白磁のゴースト ―幽霊と同居はじめました―   作:合歓木あやめ

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最終話「Respawn ―この世界で、もう一度―」

同居生活三ヶ月目。十一月。

 

両思いになってからの日々は、それ以前と何も変わらないようで、すべてが違った。

 

朝、琴音が「おはよう」と言う。それだけで千尋の一日が始まる。

 

夜、千尋が「おやすみ」と言う。それだけで琴音の夜が怖くなくなる。

 

手を繋ぐことが増えた。理由はいらなかった。ただ触れていたかった。琴音のひんやりとした指が千尋の熱を吸って温まるのが好きだった。二人の体温が混ざり合う、その感覚が。

 

変わったことといえば、千尋がゲーム中に集中力を欠くようになったことくらいだ。

 

『ちひろん、ヒール遅い! タンクのHP半分切っとるぞ!』

 

「あっ、ごめん! ちょっとよそ見してた!」

 

『よそ見て何見とったんや……いや聞かんでもわかるわ。隣やろ』

 

「う、うるさい!」

 

琴音がくすくす笑う声が、マイクに乗らないのが救いだった。

 

十一月の第二週。木曜日。

 

その日は何の変哲もない平日だった。千尋が大学から帰ってきて、琴音と二人でゲームをしていた夜のこと。

 

突然、部屋の空気が変わった。

 

「……!」

 

琴音が椅子から立ち上がった。赤い瞳が鋭くなっている。直感が何かを捉えた時の顔だ。

 

「琴音ちゃん?」

 

「……来る」

 

千尋の背筋が凍った。以前天使が来た時と同じ予感。だが今回は違う。もっと鋭い、刺すような殺気。

 

玄関のドアが、ノックもなしに開いた。

 

鍵をかけていたはずだ。それが無意味であるかのように。

 

廊下から入ってきたのは、黒い和装の男だった。四十代くらいに見える、痩身の男。目が鋭い。手には数珠と、古びた札を持っている。

 

除霊師だ。

 

「見つけた」

 

男は低い声で言った。その目は真っ直ぐ琴音に向けられていた。

 

「悪霊が一体。依代に取り憑き、実体化までしている。放置すれば依代の魂が蝕まれ、やがて悪霊は完全に覚醒する。ここで祓う」

 

千尋は琴音の前に立ちはだかった。天使の時と同じように。

 

「この子は悪霊じゃない! 取り憑いてもいない!」

 

「依代の方ですか。気持ちはわかりますが、それは悪霊に精神を操られている証拠です。冷静な判断ができなくなっているんですよ」

 

「操られてません! 自分の意思です!」

 

「悪霊はそう思い込ませるものです」

 

男は札を構えた。霊力が札に集まり、淡い光を帯びる。

 

琴音が千尋の後ろで震えていた。実体化が不安定になり、指先が透け始めている。

 

「……ちひろ、逃げて。わたしは……」

 

「逃げない。絶対に」

 

「……でも、この人は本物。天使より強い。わたしを……消せる」

 

「消させない」

 

除霊師が一歩前に出た。

 

「退いてください。これ以上その悪霊に付き合えば、あなたの魂に取り返しのつかない傷が残ります」

 

「傷なんかない! 琴音ちゃんがいてくれて、私は毎日幸せなの! それのどこが悪いの!」

 

「感情で霊障は解決しません。私は何十年もこの仕事をしてきた。幽霊に情を移した依代を何人も見てきた。結末はいつも同じです」

 

男が札を掲げた。

 

その瞬間。

 

部屋の中に、風が吹いた。窓は閉まっているのに。秋の夜風ではなく、春の陽だまりのような温かい風。

 

風と共に、光が舞い込んだ。金色の羽根が一枚、二枚。蛍のような燐光が空中を漂う。

 

除霊師の動きが止まった。

 

「これは……」

 

部屋の中央に、少女が現れた。

 

濡れ羽色の黒い長髪をおさげにした、小柄な少女。白い着物に裸足。見た目は十二、三歳。

 

天音栞。

 

「こんばんは」

 

栞はにっこりと微笑んだ。場違いなほど穏やかな笑顔だった。

 

除霊師の顔色が変わった。

 

「……精霊。まさか、『人間讃歌の姫君』……?」

 

「うん。初めまして、除霊師さん」

 

男の手が震えた。札を持つ指に力が入らなくなっている。

 

