白磁のゴースト ―幽霊と同居はじめました―   作:合歓木あやめ

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第三話「First Quest ―はじめての冒険―」

同居生活三週間目。

 

季節は九月の半ば、残暑はまだ厳しいが、朝晩には秋の気配が混じり始めていた。

 

千尋と琴音の日常は、穏やかに、しかし確実に二人の形に馴染んでいった。

 

朝、琴音が窓を開ける。千尋が目を覚ます。二人で朝食を食べる。大学に行く。帰ってきてゲームをする。夜、千尋が眠り、琴音が窓辺で夜を過ごす。

 

そしてその日常のすべてが、千尋にとってはかけがえのないものになりつつあった。

 

自覚は、まだなかったけれど。

 

「ちひろ、今日の味噌汁、昨日と味が違う」

 

朝の食卓。琴音がお椀を両手で包みながら、不思議そうに首を傾げた。

 

「わかる? 今日はわかめと豆腐。昨日はなめこだったから」

 

「……わかめ、おいしい。やわらかくて」

 

「琴音ちゃんはわかめ派か。メモしとこ」

 

千尋はスマホのメモ帳を開いた。そこには「琴音ちゃんの好きなもの」というリストが既に存在しており、「うさぎ」「もふもふ」「星空」「弓」「お味噌汁」などが並んでいた。

 

「……それ、何?」

 

「琴音ちゃんの攻略wiki。好きなもの嫌いなものを記録してる」

 

「……こうりゃくうぃき。わたし、攻略されてるの?」

 

「されてるよ。完全に」

 

「……ゲームのボスみたい」

 

「琴音ちゃんはラスボスじゃなくて仲間キャラだからね。好感度イベントの回収作業だよ」

 

「……こうかんど、いべんと」

 

琴音はまだゲーム用語を完全には理解していなかったが、千尋が嬉しそうに言っていることは伝わるらしく、白い頬がほんのり桜色に染まった。

 

スマホが振動した。

 

【ギルド:限界集落】

 

ハゲニキ: おはようやで。今日は重要なお知らせがあるんやが

 

ピザデブ: 珍しく真面目な導入

 

ハゲニキ: 来週の三連休、みんな空いてへん?

 

ちひろん: 空いてるよ。何かあるの?

 

ハゲニキ: 実はな

 

ハゲニキ: オフ会しようと思うんや

 

千尋の手が止まった。

 

ちひろん: ……は?

 

ピザデブ: は?

 

ハゲニキ: いや待って、石投げんといて

 

ハゲニキ: 理由があるんや。まずピザデブ、おまえが調べてくれとった琴音ちゃんの件

 

ピザデブ: ああ、例の自立する方法か

 

ハゲニキ: せや。ワイも別ルートで調べとってな。そしたらおもろい情報が出てきた

 

ハゲニキ: 幽霊が精霊になれば単独で存在できるようになる、って話

 

ちひろん: 精霊?

 

ハゲニキ: 精霊っちゅうのは、元人間で、神々に認識されるレベルまで存在が確立した存在らしい。そこまで到達すれば依代なしで自由に存在できると

 

ピザデブ: 俺が調べた情報とも一致するな。オカルト系コミュニティの古参に聞いたんだが、日本には実際に精霊に到った存在がいるらしい。「人間讃歌の姫君」とか呼ばれてるとか

 

ちひろん: 人間讃歌の姫君……

 

ハゲニキ: で、その精霊に会えれば、琴音ちゃんが精霊になる方法がわかるかもしれへん

 

ハゲニキ: その精霊がよく現れるっちゅう場所が、神奈川の某神社らしいんや

 

ハゲニキ: だから、ドライブがてらそこに行こう言うとるわけ

 

ピザデブ: なるほど、それでオフ会か

 

ハゲニキ: せや。ワイのハイエースで迎えに行くわ。ピザデブ、おまえの家も寄れるし

 

ピザデブ: ……外に出るのか?

 

ハゲニキ: 出ろ

 

ピザデブ: ……外に?

