廃墟ビルを前にすると、噂が先に立つ理由が少しだけわかった。
近づくだけで空気が違う。
冷たいわけでも、暗いわけでもない。
ただ、人が長くいなかった場所特有の空っぽさに、何か別のものが薄く混じっている。
ユウにはそれが何かまではわからない。
わからないが、あまり居心地のいい場所ではなかった。
その横で、アノミマスがビルを見上げる。
白い横顔は静かなままだ。
目だけが、ユウには見えない何かを追っている。
やがて小さな声が落ちた。
「……三階」
ユウがすぐに聞き返す。
「三階?」
「糸が、集まってる」
ユウはビルを見る。
当然、何も見えない。
黒ずんだ窓が並んでいるだけだ。
それでも先輩は迷わなかった。
「三階から確認する。ユウ、拡散杭を持て」
「はい」
短い指示だけで、任務はもう動き始めていた。
ビルの入口は半分崩れ、ガラス片が足元に散っていた。
中へ入ると、埃っぽい空気がすぐに鼻へつく。
使われなくなって長い建物特有の匂いだ。
だがそれだけじゃない。
奥に行くほど、少しずつ違和感が混じる。
先輩が先行し、アノミマスがその少し後ろを歩く。
ユウは拡散杭を持って最後尾についた。
足音が、妙に響いた。
三人分のはずなのに、時々一つ多い気がする。
遅れて鳴るような、壁の向こうを並走してくるような、そんな嫌な響きだ。
ユウは黙って歩いた。
黙ってはいたが、意識がそっちへ引っ張られているのは自分でもわかった。
階段へ差しかかった時だった。
上の方から、足音が落ちてきた。
コツ、コツ、コツ、と。
乾いた靴音みたいな響きが、誰もいないはずの踊り場から下りてくる。
ユウの足が一瞬だけ止まる。
「……っ」
反射で顔を上げる。
だが当然、誰もいない。
割れた窓から差し込む光と、剥がれた壁材が見えるだけだ。
「先輩、今――」
「聞こえてる」
短い返事だった。
でも先輩の足は止まらない。
アノミマスも、白い横顔のまま小さく言った。
「気にしなくていい」
「いや、気にはなるだろ」
思わず返した声が少しだけ早かった。
自分でも、ちょっとビビっているのがわかる。
先輩が振り返りもせず言う。
「怪談の方に意識を持っていかれるな。火種を見る」
「……はい」
ユウは返事をしながら、もう一度だけ上を見た。
やっぱり誰もいない。
いないのに、さっきの足音だけが妙に耳に残っていた。
階段を上がるにつれて、アノミマスの歩く速度が少しだけ変わった。
迷いが減る。
正確に言えば、目に見えない何かへまっすぐ近づいていく感じだ。
三階に着いた時、空気が一段だけ重くなった。
ユウは思わず眉をひそめる。
「……なんか、ここだけ違わないですか」
「違う」
先輩が即答する。
アノミマスは廊下の奥を見ていた。
そこは薄暗く、天井の一部が落ちていて、壁紙もほとんど剥がれている。
なのに彼女は、もっと先を見ている。
「……こっち」
小さな声に、先輩が頷く。
「行くぞ」
三人で進む。
ユウは周囲を見ながらついていくが、正直あまり落ち着かない。
割れた窓に映る自分たちの影が一瞬だけ四人に見えた気がして、思わずそっちを二度見した。
もちろん三人だった。
気のせいだ。
いや、気のせいじゃなく、たぶんこれも神秘の偏りが見せる歪みなんだろう。
理屈はそうでも、嫌なものは嫌だった。
廊下の途中で、アノミマスがふいに立ち止まる。
小さく首を傾けて、壁の向こうを見るみたいに視線をずらす。
「どうした」
先輩が聞く。
「集まってる」
「この先か」
アノミマスは頷いた。
「でも、薄く散ってる。下にも残ってる」
ユウはその言葉に少し反応する。
「下にも?」
「うん。ここが、いちばん濃い」
ユウには何も見えない。
でも、アノミマスの声に迷いがないのはわかった。
先輩が短く指示を飛ばす。
「ユウ、記録。中心反応は三階奥、下層へ流出あり」
「はい」
端末へ簡単に入力しながら、ユウは少しだけ息を整える。
こういう時、自分に見える仕事があるのは助かる。
怖さが少しだけ脇へ寄る。
廊下の奥、かつては事務室か何かだったらしい部屋の前で、アノミマスがまた止まった。
扉は半分外れ、内側は暗い。
窓も割れている。
床には古い書類と機材の残骸が散っていた。
その部屋を見た瞬間、ユウの背中にぞわりとしたものが走る。
部屋の奥から、話し声がした気がした。
ぼそぼそと。
何を言っているかまではわからない。
でも、誰かが確かに何かを囁いたような気がした。
ユウは反射で肩を強張らせる。
「……っ、今の」
「聞こえてる」
また先輩が先に答えた。
「声、ですよね」
「そういうふうに聞こえるだけだ」
言いながらも先輩は銃を下げない。
警戒はしている。
ただ、怯えてはいない。
ユウは小さく息を吐いた。
自分だけが普通に嫌がっている気がして、ちょっとだけ悔しい。
「怖いなら、そう言っておけ」
先輩が前を見たまま言う。
「……怖くないとは言わないです」
「なら十分だ」
その返しに、ユウは少しだけ気が抜けた。
怖い。
でも任務は止めない。
たぶん今の自分にはそれでいい。
部屋の中へ入る。
中は思ったより広かった。
壁際に壊れた端末がいくつか転がり、奥には配線が剥き出しの制御盤みたいなものが残っている。
何かの作業室だったのかもしれない。
アノミマスは部屋の中央を通り過ぎて、奥の床近くでしゃがみ込んだ。
「……ここ」
ユウと先輩が近づく。
床板の隙間。
そこから薄く、嫌な空気が滲んでいるような感覚があった。
見えない。
でも、さっきまでの違和感がここへ集まっているのだけは、ユウにもなんとなくわかった。
「下にあるのか」
先輩が聞く。
アノミマスは床へ指先を向けたまま頷いた。
「ここに落ちてる。ずっと、ここにある」
ユウは思わず息を呑んだ。
本当に辿り着いた。
怪談の正体が、この何でもない床の下にある。
先輩が短く周囲を見回す。
窓、出入口、崩れた壁、退避路。
その全部を一瞬で確認してから言った。
「ユウ。拡散杭を出せ」
ユウはすぐに背負っていたケースへ手をかけた。
重くはない。
でも、その中身がようやく意味を持ち始める。
これを打ち込めば終わるのか。
怪談は止まるのか。
そう思いながらケースを開いた時、ユウはもう一度だけアノミマスを見る。
白い少女は、静かにそこにいた。
相変わらず声は小さい。
大きなことをした顔もしない。
ただ、自分にしか見えない糸の終わりを、きちんとここまで辿ってきた。
説明で聞いたすごさと、現場で見るすごさは別だった。
ユウがそれを本当に理解したのは、怪談の真ん中で、アノミマスが何の迷いもなく床を指した今だった。
封止杭
神秘由来の滞留反応を拡散・減衰させるための携行処理装置。
局所的に偏った神秘を周囲へ逃がし、濃度と定着性を下げることで現象の沈静化を図る。
怪異を破壊する兵器ではなく、火種の段階で異常をほどいて消すための処理機材。
特務調査群〈ハウンド〉第8班《トレイス》では、中心点の確定後に打ち込み、実害が拡大する前の初期処理に用いられる。