「なぜ……精霊がここに……」

 

「この子たちを見守ってたの。ずっとね」

 

栞は琴音の横に立った。琴音より少しだけ背が高い程度の小さな体。でもそこから発せられる存在感は、部屋の空気を完全に支配していた。

 

「除霊師さん。あなたのお仕事は知ってるよ。悪霊から人を守ること。とても大切なお仕事。でもね」

 

栞は除霊師をまっすぐに見た。純粋無垢な瞳に、古い古い叡智が宿っていた。

 

「この子は悪霊じゃない。わたしが保証する」

 

「しかし、幽霊が実体化しているということは……」

 

「実体化は悪霊化の兆候じゃないよ。この子の場合はね。この子は、在る理由を見つけたの。自分の足で、自分の心で」

 

「在る理由……?」

 

「精霊になる条件の一つ。この子は今、その道の途上にいる。あと少し。あと少しで届くところまで来てるの」

 

除霊師は混乱しているようだった。何十年もの経験と、目の前の精霊の言葉が衝突している。

 

「……精霊様の仰せとあれば……しかし、万が一にも悪霊化した場合は……」

 

「その時はわたしが責任を持つ。でも、ならないよ。この子は大丈夫」

 

栞は琴音に向き直り、頭を撫でた。小さな手が白い髪に触れる。

 

「頑張ってるね、琴音ちゃん」

 

琴音は泣いていた。声もなく、静かに。

 

除霊師は長い沈黙の後、札を下ろした。

 

「……人間讃歌の姫君に逆らう除霊師はいません。今日は引きます。ですが、もし少しでも悪霊化の兆候が見えたら、私は戻ります」

 

「うん。それ"が"あなたのお仕事だもんね。ありがとう」

 

除霊師は一礼し、去っていった。開けた覚えのないドアが、静かに閉まった。

 

千尋は膝から崩れ落ちた。

 

「……怖かった……」

 

「ちひろ!」琴音が千尋に駆け寄った。

 

「大丈夫……大丈夫。でも……もう来ないよね……?」

 

「来ないよ」栞が言った。「わたしが加護の範囲を少し広げる。除霊師の探知に引っかからないようにね。世界を歪めない範囲でだけど」

 

「栞ちゃん……ありがとう。本当に……」

 

「お礼はいらないよ。わたしはただ、頑張ってる子にご褒美をあげたいだけだから」

 

栞は窓辺に座った。裸足の足をぶらぶらさせて、三人を見回した。

 

「ねえ、琴音ちゃん」

 

「……うん」

 

「さっき言ったこと、本当だよ。あと少しで届くところまで来てる」

 

「……精霊に?」

 

「うん。在る理由を見つけた。それはクリアしてる。あとは、その理由を世界に対する讃歌として表現すること。琴音ちゃんだけの讃歌」

 

「讃歌って……具体的にはどうすればいいの?」千尋が聞いた。

 

栞は首を傾げた。

 

「それは ね、わたしにもわからない。人それぞれだから。わたしの場合は、人間を愛し続けること自体が讃歌だった。琴音ちゃんの場合は、琴音ちゃん自身が見つけないと」

 

「……わたし自身が」

 

「うん。でもね、ヒントをあげる」

 

栞は千尋と琴音を交互に見た。

 

「今の�[琴音ちゃんが一番輝いてるのは、どんな時?」

 

千[千尋は即答した。

 

「ゲームしてる時。みんなと一緒に笑ってる時。それから……」

 

千尋は琴音の手を握った。

 

「私の隣にいる時」

 

「……ちひろ」琴音が握り返した。

 

栞はにっこりと笑った。

 

「じゃあ、答えはもう出てるかもね」

 

栞は光に包まれた。

 

「そろそろ行くね。加護は残しておくから。それと……もうすぐ、大切な日が来ると思う。その日が来たら、わたしも見届けに来るよ」

 

「大切な日?」

 

「うん。ちひろちゃん、琴音ちゃん。二人で見つけて」

 

光が消えた。栞の姿は消え、金色の羽根が一枚だけ、畳の上に残っていた。

 

千尋と琴音は、しばらく無言で座っていた。

 

「……怖かった」琴音がぽつりと言った。

 

「うん」

 

「……消されるかと思った」

 

「消させなかったよ」

 

「……ちひろが前に立ってくれなかったら……」

 

