鍋の中で、スープが小さく音を立てていた。
里屋ユウは木べらを動かしながら、ふわりと立ち上る湯気を目で追う。
寮の共有キッチンは広くはないが、三人分くらいなら十分だった。
今日はユウが料理当番だ。
といっても、洒落たものではない。
炒め物、簡単なスープ、あとは米。
手間よりも失敗しないことを優先した、いかにもユウらしい献立だった。
背後では、食器の触れ合う小さな音がしている。
振り返ると、先輩が無言で皿を運び、アノミマスがその横で静かにテーブルへ並べていた。
先輩の動きは慣れていて、余計な音が少ない。
アノミマスの方は少し慎重で、皿を置くたびにほんの少しだけ間がある。
それでもちゃんと手伝っている。
その光景が少しだけ不思議で、でも悪くなかった。
「そこ、熱いから気をつけて」
ユウが言うと、アノミマスは小さく頷く。
先輩は「見ればわかる」と言いたげな顔をしたが、口には出さなかった。
ユウが最後に火を弱めた時だった。
皿を置いた先輩が、端末へ視線を落としたまま言った。
「さっき連絡が来た。明日、任務が決まった」
ユウは鍋の取っ手に触れた手を少しだけ止める。
「明日ですか」
「十時入り。学園外縁の廃墟ビル」
そこでアノミマスが少しだけ顔を上げた。
白い髪が、部屋の照明を静かに返す。
ユウは皿へ炒め物をよそいながら聞き返す。
「廃墟ビル?」
「最近、怪談話で少し有名になってる場所だ」
その言葉に、ユウの手がほんの少しだけ止まった。
「……怪談話」
声に出した瞬間、自分でもちょっと嫌そうな響きになったのがわかった。
先輩がそれを横目で見る。
「人影が見える。話し声が聞こえる。誰もいない階で足音がする。そういうやつだ」
「普通に嫌なんですけど」
「嫌なら留守番するか」
「いや、行きますけど」
行かないとは言えない。
言えないが、怖いものは普通に怖い。
ユウは昔からこういう話が得意じゃない。
ホラー映画が見られないほどではないが、夜に思い出したくない類のものだ。
アノミマスはその会話を聞きながら、テーブルにコップを並べている。
特に怖がっている様子はない。
やっぱり普通の子ではないのだろう、とユウは改めて思う。
「風紀委員会案件じゃない」
先輩が短く続ける。
「神秘由来の滞留反応が出てるらしい。第8班の担当だ」
ユウはそこで少し眉を寄せた。
「……その調査って、レイヴンが担当するものなんですか」
「神秘寄りだ。うちの範囲になる」
ユウは料理をテーブルへ運びながら、小さく首をかしげる。
第8班。自分たちの班。
でも、その中身を自分はまだちゃんと理解していない。
少し迷ってから、ユウは前から気になっていたことを口にした。
「そういえば、自分たちの班って正式には何て言うんですか」
露骨に、先輩が少しだけ嫌そうな顔をした。
「……部屋に資料置いてあるだろ。確認しろ」
「見ましたけど、量多くて」
「読め」
「今ここで聞いた方が早いかなって」
先輩は数秒だけユウを見た。
呆れている。かなり呆れている。
でも切り捨てるほどではないらしい。
小さく息を吐いてから、先輩は答えた。
「レイヴン、特務調査群〈ハウンド〉第8班。神秘調査専門《トレイス》。それがお前の班だ」
ユウは一瞬、言葉を頭の中で反芻した。
「……トレイス」
冷たくて、静かで、少しかっこいい名前だった。
「痕跡を追う班だ」
先輩は椅子を引きながら、淡々と続ける。
「神秘由来の残滓、異常反応、局所滞留、雷帝遺物の微弱反応。普通の観測じゃ拾いきれないものを見つけて、辿って、位置を確定して、必要なら処理する」
ユウはゆっくりと席についた。
その説明で、今まで部屋の中で見てきた断片が少しずつ繋がっていく。
アノミマスの見ている“糸”。
時々空中を追う視線。
売店でも、文具棚のしおり紐を見て止まったあの感じ。
ユウはアノミマスを見る。
「……じゃあ、アノミマスがいるのって」
「そのためだ」
先輩があっさり言い切る。
「あいつが見てる糸は、神秘由来の痕跡に繋がる」
