「ねぇ、やめてよ、それ」
女の指の向けられる先は男の口元であった。詳しく言うなら、タバコ。先の方に僅かな間だけ夕暮れのような赤を灯らせたそれを指差し、そう言った。
男はすぐに意味を理解し——たつもりになり、窓を開き、窓の際で……外へ煙を逃がすように吸おうとする。
女は変わらず不満そうに。
「そうじゃなくて——吸わないでほしいんだけど」
どうして——? 男は聞き返す。
「だって、身体に悪いって……たまに聞くし」
そういう話を耳にしたことは、男にもあった。一度、妙な雑誌の表紙にそんな文言を見たような気がする。が……ただの噂のように思う。煙のように漂う噂だと……思う。
「そうかは分かんないけど、そうかもしれないでしょ?」
心配そうな声だった。
事実、心配している。
「……先に死なれるのは嫌だから」
言われて、ため息を吐く。けれど煙は吐かずに、分かったよ——とだけ返して、灰皿にタバコを押し付け、それから灰皿ごとゴミ箱に放り込む。
「うん——信頼、してるからね?」
女は笑っていた。
この時の笑みは……そうだ、こんな感じだった。そう思う。
写真の中の女は笑っていた。
あの時と同じように……笑っている。
男は笑わない。あの時は思わず、つられて笑ってしまったが、今は……笑えない。
男は女より先には死ななかった。なぜなら女が死んだから。
事故だった。
ただの偶然だった。
肺を煙で満たし続けて、そうして身体を壊した訳じゃない。悪意のある人間に、故意で命を奪われた訳でもない。
——ましてや、宇宙人に殺された訳でもない。
誰かを憎める訳でもなく、誰かを倒せる訳でもなく……空っぽになることしか出来ない男は、来る日も来るしも……ひたすら生きることしか出来なかった。
ひたすら生きる。ひたむきには生きられない。
ある日のことだ。
出勤のために、電車に乗ろうとしたが足止めを食らったのだ。
駅前で乱射事件があったのである。
一人の男が発狂しながらライフルを連射していたらしい。代わりの移動手段は無いものか——考えてみるが、意外と早く騒動は終わった。犯人の男はいつの間にか倒れていたのである。
とはいえ動揺は消えない。辺りはしばらく五月蝿くなる。もう、今日は帰ってしまおうか……気怠げに思った時、男の目にそれが映る。
タバコの自販機だ。
一歩。また一歩。
男は自販機へと近づいて行く。
置いてく人が居る訳じゃない。置いてく人はもう、いないから。だから良いだろう。だから良いんだ。
そもそもとして吸ったところでそれほど寿命が減るようには思えない。実際に減ったとしても、きっと自分が生きてる内にその真偽は分からない。
だから良い。良いんだ。
もう……どうだって良いだろう?
男は小銭を入れる。
男はボタンを押す。
男は紙箱を開いた。
男は火を着けた。
男は……口に、それを近寄せた。
男の顔に、赤いライトが向けられた。
——女が言った。
「信頼、してるからね?」
男は……裏切ることが出来なかった。
————
ある日、夕焼けを見るとそこには二つの大きな影があった。
宇宙人だ。一目で分かる。
対するは巨人だ——赤い、いつもいつも敵を倒してくれるあの巨人だ。
二つの影がぶつかり合う。
何度目だったか、二度目だったか——宇宙人は、打ち倒された。
————
あれから数年が経った。
キャンディーを砕く男に、女が言う。
「子供じゃないんだから、飴を砕くなよ」
男は構わずもう一噛みしようとするが、「顎、悪くするから」と言われ、結局飴を舐めることにする。
そういえば——女は思い出したように口に出す。
「仕事の関係でね。しばらく前の宇宙人事件関連の資料を見る機会があったんだ。君の……その、死んだ昔の恋人の事故なんだけど、あれ、宇宙人の仕業だったらしいんだ」
男は口から、飴をこぼす。
「メトロン星人、というそうなんだ。赤い巨人と夕焼けの中で向かい合った、あのカラフルな……とんがり頭の」
男はすぐに、その宇宙人があの日の影だと理解する。
「……詳しく、聞く?」
気を遣うような口ぶりであった。
事実、気を遣って……いるのだろう。
けれど、聞いたとして何になるのだろうか。
宇宙人は、メトロン星人は既に倒されているのだろう。あの巨人に……ヒーローに。ならば自分のようなただの人間が、今更何が出来る訳でもない——男はそう思った。
それでも、聞かせてくれと……言うしか無かった。
「人間の社会は信頼によって成り立っている。だからそれを、信頼を利用しようとしたらしい。特殊な物質で人間の精神を変にして、暴れさせて……そうして人同士の信頼を壊そうとしたようなんだ」
そしてその物質によってたくさんの事件や事故が起こった——そして。
「その中のひとつが……君の、その子の巻き込まれた事故だった」
だから。だから……なんだというのだろう。
男は何も出来ない。
宇宙人は倒されている。ヒーローによって、倒されていた。
やっぱりもうなにも聞きたくない——そう、男は言おうとした。
「それで、その物質というのをタバコに混入させたそうなんだ」
男は、言うのをやめる。
「それも君が昔住んでいた辺りの——駅前、タバコの自動販売機とか無かった? どうやらそこに混ぜていたようなんだ」
男は笑う。大きく笑う。
女は困惑するが、男は構わず大きな笑い声を上げる。
泣きながら笑う。
宇宙人は信頼を利用しようとした。信頼を破壊しようとした。
男はあの日、タバコを吸わなかった。信頼を守ろうとした。
あの時に……女の言った言葉を裏切れなくて、信頼を裏切れなくて……吸うのを躊躇った。
男はひとしきり笑う。
そうして男は、こう言った。