「立つに決まってるでしょ。何回だって立つよ」

 

琴音は千尋にぎゅっと抱きつ抱きついた。小さな体が震えていた。千尋は琴音を包むように抱きしめた。

 

「……ちひろ」

 

「うん」

 

「……好き」

 

「うん。私も好き」

 

「……消えたくない。ちひろの隣にいたい」

 

「いて。ずっと」

 

千尋の胸の奥で、白い石が温かく脈動していた。二つの心臓が同じリズムを刻んでいた。

 

翌日。

 

【ギルド:限界集落】ボイスチャンネル

 

千尋は昨夜の出来事を報告した。ハゲニキとピザデブの反応は激烈だった。

 

『除霊師ィ!? マジか!? おい琴音ちゃん大丈夫なんか!?』

 

『ちひろんも無事なのか!? 物理的なダメージは!?』

 

「大丈夫、二人とも無傷。栞ちゃんが来てくれて助かった」

 

『精霊様ナイスやわ。マジで神(精霊)や。ワイ、あの神社に賽銭箱いっぱいにしたるわ』

 

『それは迷惑では。……しかし、除霊師に目をつけられたということは、琴音ちゃんの存在がバレてたということだな。加護で隠せるようになったとはいえ、油断はできない』

 

「うん。だから、できるだけ早く琴音ちゃんを精霊にしてあげたい」

 

『精霊化の条件、あと一つなんやろ? 讃歌ってやつ。それが何なのかがわかれば……』

 

「栞ちゃんは『答えはもう出てるかも』って言ってた。私たちが気づいてないだけで」

 

『うーむ。琴音ちゃんが一番輝いてる瞬間がヒントっちゅうことやな。ゲームしてる時、みんなと笑ってる時、ちひろんの隣にいる時……』

 

『それらに共通するものは何だ? ……「繋がり」か? 誰かと一緒にいることの喜び?』

 

「……かもしれない。琴音ちゃんは生前、ずっと一人だった。誰にも必要とされなかった。でも今は違う。みんなと繋がってる。それ自体が、琴音ちゃんにとっての讃歌なのかも」

 

『孤独だった魂が、繋がりを見つけて輝く。それって、めちゃくちゃ美しい話やな……。泣けるわ。ハゲの涙腺がバグったわ』

 

『俺もちょっとグッときたでござる。体重と共に涙腺も緩いのが拙者の弱点……。しかし、讃歌というからには、ただ「繋がりが嬉しい」と思うだけでは足りないのでは。それを世界に対して表現する必要があると、精霊様は言っていた』

 

「表現……」千尋は考え込んだ。

 

琴音がそっと口を開いた。声はマイクに乗らないので、千尋が代弁する。

 

「琴音ちゃんが言ってる。『表現って、どうすればいいの。わたし、何もできない。ゲームは好きだけど、ゲームは現実じゃないし。お味噌汁は好きだけど、作れないし。ちひろが好きだけど、好きなだけじゃ……』って」

 

『……琴音ちゃん、一つ聞いてもいいか?』大地が真面目な声で言った。

 

「はげにきさん、何?」琴音が答えた。千尋が中継する。

 

『おまえが一番「ここにいてよかった」って思う瞬間はいつや? ゲームの時か? 飯の時か? ちひろんと一緒の時か? 全部含めて、一番強く感じる瞬間を教えてくれ』

 

琴音は少し考えた。

 

「……全部、嬉しい。でも一番は……みんなでレイドをクリアした時かも。ちひろが回復してくれて、はげにきさんが盾になってくれて、ぴざでぶさんが魔法撃ってくれて、わたしが弓で止めを刺して。あの瞬間、みんなの力が一つになって……わたしもその一部になれたって感じた。必要とされてるって、初めて心の底から思えた」

 

千尋が伝え終わると、ボイスチャンネルが一瞬静かになった。

 

『……わかった気がする。琴音ちゃんの讃歌はな、「一人で完結するもの」やない。「みんなの中にいること自体」なんや。一人じゃ鳴らないけど、みんなと一緒なら鳴る。オーケストラの一つのパートみたいなもんや。弓使いは弓使い一人では曲にならへん。でもパーティの中では、なくてはならない音になる』

 