 

ハゲニキ: 出ろ(二回目)

 

ピザデブ: うーむ。しかし拙者、最後に外出したのがいつか記憶にないのだが

 

ちひろん: それはそれで問題だよ!?

 

千尋はスマホから顔を上げ、琴音を見た。

 

「琴音ちゃん」

 

「……うん。見てた」琴音はスマホの画面を覗き込んでいた。「……精霊になれば、消えなくて済むの?」

 

「そういう可能性があるみたい。それで、その方法を知ってるかもしれない精霊に会いに行こうって」

 

「……でも、それって」琴音が不安そうに言った。「……みんなに、会うってこと? リアルで?」

 

「うん。オフ会。ネットの友達に直接会うこと」

 

琴音の表情が複雑に揺れた。期待と不安が入り混じっている。

 

「……わたし、人に会うの……あまり得意じゃない。生きてた頃も……見た目のせいで……」

 

千尋は琴音の手を取った。

 

「大丈夫。ハゲニキもピザデブも、見た目で人を判断するような人じゃないよ。ハゲニキは自分がスキンヘッドだし、ピザデブは自分で名乗る通りの巨漢だし。外見のことでとやかく言う人たちじゃない」

 

「……そう、なの?」

 

「うん。三年の付き合いで断言する。いい人たちだよ。ちょっと変だけど」

 

「……ちょっと?」

 

「めちゃくちゃ変だけど」

 

琴音はほんの少し笑った。でもまだ不安は消えていない。

 

「……ちひろは、ずっとそばにいてくれる?」

 

「当たり前でしょ。依代がこの私だよ? 物理的に離れられないの」

 

「……そうだった。ごめん」

 

「だから、安心して。一緒に行こう」

 

琴音は、小さく頷いた。

 

三連休の初日。朝八時。

 

千尋のアパートの前に、白いハイエースが停まった。

 

千尋は琴音と一緒に階段を降りた。琴音は実体化した状態で、千尋に借りた白いワンピースとカーディガンを着ている。帽子も被っていた。直射日光はアルビノの肌に厳しいし、白い髪を多少隠す意味もある。

 

ハイエースの運転席のドアが開いた。

 

降りてきたのは、身長百八十センチを超える大男だった。見事なスキンヘッドが朝日に輝いている。鍛え上げられた体躯がTシャツの上からでもわかる。日焼けした肌に、人懐っこい笑顔。

 

「よう! ちひろん! 初めまして! いや初めましてって変やな、三年の付き合いやのに!」

 

千尋は思わず笑った。声だけで三年聞いていたのに、実物に会うと新鮮だ。

 

「ハゲニキ! うわー、ほんとにツルツルだ!」

 

「せやろ! 今朝もワックスで磨いてきたで! 筋肉は裏切らないし、ワイの頭のツヤも裏切らん!」

 

ハゲニキ――桐生大地は、豪快に笑いながら千尋に握手を求めた。千尋がその大きな手を握ると、大地はすぐに力を緩めた。女性相手には力加減を気にする男だった。

 

「で、この子が琴音ちゃんか」

 

大地が琴音に目を向けた。琴音は千尋の後ろに半分隠れるようにして、おずおずと顔を出した。

 

帽子の下から覗く白い前髪と赤い瞳。白磁のような肌。千尋よりもさらに小さな体。

 

大地は一瞬絶句した。

 

それから、ゆっくりとしゃがみ込んだ。百八十センチの大男が、百四十センチほどの琴音と目線を合わせるために。

 

「初めまして、琴音ちゃん。桐生大地や。ハゲニキって呼んでくれてええよ」

 

琴音がびくりとした。が、大地の目を見て、少し緊張が解けたようだった。屈託のない、温かい目だった。

 

「……は、はじめまして。小鳥遊……琴音です」

 

「知っとるで。いつもギルチャで話しとるからな。実物は想像以上にかわいいな。いやいや怖がらんでええ、怪しい意味やないから。なあちひろん」

 

「うん、ハゲニキはそういう変な意味で言う人じゃないから安心して」

 

「変な意味て。ワイは紳士やぞ」

 

「紳士(スキンヘッド)」

 

「それただの悪口やんけ!」

 

