白磁のゴースト ―幽霊と同居はじめました― 作:合歓木あやめ
同居生活三日目にして、千尋は重大な問題に直面していた。
「琴音ちゃん、服」
「……服?」
「服がない」
実体化した琴音は、生前のものと思しき白い着物のようなものを纏っていた。薄汚れてはいないが――幽霊の衣服なので物理的な汚れとは無縁だ――明らかに現代の街中を歩ける格好ではない。
「……これじゃ、だめ?」
「だめ。令和の東京でその格好は、コスプレイベント以外では職質対象だよ」
「しょくしつ?」
「警察に呼び止められること」
「けいさつ」琴音の赤い瞳が不安げに揺れた。「……つかまる?」
「捕まりはしないけど……あ、そもそも琴音ちゃんって戸籍ないよね」
「こせき」
「この世に存在してる証明書みたいなもの。生まれた時に届け出て……あ、捨て子だったんだよね。じゃあ元々ないのか……」
琴音が小さく頷いた。その仕草に影が差したのを、千尋は見逃さなかった。
「ごめん、デリカシーなかった。とにかく、まず服。私のお古でよければ貸すよ」
「……いいの?」
「琴音ちゃん私より小さいから、ちょっとブカブカかもだけど」
千尋は自分でも小柄な方だが、琴音はさらに一回り小さい。身長差は十センチ以上ありそうだった。
クローゼットを開けて、小さめのTシャツとショートパンツを引っ張り出す。
「はい、これ。着替え方は……わかる?」
「……わかる、と思う。ボタンとか紐じゃないのは……初めてだけど」
「頭からかぶるだけだよ。やってみて」
琴音は千尋から服を受け取り、おそるおそる着物を脱ぎ始めた。千尋は慌てて振り返る。
「あっ、着替え終わったら言って」
「……うん」
衣擦れの音。そして短い沈黙。
「……ちひろ」
「できた?」
「……できたけど、これ、どっちが前?」
「そんなことある!?」
振り返ると、琴音がTシャツを後ろ前に着ていた。プリントされた猫のイラストが背中に来ている。
「タグがある方が後ろだよ。ほら、この小さいやつ」
「……たぐ。なるほど」
琴音が着直すと、千尋は思わず声を上げた。
「か、かっわ……!」
白い髪に白い肌、赤い瞳。そこにクリーム色のTシャツとデニムのショートパンツ。裸足の白い足。サイズが大きくてTシャツの袖が指先近くまで来ているのが、たまらなく庇護欲をそそる。
「……かわ?」
「可愛い。めちゃくちゃ可愛い。優勝。写真撮っていい?」
「しゃしん、また? ……いいけど」
千尋はスマホを構えた。今度はどうだろう。実体化しているなら――
シャッター音。画面を確認する。
「おっ、映った! ちゃんと映ってる! 心霊写真じゃない!」
画面の中の琴音は、少し戸惑った表情でこちらを見ている。完全に人間にしか見えない写真だ。ただし、瞳の赤さと髪の白さは際立っている。
「……ちゃんと映るの、なんか……嬉しい」琴音がぽつりと言った。
千尋はすぐにギルドチャットに投稿した。
【ギルド:限界集落】
ちひろん: 琴音ちゃん実体化しました!!!!!
ちひろん: [画像]
ちひろん: はい優勝〜〜〜〜
数分後。
ハゲニキ: ファッ!?
ハゲニキ: えっ待って、なにこの美少女
ハゲニキ: マジの実在する人間やんけ。いや幽霊か。どっちや
ピザデブ: いやこれはあれだろ、ちひろんがどっかで拾ってきた家出少女を「幽霊です」って言い張ってるパターンでは?
ちひろん: 違うわ!!!
ピザデブ: だって普通に人間にしか見えんが
ちひろん: そこがすごいところなの! 実体化すると一般人には人間にしか見えないんだって
ハゲニキ: 設定が込み入ってきたな
ちひろん: 設定じゃない事実なの!!