『ハゲがいいこと言った……。その通りだ。琴音ちゃんの存在は、関わる者全員を少しだけ幸せにしている。ちひろんは毎日楽しそうだし、ハゲは琴音ちゃんの話するとニコニコするし、俺だって……久しぶりに外に出ようと思えたのは琴音ちゃんのおかげだ。それは讃歌と呼ぶに足るものではないか?』

 

「ピザデブ……」千尋は声が詰まった。

 

『キモいこと言ってすまんな。忘れてくれ。俺は椅子に戻る』

 

『いや今のはマジでかっこよかったぞピザデブ。おまえがまともなこと言うと逆にバグっぽいけど』

 

『褒めてんのかけなしてんのかハッキリしろハゲ』

 

琴音は千尋の隣で、泣いていた。

 

声もなく。光の粒ではなく。しょっぱい、人間の涙で。

 

千尋がマイクをミュートにして、琴音の頬を拭った。

 

「泣いてもいいよ」

 

「……泣いてない」

 

「嘘つき」

 

「……ちひろに教わった。嘘は上手くつけないって」

 

「教えてないよそんなこと」

 

「……ちひろを見てたら、わかった」

 

二人は笑い合った。泣きながら。

 

十一月の最後の週末。

 

大地からの提案で、四人で星空を見に行くことになった。

 

目的地は、千尋の祖母の家があった田舎。あの、すべてが始まった場所だ。

 

大地のハイエースが、午後の高速道路を走っている。助手席に翔太。後部座席に千尋と琴音。そして今回は特別なゲストがもう一人。

 

大型犬用のスペースに、セントバーナードのベルクが座っていた。

 

「……おっきい」

 

琴音が目を丸くした。ベルクは琴音を見た瞬間、巨体を揺らして尻尾を振り始めた。

 

「お、ベルクがご機嫌やな。琴音ちゃんに会えて嬉しいんやろ」

 

ベルクが琴音の方に頭を押しつけた。犬一匹分の頭が琴音の体とほぼ同じサイズだ。

 

「わぁ……あったかい……」琴音がベルクの首を抱きしめた。ベルクは嬉しそうにぐるぐると喉を鳴らした。

 

「めちゃくちゃ懐いとるな。普段は初対面の人にここまでベタベタせんのに」

 

「動物に好かれる体質のなせる業でござるな」翔太が後部座席を振り返った。「しかし、この犬デカいな。俺より重いのでは?」

 

「ベルク六十五キロ、おまえ百二十キロやぞ。さすがに負けとるわ」

 

「体重を暴露するな。プライバシーでござる」

 

「プライバシーとか言うやつ、自称ピザデブのくせに」

 

「それはハンドルネーム。概念上の数値と実測値は別物でござろう」

 

千尋は窓の外を見ていた。見覚えのある景色が流れ始めている。田んぼ。山。川。蝉の声はもうなく、代わりに秋虫の音がかすかに聞こえる。

 

「……ここ、おばあちゃんの家の近く」

 

「おまえの実家に泊まるんやろ? 鍵はあるんか?」

 

「うん。おばあちゃんの遺品整理の時にもらったやつがある」

 

琴音がベルクを撫でながら、窓の外を見た。

 

「……ここに、最初に来たんだね。ちひろが石を手に取ってくれた場所」

 

「うん。三ヶ月前。あの時はまさか、こうなるとは思ってなかった」

 

「……こうなるって?」

 

「琴音ちゃんと恋人になるとは」

 

琴音の白い頬がほんのり赤くなった。ベルクが琴音の顔を舐めた。

 

「あっ、べるく……くすぐったい……!」

 

千尋はその光景を見て、いつものように心臓を撃ち抜かれた。もう慣れたかと思ったのに、一向に耐性がつかない。

 

前の席で、大地と翔太が小声で会話している。

 

「なあピザデブ」

 

「なんだ」

 

「この旅行、大事になる気がするわ」

 

「……ああ。俺もそう思う。精霊様が『大切な日が来る』と言っていた。今日がそうかもしれない」

 

「琴音ちゃんの讃歌、今日見つかるかな」

 

「見つかるさ。あの二人を見ていれば、そう思えるでござる」

 

大地はバックミラーでちらりと後部座席を確認した。琴音がベルクに抱きつき、千尋がそれを笑顔で見守っている。

 

「……ええ絵やな」

 

「ああ。最高の絵面だ」

 

祖母の家に着いた。

 

三ヶ月前と同じ古い一軒家。でも、今回は一人ではなかった。四人と一匹。

 

