法を放った。キラキラしたエフェクトが広がる。
「……きれい……!」
「でしょー? このゲーム、エフェクトが綺麗なんだよね」
『ちひろんのヒール、性能もエフェクトも一級品やで。うちのギルドの生命線や』
「ハゲニキがお世辞言ってる」
「……ひーる?」
「回復役。味方の傷を治す係。私はいつもこれ」
「……ちひろっぽい」
「えっ、そう?」
「……うん。人を、助けるのが好きでしょ?」
千尋は一瞬言葉に詰まった。
「……まあ、そう……かも」
『琴音ちゃんなんて言ったん?』
「『ちひろっぽい、人を助けるのが好きでしょ』って」
『わかる』『わかりみ深すぎる』
「うるさいなー!」
千尋は照れ隠しにキャラクターを無意味にジャンプさせた。画面の中の白魔導士が、ぴょんぴょん跳ねている。
琴音はそれを見て、声を出して笑った。
初めて聞く、琴音の笑い声。
鈴が鳴るような、綺麗な声だった。
千尋は振り返った。琴音の半透明の体が、ほんのわずかに濃くなったような気がした。気のせいかもしれない。でも、さっきより少し、存在感が増したように思えた。
「琴音ちゃん、笑うと可愛いね」
「——っ」琴音が固まった。「……い、いきなり何……」
「事実を述べたまで」
「……変な人」
「三回目」
「……もう数えない。何回でも言うから」
千尋は満面の笑みを浮かべた。
夜はまだ長い。明日から、この奇妙な同居生活が本格的に始まる。
幽霊と人間のルームシェア。どう考えてもバグみたいな状況だ。
でも、と千尋は思った。
バグ技で見つけた隠しエリアほど、楽しいものはない。
その夜、千尋が知らない場所で、一つの会話が交わされていた。
月光に照らされた神社の屋根の上。濡れ羽色の長い髪をおさげにした小柄な少女が、夜空を見上げていた。
「――あら」
少女は目を細めた。穏やかで、純粋で、春の陽だまりのような微笑み。
「頑張ってるね、あの子たち」
傍らに、一匹の狐が座っていた。金色の毛並みを持つ、齢数百の妖狐。
「栞様。あの幽霊、放っておいてよいのですか。除霊師どもが嗅ぎつければ……」
「うん、そうだね。でも、もう少し見ていたいな」
少女――天音栞は、おさげを風に揺らしながら言った。
「あの幽霊の子、すごく頑張ってる。消えたくないって、ずっとずっと思い続けてきたんだね。それに、依代になった子も……優しい子だ」
「しかし、天使どもは成仏させようと動くでしょう。悪霊扱いされるのは時間の問題です」
「そうだね」
栞は立ち上がった。裸足の足が、屋根瓦の上を音もなく歩く。
「だから、こっそりご褒美をあげたくなっちゃうんだよね」
栞は両手を合わせた。淡い光が指の隙間から漏れる。
「世界に歪みを与えない程度の、ほんの少しの加護。……あの子が実体化できるくらいの、後押し」
光が風に乗って、東京の空へ飛んでいった。
「頑張ってね。二人とも」
栞は微笑んだ。人間讃歌の姫君と呼ばれる精霊の微笑みは、月よりも優しく、夜を照らしていた。
翌朝、千尋が目を覚ますと。
ベッドの横に、女の子が立っていた。
白い髪。赤い瞳。透き通るような肌。
ただし、昨日までと決定的に違うことが一つ。
透けていなかった。
完全に実体化した小鳥遊琴音が、自分の両手を信じられないように見つめながら、呆然と立っていた。
「……ちひろ」
「……うん」
「……触れる。物に、触れる。自分の手が、自分で見える。透けてない。嘘みたい……これ、夢……?」
千尋は手を伸ばし、琴音の頬に触れた。
昨日の氷のような冷たさではなかった。ひんやりとしているけれど、それは朝の空気に冷やされた、人間の頬の温度だった。
「夢じゃないよ」
琴音の赤い瞳から、涙がこぼれた。
今度の涙は、光の粒ではなかった。ちゃんとした、しょっぱい、人間の涙だった。
「っ……! ちひろ、ちひろ……!」
「うん、ここにいるよ」
琴音が、千尋に抱きついた。小さな体。細い腕。確かな重さと温度。
千尋は、その小さな体を抱きしめ返した。
「おかえり、琴音ちゃん」
そう言ってから、ちょっと違うなと思った。
だって、琴音には帰る場所なんてなかった。ここが最初の「ただいま」で、最初の「おかえり」なのだから。
でも琴音は、泣きながら答えた。
「……ただいま」
それは、百年の孤独の果てに見つけた、最初の居場所だった。