白磁のゴースト ―幽霊と同居はじめました―   作:合歓木あやめ

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第四話「Critical Hit ―急所に当たった―」

同居生活二ヶ月目。十月。

 

金木犀の香りが街を包み、千尋のアパートの窓からもその甘い匂いが漂い込んでくるようになった。

 

琴音が窓辺に座って外を見ている。これはもう朝の定位置だった。白い髪が朝日を受けて、金木犀と同じ色に染まっている。

 

「……ちひろ、外がいい匂いする」

 

「金木犀だね。秋の花だよ」

 

「きんもくせい。……知ってる。お寺にもあった」

 

「琴音ちゃんのお寺、色々あったんだね」

 

「……うん。花は好きだった。お寺を出てからは……あんまり見る余裕、なかったけど」

 

千尋はトーストにバターを塗りながら、自然に話題を変えた。琴音の過去の話は、本人が自分から語る時だけ聞くようにしていた。

 

「今日は大学休みだから、一日まるっとフリーだよ。何する?」

 

「……ゲーム」

 

「即答!」

 

「……ゲーム、だめ?」

 

「だめじゃないけど、たまには外も出ようよ。天気いいし」

 

琴音は少し考えてから、おずおずと言った。

 

「……ちひろと一緒なら、外でもいい」

 

「よし、決まり。じゃあ午前中お散歩して、午後からゲームね」

 

「……最適解」

 

「ゲーマーっぽい返事するようになったね琴音ちゃん……」

 

近所の公園。

 

十月の日差しは穏やかで、琴音のアルビノの肌にも優しかった。帽子とカーディガンで紫外線対策をした琴音と、千尋は並んでベンチに座っていた。

 

千尋がコンビニで買ってきたアイスコーヒーを飲み、琴音はカフェオレを両手で包んでいる。

 

「……ちひろ、あの鳥なに?」

 

「えーっと、あれはスズメだよ」

 

「すずめ。……かわいい」

 

琴音が鳥を見ると、不思議なことが起きた。

 

スズメが三羽、四羽と集まってきたのだ。琴音の足元に。

 

「えっ、なにこれ」千尋が目を丸くした。

 

「……あ、来ちゃった」琴音は困ったように笑った。「……昔から、こうなっちゃうの」

 

「動物に好かれる体質って、マジだったんだ……」

 

スズメだけではなかった。近くの植え込みから猫が一匹、のそのそと歩いてきて、琴音の足にすりすりと体を擦りつけた。

 

「にゃあ」

 

「……こんにちは」琴音が猫を撫でた。猫は目を細めて喉を鳴らした。

 

千尋はその光景を見て、心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。

 

白い髪の少女が、金木犀の木の下で、スズメに囲まれながら猫を撫でている。日差しが白い睫毛をきらきらと輝かせている。赤い瞳は穏やかに細められ、小さな唇には柔らかな微笑みが浮かんでいる。

 

……やばい。

 

千尋の脳内で、何かのゲージが限界を突破するアラートが鳴っていた。

 

「……ちひろ? どうしたの? 固まってる」

 

「いやなんでもない全然なんでもない大丈夫健康です元気です」

 

「……早口」

 

「早口じゃない通常運転です」

 

琴音が首を傾げた。猫がにゃあと鳴いた。スズメがちゅんちゅんと鳴いた。千尋のHPが壊滅的なダメージを受けた。

 

スマホを取り出して、震える指でグループチャットを開いた。

 

【ギルド:限界集落】

 

ちひろん: 助けて

 

ハゲニキ: どした急に

 

ちひろん: 琴音ちゃんがかわいすぎて死にそう

 

ハゲニキ: またか

 

ピザデブ: いつものでござるな

 

ちひろん: いつものじゃない今日はレベルが違う

 

ちひろん: 公園で猫に囲まれてるんだが

 

ちひろん: [画像]

 

ちひろん: これ見て

 

ハゲニキ: ……

 

ピザデブ: ……

 

ハゲニキ: あかん

 

ピザデブ: あかん(語彙崩壊)

 

ハゲニキ: これはあかんて。天使やん。いや幽霊やけど

 

ピザデブ: 破壊力がSSRでござる

 

ちひろん: でしょ!?!?