ハゲニキ: にしても、マジでかわいいな。アルビノっぽい見た目やけど
ちひろん: そうそう、生前からアルビノだったらしい
ピザデブ: 生前という単語がナチュラルに出てくる日常会話とは
ハゲニキ: 我々の日常が一線を越えた感あるな
ピザデブ: 元々超えてた定期
琴音がスマホの画面を覗き込んだ。文字を読むスピードは遅いが、最近の千尋の手ほどきで、ひらがなとカタカナはだいぶ読めるようになっていた。漢字は昔の字しか知らないので、現代の書体にはまだ苦戦している。
「……かわいいって、言ってくれてる?」
「うん。ハゲニキが」
「……ありがとう、はげにき」
「琴音ちゃんがありがとうだって」
ハゲニキ: うれしいわ。ワイの頭もツヤが増すわ
ピザデブ: ハゲの話しかしないのかお前は
ハゲニキ: アイデンティティやぞ
千尋が大学に行く時間になった。九月に入り、後期の授業が始まっている。
「琴音ちゃん、大学一緒に来てね。離れると不安定になるかもしれないし」
「……大学って、学校のこと?」
「そう。勉強するところ」
「……私が行っていいの?」
「見えない状態なら大丈夫。実体化を解除できる?」
琴音は目を閉じ、集中した。体がゆっくりと透明度を増していく。
「おお、できるんだ」
「……うん。でも、実体化してる方が楽。透明だと……ちょっと不安になる。消えそうで」
その言葉に、千尋の胸がきゅっと痛んだ。
「じゃあ、大学の中では透明にして、家では実体化してていいよ。なるべく実体化してる時間を長くしよう」
「……うん。ありがとう」
二人は並んで――正確には、千尋が歩き、その横を透明な琴音が浮かぶようにして――大学へ向かった。
キャンパスに着くと、千尋は普段通りの「しっかり者の白石さん」モードに切り替わった。
「あ、白石さーん! おはよう!」
「おはよう、鈴木さん。レポートの件なんだけど……」
「白石さん、ゼミの資料ってもう見た?」
「見たよ、三ページ目の参考文献リストに誤字があるから先生に言っておいた方がいいよ」
琴音は透明な状態で、千尋の隣に浮かびながら、その様子を観察していた。
「……ちひろ、すごい。みんなに頼られてる」
千尋には聞こえている。でも、周囲に人がいる状況では返事ができない。独り言に見えてしまう。
教室に入り、琴音は千尋の隣の空席に座った。透明なので椅子は沈まないが、座る形を取っている。
講義が始まると、琴音は黒板の文字を不思議そうに眺めていた。
九十分の講義が終わり、千尋がトイレに立つタイミングで、ようやく会話ができた。
「ごめんね、授業中話せなくて」
「……ううん。面白かった。あの先生、すごく早口だね」
「あはは、教授のクセなんだよね。ノート取るのが大変なんだけど」
「……ちひろのノート、すごく綺麗。字が上手」
「ありがと。琴音ちゃんも字は書ける?」
「……昔の字なら。毛筆で」
「毛筆!? すごい、じゃあ達筆なんだ」
「……捨て子だったけど、お寺で育ててもらってた時期があって……お坊さんが教えてくれた」
「お寺……」
千尋は琴音の過去についてまだほとんど知らなかった。聞きたい気持ちはあるが、辛い記憶を無理に掘り返させたくもない。
「よし、今日の授業これで終わりだから、帰ろっか」
「……ちひろ」
「ん?」
「……帰ったら、またゲーム見せてくれる?」
「もちろん。今日はね、琴音ちゃんにもやってもらおうと思ってるんだ」
琴音の赤い瞳が、ぱちくりと瞬いた。
「……わたしが? ゲームを?」
「そう。実体化してるなら、キーボードもマウスも触れるでしょ?」
琴音の表情が、見たことのないくらい明るくなった。