琴音が、くすっと笑った。大地はそれを見て嬉しそうに頷いた。

 

「よし、笑ってくれた。ほな次はピザデブの回収や。乗ってくれ」

 

ハイエースに乗り込む。後部座席は広く、千尋と琴音が並んで座れた。助手席には大きなクーラーボックスがあり、中にはペットボトルのお茶やジュースが満載だった。

 

「あ、ハゲニキ。ベルクは?」

 

「ベルクは今日は家でお留守番や。さすがにセントバーナード連れてったら車内がえらいことになるからな。帰ったらビデオ通話で見せたるわ。琴音ちゃん、犬好きって言うとったやろ?」

 

「……うん。見たい」琴音が素直に頷いた。

 

「絶対見せたる。めちゃくちゃかわいいぞベルクは。人懐っこくてなぁ、初対面の人にもガンガン突撃するんや」

 

車は走り出した。ピザデブの家は千葉だ。首都高を抜けて向かう。

 

車内で、千尋と大地は初めてリアルで会話することの新鮮さを楽しんでいた。

 

「ハゲニキ、思ったより優しい顔してるね。声のイメージだともっとゴツゴツしてるかと思ってた」

 

「よう言われるわ。見た目はイカツイけど中身は乙女やからな」

 

「乙女は言い過ぎ」

 

「乙女やぞ。少女漫画好きやし」

 

「マジで!?」

 

「マジや。毎月りぼん買っとる」

 

「三十歳のスキンヘッドがりぼんを買うの、店員さんの心理的ダメージやばそう」

 

「姪っ子に頼まれて買っとるフリしとる。実際は自分で読んどるけど」

 

琴音が窓の外を見ながら、二人の会話を聞いていた。時折、くすくすと笑う声が聞こえる。

 

「……ちひろと、はげにきさんは、本当に仲がいいね」

 

「三年一緒にゲームしてればね。ハゲニキは最初のギルメンなの」

 

「ギルメン?」

 

「ギルドのメンバー。ハゲニキが匿名掲示板で『ギルド作ったんやけど誰もおらんのやが』って書き込んでて、私が『入ります』って手を挙げたのが始まり」

 

「『限界集落人口一名、助けてクレメンス』って書いたんやけどな。ちひろんが来てくれて人口二名になった時は嬉しかったわ」

 

「それでも限界集落なのは変わらないけどね」

 

「その後ピザデブが来て三名。で、琴音ちゃんが来て四名。ちょっとずつ村になりつつある」

 

「……村」琴音が微笑んだ。「……わたし、村の一員なんだ」

 

「当たり前やん。もう立派な限界集落民やで」

 

千尋は後部座席で琴音の手をそっと握った。琴音は驚いたように千尋を見たが、すぐに指を絡めてきた。

 

千葉のピザデブの自宅前。

 

一軒家だった。カーテンが全て閉まっている。時刻は午前十時だが、生活感が薄い。

 

大地がクラクションを鳴らした。

 

反応なし。

 

もう一回。

 

反応なし。

 

「ダメだこりゃ、寝とるな」大地がスマホを取り出した。「電話するわ」

 

コール音。

 

五回目でようやく繋がった。

 

『……もしもし……誰……? 今何時……?』

 

「朝十時や。おまえの家の前におるぞ」

 

『……あー……オフ会……マジでやるのか……夢じゃなかったのか……』

 

「夢ちゃうわ! 現実や! さっさと出てこい!」

 

『……十分待て……いや三十分……』

 

「五分」

 

『無理に決まってるでござろう!!!』

 

電話が切れた。二十分後、玄関のドアが開いた。

 

出てきたのは、大地に劣らぬ巨体の男だった。ただし大地の体が筋肉なら、こちらの体は脂肪だ。身長は大地と同じくらいだが、横幅が倍近い。ボサボサの長髪に、度の強い丸眼鏡。着ているのは、何かのアニメキャラがプリントされたTシャツとスウェットパンツ。

 

ピザデブ――片桐翔太が、眩しそうに目を細めながら外の空気を吸った。

 

「……外だ」

 