 

ハゲニキ: ちひろん、おまえマジでいい加減自覚した方がええで

 

ちひろん: 何を?

 

ハゲニキ: とぼけんな

 

ちひろん: とぼけてない。何を自覚するの?

 

ピザデブ: ……これマジで気づいてないのか

 

ハゲニキ: マジで気づいとらんな。三年の付き合いやからわかる。この鈍さはガチや

 

ちひろん: 何の話???

 

ハゲニキ: ……まあええわ。そのうちわかる。筋肉は裏切らないし、おまえの心もそのうち正直になるやろ

 

ちひろん: 意味わかんない!

 

千尋はスマホをしまった。意味がわからない。何を自覚しろと言うのか。

 

琴音が猫を抱き上げた。猫は嫌がるどころか、琴音の腕の中で丸くなった。

 

「……ちひろ、この子温かい」

 

「うん」

 

「……触ってみる?」

 

琴音が猫を千尋の方に差し出した。千尋が猫を受け取ろうとして、琴音の指に触れた。

 

ひんやりとした指。でも、前よりずっと温かい。

 

心臓が跳ねた。

 

「……ちひろ、顔赤いよ?」

 

「日焼け!」

 

「……帽子被ってるのに?」

 

「帽子を貫通する紫外線が!」

 

「……そんなのある?」

 

「あるの! たぶん! 知らんけど!」

 

琴音は不思議そうな顔をしていた。千尋の心臓はドラムロールを打ち続けていた。

 

午後。自宅に戻り、ゲームの時間。

 

今日はギルドメンバー全員でレイドに挑戦する日だった。琴音が加入してから、四人パーティでの攻略がずいぶんスムーズになっていた。

 

千尋が回復役(ヒーラー)、琴音が弓使い(レンジDPS)、大地が戦士(タンク)、翔太が魔法使い(キャスターDPS)。バランスの取れた構成だ。

 

『よっしゃ、今日こそ第五層のボスを倒すぞ!』大地の声が響いた。

 

『前回はちひろんのヒールが足りなくて壊滅したからな。今回は琴音ちゃんの火力にも期待でござる』

 

「琴音ちゃん、準備いい?」

 

「……うん。弓の新しいスキル覚えたから、使ってみたい」

 

「おー、どれ?」

 

「……貫通矢(ペネトレイトアロー)。敵を貫通して後ろの敵にも当たるやつ」

 

『名前がかっこいいでござるな。範囲火力として優秀だ。雑魚処理に使え』

 

「……わかった」

 

レイドが始まった。第五層は複数の雑魚敵と巨大なボスが同時に出現する高難易度エリアだ。

 

『前衛はワイが引き受ける! ちひろん、回復頼むで!』

 

「了解! タゲ取ったらすぐシールド張る!」

 

『雑魚はこっちで処理する。琴音ちゃん、右側の群れを頼む』

 

「……右側、了解」

 

琴音のキャラクターが弓を引き絞った。貫通矢が放たれ、一列に並んだ雑魚敵を三体まとめて貫いた。

 

『おおっ、綺麗に抜いたな! ナイスエイム!』

 

「……もう一発」

 

二射目。また三体。

 

三射目。残りの二体を通常矢で個別に撃破。

 

『処理速すぎない? これマジで始めて二ヶ月の動きか?』翔太が感嘆した。

 

「琴音ちゃんは天才だからね」千尋が得意げに言った。

 

「……天才じゃない」

 

「はいはい照れない照れない。次の波来るよ!」

 

戦闘は白熱した。大地がボスの攻撃を引きつけ、千尋が回復を飛ばし、翔太が範囲魔法を叩き込み、琴音が弓で弱点を的確に射抜く。

 

『ボスHP残り10%! ここからギミック変わるから気をつけろ!』

 

「ギミック?」琴音が聞いた。

 

「ボスが形態変化するの。攻撃パターンが変わるから、よく見て避けて」

 

