その日は休みだった。
だからユウは少しだけ気を抜いていたし、朝もいつもより静かに始まるものだと思っていた。
先輩が端末から目を上げるまでは。
「ユウ」
「はい」
「バスティオンに行く。ついて来い」
あまりにもいつも通りの調子で言われて、ユウは一瞬だけ聞き返しそうになる。
「……バスティオン、ですか」
「そうだ」
「何しに」
「定期確認」
先輩はそれ以上は説明しなかった。
アノミマスは窓際で静かに座ったまま、小さくこちらを見ている。
その反応が妙に落ち着いていて、ユウはそこで初めて、これは急な話ではなく、最初から予定に入っていたものなのだと気づいた。
「行くぞ」
短い一言で、朝の空気が少しだけ変わった。
*
バスティオンの待合室は静かだった。
白い照明。
低い受付カウンター。
壁際に並んだ簡素な椅子。
見た目だけなら、どこかの検査室の前にも見える。
けれどユウは、入った瞬間に少しだけ違和感を覚えた。
空気が張っている。
うるさいわけでも、騒がしいわけでもない。
ただ、静かなまま気を抜くことを許さない種類の空気だった。
床も壁も、やけに綺麗だった。
埃がない。
傷も少ない。
人がよく使う場所のはずなのに、生活の擦れた跡だけが薄い。
代わりにあるのは、無機質な整い方だった。
壁の高い位置に、黒い小さなレンズがいくつも埋まっている。
見張っているのか、記録しているのか、それとも両方なのか。
考えたくない感じだけが、はっきりとあった。
先輩は慣れた足取りで受付へ向かう。
アノミマスもその後ろを静かについていく。
ユウだけが、少しだけ場違いな気分で周囲を見た。
「……ここ、医務室じゃないですよね」
思わず小声で言うと、先輩が短く返した。
「違う」
「ですよね」
だと思った。
廊下の奥を、黒い機体が横切る。
エンフォーサー。
三機。
一機はユウにも用途が想像しやすかった。拘束用の構成だ。
だが残る二機は違う。
装備の形が、どうにも“人を相手にするため”には見えない。
その間を重武装の隊員が無言で巡回していく。
足音は小さいのに、視界に入るだけで圧があった。
細かいことはわからない。
でも、それで十分だった。
ここが治療の場所じゃなく、管理の場所なのだと、それだけで伝わる。
受付の向こうで、先輩が端末を差し出している。
短いやり取りのあと、アノミマスの手首についた細いブレスレットへ視線が向けられた。
「定期確認です」
事務的な声だった。
柔らかくも硬くもない。
ただ、手順として必要なことを言っているだけの声だった。
アノミマスは小さく頷く。
抵抗も、嫌そうな顔もない。
それが余計にユウの胸に引っかかった。
定期確認。
言葉だけなら穏やかだ。
でもこの場所の空気の中で聞くと、妙に重い。
先輩がユウの方を振り向く。
「座って待て」
「はい」
ユウとアノミマスは並んで椅子に座る。
先輩は立ったまま、壁際へ移動した。
少しして、受付の奥で半透明の表示板が立ち上がった。
淡い光の文字列が空中に浮く。
次に呼ばれたのは、名前じゃなかった。
「管理番号ANM-03。確認室二へ」
ユウは一瞬だけ、誰のことかわからなかった。
隣で、アノミマスがすっと立ち上がる。
そこでようやく気づく。
今のが、彼女のことだ。
ユウの背中に、冷たいものが走る。
名前より先に番号がある。
それがこの場所のルールらしかった。
アノミマスはその呼ばれ方に特に反応しなかった。
慣れている。
たぶん、それがいちばん嫌だった。
受付の職員がユウと先輩の方を見る。
「同行一名まで」
先輩はユウを見た。
「行け」
「自分ですか」
「お前以外に誰がいる」
ユウは小さく息をついて立ち上がる。
アノミマスは何も言わず、ただ少しだけ歩く速度を落としてユウを待った。
確認室二は、待合室よりずっと小さかった。
白い机。
簡易端末。
検査用らしい光学装置。
部屋の隅には、ブレスレットの調整機器らしい細いアームがある。
それだけ見ればただの確認室だ。
だが壁際には余計なものがあった。
開閉式の固定具。
引き出し式のロック端子。
通常は使わないが、必要ならすぐ使えるように置かれている部品たち。
見なかったことにできる程度には目立たない。
けれど、一度見てしまえば、見えなくはならない。
担当者が事務的な声で言う。
「体調確認から行います」
アノミマスは椅子へ座る。
手首を差し出す動きが妙に慣れていた。
ユウはそれを見て、また少しだけ胸が詰まる。
たぶん、何度も来ているのだ。
今日だけじゃない。
ずっと前から。
担当者は端末へ情報を打ち込みながら、ブレスレットの表面に何かを走らせる。
薄い光が一度だけ流れた。
「偏差軽微。記録範囲内」
事務的な言葉。
ユウはしばらく黙っていたが、どうにも気になって聞いた。
「これって……普通の体調確認、なんですか」
担当者の手がほんの少しだけ止まる。
先に答えたのは、部屋の入口に立っていた先輩だった。
「普通ではない」
ユウがそちらを見る。
先輩は平然とした顔で続けた。
「体調確認でもある。管理確認でもある」
「管理」
「そうだ」
ユウは少しだけ声を失った。
先輩は隠す気がない。
でも必要以上に感情も乗せない。
「アノミマスは管理される火種枠だ」
「……火種」
口の中でその言葉が重く落ちる。
ユウはアノミマスを見る。
白い少女は検査台に座ったまま、手首を触られている。