中に入ると、すべてが千尋の記憶通りだった。畳の匂い。仏壇の遺影。押し入れの桐の木箱……は、もう空だ。中にあった白い石は千尋の胸の中にある。

 

「おばあちゃん、ただいま」

 

千尋は仏壇に手を合わせた。琴音もその隣で手を合わせた。

 

「……ちひろのおばあさん。琴音です。ちひろと一緒に来ました」

 

大地と翔太も順番に手を合わせた。

 

「初めまして、おばあさん。孫のちひろんがお世話になっております。ハゲニキです。ハゲですが人格は問題ありません」

 

「ピザデブです。デブですが心は痩せてます。嘘です太ってます」

 

「二人とも自己紹介のクセ強すぎるんだが」千尋がツッコんだ。

 

夕食は大地が持ってきた食材で鍋をした。カセットコンロとセットで全部車に積んであったのだ。旅行慣れしている男の準備力は伊達ではなかった。

 

四人で鍋を囲む。琴音は最初、大人数での食事に緊張していたが、すぐに馴染んだ。

 

「琴音ちゃん、豆腐好きやろ? ほら、取ったるわ」大地が菜箸で豆腐を琴音のお椀に入れた。

 

「……ありがとう、はげにきさん」

 

「肉も食え。筋肉は裏切らない。タンパク質は正義や」

 

「……にく、美味しい」

 

「白菜も残すなよ。ビタミンと食物繊維は大事でござる」翔太が自分の三倍の量を食べながら言った。

 

「……ぴざでぶさん、食べるの早い……」

 

「早食いはデブの基本スキルでござるよ」

 

千尋は鍋の向こう側から、琴音を見ていた。みんなに囲まれて、少しずつ食べている琴音。白い髪が鍋の湯気に揺れている。赤い瞳は柔らかく細められている。

 

幸せそうだった。

 

こんな表情を、三ヶ月前の琴音は知らなかった。

 

食後、片付けを終えて、いよいよ星を見に外に出た。

 

祖母の家の裏手には、小高い丘がある。街灯の一つもない田舎の闇。空気は冷たく、澄んでいた。

 

丘の頂上にレジャーシートを敷いて、四人と一匹が寝転がった。

 

「……うわ」

 

千尋が声を漏らした。

 

星だ。

 

東京では絶対に見られない、圧倒的な星空。天の川が肉眼ではっきりと見えている。空一面を埋め尽くす光の粒。

 

「……すごい」琴音が囁いた。

 

「すごいやろ。ワイは旅行好きやからあちこち行くけど、ここの星空はトップクラスやで」

 

「光害が少ないからな。都市部ではありえない光量だ。ゲームのスカイボックスより美しいと認めざるを得ない」翔太が感嘆した。

 

ベルクは大地の横で丸くなって、すでにうとうとしている。

 

「……ちひろ」

 

「うん?」

 

「……星って、すごく遠いんだよね?」

 

「うん。何光年も離れてる」

 

「……でも、光は届いてる。何年もかけて」

 

「そうだね」

 

「……わたしも、百年近く一人だった。でも、光は届いた。ちひろが、手を伸ばしてくれた」

 

千尋は琴音の手を握った。冷たい夜気の中で、二人の指が絡み合う。

 

大地と翔太は少し離れたところで、缶ビール片手に(翔太はコーラ)空を見ていた。

 

「……なあピザデブ」

 

「なんだ」

 

「ワイら、画面の向こうで三年間一緒にやってきたやん」

 

「ああ」

 

「こうやってリアルで集まるのは初めてやけど……なんか、全然初めてじゃない感じするわ」

 

「それな。三年分の会話の蓄積がある。ゲームで何百回も一緒に戦った。そのたびに声を聞いて、くだらない冗談を言い合って。それが全部、今日に繋がってる」

 

「……ええこと言うやんか」

 

「たまにはな」

 

「おまえもか。ワイのハゲとおまえのピザは、匿名掲示板の名物コンビやからな。これからもよろしくやで」

 

「よろしく頼むでござる。……あと、ハゲ」

 

「おう」

 

「ありがとな。ギルド作ってくれて。俺を外に連れ出してくれて」

 

大地は何も言わず、缶ビールを翔太の缶コーラにぶつけた。乾杯の音が、秋の夜に小さく響いた。

 

深夜一時。

 

大地と翔太は家の中で寝ている。ベルクも一緒だ。

 

