訓練場の床は、昼前の光を鈍く返していた。
ユウは手首を軽く回してから、正面の先輩を見る。
いつも通りの無愛想な顔。
やる気があるのかないのか、一見しただけではわからない立ち方。
でも、その立ち方がもうすでに隙がなかった。
「本当にやるんですね」
ユウが言うと、先輩は短く返した。
「お前が言い出した」
「まあそうなんですけど」
少し前、ユウの方から頼んだのだ。
また訓練をつけてほしいと。
任務を一つ終えて、少しだけわかったことがある。
自分はまだ全然足りていない。
それはわかっていたが、前より少しだけ、何が足りないのかを知りたくなった。
先輩は床の端に置いてあった訓練用の標的ユニットを顎で示す。
「今回は条件をつける」
「条件?」
「これを守る」
ユウはそちらを見る。
人型の簡易ダミー。
軽い衝撃でも倒れるように作られた、よくある訓練用標的だ。
「自分がですか」
「違う。私がだ」
ユウは少しだけ瞬きをした。
「……先輩が守る側?」
「そうだ。お前はこれを倒せ。私はそれを止める」
なるほど、とユウは小さく息を吐く。
単純な打ち合いじゃない。
たしかに今の第8班で必要そうなのは、こっちの方だった。
アノミマスは訓練場の端のベンチに座っている。
白い髪が、少しだけ風に揺れた。
見学する気らしい。
「ルールは?」
「訓練用装備のみ。標的へ三秒以上接触できれば、お前の勝ち」
「三秒」
「一瞬触れただけじゃ壊せない。現実でも同じだ」
先輩はそれだけ言って、標的の前に立った。
ユウは訓練用ライフルを持ち直し、足の位置を確かめる。
深呼吸一つ。
「始めるぞ」
「はい」
合図と同時に、ユウは左へ動いた。
正面からは行かない。
たぶんそれだと通らない。
なら少しでも角度をずらして、先輩の視線と体を動かす。
だが、そう考えた瞬間にはもう先輩も動いていた。
前に出すぎない。
でも引きもしない。
標的を背にしたまま、ユウの射線だけをきれいに切ってくる。
「うわ、やりづら……!」
「当たり前だ」
ユウは牽制を一発入れ、すぐに逆へ切り返す。
先輩はそれも追う。
速いというより、位置がうまい。
ユウが行きたくなる場所に先に立っている。
これがただの一対一なら、まだわかる。
でも今回は後ろに守るものがある。
なのに先輩は、標的の位置をずらさず、自分の立ち方だけでユウを回り込ませない。
ユウは舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。
撃つ。
踏み込む。
フェイントを混ぜる。
それでも通らない。
先輩は訓練用シールドを大きく使うわけでもなく、最低限の動きで攻め筋だけを潰してくる。
無駄がなさすぎて嫌になる。
「……っ!」
思い切って距離を詰める。
ライフルを下げて、接近で崩す。
その瞬間、先輩の体が半歩だけ前に出た。
ぶつかる。
崩される。
ユウの視界が揺れた。
気づいた時には、先輩の訓練用ナイフが首元で止まっていた。
「終わり」
短い声だった。
ユウは一歩下がって、息を吐く。
「……全然通らない」
「通す気しか見えてない」
「いや通したいんだから当然では」
「守る相手が見えてない」
ユウは少しだけ黙った。
先輩はナイフを下ろす。
「もう一回」
「はい」
二回目も、三回目も、大きくは変わらなかった。
ユウは前より少し考えて動けるようになっているはずだった。
任務も終えた。
《トレイス》の仕事も少し知った。
でも、知っただけでは足りないらしい。
先輩は崩れない。
ただ硬いわけじゃない。
ただ強いわけでもない。
守るものを背負ったまま、その条件ごと崩れない。
それが異常に難しいのだと、ユウにも少しずつわかってきた。
四回目が終わった頃、ユウは完全に息が上がっていた。
訓練用ライフルを下ろし、膝に手をつく。
「……なんで、そんなに崩れないんですか」
先輩は肩で息をしているユウを見る。
「前に出るだけならまだ簡単だ」
「はい」
「後ろを守ったまま崩れない方が難しい」
その言葉は、妙にすっと入ってきた。
先輩は標的を見もせず続ける。
「第8班はそういう場面が多い。アノミマスを守る。火種に近づく。処理する。下がらない。でも崩れない」
ユウは呼吸を整えながら、なんとか頷く。