「おう、外やで」

 

「……外の空気って、こんな味だったか」

 

「おまえマジで何ヶ月引きこもっとったんや」

 

「……正確には四ヶ月と十二日でござる」

 

「記録つけてるところが怖いわ!」

 

翔太はのそのそとハイエースに近づいた。後部座席に乗り込もうとして、千尋と目が合った。

 

「おう……ちひろん」

 

「ピザデブ! 初めまして!」

 

「初めまして。思ったよりかわいいでござるな」

 

「えっ」

 

「ネットではもっとゴリラみたいなやつかと思ってたが、普通に美少女で驚いた。いやまあ写真は見てたけど実物はまた違うな」

 

「ゴリラだと思ってたの!?」

 

「あの罵倒スキルとスラング使いこなす姿からは想像できん可憐さでござる」

 

「褒めてるのかけなしてるのかわかんない!」

 

翔太は大きな体を器用に後部座席にねじ込んだ。車が軽く沈んだ。

 

そして、琴音と目が合った。

 

翔太は丸眼鏡の奥の目を細め、琴音をじっと見た。

 

「……おまえが琴音ちゃんか」

 

「……はい」琴音は千尋の影に隠れかけていたが、かろうじて顔を出していた。

 

「俺がピザデブだ。本名は片桐翔太。ゲーム歴十五年、ランカー経験あり。見ての通りのデブだが、体のデカさと心のデカさは比例すると信じている」

 

「……こ、心が……大きい?」

 

「器が大きいとも言う。まあぶっちゃけ体がデカいだけだが」

 

「……正直」

 

「正直は美徳でござるよ。よろしくな、琴音ちゃん。おまえのゲームの腕はチャットで聞いてる。なかなか筋がいい。ランカーの拙者が太鼓判を押そう」

 

琴音がぱちぱちと瞬いた。それから、ほんの少し嬉しそうに頷いた。

 

「……ありがとう。ぴざでぶさんに褒めてもらえると、うれしい」

 

翔太は一瞬固まった。それから、丸眼鏡を指で押し上げた。

 

「……素直に褒められると反応に困るでござる。もっとこう、ツッコんでくれると助かるのだが」

 

「ピザデブが照れてるの初めて見た」千尋が笑った。

 

「照れてねぇよ。汗だ。外が暑いだけでござる」

 

「エアコン全開なのに?」

 

「脂肪には暑さが効かないとでも思ったか。逆だ。脂肪は蓄熱するのだ」

 

「知らない情報をありがとう」

 

全員が揃い、ハイエースは神奈川に向かって走り出した。

 

車内は、初めてのオフ会とは思えないほどリラックスしていた。三年間のボイスチャットで培われた空気感が、リアルでもそのまま再現されている。

 

「ハゲニキ、運転上手いね」

 

「毎週末ドライブしとるからな。ベルク連れてドッグランとか行くんや」

 

「……べるく、大きいの?」翔太の向こう側の窓際から、琴音が身を乗り出した。

 

「セントバーナードやから、めちゃくちゃデカい。体重六十キロ超えとる」

 

「ろくじゅう!?」琴音が目を丸くした。

 

「琴音ちゃんより重いな。いや琴音ちゃんの体重知らんけど」

 

「……わたしの体重? えっと……わからない。量ったこと、ない」

 

「幽霊に体重の概念あるんか?」千尋が首を傾げた。

 

「実体化してる時はあるっぽいよ。この前抱っこした時、ちゃんと重さあったもん」

 

車内が一瞬静まった。

 

「……抱っこしたんか」大地が前を向いたまま言った。

 

「え? うん。琴音ちゃんが高い棚の本取れなくて」

 

「……そうか。抱っこか。なるほどな」

 

「何その含みのある言い方」

 

「いや別に。筋肉は裏切らないなと思って」

 

「関係ないでしょ!」

 

翔太が丸眼鏡を光らせた。

 

「ちひろん、おまえ自分で気づいてないだろうが、琴音ちゃんの話をする時だけ声のトーンが上がるぞ」

 

「上がってない!」

 

「上がっとるで」大地が追撃した。

 