帰宅後。
琴音は実体化し、千尋のゲーミングチェアに座った。足が床に届かないので、ぶらぶらしている。その光景だけで千尋のHP(精神的な意味で)が全回復した。
「じゃあまず、マウスの使い方から。これを持って、動かすと画面の矢印が動くよ」
琴音が恐る恐るマウスを握った。白い指が、光るマウスの上でぎこちなく動く。
「……あ、動いた」
「そうそう、上手い上手い。次は左クリック、この左のボタンを押して」
カチッ。
「……! 何か開いた!」
「それはフォルダだね。戻すには……ここ押して」
「ここ……あっ、戻った!」
琴音は一つ一つの操作に対して、小さく歓声を上げた。千尋はその反応が愛おしくて仕方なかった。
「よし、じゃあ簡単なゲームからやってみよう。これ」
千尋が起動したのは、シンプルな2Dのアクションゲームだった。キャラクターをジャンプさせて障害物を避けるだけの、初心者向けのもの。
「このキーを押すとジャンプ、このキーで左右に動くよ」
「……じゃんぷ」
琴音がキーを押した。画面の中のキャラクターがぴょんと跳ねた。
「跳んだ!」
「いいね! じゃあ前に進みながら、障害物をジャンプで避けて」
琴音は真剣な表情でキーボードに向かった。白い眉が寄り、赤い瞳がモニターに釘付けになる。
キャラクターが前に進む。最初の障害物。
「ここでジャンプ!」
「えっ、あ、えっ……あーーっ!」
ぶつかった。ゲームオーバー。
「あああ……!」琴音が本気で悔しそうな顔をした。
「大丈夫大丈夫、最初はみんなそうだよ。もう一回やってみ」
「……うん!」
二回目。またぶつかった。
三回目。少し進んだが、二つ目の障害物でやられた。
四回目。三つ目まで行った。
「おっ、上手くなってる!」
「……もう一回!」
五回目。四つ目を超えた。
「すごい! 琴音ちゃんセンスあるよ!」
「もう一回!」
十回目。ステージクリア。
「やったーーーーー!!!!」
琴音が両手を上げて叫んだ。椅子の上で足をばたばたさせている。白い髪がふわふわと揺れる。
千尋は、胸の奥で何かが弾けるのを感じた。この子のこの笑顔を、ずっと見ていたいと思った。
「琴音ちゃん、次のステージ行く?」
「行く!」
返事に一切の迷いがなかった。
二時間後。琴音は十ステージをクリアしていた。後半はかなり難易度が上がるのだが、琴音の上達速度は尋常ではなかった。
「……琴音ちゃん、ゲームの才能あるかも」
「……そう? 楽しいだけだけど」
「楽しいと思えるのが才能の第一歩だよ。よし、じゃあ今夜はギルドのみんなとMMOやろうか。ボイチャ繋ぐね」
千尋はヘッドセットを装着し、ボイスチャットに接続した。
『やっほー。今日は琴音ちゃんもいるんか?』
「いるよ。で、今日はすごいお知らせがあります」
『なんや、改まって』
「琴音ちゃんに、ゲームの才能があることが判明しました」
『ほう?』
『詳しく聞こうか(オタクボイス)』
「今日初めてゲームやったんだけど、二時間でアクションゲーム十ステージクリアした」
『それ普通にすごくね?』ピザデブの声のトーンが変わった。ゲームの話になると本気になる男である。『初見で二時間ってことは、操作に慣れるまでの時間を差し引いたら実質もっと早い。反射神経いいのか?』
「たぶん。直感が鋭い子だから」
『ふむ……であれば、MMOよりまずアクション系やらせた方がいいかもしれんな。FPSとか……いやさすがに初日からFPSは厳しいか』
『ピザデブがガチモードに入っとる』
「琴音ちゃん、もっと難しいゲームやってみたい?」