怖がってもいない。
怒ってもいない。
ただ静かにそこにいる。
「危険物扱い、って意味ですか」
聞いた声は、自分でも少し硬かった。
先輩は首を振らない。
でも、肯定もしないまま言う。
「単純じゃない。保護対象でもある。だが、観測対象でもある」
「それって……」
「レイヴンでは珍しくない」
短く切ってから、先輩はアノミマスを見る。
「珍しいのは、こいつが普通に喋って歩いて飯を食うことだ」
ユウは返す言葉を一瞬失った。
担当者が端末を操作するたび、卓上の薄いモニターに項目が浮かび上がった。
半透明の光が何枚も重なって、部屋の空気だけが少し冷たく見える。
ユウは見ない方がいい気がして、すぐに視線を逸らしかけた。
だが、完全に外す前に、いくつかの文字が勝手に目へ入ってくる。
管理番号:ANM-03
記録名称:アノミマス
旧識別名:あり
保護年:5年前
記憶残存:低
身体成長:停止傾向継続
喉が少しだけ詰まった。
五年前。
成長停止。
旧識別名あり。
そこまで読んだところで、別の欄が切り替わる。
次に浮いた単語は、もっと意味が悪かった。
関連資料:回収済
器体定着
魂移行
説明不能機能部位:あり
意味を理解しきる前に、担当者が画面を閉じる。
光の板が静かに消えて、何もなかったみたいに机の上だけが残った。
ユウはすぐには何も言えなかった。
「……覚えてないのか」
気づけば、そう聞いていた。
アノミマスは少しだけ考えてから答える。
「ほとんど」
「保護される前のことも?」
「……うん」
声はいつも通り小さい。
でも、曖昧ではなかった。
「嫌じゃないのか」
聞いてから、ユウは少し遅れて後悔した。
変な聞き方だった気がする。
でもアノミマスは怒らなかった。
少しだけ視線を下げて、ぽつりと言う。
「……ないものは、思い出せない」
ユウは黙る。
かわいそう、とはすぐに言えなかった。
軽すぎる気がした。
でも平気でもいられない。
どう受け止めればいいのか、うまくわからなかった。
担当者の声が入る。
「生体反応は安定。ブレスレットも問題なし」
その言い方はどこまでも事務的だった。
だから余計に、この場所の重さが際立つ。
「次回確認は通常周期で」
「了解」
先輩が短く返す。
確認はそれで終わった。
待合室へ戻る途中、ユウはしばらく黙っていた。
アノミマスも黙っている。
先輩だけがいつも通り前を歩いている。
ユウはやっと、小さく言った。
「……知ってたんですね」
「知ってる」
「最初から」
「最初からだ」
先輩は振り返らない。
「だから守ってるんですか」
その問いに、先輩は少しだけ間を置いた。
「それだけじゃない」
「え」
「必要だから守る。大事だから守る。役に立つからじゃない」
ユウは少し目を見開く。
先輩の言葉はいつも短い。
でも、たまにこういうふうに真ん中だけを置いていく。
「勘違いするな」
先輩が続ける。
「管理対象だから距離を置くわけじゃない。管理が必要でも、人は人だ」
ユウはそこでようやく、小さく息を吐いた。
待合室へ戻ると、さっきと同じ静けさがそこにあった。
巡回する機体。
重武装の隊員。
白い椅子。
低い照明。
でもユウの目には、もう少し違って見えた。
ここは危険なものを閉じる場所だ。
人も、物も、神秘も、機械も。
その中にアノミマスもいる。
けれど、だからといって彼女が“物”になるわけじゃない。
そう思わせたのは、たぶん先輩の言葉だった。
帰り道、連絡通路を歩きながらユウはアノミマスを見る。
白い少女はいつも通り静かだ。
細い手首には、点検を終えたブレスレットがある。
「……疲れたか」
聞くと、アノミマスは少しだけ考えてから答えた。
「少し」
「そっか」
「でも、平気」
その返事が妙にいつも通りで、ユウは少しだけ救われる。
しばらく歩いてから、アノミマスがふいにユウの袖を軽く引いた。
ユウは足を止める。
「どうした」
アノミマスは小さな声で言った。
「……知っても、変わる?」
ユウは数秒だけ黙った。
その問いの意味は、ちゃんとわかった。
五年前のこと。
記憶がないこと。
管理対象であること。
そういうのを知っても、自分の見方は変わるのかという問いだ。
ユウは正直に考えて、それから答えた。
「びっくりはした」
アノミマスは何も言わない。
「でも、それで急に別人になるわけじゃないだろ」
白い横顔が、少しだけこちらを見る。
「アノミマスはアノミマスだし。今まで通り静かだし、声小さいし、たまにちょっと不思議だし」
「……ちょっと」
「かなり、かもしれない」
ユウがそう言うと、アノミマスはほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったと言うには小さい。
でもたしかに、少しだけ空気がやわらいだ。
前を歩いていた先輩は、たぶん聞こえていた。
でも何も言わなかった。
支部へ戻る頃には、ユウの中の重さはまだ消えていなかった。
たぶんすぐには消えない。
でもその重さは、怖さとは少し違うものに変わっていた。
守る対象。
班の中核。
管理される火種。
その全部を抱えたまま、アノミマスは今日も静かに歩いている。
ユウはその横顔を見て、小さく息を吐く。
自分はまだ全部を理解できていない。
でも、理解できないものがあるからって、離れる理由にはならない。
少なくとも今は、そう思えた。