ボスが咆哮した。床に赤い警告マーカーが出現する。

 

『散開! 赤マーカー踏んだら即死やぞ!』

 

四人のキャラクターが散らばった。琴音のキャラクターが軽やかに回避する。

 

「……ここ」

 

琴音が矢を放った。ボスの弱点、背中の結晶体に直撃。クリティカルヒットの表示が出た。

 

『クリティカルきたー!!』大地が叫んだ。

 

『今だ、畳みかけろ!』

 

千尋が攻撃バフを全員にかけた。翔太の大魔法が炸裂。大地の必殺技が叩き込まれる。そして琴音が最後の一矢を放った。

 

ボスが崩れ落ちた。

 

【RAID CLEAR!!】

 

「「「「やったーーーー!!!!」」」」

 

四人の歓声が重なった。琴音の声も、ちゃんとその中に混じっていた。

 

『第五層クリアや!! 最高や!! みんなお疲れ!! 筋肉は裏切らない!!!』

 

『……いや今回筋肉関係なくないか?』

 

『関係あるわ! 筋肉で支えたタンクのおかげで前衛が持ったんや! ゲームの中の話やけど!』

 

「琴音ちゃん、クリティカル最高だった! ナイスぅ!」

 

「……えへへ」

 

琴音が照れくさそうに笑った。千尋はその笑顔を見て、また心臓を撃ち抜かれた。今日だけで何発目だ。

 

『ところでちひろん』翔太が切り出した。『レイドクリア記念に、ちょっと話があるんだが』

 

「なに?」

 

『実はな、来月の大型アップデートで新しいコンテンツが実装されるんだが、そこに「二人組コンテンツ」があってな。ペアを組んで攻略するやつだ』

 

「二人組?」

 

『そう。二人の連携が鍵になるコンテンツで、組み合わせによって特殊なシナジー効果が発動する。ヒーラーと弓使いの組み合わせだと、弓の命中率に応じてヒールの回復量が上がる仕組みらしい』

 

「それ琴音ちゃんとの相性最高じゃん!」

 

『そう。だから提案なんだが、ちひろんと琴音ちゃんでペアを組んでくれないか。俺とハゲはこっちで別ペア組む。どうせ二人で組まない理由がないだろう』

 

「琴音ちゃん、どう?」

 

「……ちひろとペア?」

 

「うん。二人で一緒に戦うの」

 

「……やりたい」

 

「即答!」

 

「……だって、ちひろと一緒がいい」

 

千尋の顔が真っ赤になった。ヘッドセットのマイクが呼吸の乱れを拾っている。

 

『……おい、ちひろんの呼吸がおかしいぞ。過呼吸か?』

 

「か、過呼吸じゃない! ちょっと暑いだけ!」

 

『十月のエアコン効いた部屋で暑いとは、これいかに。ハゲ、どう思う?』

 

『どう思うもこう思うも、ちひろんは明らかにク……いやなんでもない。自分で気づくまで待つわ。筋肉も心も、自発的な成長が一番やからな』

 

「だから何の話!?」

 

琴音は千尋の横で首を傾げていた。

 

夜。入浴後。

 

千尋がドライヤーで髪を乾かしている間、琴音は最近覚えたばかりの趣味――読書をしていた。図書館で借りてきた絵本や児童書から始めて、今は短編小説集を読んでいる。

 

「……ちひろ」

 

「なに?」ドライヤーの音に負けないように声を張った。

 

「……この本の、主人公の女の子。好きな男の子の前だと『胸がどきどきする』って書いてあるんだけど……これ、どういう感じなの?」

 

千尋はドライヤーのスイッチを切った。

 

「……どきどき?」

 

「うん。好きな人の前だと胸がどきどきするって。わたし、よくわからなくて」

 

千尋は髪をタオルでまとめながら、琴音の隣に座った。

 

「えーっと、恋愛の話だね。好きな人を見るとドキドキして、一緒にいると嬉しくて、離れると寂しくて……みたいな」

 

「……それって、普通のこと?」

 

「普通っていうか……恋をするとそうなるらしいよ。私は経験ないからよくわかんないけど」

 

