ケースの留め具を外すと、内部に収まっていた黒い杭が姿を見せた。
ユウはそれを両手で持ち上げる。
見た目は無骨だった。
細長く、先端だけが少し鋭い。
武器というより、工具に近い。
けれど今は、その無骨さの方が妙に頼もしく見えた。
「ここでいいんですよね」
ユウが聞くと、アノミマスは床を見たまま小さく頷いた。
「……そこ」
先輩は部屋の出入口側へ半歩ずれ、ライフルを構えたまま周囲へ視線を走らせる。
その動きに無駄がない。
ユウはケースの中から起動用の小型端末も取り出した。
「打て」
短い指示。
ユウは床板の隙間へ杭の先端を合わせ、慎重に押し込む。
思ったより抵抗は少なかった。
古い床材がわずかに軋み、杭が沈む。
その瞬間だった。
耳元で、誰かが何かを囁いた気がした。
ユウの肩が跳ねる。
「……っ!」
反射で振り向く。
当然、誰もいない。
崩れた棚と、割れたガラス片が転がっているだけだ。
先輩が振り向かずに言う。
「気にするな。最後の抵抗だ」
「最後の抵抗って言い方、嫌なんですけど」
「嫌でもやる」
ユウは小さく息を吐いた。
怖い。
でも手は止めない。
杭を最後まで押し込む。
固定が完了した感触が手に伝わる。
「設置完了です」
先輩は頷きもしないまま言った。
「起動」
ユウは端末を操作する。
画面に簡易測定値が流れた。
滞留反応、局所高密度、流出微弱、処理開始可能。
親指で起動スイッチを押す。
杭の根元が、ほんの少しだけ明るくなった。
派手な光ではない。
薄い、静かな光。
青とも白ともつかないそれが、床下へゆっくり染みるように広がっていく。
「……これでいいんですか」
「いい」
先輩の返答は短い。
ユウは画面を見る。
数値が少しずつ変化していた。
局所密度が下がっている。
周囲拡散率が上がる。
滞留はまだ残っているが、偏りは崩れ始めていた。
アノミマスが小さく言う。
「ほどけてる」
ユウはそちらを見る。
「糸が?」
「うん。かたまりが、なくなる」
その声は静かだった。
怖がってもいないし、感動してもいない。
ただ、見えているものをそのまま言っているだけだ。
先輩が部屋の中を一度見回す。
「三分待つ。その間に再発兆候が出るか確認する」
ユウは頷く。
「了解です」
三分。
短いようで長い時間だった。
最初の一分は、音が気になった。
どこか遠くで足音が鳴ったような気がする。
壁の向こうで誰かが息をしたような気がする。
でも、それはさっきまでより弱い。
二分目には、空気の重さが少し変わった。
部屋に満ちていた“何かいる感じ”が、薄紙を剥がすみたいに剥がれていく。
そして三分目の終わりには、ユウにもはっきりわかった。
嫌な感じが、減っている。
「……ほんとだ」
思わず漏れた声に、先輩がわずかに視線を動かした。
「何がだ」
「いや、その……さっきまでより、普通です」
「処理中だからな」
「普通に戻るって、こういう感じなんですね」
ユウは端末を見る。
滞留値はさらに低下している。
完全消失ではない。
でも、偏りが崩れたのは明らかだった。
アノミマスが床を見たまま言う。
「もう、集まってない」
その一言が、今回の任務の終わりをいちばん簡単に表していた。
先輩がようやくライフルを少し下げる。
「処理完了。玲音、記録」
「はい」
ユウは端末へ入力する。
中心点、三階奥部屋、床下配線区画。
現象、視覚・聴覚干渉。
処理方法、拡散杭一基、正常作動。
再発兆候、現時点ではなし。
入力しながら、玲音は少しだけ変な気分になった。
怪談の正体を見た、というより、
怪談が怪談じゃなくなる瞬間を見た気分だった。
先輩が言う。
「拡散完了まで杭は残す。回収班へ後送依頼を出す」
「ここに置いて帰るんですね」
「処理中に抜く方がまずい」
当然だった。
部屋を出る前に、玲音はもう一度だけ振り返る。
さっきまであれほど嫌だった場所が、今はただの壊れた部屋に戻りつつあった。
いや、完全にただの部屋ではない。
でも少なくとも、“何かいる気がする場所”ではなくなっている。
三人で廊下へ戻る。