「上がってないってば!」

 

「……ちひろ、ちょっと上がってるよ」琴音まで言った。

 

「琴音ちゃんまで!? 裏切り!」

 

「……ごめん。でも、嬉しそうに話してくれるの、好き」

 

千尋は口をつぐんだ。耳が赤い。

 

「……あー、もう。この車、全員敵」

 

「敵やないで。味方や。味方だから指摘するんや」

 

「……何を指摘してるのか具体的に言って」

 

「言わん方がおもろいやろ」

 

「ハゲニキのくせに!」

 

「ハゲ関係ないやろ!」

 

琴音が声を出して笑った。車内に響いた鈴のような笑い声に、大地と翔太がちらりと後部座席を見た。

 

「……ええ笑い方するなぁ、琴音ちゃんは」大地が穏やかに言った。

 

「ちひろんの影響か。一週間前のチャットではもっとおどおどしてた印象があるが」

 

「……みんなが、優しいから」琴音が小さく言った。「……怖くない人たちだって、わかったから」

 

千尋は琴音の横顔を見た。帽子の下から覗く白い睫毛が、午前の光を受けてきらきらしている。

 

……可愛い。

 

その感情に名前をつけることを、千尋はまだ避けていた。

 

神奈川の某神社。

 

住宅街の奥にある、小さいが手入れの行き届いた神社だった。参道の脇に大きな銀杏の木があり、まだ緑の葉を豊かに茂らせている。

 

「ここか」大地が車を停めた。

 

「情報では、この神社の御神木……あの銀杏の木の周辺に、精霊が現れることがあるらしい」翔太がスマホを確認しながら言った。

 

「……現れることがある、って。確実じゃないの?」千尋が聞いた。

 

「精霊は気まぐれな存在でござる。会いたいからと言って会えるものではない。ただ、頑張っている者にはご褒美を与えたがる性質があるとのこと。琴音ちゃんが必死で消えまいとしてきたこと、ちひろんが琴音ちゃんを守ろうとしていること。それが精霊の目に留まれば……」

 

「あの方法を探して頑張ってる姿を見せれば、向こうから来てくれるかもしれない、と」

 

「そういうことでござるな」

 

四人は鳥居をくぐった。

 

琴音が一歩境内に入った瞬間、足を止めた。

 

「……琴音ちゃん?」千尋が振り返る。

 

「……ちひろ。ここ、空気が違う。なんか……あったかい」

 

琴音の赤い瞳が、何かを見ているようだった。千尋には見えないものを。

 

「何か見える?」

 

「……見えるというか……感じる。優しいものが、いっぱい。この木に……」

 

琴音は銀杏の木に近づいた。幹に手を触れた。

 

その瞬間、木の葉が一斉にさわさわと揺れた。風はないのに。

 

「おい、風ないのに葉っぱが揺れとるぞ」大地が見上げた。

 

「……おいでおいでしてる」琴音が呟いた。「木が……わたしに」

 

千尋と大地と翔太は顔を見合わせた。

 

琴音が木の幹に額をつけた。白い髪が幹の上に広がる。目を閉じている。

 

しばらくの沈黙。

 

そして。

 

「――あ」

 

琴音が目を開けた。

 

その視線は、銀杏の木の枝の上に向けられていた。千尋たちも見上げた。

 

枝の上に、少女が座っていた。

 

濡れ羽色の長い黒髪をおさげにした、小柄な少女。白い着物を着て、裸足の足をぶらぶらさせている。年齢は十二、三歳くらいに見える。

 

こちらを見て、にっこりと笑った。

 

「こんにちは」

 

人間の少女の声とは、少し違う。風の音が言葉になったような、不思議な響き。

 

千尋は息を呑んだ。大地は目を見開いた。翔太は丸眼鏡がずり落ちた。

 

「……見え、てる? 俺にも見えてるんだが」大地が呟いた。

 

「俺にも見えてるでござるよ。しかし、これは……」

 

少女は枝からふわりと飛び降りた。物理法則を無視した着地。音もなく地面に降り立った。

 