「……ちひろも、経験ないの?」

 

「うん。今まで誰かにドキドキしたことない。……たぶん」

 

「たぶん?」

 

「……いや、ないない。ない」

 

千尋は何かを振り払うように首を横に振った。

 

「……ちひろ、怪しい」

 

「怪しくない!」

 

「……この本にも書いてある。『好きだと気づかないふりをしている時が一番苦しい』って」

 

「小説の話でしょ!? フィクション! 創作!」

 

「……でも、物語には真実が含まれてるって、お寺のお坊さんが言ってた」

 

「お坊さんを引き合いに出すのやめて!」

 

琴音はじっと千尋を見つめた。赤い瞳が、何かを見透かすように。

 

「……ちひろは、わたしといるとき、胸がどきどきする?」

 

直球だった。ストレートど真ん中。避けようがない。

 

千尋の顔が爆発的に赤くなった。

 

「し、しない! しないよ! なんで!」

 

「……しないの?」

 

「しない!」

 

「……そう」

 

琴音は少しだけ、寂しそうな顔をした。ほんの一瞬。すぐにいつもの穏やかな表情に戻ったが、千尋はその一瞬を見逃さなかった。

 

「……琴音ちゃん、今ちょっと寂しそうな顔した」

 

「……してない」

 

「したよ。私、人の表情読むの得意なんだから」

 

「……してないったら」

 

千尋は琴音の顔を覗き込んだ。琴音が目を逸らした。白い頬がうっすら桜色に染まっている。

 

「……琴音ちゃんこそ、どきどきしてるんじゃないの」

 

「っ……!」

 

琴音が枕を顔に押し当てた。

 

「……してない」

 

「枕に顔を埋めながら言っても説得力ないよ」

 

「……してないもん」

 

「もんって言った。もんって。かわいい」

 

「うるさい!」

 

琴音の「うるさい」は、鈴が鳴るような声だった。全然怖くない。

 

千尋は笑いながら、でも自分の心臓がとんでもない速度で鳴っていることに気づいていた。

 

気づいていたけれど、認めなかった。

 

まだ。

 

翌日。大学。

 

千尋は講義中にぼんやりしていた。隣の空席に透明な琴音がいるはずだが、今日は朝から妙に意識してしまって、うまく集中できない。

 

昨夜のやりとりが頭から離れなかった。

 

『ちひろは、わたしといるとき、胸がどきどきする?』

 

する。めちゃくちゃする。認めたくないけど、する。

 

……認めたくないのは、なぜだ。

 

千尋は自問した。琴音のことが大切だ。それは間違いない。でも、「大切」と「好き」は違う。友達として大切なのと、恋愛として好きなのは違う。

 

違う、はず。

 

でも。

 

今朝、琴音が「おはよう」と言った時、心臓が跳ねた。

昨日、琴音が猫を撫でていた時、見惚れた。

一昨日、琴音がゲームでクリティカルを出した時、我が事のように嬉しかった。

その前の日、琴音の指に触れた時、もっと触れていたいと思った。

 

これは何だ。

 

友情か? 保護欲か? それとも――

 

「白石さん、白石さん?」

 

「はいっ!?」

 

教授に名前を呼ばれて、千尋は現実に引き戻された。

 

「次の設問の解答をお願いします」

 

「あ、はい、えっと……」

 

講義後。キャンパスのベンチで一人になった千尋は、スマホを取り出した。琴音は「お手洗いの前で待ってる」と言って少し離れている。透明だから人にぶつかる心配はないが、千尋から離れすぎると不安定になるので、見える範囲にはいる。

 

千尋はダイレクトメッセージを開いた。相手はハゲニキ。

 

ちひろん: ハゲニキ、ちょっと相談がある

 

ハゲニキ: おう、どしたん

 

ちひろん: これDMだから琴音ちゃんには見えないよね

 

ハゲニキ: DMやから見えへんで。なんや、改まって

 

ちひろん: あのさ

 

ちひろん: 私、琴音ちゃんのこと

 

ちひろん: どう思ってると思う?