「……やりたい」即答だった。「もっと、色々やってみたい」
千尋がその言葉を伝えると、ピザデブが唸った。
『……いいね。素質を感じる。まずはMMOでパーティプレイの基礎を覚えつつ、並行してアクションの練習をするのがいいだろう。拙者が育成プランを組んでやるでござるよ』
『出た、ピザデブの育成厨モード』
『ランカーなめんな。才能ある新人を見つけた時の興奮を知らんのか貴様は』
「琴音ちゃん、ピザデブが鼻息荒くしてるよ」
「……ぴざでぶさん、楽しそう」
「でしょ? ゲームのことになると人格変わるから」
『失礼な。人格は常に一貫してるでござるよ。ゲームに真摯に向き合う姿勢、これぞゲーマーの矜持……ッ!』
『はいはい、キモオタ乙。で、ちひろん、琴音ちゃん用のアカウント作ったんか?』
「あ、まだ。今から作ろうか。琴音ちゃん、キャラクター名どうする?」
「……きゃらくたーめい?」
「ゲームの中で使う名前。本名じゃなくていいよ。好きな名前つけられるの」
琴音は少し考えた。
「……ことり」
「ことり?」
「……小鳥遊って名前、お寺の人がつけてくれたの。『小鳥が遊ぶ、のどかな場所にいられるように』って。だから……ことり」
千尋の目が潤んだ。また泣きそうだ。この子の話を聞くと、すぐ泣きそうになる。
「……いい名前だね。じゃあ『ことり』で登録するよ」
「うん」
キャラクタークリエイト画面。種族、職業、外見を選ぶ。
「種族はどうする? 人間、エルフ、ドワーフ、獣人……色々あるよ」
琴音はモニターを食い入るように見つめた。
「……この耳が長いのは?」
「エルフ。森に住む長命な種族」
「……この小さいのは?」
「ドワーフ。鍛冶が得意で力が強い」
「……この、もふもふしてるのは?」
「獣人。動物の特徴を持った種族」
「……もふもふ」
「獣人、気になる?」
「……もふもふは好き」
「じゃあ獣人で! 何系にする? 犬、猫、兎、狐……」
「……うさぎ」
「うさぎ!!!」千尋が興奮した。「うさぎの獣人! 絶対かわいいやつ!」
キャラクタークリエイトが進む。白い毛並みのうさぎ獣人。赤い目。小柄な体型。
「……あ、わたしに似てる」
「意図的に寄せたわけじゃないんだけどね。白と赤を選んだらこうなった」
『ちひろん、見た目どんな感じ?』
「白うさぎの獣人。めちゃくちゃかわいい」
『スクショ撮ってくれ』
千尋がスクリーンショットを撮ってチャットに投稿した。
ハゲニキ: かわいい(確信)
ピザデブ: 見た目は百点だが問題は職業だ。何にするんだ
「職業は? 戦士、魔法使い、弓使い、回復役……」
琴音は各職業の説明を聞いた。千尋が丁寧に特徴を教える。
「私は回復役をやってるから、琴音ちゃんが回復を選ぶと被っちゃうんだけど、好きなの選んでいいよ」
「……弓」
「弓使い?」
「……遠くから当てるの、好きかも。さっきのゲームでも、タイミングを合わせるのが楽しかった」
『弓使いか。悪くない選択でござる。後衛からのDPSは安定するし、レイドでも席がある。よし、俺がスキル振りの最適解を……』
『落ち着けピザデブ。まだチュートリアルもやってないやろ』
「じゃあ弓使いで! キャラ名は『ことり』……あ、もう使われてるみたい。ことり_って感じでアンダーバーつける?」
「……なんでもいい。ちひろが決めて」
「じゃあ……『ことりのゆめ』とか?」
「……ことりのゆめ」琴音が反芻した。「……かわいい。それがいい」
登録完了。白うさぎの弓使い「ことりのゆめ」が誕生した。
「よし、チュートリアルからやってみよう。操作は教えるね」