「お前が覚えるのは、攻める形だけじゃない」
「守る形も、ってことですか」
「そうだ」
短い。
でも十分だった。
ユウはようやく、自分が見ていた先輩の強さが、少しだけ違って見え始める。
倒すのがうまいから強いんじゃない。
守る条件が乗っても崩れないから強い。
それはたぶん、普通の模擬戦だけじゃ見えにくい強さだった。
ベンチの方から、小さな声がした。
「……崩れてない」
アノミマスだった。
ユウがそちらを見ると、白い少女はいつも通り静かに座っている。
でも、その目はちゃんと訓練を見ていたらしい。
「うん、全然崩れない」
ユウがそう返すと、アノミマスは少しだけ頷いた。
「そういう人」
まるで前から知っていたみたいな言い方だった。
訓練はそこで終わった。
ユウはベンチへ座り込み、腕をぶら下げて息を整える。
正直きつい。
悔しい。
でも、前よりわからない悔しさではなかった。
その横で、先輩はもう次の動きに入っていた。
訓練用の装備を外し、保護具の擦れを確認し、使ったものをひとつずつケースへ戻していく。
雑に置くものが一つもない。
弾倉の位置、保護具の向き、端末の収納場所まで、全部が決まっているみたいだった。
「……几帳面ですね」
ユウが言うと、先輩は視線も上げずに返した。
「管理しない方が面倒だ」
「私物もそんな感じなんですか」
「だいたいは」
ケースの中には必要なものだけが入っていた。
予備の認証タグ、端末、整備用の小物。
そのどれもがきれいに収まっている。
ユウが何気なく見ていると、隅に見覚えのある小さな包みがあった。
飴だ。
ユウは思わず目を細める。
「……それ」
「見るな」
「いや、見える位置にあるじゃないですか」
先輩は無言でケースの蓋を半分閉める。
わかりやすい。
ユウは少し笑ってしまう。
「アノミマス用ですか」
先輩は答えない。
でも否定もしない。
その沈黙がだいたいの答えだった。
ベンチの端でアノミマスが小さく言う。
「……私の」
「やっぱりか」
「予備だ」
先輩がようやく短く言った。
「予備って言い方」
「無くて困るなら持つ。それだけだ」
その返しも、先輩らしかった。
ユウは背もたれに体を預ける。
「なんか、戦い方と一緒ですね」
「何がだ」
「崩れないようにしてる感じです」
先輩の手が一瞬だけ止まる。
ほんの一瞬だった。
「……そう見えるなら、それでいい」
ユウは少しだけ口元を緩める。
たぶん、今のはかなり肯定に近い。
訓練場には、まだ昼の光が残っていた。
さっきまで息が上がるほど動いていたのに、今はもう静かだ。
先輩はケースを閉じて立ち上がる。
アノミマスもそれに合わせて立つ。
ユウも少し遅れて腰を上げた。
今日の訓練で勝てたわけじゃない。
たぶん、まだしばらく勝てない。
でも、前より少しだけ目指す形は見えた気がした。
前に出るだけじゃ足りない。
守るものを背負ったまま、崩れないこと。
それが、先輩の強さだった。
そしてたぶん、《トレイス》で必要になる強さでもある。
先輩が歩き出しながら言う。
「ユウ」
「はい」
「次はもう少し考えて動け」
「今日のは考えてたつもりなんですけど」
「足りない」
「厳しいなあ」
「甘くしても意味がない」
ユウはため息をつくふりをして、その背中を追う。
悔しさはまだ残っている。
でもそれは、前よりちゃんと前向きな悔しさだった。
名前:氷室シオン
所属:レイヴン / 第8班《トレイス》
役割:前衛・現場指揮補助・追跡判断
武器:バリスティックシールド
コンパクト・カービン
CR-09《ハッシュ》
ポジション:FRONT
戦闘スタイル:近〜中距離制圧 / 前衛護衛型
紹介文:
レイヴン第8班《トレイス》の実働を支える先輩隊員。
口数は少なく、必要なことしか言わないが、現場では誰よりも早く状況を読み、短い指示で班を動かす。
無駄を嫌う実務家であり、新人の甘さや判断の遅れには容赦がない。
戦場では取り回しの良いコンパクト・カービンを用い、前に出すぎず、それでいて一歩先に立つ位置で味方の線を整える。
追跡、護衛、封止杭の運用判断まで幅広く担っており、第8班においては“流れを切らさないための軸”に近い存在。
一見冷たく見えるが、必要な相手は見捨てず、面倒ごとまで含めて最後まで引き受けるタイプ。