 

ハゲニキ: は?

 

ちひろん: いやだから、客観的に見て、私の琴音ちゃんへの態度って、どう見えてる?

 

ハゲニキ: おまえ本気で聞いとるんか

 

ちひろん: 本気で聞いてる

 

ハゲニキ: …………

 

ハゲニキ: ちひろん、ワイは三年おまえと付き合ってきて、おまえが嘘つけん性格なのは知っとる。だからストレートに言うぞ

 

ちひろん: うん

 

ハゲニキ: おまえ、琴音ちゃんのこと好きやろ

 

千尋の指が止まった。

 

ハゲニキ: 恋愛的な意味で好きやろ。友達とか保護者とか、そういうのとは別の次元で

 

ちひろん: ……

 

ハゲニキ: 写真送ってくる頻度、話題に出る頻度、声のトーンの変わり方、全部含めて、おまえが今まで誰かに対して見せたことのない反応しとる。三年間見てきたから間違いない

 

ちひろん: ……でも私、今まで恋したことないし

 

ハゲニキ: だからこそやろ。初めてだから何が起きてるかわからんのや

 

ちひろん: 琴音ちゃんは女の子だし

 

ハゲニキ: それが何か問題か?

 

ちひろん: ……問題じゃない、の?

 

ハゲニキ: おまえが好きになった相手がたまたま女の子やっただけやろ。しかも幽霊や。女の子とか男の子とか以前に、もう色々ぶっ飛んどるんやから、今さら性別がどうとか気にしてもしゃあないやろ

 

ちひろん: ……

 

ちひろん: ハゲニキ

 

ハゲニキ: おう

 

ちひろん: ありがとう

 

ハゲニキ: 礼には及ばん。筋肉は裏切らないし、ワイもおまえを裏切らん

 

ちひろん: ……泣きそう

 

ハゲニキ: 泣けばええやん。大学やから周りの目があるか

 

ちひろん: うん。だから帰ってから泣く

 

ハゲニキ: そうしとけ。あと一つだけ言うとくぞ

 

ちひろん: うん

 

ハゲニキ: 琴音ちゃんも同じ顔しとると思うで。昨日のレイドの時、おまえの名前呼ぶ声がめちゃくちゃ嬉しそうやったからな

 

ちひろん: …………

 

ハゲニキ: ほな、健闘を祈る。ワイは筋トレしてくるわ

 

千尋はスマホを伏せて空を見上げた。

 

秋の空は高くて青い。雲一つない。

 

好き。

 

その言葉を、心の中で転がしてみた。

 

琴音ちゃんのことが、好き。

 

友達としてじゃなく。保護者としてじゃなく。

 

……恋、として。

 

胸が痛いほどに熱かった。

 

「……マジか」

 

千尋は自分の顔を両手で覆った。

 

「マジか……マジだわ……」

 

三年間のネトゲ生活で培われた千尋の語彙が、この瞬間だけは完全に機能停止していた。

 

帰宅後。

 

千尋は琴音と向き合って座っていた。正確には、琴音はゲーミングチェアに座り、千尋はベッドの縁に座っている。いつもの配置。

 

でも、千尋の内面はいつもと全然違った。

 

「……ちひろ、今日なんか変。朝からずっと」

 

「変じゃないよ? 全然変じゃない」

 

「……目が泳いでる」

 

「泳いでないって。サーバー安定してるから」

 

「……サーバー?」

 

「いや何でもない忘れて」

 

琴音はじっと千尋を見つめた。直感の鋭い子だ。何かを感じ取っているに違いない。

 

「……ちひろ、何か隠してる?」

 

「隠してない」

 

「……嘘つけない人が嘘ついてる顔してる」

 

「ぐっ……」

 

「……言ってほしい。わたしにわかることなら、一緒に考える」

 

「いや、これは……一緒に考えるとかそういう種類の問題じゃなくて……」

 

「……わたしのこと?」

 

千尋の心臓が跳ねた。

 

「な、なんでそう思うの」

 

「……だって、わたしの顔見るたびに目を逸らすから。嫌われたのかなって思って……」

 