千尋は自分のキャラクターでログインし、琴音の横に椅子を持ってきて座った。二人で一つのモニターを見る形になる。
「まず移動は、WASDキーで……」
千尋が横から手を伸ばして琴音の手に触れながら、キーの位置を教えた。
「あ」
二人の指が重なった。
琴音の指は相変わらずひんやりとしていた。でも、もう氷のようではない。ひんやりした、人間の指。
「……ごめん、手冷たかった?」琴音が慌てて手を引こうとした。
「ううん、気持ちいいよ。私暑がりだから」
「……そう?」
「そうそう。ほら、続けよう。Wで前、Sで後ろ、Aで左、Dで右ね」
琴音がぎこちなくキャラクターを動かし始めた。白うさぎの弓使いが、よちよちとフィールドを歩く。
『ちひろんのキャラも合流させた方がいいか? チュートリアルエリアなら制限ないし』
「あ、うん、そうしてくれると助かる。私が横についてる方がいいもんね」
千尋はサブモニターに自分のキャラクターを表示し、琴音のキャラクターと合流した。画面の中で、白魔導士と白うさぎが並んで立っている。
「はい、これが私のキャラ。隣にいるよ」
「……あ! ちひろだ。光ってる服の人」
「ローブね。よし、最初のクエストやってみよう。あの光ってるところに近づいて、話しかけてみて」
琴音がキャラクターを操作してNPCに近づく。会話ウィンドウが開いた。
「……読めない漢字がある」
「どれ? あー、『討伐』ね。『とうばつ』って読むよ。敵を倒すこと」
「とうばつ……あ、なんとなくわかった。あの青いのを倒せばいいの?」
「そうそう。弓の攻撃は、敵にカーソルを合わせて右クリック」
琴音が弓を構え、攻撃した。矢が飛び、スライムに命中。一撃で倒した。
「……倒せた!」
「ナイス! 上手い!」
「もう一匹!」
琴音は次々とスライムを倒していった。照準の合わせ方が妙に正確だ。
「……琴音ちゃん、エイムいいね」
「えいむ?」
「狙いが正確ってこと」
「……なんとなく、当たるところがわかる。ここだ、って感じが」
直感型のプレイヤー。ピザデブが聞いたら小躍りしそうな素質だ。
チュートリアルを終え、メインフィールドに出た。ここからは他のプレイヤーとも遭遇する。
「わあ、人がいっぱい!」
「うん、全部世界中の人が動かしてるんだよ」
「……すごい。みんな冒険してるの?」
「そう。で、あそこにいるのがハゲニキとピザデブ」
画面の中で、巨大な戦士キャラクター(ハゲニキ)と、ローブを着た魔法使いキャラクター(ピザデブ)が手を振っていた。
「……あの大きい人がはげにき?」
『せやで! キャラもワイも筋肉ムキムキや! 筋肉は裏切らない!』
「……筋肉は裏切らない……なるほど……?」
「いまいちピンと来てない顔してるよ、琴音ちゃん」
『わからんでええ。感じるんや、筋肉を』
『無視していい。で、琴音ちゃん、ギルドに招待するぞ。「ことりのゆめ」宛てに招待送ったから、画面に出てるポップアップの「承認」を押してくれ』
「……しょうにん……あ、このボタン?」
カチッ。
【システムメッセージ:「ことりのゆめ」がギルド「限界集落」に加入しました】
「やったー! ようこそ、ギルド「限界集落」へ!」
「……げんかいしゅうらく? なんで限界集落なの?」
「命名はハゲニキ。『人口三人の過疎ギルドだから限界集落』だって」
「……今は四人だから、もう限界じゃない?」
『それはどうかな。限界は常に更新されるものでござる。我々の限界集落に限界はない(名言風)』
『名言なんかそれ?』
琴音がくすくす笑った。
「……ここが、わたしの冒険の始まりなんだ」