ユウは少しだけ黙った。
「本当に見えてるんですね」
言い方が少し雑だったかもしれない。
でも、素直な感想だった。
先輩は頷きもしないまま続ける。
「本人にしか見えない。理屈も完全にはわかっていない。機械でも再現しきれていない」
「何でも見つけられるんですか」
「何でもじゃない」
即答だった。
「濃いものほど見やすい。近い方が拾いやすい。逆に薄いもの、遠いもの、入り組んだものは追いづらい」
ユウは少し安心した。
全部見える万能能力、というわけではないらしい。
先輩はそこで一拍置いた。
「追わせすぎると体調を崩すこともある」
「負荷、あるんですね」
「ある」
「だから見つけるのはあいつ。処理するのはこっちだ」
かなり綺麗に腑に落ちた。
アノミマスが糸を辿る。
班が現場へ行く。
先輩が護衛する。
自分は補助する。
つまり。
「……この班、ほぼアノミマス前提じゃないですか」
「そうだ」
あまりにもあっさり肯定されて、ユウは本気で少し引いた。
売店で小銭を数えていた子だ。
白い飲み物の前で悩んでいた子だ。
先輩の後ろに隠れるように立っていた子だ。
その子が、班の中核らしい。
「結構すごいところに配属されたんだな……」
思わず漏れた本音に、先輩が少しだけ目を細める。
「今さらか」
「今さらですけど」
「勘違いするな。お前がすごいんじゃない。班が重いだけだ」
「わかってますよ」
「ならいい」
横を見ると、アノミマスは静かに座っていた。
何も言わない。
でも、心なしかほんの少しだけ姿勢が良い。
気のせいかと思ったが、もう一度見るとやっぱり少しだけ胸を張っているように見える。
ユウは目を細めた。
「……なあ」
アノミマスがこっちを見た。
「ちょっとドヤってないか?」
「どやってない」
小さい声で、即答だった。
その返しが余計に怪しい。
ユウが口元を緩めると、アノミマスは少しだけ視線を逸らした。
たぶん気のせいじゃない。
ほんの少しだけ、自分の能力の話をされて得意だったのだろう。
それがわかると、なんだか少し安心した。
こんなに特別な班の中心みたいに扱われていても、ちゃんと少し得意げになったりする子なんだなと思えたからだ。
先輩が箸を取る。
「現地ではまず外から確認する。内部へ入るのはその後だ」
「いきなり突っ込まないんですね」
「無駄が多い」
「怪談の現場に無駄なく入りたくないんですけど」
「なら余計に外から見る」
その理屈は正しい。
正しいが、怖いものは怖い。
ユウはスープを口に運びながら、端末に送られてきた任務概要を軽く確認する。
廃墟ビル。継続する怪奇現象。神秘滞留の疑い。中心点を特定し、拡散杭による処理を行う予定。
派手な怪異退治、みたいなものを勝手に想像していた。
でも実際はもっと実務的だ。
見つけて、刺して、測って、散らす。
たしかにレイヴンらしい。
「拡散杭って、あの杭みたいな装置ですよね」
「そうだ」
「刺して終わりですか」
「終わりじゃない。測定しながら周囲へ神秘を逃がす。偏りを崩して薄める」
ユウは少しだけ頷く。
怪異を倒す、というより滞留を散らす。
その方がしっくり来た。
ただ、そこでひとつ引っかかった。
「……放っておくと、どうなるんですか」
先輩が箸を止める。
「何がだ」
「こういう怪異現象です。滞留とか、神秘反応とか」
少しだけ間があった。
先輩はその問いを雑には流さなかった。
「最初は小さい」
低い声で、短く答える。
「人影が見える。音がする。気分が悪くなる。そういうところから始まる」
ユウは黙って聞く。
「だが、放置すると濃くなる」
先輩は続けた。
「滞留が偏る。反応が定着する。そうなると、現象だったものが影響を持ち始める」
「影響って」
「体調不良が出る。判断が鈍る。転落や接触事故が増える。怪我人が出る」
ユウは少しだけ眉を寄せた。
怪談話みたいなものだと思っていた。
でも今の話は、もっと現実的で嫌だ。
先輩の声は変わらない。
「さらに悪化すると、局所現象じゃ済まなくなる」