さっきは気になっていた足音も、もう聞こえない。
窓に映る影も三人分だけだ。
階段の踊り場へ出た時、ユウはようやく肩から余計な力が抜けたのを感じた。
「……終わった」
「始末はまだだ」
先輩が言う。
「報告と後送、再確認までが任務だ」
「わかってますけど、今くらいはちょっと言わせてください」
「好きにしろ」
そのやり取りの横で、アノミマスがポケットを探る。
ユウは少し目をやった。
「どうした」
「……飴」
「あ」
そういえば、朝にもらったままだった。
アノミマスは飴を取り出して、しばらく見てから包装を剥がす。
白い指先が小さく動く。
ユウは少しだけ笑った。
「今なんだ」
「終わったから」
理屈はわからない。
でもたぶん、アノミマスの中ではちゃんと区切りになっているのだろう。
先輩はそれを見て何も言わず、そのまま階段を下りる。
玲音も後に続いた。
ビルの外へ出ると、空気が軽かった。
ただ外気が明るいだけじゃない。
建物そのものが少し静かになった気がした。
軽装甲車の横で待っていた相馬が、こちらを見るなり手を上げる。
「お、帰ってきた」
ユウは思わず言う。
「帰ってきました……」
「なんだその声。ちゃんと生きてるじゃん」
「普通にちょっと怖かったです」
「だろうな」
笑いながら言うくせに、ちゃんと無事を確認していた顔だった。
それから相馬はアノミマスを見る。
「白いの、ちゃんと終わったか」
アノミマスは小さく頷いた。
口の中にはまだ飴があるらしく、返事は少しだけ曖昧だった。
「……おわった」
「そりゃよかった」
先輩が簡潔に報告する。
「中心点確認。拡散杭起動済み。後送回収を要請する」
「了解。戻ったら回す」
軽い口調なのに、仕事は早い。
ユウはそのやり取りを見て、レイヴンってこうやって回ってるんだなと改めて思った。
帰りの車内は、来る時より少し静かだった。
ユウは窓の外を見ながら、自分の膝の上に置いた端末をちらりと見る。
報告書の入力欄が開いたままだ。
先輩が前から言う。
「戻ったら一次報告を書け」
「やっぱり書くんですね」
「当たり前だ」
「こういう時くらい、達成感に浸ってもいいじゃないですか」
「書き終わってから浸れ」
容赦がない。
でもたぶん、その方が忘れない。
支部へ戻る頃には、ユウの中の怖さは少し別のものに変わっていた。
怪談は怖い。
それは変わらない。
でも今日知ったのは、それが怪談のままで済んでいるうちに処理する班が本当にいるということだった。
自分たちは、ただ調べるだけじゃない。
ただ戦うだけでもない。
火種を見つけて、止めて、広がる前に消す。
《トレイス》の仕事が、ようやく少しだけ実感になった。
支部へ戻ると、先輩はそのまま端末を玲音に放った。
「書け」
「はいはい……」
玲音は机に座って、報告欄へ文字を打ち込む。
任務名。
対象。
中心点。
処理方法。
結果。
少し考えてから、最後の所見欄にこう打った。
怪談で済んでいるうちに処理できたため、周辺への実害拡大は防止されたと判断する。
書いてから、玲音は少しだけ画面を見つめた。
大げさじゃない。
でも、間違ってもいない気がした。
怪談を終わらせたわけじゃない。
怪談で済んでいるうちに、火種を一つ消した。
それが《トレイス》の仕事なのだと、ユウはようやく少しだけ実感した。
その横で、アノミマスが静かに飴を舐めている。
先輩は何も言わずに別の端末を見ていた。
普通じゃない部屋で、普通じゃない任務を終えて、それでも夜は普通に来る。
ユウは端末を閉じる前に、小さく息を吐いた。
たぶん今日は、少しくらい肩の力を抜いてもいい。
軽装甲車(支部運用型)
レイヴン支部で広く運用される、少人数輸送と現地急行を目的とした軽装甲車。
防御力と機動力のバランスを重視しており、神秘調査班・回収班・即応制圧班のいずれでも使用される。
重武装車両ほどの制圧力は持たないが、危険区域外縁まで人員と機材を安全に届け、必要時には即時撤収にも対応できる。
モービル所属の相馬先輩のような支援要員にとっては、最も扱い慣れた実務車両の一つ。