ゲヘナ学園は中央区にあり、一般生徒の生活圏や主要施設もそこへ集中しています。
レイヴンはその外周に広がる外縁管理区を拠点としており、訓練場、整備区画、封鎖施設、搬送区画などを持っています。
さらに各学園へ接続する境界線上には小規模な駐屯地があり、支部や即応班はそこから出動する形になります。
つまり、ゲヘナ中央区が“学園本体”、外縁管理区と小型の各境界駐屯地が“レイヴンの活動圏”というイメージです。
任務の翌朝、ユウは少しだけ肩が重かった。
筋肉痛というほどではない。
でも、昨日の緊張がそのまま体に残っているような感じはある。
怪談だの火種だの、そんなものを相手にしたあとでいつも通りの朝が来るのは、少しだけ変な気分だった。
部屋の空気はいつも通りだった。
先輩は端末を見ている。
アノミマスは窓際で静かに座っている。
白い髪が朝の光をぼんやり返していた。
ユウだけが少しだけ、昨日の続きを引きずっている。
机に向かい、端末を開く。
昨日の一次報告。
送信は済んでいるが、修正指示が返ってくる可能性は高い。
むしろそのまま通るとは思っていない。
そう思った矢先だった。
「ユウ」
先輩が呼ぶ。
「はい」
「報告書」
「来ました?」
「来た」
短い返答と一緒に、端末へデータが飛んできた。
ユウは開いて、すぐに顔をしかめる。
「うわ」
赤い。
別に本当に赤字で表示されているわけじゃない。
でも気分としてはだいぶ赤い。
追記、修正、言い換え、簡潔化、事実の切り分け。
思っていたよりちゃんと手が入っていた。
「そんなに変でした?」
「感想が混ざってる」
先輩は画面から目を離さないまま言う。
「報告書に書くのは、怖かったとか嫌だったとか、そういうのじゃない。何が起きて、何を確認して、どう処理して、どうなったかだ」
「わかってますけど」
「わかってないから直されてる」
ぐうの音も出ない。
ユウは端末を見直す。
たしかに、自分の文章は少しだけ余分だった。
書きながら昨日の空気を思い出して、そのまま指が走った部分がある。
「ここ」
先輩がユウの端末を指す。
「“怪談で済んでいるうちに処理できたため”は悪くない」
「お、そこはいいんですね」
「悪くないだけだ。続きが長い」
「褒められそうで褒められない……」
「褒めてない」
知っている。
ユウは少しだけため息をつき、修正へ取りかかる。
余分な感想を削る。
表現を短くする。
所見を事実ベースへ寄せる。
その作業をしていると、不思議と昨日の任務が少しずつ整理されていく。
怖かったことも、足音も、声も、今は“現象”として並べられる。
それが少しだけ、レイヴンの仕事っぽかった。
しばらくして、アノミマスが小さく机のそばへ来た。
ユウが顔を上げると、白い少女は端末の画面を静かに見ている。
「……なに」
「報告書」
「そうだよ。先輩にしばかれてる最中」
アノミマスは小さく瞬きをした。
「しばかれてない」
「いや、わりとしばかれてる」
「それはお前が雑だからだ」
先輩が横から刺してくる。
ユウは口をへの字にした。
「厳しくないですか」
「甘くして得するのは、お前の気分だけだ」
それも正しい。
正しいが、言い方がいつも通り容赦ない。
アノミマスはしばらく画面を見て、それからぽつりと言った。
「昨日の、ここ」
「え?」
細い指が、記録欄の一か所を指す。
中心点位置の記述。
ユウが少しだけ首をかしげると、アノミマスは続けた。
「下にも残ってた」
「あ」
下層への微弱流出。
ユウはそれを簡単にまとめすぎていた。
「たしかに」
端末へ追記する。
すると先輩が短く言った。
「それでいい」
「え、そこ褒めるとこなんですか」
「訂正が早いのは悪くない」
今日二回目の“悪くない”だった。
ユウの中ではだいぶ評価が高い部類に入る。