「わたし、天音栞(あまね・しおり)。ここのお友達だよ」

 

栞は千尋たちに近づいた。その存在感は圧倒的だった。見た目は幼い少女なのに、とてつもなく古い何かが感じられる。

 

「精霊……?」千尋が声を絞り出した。

 

「うん。元は人間だったよ。ずっとずっと昔にね」

 

栞は琴音の前に立った。琴音は体を硬直させていた。自分以外の超常存在に出会うのは、あの天使以来だ。

 

「怖がらないで」栞が優しく言った。「わたし、あなたの味方だよ。ずっと見てたの」

 

「……見て、た?」

 

「うん。あなたが石の中で頑張ってたのも、千尋ちゃんに出会ったのも、実体化したのも。全部見てた。こっそりね」

 

「全部?」千尋が驚いた。「実体化できたのも、もしかして……」

 

栞はてへへと照れたように笑った。

 

「ちょっとだけ、お手伝いしちゃった。ほんの少しの加護。世界を歪めない範囲でね」

 

「あの朝の……」千尋は思い出した。琴音が突然実体化した朝。何の前触れもなく、透明だった体が不透明になった。

 

「ご褒美だよ。頑張ってる人には、こっそりご褒美をあげたくなっちゃうの。わたしの悪い癖」

 

「悪い癖って……命の恩人じゃん……」琴音が震える声で言った。

 

「大げさだよー。ほんの少し、後押ししただけ。実体化できる素地は、琴音ちゃん自身の中にあったの。消えたくないっていう強い想い。あれがなかったら、わたしがいくら加護を与えても無駄だった」

 

栞は千尋を見た。

 

「それに、千尋ちゃん。あなたが琴音ちゃんの手を握って、『ここにいて』って言ったでしょう? あれがすごく大きかった。依代としての絆がぐっと深まった瞬間だったの」

 

千尋は琴音と目を合わせた。琴音の赤い瞳が潤んでいた。

 

大地と翔太は、少し離れた場所から成り行きを見守っていた。

 

「……ワイ、今まで色々見てきたと思っとったけど、精霊は初めてや」大地が囁いた。

 

「同じく。ゲームでは何度も見たが、リアル精霊はレア度がカンストしてるでござるよ」翔太が応じた。

 

「あのー」千尋が栞に向き直った。「栞ちゃん……って呼んでいい?」

 

「もちろん」

 

「琴音ちゃんが精霊になる方法、知ってる?」

 

栞は少し考えるように首を傾げた。黒髪のおさげが揺れる。

 

「知ってるよ。でもね、簡単じゃないの」

 

「簡単じゃなくてもいい。教えて」千尋の目は真剣だった。

 

栞は銀杏の木の根元に座り込み、膝を抱えた。千尋たちも周りに座った。奇妙な車座だった。精霊と幽霊と人間三人。

 

「精霊になるにはね、二つの条件がある」

 

栞は指を二本立てた。

 

「一つ目。この世に在る理由を、自分自身で見つけること。『消えたくない』だけじゃ足りないの。『なぜここにいたいのか』『何のために在るのか』を、自分の言葉で言えるようにならないといけない」

 

「……在る理由……」琴音が呟いた。

 

「二つ目。その理由を、神々に認めてもらうこと。と言っても、神様に直談判するわけじゃないよ。琴音ちゃんの在り方そのものが、世界に対する讃歌になっていれば、神々は自然と認識する。わたしが『人間讃歌の姫君』って呼ばれてるのも、そういうこと」

 

「人間讃歌……」千尋が反芻した。

 

「わたしの場合はね、人間が大好きだったの。生きてる人間の、頑張ってる姿が大好きで。それが世界への讃歌になった。琴音ちゃんの場合は、琴音ちゃんだけの讃歌を見つけなきゃいけない」

 

琴音は膝を抱えて黙り込んだ。

 

千尋が琴音の肩にそっと手を置いた。

 

「……すぐには見つからなくてもいいんだよね?」

 

「うん。時間はある。ただ……」栞の表情が少し曇った。「除霊師や天使に見つからないようにしないとね。彼らは悪意があるわけじゃないけど、幽霊を放置することは彼らのルールに反するから」