琴音の声が、最後の方で小さくなった。不安が滲んでいた。

 

千尋は慌てた。

 

「嫌いとかじゃない! 全然違う! 逆! 真逆!」

 

「……逆?」

 

「逆っていうか、その、あの……」

 

千尋は深呼吸した。一回。二回。三回。

 

ハゲニキの言葉が頭の中で響いた。

 

『おまえが好きになった相手がたまたま女の子やっただけやろ』

 

そうだ。たまたまだ。たまたま女の子で、たまたま幽霊で、たまたま依代が自分で。でも、そんな「たまたま」の積み重ねが、今この瞬間の自分を作っている。

 

「……琴音ちゃん」

 

「……うん」

 

「……昨日の質問、覚えてる?」

 

「……昨日の?」

 

「『ちひろは、わたしといるとき、胸がどきどきする?』って聞いたやつ」

 

琴音の白い頬が、みるみる赤くなった。

 

「……お、覚えてる」

 

「あの時、しないって言ったけど」

 

千尋は自分の心臓の音が相手に聞こえるんじゃないかと思った。

 

「嘘」

 

琴音が目を見開いた。

 

「……え?」

 

「嘘ついた。ごめん」

 

「…………」

 

「する。めちゃくちゃする。琴音ちゃんがおはようって言うだけでする。笑うだけでする。手が触れるだけでする。隣にいるだけでする」

 

千尋の目から涙がこぼれた。自分でも止められなかった。

 

「初めてなの。こんなの。今まで誰にもこんな気持ちになったことない。だからどうしていいかわかんなくて、認めるのが怖くて、でも嘘つき続けるのはもっと嫌で」

 

琴音は動かなかった。赤い瞳が大きく見開かれたまま、千尋を見つめていた。

 

「琴音ちゃんのこと、好き」

 

言った。

 

言ってしまった。

 

千尋は自分の勇気に驚いていた。ラスボス戦より怖い。全レイドを合わせても、この一言の方が怖い。

 

沈黙が落ちた。

 

一秒。二秒。三秒。永遠のような数秒。

 

琴音の赤い瞳から、涙がこぼれた。

 

「……ちひろ」

 

琴音の声は震えていた。

 

「……わたし、この気持ちの名前がわからなかった。ずっと」

 

「……」

 

「……ちひろといると、あったかくて。嬉しくて。もっと一緒にいたくて。離れると不安で。でもそれは依代だからだって思ってた。物理的な問題だって」

 

琴音は自分の胸に手を当てた。

 

「……でも違った。依代とか、そういうのじゃなくて。ちひろが笑うとわたしも嬉しくて。ちひろが泣くとわたしも苦しくて。ちひろの手が触れると、消えたくないって気持ちよりもっと強い何かがあって……」

 

琴音は立ち上がり、千尋の前に立った。見上げるような身長差。赤い瞳が涙で揺れている。

 

「……あの本に書いてあった。好きな人の前だと胸がどきどきするって。わたし、ちひろの前だと、ずっとそうだった」

 

千尋は息を呑んだ。

 

「……ちひろが好きって言ってくれたから、わかった。この気持ちの名前。わたしも、ちひろのことが好き。たぶん……ずっと前から」

 

千尋の視界が涙で滲んだ。

 

二人は同時に動いた。千尋が手を伸ばし、琴音が飛び込むように。小さな体が千尋の腕の中に収まった。

 

抱きしめた。

 

琴音の体はひんやりとしていた。でも、心臓の位置から伝わる鼓動は温かかった。白い石が脈動している。千尋の心臓と、同じリズムで。

 

「……ちひろ、泣いてる」

 

「琴音ちゃんも泣いてるでしょ」

 

「……泣いてない」

 

「嘘つき。私の服、濡れてるよ」

 

「……ちひろこそ、わたしの髪に涙落ちてる」

 

「お互い様だね」

 

「……うん。お互い様」

 

二人はしばらくそうしていた。泣きながら笑い、笑いながら泣いた。

 

千尋の腕の中で、琴音が小さく呟いた。

 