修正を終えて再送信すると、少しだけ肩の力が抜けた。
「終わった……」
「一回目な」
「まだあるんですか」
「確認が返るまで終わりじゃない」
レイヴン、容赦がない。
午前の空気はそのまま支部の方へ流れていった。
ユウは先輩に資料を届けに行くついでに、少しだけ支部内の廊下を歩く。
昨日より少しだけ、視線が変わった気がした。
大げさなものじゃない。
誰かに囲まれるわけでも、急に褒められるわけでもない。
でも、すれ違う隊員の一人が軽く顎を引いたり、別の誰かが
「第8班、昨日の件終わったんだってな」
と何気なく言ったりする。
その程度の変化。
でもユウには、それが少しだけ大きかった。
「……新人」
書類棚の近くで声をかけられる。
見れば、支部の別班らしい先輩が端末を片手に立っていた。
「はい」
「アノミマスちゃん、連れて帰ってきたか」
「はい。一応」
「一応じゃ困るだろ」
そう言いながら、その人は少しだけ笑った。
からかい半分、本気半分みたいな言い方だった。
ユウはそこで初めて、自分が“第8班の新人”として見られているのだと実感する。
なんとなく居心地が悪くて、でも少しだけ悪くない。
部屋へ戻ると、アノミマスはベッドの上で小さなメモ帳を見ていた。
売店で見ていた、しおり紐のついたやつとは別物だ。
ただ、それでも白い指先でページをめくる動きは静かだった。
「何見てるの」
「……前の」
「前の?」
「糸の、残り方」
ユウは少しだけ止まる。
「覚えてるのか」
「少し」
やっぱりすごい子なんだな、と改めて思う。
でも本人はそれを大きなことみたいには言わない。
ユウが机に座ると、アノミマスが少し近い位置へ移ってきた。
ほんの少しだけ。
先輩の真後ろではなく、ユウの机のそば。
それだけの距離の変化なのに、ユウにはちゃんとわかった。
「……ちょっと近くない?」
聞くと、アノミマスは少し考えてから答える。
「慣れた」
ユウは数秒遅れて、少しだけ笑った。
「そっか」
それだけで十分だった。
先輩はそのやり取りを見ていたのか見ていなかったのか、端末から目を離さないまま言う。
「次はもっと長い案件もある」
ユウはそっちを見る。
「もう次の話ですか」
「次が来る前提で動く」
「レイヴンってそんなもんなんですね」
「そんなもんだ」
ユウは小さく背もたれに体を預ける。
昨日までは、自分はただここに放り込まれた感じが強かった。
アノミマスの同行担当。
先輩の下についた新人。
それは今も変わらない。
でも、少しだけ違うものも増えた。
《トレイス》が何をする班か、少しわかった。
アノミマスがどうしてここにいるのかも、前よりわかる。
先輩がなぜあんなに落ち着いているのかも、ほんの少しだけ見えた。
そしてたぶん、自分も少しだけこの班の中へ入った。
先輩が不意に言う。
「ユウ」
「はい」
「昨日の所見」
また直しかと思って身構える。
だが先輩は短く続けた。
「悪くなかった」
ユウは少しだけ目を瞬かせる。
「……それ、だいぶ珍しくないですか」
「二回言わせるな」
「言わせたくて聞いたわけじゃないんですけど」
でも、その一言は思っていたよりちゃんと胸に落ちた。
アノミマスが横で小さく言う。
「よかったね」
「うん。たぶん今のはだいぶレア」
白い少女は少しだけ口元を緩めた気がした。
部屋の外では、支部の足音や無線がいつも通り流れている。
火種はたぶん、またどこかにある。
怪談の形かもしれないし、遺物の形かもしれないし、もっと別の顔かもしれない。
でも昨日よりは少しだけ、自分がここにいる意味を言葉にできる気がした。
ユウは端末を閉じて、小さく息を吐く。
初任務は終わった。
報告書も、一応通った。
そしてたぶん、自分は昨日より少しだけ《トレイス》の人間になった。