 

「もう天使には一回来られた」

 

「知ってる。あの時は千尋ちゃんが追い返してくれたけど、次はもっと強い除霊師が来るかもしれない」

 

「……それは」千尋の声に緊張が走った。

 

「大丈夫。わたしの加護がある限り、少なくとも気配は隠せる。でも永遠には持たない。だから……」

 

栞は琴音をまっすぐに見た。

 

「琴音ちゃん。頑張ってね。在る理由を見つけて」

 

琴音は顔を上げた。赤い瞳に、涙と決意が同居していた。

 

「……見つける。絶対に」

 

栞が嬉しそうに笑った。

 

「その目、好きだよ。消えたくないって思う気持ちは弱さじゃない。在りたいって思う気持ちは、世界で一番強い祈りなの」

 

銀杏の葉がさわさわと歌った。

 

帰り道。

 

ハイエースの中で、四人はそれぞれの思いに沈んでいた。

 

「……すごい体験やったな」大地がハンドルを握りながら言った。

 

「ああ。リアル精霊とのエンカウント。レイド報酬でも手に入らないレアイベントでござる」翔太が腕を組みながら応じた。

 

千尋は後部座席で、琴音の手を握っていた。琴音は窓の外を見ている。夕暮れの高速道路。オレンジ色の光が白い髪を染めていた。

 

「……ちひろ」

 

「うん?」

 

「……在る理由。まだわからない」

 

「うん」

 

「……でも、見つけたい。ここにいたい。ちひろと一緒に。みんなと一緒に。もっとゲームしたい。もっとお味噌汁飲みたい。もっと笑いたい」

 

千尋の目が潤んだ。

 

「……それ、もう理由になりかけてるじゃん」

 

「……なってる?」

 

「なってるよ。少なくとも私にとっては」

 

「……でも、神様に認めてもらえるかは……」

 

「神様の前に、私が認めてるよ」

 

琴音が千尋を見た。

 

「……ちひろは、ずるい」

 

「何が?」

 

「……いつも、泣きそうになること言う」

 

「琴音ちゃんこそ」

 

二人は笑い合った。夕焼けの光の中で、二人の影が車内の壁に映っている。重なりそうで重ならない、二つの影。

 

前の座席で、大地と翔太が小声で話していた。

 

「なあピザデブ」

 

「なんだハゲ」

 

「あの二人、いつ気づくと思う?」

 

「何にだ」

 

「自分らの気持ちにや」

 

「……あー。まだ先だろうな。ちひろんは鈍いし、琴音ちゃんは恋そのものを知らないだろうし」

 

「せやな。まあ見守るしかないわ。筋肉は裏切らないが、恋心は裏切りまくるからな」

 

「名言っぽく言ってるが意味不明だぞ」

 

「雰囲気や、雰囲気」

 

大地はバックミラーで後部座席を確認した。千尋が琴音にペットボトルのお茶を渡し、琴音が両手で受け取っている。その光景は、どこからどう見ても仲睦まじい二人組だった。

 

大地は前を向いて、小さく笑った。

 

夜。千尋のアパートに戻ってきた。

 

大地と翔太は「また近いうちに集まろう」と言って去っていった。翔太は「外出の実績解除した、次は三ヶ月後でいいか」と言い、大地に「一ヶ月以内にもう一回出ろ」と怒られていた。

 

部屋に入り、千尋はPCを起動した。

 

「琴音ちゃん、今日の記念に一緒にゲームしよ」

 

「……うん」

 

二人で並んで座り、MMOにログインした。白魔導士と白うさぎの弓使いが、仮想世界のフィールドに立つ。

 

夜のフィールドだった。ゲーム内も夜になっており、星空が広がっている。

 

「……綺麗」琴音が呟いた。

 

「ゲームの星空もいいけど、今度本物の星空も見に行こうね。ハゲニキの車で山奥とか行けば、すごいのが見えるよ」

 

「……行きたい。行きたいこと、やりたいこと、いっぱい増えていく」

 

「いいことだよ、それ」

 