千尋と琴音は、まだ丘の上にいた。レジャーシートの上で、ブランケットにくるまって。

 

「……寒くない?」千尋が聞いた。

 

「……ちひろが隣にいるから、大丈夫」

 

「幽霊のくせに寒がりなの、面白いよね」

 

「……幽霊だからこそ、温度に敏感なのかも。生きてた頃は……あんまり温かい記憶がなかったから」

 

千尋は琴音をブランケットの中に引き寄せた。琴音の白い頭が千尋の肩に乗る。

 

「……ちひろ」

 

「うん?」

 

「……讃歌のこと、ずっと考えてた」

 

「うん」

 

「……わたしの讃歌は、何だろうって。一人じゃ鳴らないって、はげにきさんが言ってたよね。みんなの中にいることが音になるって」

 

「うん」

 

「……でも、みんなの中にいるだけじゃ、たぶん足りない。わたしがわたしとして、何を世界に伝えたいのかが大事な気がする」

 

「何を伝えたい?」

 

琴音は星空を見上げた。

 

「……一人でも、大丈夫。でも、一人じゃなくてもいい。誰かと一緒に生きていいんだって。一人で頑張ってきた人が、誰かの手を取っていいんだって。それは弱さじゃなくて……」

 

琴音の声が震えた。

 

「……それは、生きる理由になるんだって」

 

千尋の目から涙がこぼれた。

 

「……わたしは百年、一人だった。消えたくなくて、でも在る理由がなくて、ただ石の中で耐えてた。でも今は違う。ちひろがいる。みんながいる。ベルクもいる。わたしは一人じゃない。そしてわたしが一人じゃないことが、わたしと同じように一人で頑張ってる誰かの希望になれるなら……」

 

琴音は千尋を見た。

 

「……それが、わたしの讃歌だと思う」

 

その瞬間。

 

琴音の胸が、光った。

 

白い光。石の脈動とは違う、もっと深くて温かい光。琴音自身の内側から溢れ出す光。

 

千尋は目を見開いた。

 

「琴音ちゃん……!」

 

「え……? 何、これ……」

 

琴音は自分の胸を見下ろした。光が広がっている。体の輪郭が燐光を帯びている。でも、消えかけた時の不安定さとは全く違う。むしろ、存在がより確かになっていく感覚。

 

「……あ」

 

空から、光が降りてきた。金色の羽根。蛍のような燐光。

 

天音栞が、夜空から舞い降りてきた。

 

「来たよ」栞は笑っていた。涙を浮かべて。「来ると思った。今日だって」

 

「栞ちゃん……!」

 

「琴音ちゃん、今のあなたの言葉、聞こえたよ。世界にも、神様にも」

 

栞は琴音の手を取った。

 

「一人でも大丈夫。でも、一人じゃなくてもいい。……それはね、わたしが精霊になった時にも思ったことなの。同じ讃歌。でも、琴音ちゃんの言葉の方がずっと強い。だって琴音ちゃんは、百年の孤独を経験してなお、その答えに辿り着いたんだから」

 

琴音の体から溢れる光が、強くなった。

 

「……怖い?」栞が聞いた。

 

「……怖くない。温かい」

 

「うん。それでいい。その光は、琴音ちゃんの讃歌。世界がそれを受け入れてる証」

 

家の中から、大地と翔太が飛び出してきた。光に気づいたのだ。ベルクも駆けてきて、光に包まれた琴音の周りをぐるぐる回っている。

 

「なんや!? 何が起きとるんや!?」

 

「琴音ちゃんが光って……精霊化か!?」

 

千尋は琴音の手を握ったままだった。離さなかった。

 

「琴音ちゃん、大丈夫? 痛くない?」

 

「……大丈夫。痛くない。ちひろの手、あったかい」

 

光がピークに達した。丘全体が白い光に包まれた。星空と地上の光が溶け合って、境界がなくなった。

 

そして。

 

光が収まった。

 

琴音はそこにいた。

 

白い髪。赤い瞳。小さな体。見た目は何も変わっていない。

 

でも、千尋にはわかった。

 

千尋の胸の中の白い石が、もう脈動していなかった。

 

静かだった。

 

「……石が、消えた」千尋が呟いた。「依代が……」

 

「うん」栞が頷いた。「もう依代は必要ない。琴音ちゃんは今、自分自身の力で存在してる」

 