「……済まなくならないと?」
「封鎖が要る。制圧班が出る。最悪、大部隊が必要になる」
その言い方は脅しじゃなかった。
見たことがある人間の言い方だった。
ユウは思わずスープの湯気を見る。
ただの怪談じゃない。
ただの気味の悪い建物でもない。
小さいうちに処理しないと、ちゃんと面倒になる。
「だからトレイスが先に行く」
先輩が言う。
「火種の段階で見つける。燃え広がる前に消す。そのための班だ」
短い。
でも、今まで聞いた説明の中で一番わかりやすかった。
アノミマスが糸を見つける。
トレイスが場所を確定する。
杭で散らす。
大きくなる前に終わらせる。
つまりこの班は、怪異を派手に倒す班じゃない。
大事になる前に止める班だ。
ユウは小さく息を吐いた。
「……思ってたより地味ですね」
先輩が少しだけ目を細める。
「そうだ」
「でも、たぶん大事なんですね」
「そうだ」
今度の返事は、少しだけ速かった。
食事は、気づけばそれなりに進んでいた。
ユウが作った料理に先輩は特に感想を言わない。
アノミマスは静かに食べている。
でも箸が止まっていないので、たぶんまずくはないのだろう。
少しして、先輩が言った。
「質問は」
ユウの頭にはいくつか浮かんでいた。
でもその中で一番大きいのは、やっぱりこれだった。
「……やっぱり、自分ここでよかったんですか」
先輩がほんの少しだけ間を置く。
「何の話だ」
「いや、その……思ってたより特殊だし、重い班だし」
「だから何だ」
「もっと普通の班だと思ってたんで」
先輩はしばらく黙っていた。
それから、いつもより少しだけ言葉を選ぶみたいに口を開く。
「お前は普通だ」
「またそれですか」
「普通のまま、変に踏み込みすぎない。必要な時は声をかける。無駄に怯えもしない」
ユウは少し黙る。
「それで十分な役もある」
短かった。
でも、思っていたよりちゃんとした答えだった。
ユウはほんの少しだけ視線を下げてから、また上げる。
「……了解です」
「なら食って寝ろ。明日早い」
先輩はそれで話を打ち切った。
食後、食器を片付ける頃には、部屋の空気も少し落ち着いていた。
アノミマスはコップを流しへ運んで、先輩はそれを受け取る。
ユウは鍋を洗いながら、さっき聞いた班名を頭の中で何度か反芻した。
猟犬部隊、調査部門第8班。神秘調査専門《トレイス》。
思っていたより、ずっとすごいところだった。
布団へ入っても、ユウの頭には廃墟ビルの黒い外観と、白い少女のほんの少しだけ得意げな横顔がしばらく残っていた。
怖い任務だ。
でも、それ以上に少しだけ、明日が気になっていた。
特務調査群〈ハウンド〉
レイヴンにおいて、火種の発見・確認・追跡・初期管理を担う調査群。
神秘由来の異常、危険物、旧雷帝派の遺産、未管理対象などを“怪談で済んでいる段階”で見つけ、処理部門へ繋ぐことを主任務とする。
班編成一覧
第1班 情報解析専門《アーカイブ》
報告書、監視記録、事件履歴、内部資料を照合し、火種の兆候を拾う基礎班。
第2班 電子調査専門《リンクス》
通信記録、監視ログ、不正端末、裏通信など電子的痕跡を追う班。
第3班 学外実地調査専門《アウトライド》
学園外縁、封鎖区域、廃墟、旧施設などの現地調査を担当する班。
第4班 物証回収専門《ラッチ》
危険物、遺留物、試作品、封印対象などの回収と搬送を担う班。
第5班 人的調査専門《ハッシュ》
噂、証言、聞き込み、非公式情報網から火種の入口を拾う班。
第6班 観測技術専門《スコープ》
測定器や観測装置を用いて、神秘反応を定量観測する班。
第7班 封鎖監視専門《バリケード》
即時処理できない危険区域や封印対象を監視・再評価する班。
第8班 神秘調査専門《トレイス》
神秘由来の痕跡、残滓、滞留、異常導線を追跡する班。
アノミマスの“糸”の知覚を中核に置く、ハウンド内で最も新しく、最も特殊な班。
既存の観測手段では拾いきれない火種を見つけ、怪異が大事になる前に中心点を確定し、処理へ繋ぐ。