レイヴンはゲヘナに属する特務執行組織ですが、万魔殿や風紀委員会の単純な下部組織ではなく、独立性の高い運用がなされています。
表向きは万魔殿の管理下にあるものの、案件によっては各専門部門と連携し、通常の学園治安機構では対処困難な案件へ介入します。
万魔殿からはその権限と戦力規模を煩わしく見られる一方、風紀委員会からは役割分担上、実務面で重宝されている立場です。
マコト目線だと、
「ゲヘナの組織ではあるが、1組織として力も権限も大きすぎて扱いづらい」
ヒナ目線だと、
「役割が被りにくく、自分が直接出る案件が減るから助かる」
翌朝、空気は少しだけ冷えていた。
任務前だからというより、ただ時間が早いだけだ。
それでも里屋ユウの体は、いつもより少しだけ固かった。
支部前の車両スペースには、すでに軽装甲車が停まっていた。
黒い車体。無骨な外装。派手さはないが、実用一点張りみたいな顔をしている。
その横に立っていた三年生が、ユウたちに気づいて片手を上げた。
「お、来た来た」
気楽そうな声だった。
見た目だけなら、レイヴンというよりどこか別の場所にいそうな人だとユウは思う。
金髪で、顔立ちは爽やかで、妙に人当たりがよさそうに見える。
ただし服装はラフで、上は作業着、下は制服。脱いだ上着らしい制服が車内の座席へ無造作に掛けられているあたり、ちゃんと現場の人間なのだとわかる。
三年生はユウを見るなり、少しだけ目を丸くした。
「へえ。新人まで連れてる」
先輩が即座に返す。
「うるさい」
「いや、ちょっと驚くだろ。氷室、お前こういうの一人で抱えてそうだったし」
その視線がユウへ向く。
「で、お前が新人?」
「……里屋ユウです」
「硬い硬い。もっと肩抜けって」
そう言いながら、三年生はにやっと笑った。
嫌味じゃない。
ただ面白がっているだけだ。そういう軽さだった。
「相馬トウカだ。モービルの三年。運転と回収と、たまにこういう横槍担当」
「横槍って自分で言うんですか」
「言う言う。実際そうだし」
それから相馬は、先輩とユウを交互に見て妙に楽しそうに言う。
「キョロキョロしてる感じ、昔のお前と同じだな」
「誰がだ」
「お前も、新人もだよ」
ユウはそこで少しだけ驚いた。
先輩のことをそういうふうに言う人がいるのが、少し意外だった。
いつもあんなに落ち着いていて、隙もなくて、最初からあのままだったみたいな顔をしているのに。
先輩――氷室シオンは露骨に嫌そうな顔をしたが、完全には否定しなかった。
その反応が余計に本当っぽい。
「乗れ。時間食うぞ」
先輩が短く言う。
「はい」
ユウが後部ハッチへ回ろうとした時、相馬がポケットを探ってアノミマスへ何か差し出した。
「ほら、白いの。今日の分」
飴だった。
透明な包みの、よくある丸い飴。
アノミマスはそれを見て、少しだけ間を置く。
「……また」
「まただよ。嫌なら返せ」
「返さない」
小さい声でそう言って、アノミマスはちゃんと受け取った。
ユウはそのやり取りを見て、少しだけ目を瞬かせる。
慣れている。
たぶんこの三年生は、こういうことを何度もやっているのだろう。
「釣られてるじゃないですか」
ユウが小さく言うと、アノミマスは飴を握ったままこっちを見た。
「……釣られてない」
「その返し方だと、だいぶ怪しいけど」
先輩はその会話を特に止めなかった。
つまり、このくらいはいつものことなのだ。
全員が車両へ乗り込む。
運転席に相馬、助手席に先輩。
ユウとアノミマスは後部座席だった。
ドアが閉まり、エンジンが低く唸る。
車体がゆっくり動き出した。
しばらくは、移動の振動とエンジン音だけが車内を満たす。
ユウは小さく息を吐いて、窓の外を見るふりをした。
少し緊張していた。
初めての神秘調査任務。
怪談で有名な廃墟ビル。
正直、あまり気楽な気分にはなれない。
「怖いか?」
前から相馬の声が飛んできた。
ユウはすぐに言い返せなかった。
「……まあ、ちょっとは」
「ちょっとで済んでるなら上等だな」
「相馬先輩は怖くないんですか」
ユウがそう聞くと、助手席の先輩は窓の外を見たまま答えた。
「怖いかどうかで任務は変わらない」
「それ答えになってないですよね」
「十分だ」
先輩らしい返しだった。