琴音は自分の手を見つめた。透けていない。実体化している。でも、依代がない。自分だけの力で、ここにいる。

 

「……わたし……消えない?」

 

「消えないよ。もう二度と」

 

「……依代がなくても?」

 

「うん。琴音ちゃんは精霊になったの。神々に認識された存在。この世界に在ることを許された存在」

 

琴音の赤い瞳から涙があふれた。

 

百年分の涙。孤独の涙。恐怖の涙。そして、歓びの涙。

 

「……消えない……もう、消えない……!」

 

千尋が琴音を抱きしめた。もう依代ではない。でも、離さない。

 

「おめでとう、琴音ちゃん」

 

「ちひろ……ちひろ……!」

 

大地が鼻をすすった。翔太が丸眼鏡を外して目元を拭った。ベルクが嬉しそうに吠えた。

 

「……泣いてへんぞ。夜露がハゲに染みただけや」

 

「俺も泣いてない。デブの汗腺が目頭にあるだけでござる」

 

「二人とも泣いてるじゃん!」千尋が泣きながら笑った。

 

栞は一歩引いたところで、満面の笑みを浮かべていた。

 

「ご褒美、あげてよかった」

 

金色の狐がいつの間にか栞の傍に座っていた。

 

「栞様、よかったですね」

 

「うん。最高のご褒美。……でもこれは、わたしがあげたものじゃないよ。琴音ちゃんが自分で掴んだもの。千尋ちゃんと、みんなと、一緒にね」

 

栞は空を見上げた。星が瞬いている。天の川が流れている。

 

「人間って、本当にすごいよね」

 

「琴音ちゃんはもう精霊ですが」

 

「元人間。わたしもね。だからわかるの。人間の、この力。誰かを好きになる力。誰かと一緒にいたいと思う力。それが世界を動かすんだって」

 

栞は二人に向かって手を振った。

 

「じゃあね、琴音ちゃん。千尋ちゃん。これからも仲良くね。困ったことがあったら、あの神社に来て。いつでも待ってるから」

 

「栞ちゃん! ありがとう! 本当にありがとう!」千尋が叫んだ。

 

「お礼はいらないよ。だって……」栞はにっこり笑った。「わたしも、ギルド入りたいなぁ」

 

「えっ」

 

「冗談。……半分ね」

 

栞は光に包まれ、夜空に溶けていった。金色の羽根が一枚、ひらひらと舞い降りて、琴音の掌に落ちた。

 

今度の羽根は消えなかった。ずっと、温かいままだった。

 

夜明け。

 

四人と一匹は、丘の上で朝日を待った。

 

東の空が白み始め、やがて茜色に染まり、そして。

 

太陽が顔を出した。

 

「……眩しい」琴音が目を細めた。

 

「アルビノだから眩しいんでしょ。帽子被り」千尋が帽子を琴音の頭に乗せた。

 

「……ありがとう」

 

「ねえ琴音ちゃん」

 

「……うん?」

 

「今日からは、依代とかそういうの関係なく、純粋に。一緒にいてくれる?」

 

琴音は千尋を見た。朝日に照らされた赤い瞳が、宝石のように輝いていた。

 

「……当たり前でしょ。依代だったから一緒にいたんじゃないよ。ちひろが好きだから一緒にいるの。最初から、ずっと」

 

千尋の目に涙がにじんだ。何度目かわからない。

 

「……大好き」

 

「……わたしも。大好き」

 

大地が「うおぉぉ朝日が眩しい! ハゲに反射しとる!」と叫び、翔太が「反射光で目がやられるわ」とツッコミ、ベルクが嬉しそうに吠えた。

 

千尋はスマホを取り出した。

 

「みんな、写真撮ろう。記念に」

 

四人と一匹が並んだ。千尋がセルフタイマーをセットして走り戻る。

 

パシャリ。

 

画面の中。朝日を背景に、五つの笑顔。

 

スキンヘッドの大男。眼鏡の巨漢。黒髪の少女。白髪の少女。そして巨大な犬。

 

どこからどう見ても変な集団だった。でも、最高の一枚だった。

 

帰りの車中。

 

千尋はグループチャットに写真を投稿した。キャプションと共に。

 

【ギルド:限界集落】

 

ちひろん: [画像]

 

ちひろん: ギルド「限界集落」。人口4名+1匹。

 

ちひろん: もう限界じゃない。

 

ハゲニキ: ちひろんがええこと言うとる

 

ピザデブ: たまには正論を吐くのでござるな

 

ちひろん: たまにはって何!