千尋は琴音の横顔を見た。モニターの光に照らされた白い顔。赤い瞳に映る仮想世界の色彩。小さな唇に浮かぶ、控えめだけど確かな笑み。
「そうだよ。一緒に冒険しよう、琴音ちゃん」
同居生活一週間目。
生活リズムが確立されてきた。
朝。千尋が起きると、琴音は大体窓辺に座って外を眺めている。幽霊は眠らないが、ぼんやりする時間はあるらしい。
「おはよう、琴音ちゃん」
「……おはよう、ちひろ」
朝食は千尋が作る。琴音は食べなくても平気だが、実体化している時は食べることもできると判明した。
「琴音ちゃん、味噌汁飲める?」
「……飲めると思う」
千尋がお椀を差し出す。琴音が両手で受け取り、一口すすった。
赤い瞳が、大きく見開かれた。
「……おいしい」
「ほんと? よかった」
「……すごくおいしい。あったかくて……優しい味」
「インスタントだけどね」
「いんすたんと?」
「お湯を注ぐだけでできるやつ。手抜きなんだけど」
「……こんなにおいしいのに?」
「琴音ちゃんに褒められるとインスタント味噌汁も報われるね」
その日から、朝食を二人で食べるのが習慣になった。
昼は大学。琴音は透明になって千尋についていく。講義を一緒に聞き、休み時間に小声で感想を言い合う。
「……ちひろ、今日の先生の話、面白かった。ぶんがく? の授業」
「日本文学概論ね。琴音ちゃん、文学好き?」
「……お寺で、本を読んでもらってたから。物語は好き」
「じゃあ今度、図書館に行こうか。本いっぱいあるよ」
「……行きたい!」
夕方は買い物。千尋が食材を買い、琴音は透明のまま隣を歩く。スーパーの品揃えに目を丸くする琴音を見るのが、千尋の密かな楽しみになっていた。
「……ちひろ、あの赤いのは?」
「トマト」
「……あの緑のは?」
「ブロッコリー」
「……あの光ってる箱は?」
「冷凍食品のコーナーだよ。凍らせて保存してあるの」
「……凍らせる!? すごい……」
夜はゲーム。琴音の上達は目覚ましかった。
一週間で、チュートリアルを終え、メインストーリーの序盤を進め、基本的なパーティプレイの作法を覚えた。弓使いとしての腕も上がり、動く的への命中率が異常に高い。
『これマジで初心者一週間の動きか?』ピザデブが唸った。『ちひろんが教えるのが上手いのもあるが、琴音ちゃんの飲み込みが早すぎる。特にエイム。理論値に近い精度出してないか?』
「でしょー? 天才なんだよ、琴音ちゃんは」
「……天才じゃない。ちひろが教えてくれるから……」
「はい照れた。かわいい」
「……っ、もう」
『ちひろんの琴音ちゃんへの態度、完全にガチ恋勢のそれなんよ』
「ガチ恋じゃないし!! 保護者枠だし!!」
『保護者(笑)。ワイから見たらイチャイチャしとるようにしか見えへんけどな』
「イチャイチャしてない!!」
「……いちゃいちゃって何?」
「なんでもない!!」
同居生活十日目の夜。
その日、千尋がコンビニに行っている間に、事件は起きた。
距離としてはアパートから徒歩三分のコンビニだ。琴音は実体化した状態で部屋に残っていた。依代との距離的には問題ないはず、だった。
千尋がコンビニのレジに並んでいる時、突然胸の奥で白い石が激しく脈動した。
「っ!?」
嫌な予感がした。理屈ではなく直感で。
会計もそこそこに、千尋は走った。アパートの階段を駆け上がり、鍵を開けて飛び込んだ。
リビングに琴音がいた。
ただし、その前に、もう一人いた。
白い法衣のようなものを纏った、性別不詳の存在。背中に淡い光の翼が見える。人間ではない。
天使だ。
「――貴方は成仏すべき存在です」
天使が、静かな、しかし有無を言わさない声で言った。