「……ちひろのおかげ」

 

「私だけじゃないよ。ハゲニキもピザデブも、栞ちゃんも。みんなのおかげ」

 

琴音はキーボードに手を置いた。白うさぎの弓使いが、弓を構える。

 

「……ねえ、ちひろ」

 

「ん?」

 

「……在る理由。一つ、思いついたかも」

 

「え? もう?」

 

琴音はモニターを見つめながら、静かに言った。

 

「……わたし、生きてた頃、誰にも必要とされなかった。お寺を出てからは、一人で、誰とも話さないで、死んじゃった。死んでからも、ずっと一人だった」

 

千尋は黙って聞いていた。

 

「……でも今は違う。ちひろが必要としてくれる。みんなが仲間にしてくれる。わたしの名前を呼んでくれる。わたしがここにいることを、喜んでくれる」

 

琴音は千尋を見た。赤い瞳が、モニターの光と涙で輝いていた。

 

「……だから、わたしの在る理由は、みんなの隣にいること。一緒に笑うこと。それじゃ、だめかな」

 

千尋は泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼしながら、でも笑っていた。

 

「だめなわけないでしょ。最高の理由じゃん」

 

「……ほんと?」

 

「ほんと。私なんか、琴音ちゃんがいない生活もう考えられないもん。帰ってきて琴音ちゃんがいないとか、無理。絶対無理。ログインしても隣に琴音ちゃんがいないとか、もう無理」

 

「……ちひろ、それ、依存って言わない?」

 

「依存で結構! 課金と一緒! やめられないのは最高のコンテンツだからだよ!」

 

「……わたし、コンテンツなの?」

 

「最優良コンテンツだよ!」

 

琴音はまた笑った。それは、千尋が今まで聞いた中で、一番明るい笑い声だった。

 

画面の中で、白うさぎの弓使いが星空の下で矢を放った。光の軌跡を描いて、矢は夜空に消えていった。

 

流れ星のように。

 

その夜、千尋のアパートの窓辺に、一羽の小鳥が止まった。

 

九月の夜に不似合いな小鳥。金色の羽根を持つ、見たことのない種類の鳥だった。

 

窓辺に座っていた琴音が気づいた。

 

「……あ」

 

小鳥は琴音を見て、小さく鳴いた。さえずりが、かすかな光を帯びていた。

 

「……栞ちゃんの?」

 

小鳥はもう一度鳴いた。その声が、言葉になった。

 

『頑張ってるね。大丈夫。あなたの理由は、きっと届く』

 

小鳥は金色の羽根を一枚残して、夜に飛び去った。

 

琴音は羽根を拾い上げた。ほんのりと温かい。手のひらの上で、それは淡く光り、やがて溶けるように消えた。

 

でも、温かさは残った。

 

琴音は眠っている千尋の寝顔を見た。

 

涙の跡がまだ残っている。ゲームを終えた後、布団に入ってからも少し泣いていた。「嬉し泣き」と千尋は言い張っていたが、琴音にはわかっていた。あれは、ずっと一人で背負ってきたものが、少しだけ軽くなった時の涙だ。

 

千尋もまた、寂しかったのだ。

 

「……ちひろ」

 

琴音はそっと千尋の髪に触れた。黒い髪。自分の白い指との対比が美しかった。

 

「……わたしの在る理由。もう一つ、見つけた」

 

声に出さず、心の中で呟いた。

 

あなたの隣にいたい。

 

あなたの寂しさを、埋めたい。

 

あなたに「おかえり」って言いたい。

 

それは在る理由? それとも別の何か?

 

琴音にはまだわからなかった。この気持ちに名前をつける言葉を、彼女はまだ知らなかった。

 

でも、胸の奥で白い石が温かく脈動しているのを感じた。千尋の鼓動と同期するように。二つの心臓が、同じリズムを刻んでいた。

 

夜は静かに更けていく。

 

小さな一室に、二つの存在が寄り添っている。

 

一人は人間で、一人は幽霊で。

 

でも、その境界線が日に日に曖昧になっていることに、まだ二人とも気づいていなかった。

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