「……ねえ、ちひろ」

 

「うん」

 

「……在る理由、見つかったよ」

 

「……うん」

 

「……ちひろの隣にいること。ちひろを好きでいること。それが、わたしの在る理由」

 

千尋は琴音を強く抱きしめた。

 

「私も。琴音ちゃんがいるから、家に帰りたいって思える。琴音ちゃんがいるから、毎日が楽しい。琴音ちゃんがいてくれることが、私の一番の幸せ」

 

部屋の中に、金木犀の香りが風に乗って入ってきた。窓の外では、秋の夕暮れが空を茜色に染めていた。

 

三十分後。

 

落ち着いた二人は、並んでモニターの前に座っていた。いつもの配置。でも、距離がほんの少しだけ近い。肩が触れている。

 

千尋がギルドチャットにメッセージを送った。

 

【ギルド:限界集落】

 

ちひろん: 報告があります

 

ハゲニキ: おう

 

ピザデブ: 聞こう

 

ちひろん: 琴音ちゃんと両思いでした

 

ハゲニキ: 知っとったわ!!!!!!

 

ピザデブ: 知ってた(全知全能)

 

ちひろん: えっ

 

ハゲニキ: いやだってバレバレやったやん!!! おまえらお互い好き好きオーラ出しまくりやったやろ!!!

 

ピザデブ: 拙者も薄々気づいていたでござるよ。というか初日のレイドで琴音ちゃんが「ちひろと一緒がいい」って言った時点で確信していた

 

ちひろん: マジで!?

 

ハゲニキ: マジやで。おまえらだけが気づいてなかったんや

 

ピザデブ: まあなんだ、おめでとう。幽霊との恋愛は攻略wikiに載ってないが、未知のコンテンツほど燃えるものでござる

 

ハゲニキ: おめでとう!!! 筋肉は裏切らないし、恋も裏切らん!!! 今日は祝杯あげるわ!!!

 

ちひろん: みんな……ありがとう

 

ちひろん: ほんとにありがとう

 

琴音が画面を覗き込んでいた。読めない漢字もあるが、雰囲気は伝わっているらしい。

 

「……みんな、知ってたの?」

 

「……みたいだね」

 

「……わたしたちだけが知らなかったの?」

 

「……みたいだね……」

 

琴音はくすくす笑った。千尋も笑った。

 

それから千尋は琴音の手を取った。指を絡めた。ひんやりとした指先が、千尋の熱を吸って温まっていく。

 

「琴音ちゃん」

 

「……うん」

 

「これからも、ずっと一緒にいよう」

 

「……うん。ずっと」

 

モニターの中では、白魔導士と白うさぎの弓使いが、ゲームの街の広場で並んで立っていた。仮想世界の夜空に星が瞬いている。

 

現実の窓の外にも、秋の一番星が輝き始めていた。

 

その夜。

 

東京の空高く、天音栞は風に乗って飛んでいた。

 

満面の笑み。

 

「やったー! 告白した! 両思い!」

 

隣の金色の狐が呆れた顔をした。

 

「栞様、はしゃぎすぎです。品位を保ってください」

 

「だって嬉しいんだもん! 人間の恋って最高! あの二人、すごく綺麗だった! 泣きながら笑ってるの、世界で一番綺麗だった!」

 

「……はいはい」

 

「ご褒美あげなきゃ! もっともっと!」

 

「世界に歪みを与えない範囲で、ですよ」

 

「わかってるって! ちょっとだけ! ほんのちょっとだけ!」

 

栞は両手を合わせた。光が生まれた。今日の光は、いつもより少しだけ温かかった。

 

光は秋風に乗って、千尋のアパートに降り注いだ。

 

窓辺に座る白い髪の少女と、ベッドで微笑む黒い髪の少女。繋がれたままの手。

 

光は、二人の上に降り積もった。

 

祝福のように。未来への道標のように。

 

そしてその光を受けた琴音の胸の奥で、何かがほんの少しだけ、変わり始めていた。

 

精霊への道。

 

その一歩目が、静かに刻まれた。

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