「この世に留まることは、貴方自身にとっても、依代となった方にとっても、害にしかなりません。安らかに眠りなさい」
琴音は壁際に追い詰められていた。実体化が不安定になり、体の一部が透けている。恐怖で震えていた。
「……い、嫌……消えたくない……」
「それは執着です。執着は苦しみを生みます。手放しなさい」
「嫌……! ここにいたい……ちひろと……」
「依代に執着することは、相手の魂を蝕みます。貴方は悪霊になりかけているのですよ」
「ちがう……! わたしは……」
「やめて!」
千尋が、二人の間に割り込んだ。
天使が目を見開いた。人間に正面から立ちはだかられることは想定していなかったらしい。
「貴方は……依代の方ですか。お体に異変はありませんか。この幽霊を早急に……」
「この子は悪霊なんかじゃない」千尋は琴音を背中に庇い、天使を睨んだ。「害なんかない。一緒にご飯食べて、一緒にゲームして、一緒に笑ってる。それのどこが害なの」
「感情論では……」
「感情論で何が悪いの。この子が消えたくないって言ってるのに、無理やり成仏させようとする方がよっぽど暴力でしょ」
天使が沈黙した。
千尋の声は震えていた。でも目は逸らさなかった。
「お願いだから、この子に手を出さないで。この子は私が守る」
長い沈黙の後、天使は小さく息を吐いた。
「……依代自身が拒否するのであれば、強制的な成仏はできません。それが天界のルールです。ですが、忠告はしておきます」
天使は千尋を真っ直ぐに見た。
「幽霊がこの世に留まり続ければ、いずれ除霊師や他の存在に狙われます。天使は強制しませんが、除霊師は容赦しません。悪霊として祓われる前に……方法を見つけなさい」
「方法?」
「幽霊が依代から自立する方法。自ら存在を確立し、この世に在る理由を得る方法。……それが見つからなければ、遅かれ早かれ、この幽霊は消えます」
天使は光に包まれ、消えた。
残されたのは、千尋と琴音だけだった。
「琴音ちゃん!」
千尋が振り返ると、琴音が崩れ落ちるように座り込んでいた。実体化は維持されているが、顔は真っ青だった。
「……ちひろ……ごめんなさい……」
「謝んないで!」
「……でも、あの天使が言ってた……わたしがいると、ちひろの魂が……」
「そんなの知らない。自分の体だもん、自分で決める」
「……ちひろ」
千尋は琴音の前にしゃがみ込み、両手を握った。
「ねえ琴音ちゃん。自立する方法があるなら、探そう。一緒に。消えなくて済む方法を見つけよう」
琴音の赤い瞳から涙がこぼれた。人間の涙。
「……見つかるかな……」
「見つける。絶対に」
千尋は琴音を抱きしめた。小さな体が震えていた。千尋は自分も震えていることに気づいていなかった。
その夜。
千尋はギルドチャットで事情を報告した。
【ギルド:限界集落】ボイスチャンネル
『天使て。もう何でもアリやな』
『むしろなぜ天使が出てきて我々が冷静でいられるのか、そこを問うべきでは』
「慣れって怖いね……」
『で、自立する方法か。依代から自立して、自分で存在できるようになれば消えないと』
「そういうこと。でも方法がわからない」
『ネットで調べたか?』
「調べた。でもオカルト系のサイトは胡散臭いのばっかりで……」
『まあそらそうやろなぁ。本物の情報なんてそうそう転がっとらんわ』
『一つ聞きたいんだが』ピザデブが真面目な声で言った。『琴音ちゃんがいることで、ちひろんの体に実際影響はあるのか?』
千尋は少し考えた。
「……正直に言うと、わかんない。体調は普通だし、変わったことは何もないけど。でも天使が言うからには、何かあるのかもしれない」