 

ことりのゆめ: ちひろ、ありがとう。みんな、ありがとう。

 

画面に新しいメッセージが表示された。琴音が、自分のスマホから打った初めてのメッセージだった。千尋が昨日の夜、使い方を教えたのだ。

 

ことりのゆめ: わたし、もう消えません。ずっとここにいます。

 

ことりのゆめ: みんなの隣に。

 

ハゲニキ: おう。ずっとおってくれ。筋肉は裏切らないし、ワイらも裏切らん。

 

ピザデブ: 同じく。限界集落はおまえを歓迎する。永住権を付与するでござる。

 

ちひろん: 琴音ちゃん

 

ことりのゆめ: うん?

 

ちひろん: おかえり。

 

ことりのゆめ: ただいま。

 

千尋はスマホを置いて、隣の琴音を見た。

 

琴音は窓の外を見ていた。秋の田んぼが光っている。三ヶ月前に新幹線の窓から見た景色と同じだ。でも、あの時は半透明で、消えかけで、怯えていた。

 

今は違う。

 

白い髪が風に揺れている。赤い瞳が景色を映している。小さな唇が微笑んでいる。

 

確かに、ここにいる。

 

消えない。もう二度と。

 

千尋は琴音の手を握った。琴音が握り返した。

 

ひんやりとした、でも確かな温度。

 

二つの手が重なったその場所だけが、世界で一番温かかった。

 

千尋のアパートに帰宅。

 

大地と翔太を見送り、ベルクに別れを告げ(琴音がベルクを離すのに五分かかった)、二人はいつもの部屋に戻った。

 

「ただいま」千尋が言った。

 

「……ただいま」琴音が言った。

 

いつもの部屋。いつものPC。いつものゲーミングチェア。いつもの景色。

 

でも、千尋の胸の中にはもう白い石はない。琴音はもう依代を必要としない。それでも二人はここにいる。ここにいたいから。

 

「ゲームする?」千尋が聞いた。

 

「……うん」琴音が答えた。

 

二人で並んでモニターの前に座った。肩が触れ合う距離。

 

PCが起動する。ゲームのログイン画面。二つのキャラクターが、仮想世界に降り立つ。

 

白魔導士の「ちひろん」と、白うさぎの弓使い「ことりのゆめ」。

 

【システムメッセージ:新しい冒険が始まります】

 

千尋は笑った。琴音も笑った。

 

「行こっか」

 

「……うん。一緒に」

 

画面の中で、二つのキャラクターが肩を並べて走り出した。

 

新しい冒険の始まりだ。

 

これまでも。これからも。ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エピローグ

 

一ヶ月後。

 

【ギルド:限界集落】

 

ハゲニキ: おい、ギルド人口が増えたんやが

 

ピザデブ: 何事でござるか

 

ハゲニキ: 新規加入者「しおりん」

 

ピザデブ: ……まさか

 

しおりん: えへへ。入っちゃった。

 

ちひろん: 栞ちゃん!?!?

 

ことりのゆめ: !!!!

 

しおりん: 半分冗談って言ったでしょ? もう半分は本気だったの。

 

しおりん: 精霊だけどゲーム初心者です。よろしくね!

 

ハゲニキ: 限界集落の人口が5名になってしまった

 

ピザデブ: もはや限界ではない

 

ちひろん: ギルド名変える?

 

ハゲニキ: いや、このままでええやろ。限界集落から始まった村や。名前を変えたら、ここまでの道のりを忘れてまう

 

ことりのゆめ: わたしも、このままがいい。

 

ことりのゆめ: だって、限界からここまで来たんだもん。

 

しおりん: いい仲間だね、みんな。

 

しおりん: 最高のギルドだよ。

 

ハゲニキ: よっしゃ、全員揃ったことやし、レイド行くぞ! 筋肉は裏切らない!

 

ピザデブ: 筋肉の話は置いとけ。行くぞ、諸君!

 

ちひろん: 了解!

 

ことりのゆめ: 了解!

 

しおりん: 了解〜!

 

ギルド「限界集落」、人口五名。

 

もう限界じゃない。でも、名前はこのまま。

 

だって、限界から始まった物語が、一番美しいから。

 

Fin.

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