前の相馬が小さく笑う。
「まあでも、初見の怪談ビルは普通に気味悪いよな。お前の反応の方が新人っぽくて安心する」
「安心材料にしないでください」
ユウがそう返すと、前からまた笑い声がした。
空気が少しだけ軽くなる。
その間、アノミマスは静かに窓の外を見ていた。
小さな飴はまだ手の中にある。
開ける気配はない。ただ持っているだけだ。
ユウは少しだけそちらを見る。
「食べないの?」
「あとで」
「好きなのかと思った」
「……もらうのが、先」
意味がわかるような、わからないような返事だった。
でもユウはなんとなく頷いてしまう。
前から先輩の声がする。
「現地に着いたら、まず外周確認だ。中へ入るのはその後。勝手に先行するな」
「はい」
「ユウ」
「はい」
「アノミマスから目を切るな。気を取られて建物ばかり見るな」
「……了解です」
先輩の言い方はいつも通り短い。
でも、ユウが何に気を取られそうかはちゃんと読んでいる。
車がゆるくカーブを曲がる。
景色が少しずつ荒れてきた。
人の気配が減り、建物の間隔が広くなる。
学園の端。
あまり誰も好き好んで来ない場所だ。
「そういや」
相馬が何気ない調子で言った。
「新人。お前、氷室に模擬戦つけてもらったことある?」
「ありますけど」
「何回崩せた?」
ユウは少し黙ってから答えた。
「一回もないです」
「だろうな」
前から、楽しそうな即答が返ってきた。
「お前も大概だけど、そいつは昔からそういうとこ崩れないし」
「余計なお世話だ」
「そうやってすぐ嫌な顔するのも昔のままだな」
ユウは前の背中を見ながら、少しだけ変な気分になる。
先輩にも、ちゃんと“昔から知ってる相手”がいるのだ。
当たり前のことなのに、少しだけ意外だった。
その時、横のアノミマスがふと顔を上げた。
窓の外。
まだ距離はある。
でも彼女の視線だけが、まっすぐ一点へ伸びている。
「……見えた?」
ユウが小さく聞くと、アノミマスは少しだけ頷いた。
「まだ、薄い」
前の二人もそれを聞いていた。
相馬が軽く口笛を吹く真似をする。
「お、今日は早いな」
「集中させろ」
先輩が短く制した。
それで車内はまた少し静かになる。
ユウは窓の外を見る。
やがて、問題の廃墟ビルが見えてきた。
たしかに、怪談が有名になるのも少しわかる外観だった。
窓はところどころ割れ、壁は黒ずみ、上層の一部は崩れている。
使われなくなって長い建物特有の、空っぽの威圧感がある。
正直、見た目からして入りたくない。
軽装甲車が少し離れた位置で止まる。
エンジン音が落ちて、車内に沈黙が降りる。
「着いた」
相馬がそう言ってシートベルトを外した。
先輩は先にドアを開ける。
ユウもそれに続こうとして、相馬に肩を軽く叩かれた。
「新人」
「はい」
「ビビるのは勝手だけど、固まるなよ」
軽い言い方だった。
でも、その目だけは少し真面目だった。
「……善処します」
「善処で済ませるな。ちゃんと戻ってこい」
その一言に、ユウは少しだけ目を瞬かせる。
それから、小さく頷いた。
「はい」
相馬の視線が今度はアノミマスへ向く。
「白いのも。無理すんなよ。飴は帰りにまたやる」
アノミマスは小さく瞬きをして、ほんの少しだけ頷いた。
まだ飴は開けていない。
たぶん、本当に帰りまで持っているつもりなのだろう。
最後に相馬は助手席側へ視線を流す。
「氷室も」
「何だ」
「まあ、ほどほどにな」
「余計なお世話だ」
「知ってる」
その返しに、相馬は少しだけ笑った。
ユウは車外へ出る。
朝の空気はもう冷たくはなかったが、目の前の廃墟ビルを見た瞬間、背中のあたりが少しだけひやりとした。
先輩はすでに前へ出ている。
アノミマスはその少し後ろ。
ユウも一歩遅れて並ぶ。
車のドアが閉まる音がした。
「行くぞ」
先輩の短い声に、ユウは息を整えて頷いた。
怪談の調査。
神秘調査専門《トレイス》としての、最初の実地任務。
怖くないわけではない。
でも今は、固まるわけにもいかなかった。
相馬トウカ
特務機動支援群〈モービル〉所属の三年生。
輸送・回収・展開支援を担当する、レイヴンの実務屋。
軽口は多いが面倒見はよく、氷室とは古い付き合い。
ユウを「新人」、アノミマスを「白いの」と呼ぶ。