『それは気になるな。客観的に見て、ちひろんがダメージ受けてるなら話は変わってくる』
「でも、たとえダメージがあっても、琴音ちゃんを手放す気はないよ」
『……知ってる。おまえがそう言うのは百も承知だが、一応確認しとかんとな。ワイらはおまえのことも心配しとるんやで』
「……ありがとう」
『よし。であれば、方法を探す方に全力を注ごう』ピザデブが言った。『俺は俺のルートで調べる。オカルト系のディープなコミュニティにも顔が利くからな』
『ネトゲ廃人のくせにオカルトにも詳しいんか』
『ネトゲ廃人だからこそ、ありとあらゆるジャンルの人間と知り合うんだよ。MMOの世界は広い。除霊師プレイヤーとか、マジでいるからな』
「ほんとに!?」
『半分ネタだが半分マジだ。とにかく、任せておけ。「限界集落」の仲間のためなら、俺は本気を出す』
『珍しくカッコいいこと言うやん、ピザデブ』
『たまにはな。まあ、本気を出すと言っても椅子から動かないけど』
『台無しで草』
千尋は笑った。笑いながら、目元を拭った。
琴音は千尋の隣に座って、黙ってやり取りを聞いていた。声はマイクに乗らないが、彼らの言葉は千尋のスピーカー越しに聞こえている。
「……みんな、やさしいね」
「うん」
「……わたしのために、こんなに考えてくれる人がいるの……初めて」
「これからは初めてじゃなくなるよ。何回でもこうなるから、うちのギルドは」
琴音は千尋の袖を、そっと掴んだ。小さな指が、ほんの少しだけ力を込めていた。
千尋はその手に自分の手を重ねた。
深夜。
琴音が眠らない夜を過ごす中、千尋はベッドの中で天井を見ていた。
「ねえ、琴音ちゃん」
「……うん?」
「自立する方法、一緒に見つけようね」
「……うん」
「絶対、消させないから」
「……ちひろ」
「ん?」
「……ありがとうって言ったら、怒る?」
「怒んないよ。でも、ありがとうはお互い様だから」
「……お互い様?」
「琴音ちゃんが来てから、私、毎日楽しいもん。家に帰るのが楽しみって思ったの、初めてかも」
長い沈黙。
「……ちひろ」
「うん?」
「……わたしもだよ」
千尋はその言葉を胸に抱いて、目を閉じた。
同じ頃。
東京の空の上で、天音栞は風に乗って飛んでいた。おさげが夜風に揺れている。
「あの天使、ちょっと早まったなぁ。怖がらせちゃったでしょ」
隣を飛ぶ金色の狐が言った。
「天使どもに悪意はないのです。ルールに従っているだけで」
「うん、わかってる。でもね」栞は東京の街を見下ろした。どこかに琴音と千尋のアパートがある。「あの子たち、ちゃんと向き合おうとしてる。逃げないで、方法を探そうとしてる。それって、すごいことだよ」
「栞様は、あの幽霊が精霊に到れると思いますか」
「わからない。でも、可能性はある。あの子の『消えたくない』という想いは、ただの執着じゃない。もっと深いもの。――そして、あの依代の子の想いも」
栞は微笑んだ。月の光が、おさげの上で踊った。
「人間って、すごいよね。誰かのために本気になれる。それが人間讃歌ってやつだよ」
「栞様は人間を買い被りすぎですよ」
「そうかなぁ。そうかもね。でも、それでいいの」
栞は手を合わせた。また小さな光が生まれ、風に乗って飛んでいく。
「もう少しだけ、あの子たちの道が照らされますように。世界を歪めない範囲で、ね」
光は夜の東京に溶けていった。
二つの光が、一つの小さなアパートの窓辺に辿り着いた。
窓辺に座る白い髪の少女と、ベッドで眠る黒い髪の少女。
二人の間に、光は静かに降り積もった。
雪のように。祝福のように。