会議室の前面に広がった旧市街の地図は、最初に見た時よりもずっと冷たく見えた。
赤く塗られた異常反応域は広い。
しかもただ広いだけではない。
濃淡がまだらに脈打っていて、じわじわと広がっているのが一目でわかる。
前に立った担当者が、端末を操作しながら淡々と告げる。
「旧市街南西区画において、神秘異常の急速拡大を確認。現時点で局所火種ではなく、広域汚染案件として扱う」
会議室の空気が、言葉のあとから少しだけ重くなる。
「現地では汚染オートマタ系列の活動を複数確認済み。個体数は固定されていない。停止機の再活動、あるいは周辺残骸からの再起動が疑われる」
ユウは端末へ目を落とす。
共有された補足欄には、簡潔な単語だけが並んでいた。
広域汚染。
活動個体数不定。
封鎖線拡大見込み。
中心点未特定。
どれも嫌な言葉だった。
「本件は単独部門案件ではない」
担当者が画面を切り替える。
地図の上に部門ごとの色分けが重なった。
「複数部門合同任務として処理する」
やはりそうか、とユウは小さく息を飲む。
さっきまで廊下に溢れていた見慣れない隊員たち。
いつもより多かった無線。
足音の数。
全部がそこへ繋がった。
「バスティオンは外縁封鎖線の構築と維持。危険区域への流入制御、避難導線の固定、封鎖境界の再評価を担当」
青い線が地図の外周へ引かれる。
「エンフォーサー運用班は汚染オートマタ群の足止めと局地制圧。優先は撃破ではなく、南西区画内部への拘束」
今度は赤い矢印がいくつか重なった。
「モービルは搬送線、後送路、弾薬・補給の接続維持。必要時には追加戦力の空輸受け入れを担当」
後方の方で、誰かが端末に短く打ち込む音がした。
「ハウンド各班は観測、記録照合、進入路確認、現地踏査、中心点探索支援を担当。現時点で最優先は中心点の特定と処理」
そこでモニタの中央に、さらに濃い赤が浮かび上がる。
旧市街南西区画、そのさらに奥。
通常の小規模案件では見ない広さだった。
担当者は感情を乗せずに続ける。
「沈静化の鍵は中心点の処理にある。封鎖だけでは抑えきれない。局地迎撃だけでも減衰は見込めない。よって、中心点の特定と初期処理が本件の勝ち筋になる」
その一言で、ユウの意識が少しだけ戻る。
自分たちの仕事だ。
前線で全部を止めるわけではない。
でも、この任務を終わらせるための鍵そのものは、自分たちの側にある。
モニタ上に侵入想定経路が引かれていく。
「第一進入線は旧搬送路。第二進入線は西側崩落通路。ハウンドと制圧群は第一進入線を優先。第二進入線は状況次第で切替」
後方から低い声が飛ぶ。
「汚染オートマタの再活動頻度は」
「現時点では不明。ただし停止個体の再起動は想定内として扱う」
「最悪だな」
「そうだ」
短いやり取りだった。
文句ではなく、確認だけが積み上がっていく。
別の方向から声が上がる。
「封鎖線維持の最長想定は」
「一次想定二十分。最長四十分」
四十分。
長い。
ユウは喉の奥でそう思ったが、口には出さなかった。
前に座る先輩が口を開く。
「第8班から確認」
会議室の空気がわずかにそちらへ寄る。
「中心点候補が複数出た場合、処理優先順位は」
担当者が即答する。
「最も集束の強い地点を優先。拡散の広さではなく、汚染の核へ近い方を取る」
「了解」
先輩はそれだけで引いた。
無駄がない。
聞くべきことだけを短く聞いて、必要以上には喋らない。
そのやり取りを聞きながら、ユウは少しだけ安心する。
自分がまだ見えていない部分を、先輩はもう見ている。
ブリーフィングはそのまま細部へ入っていく。
封鎖更新時刻。
後送優先順位。
通信帯域の分離。
再観測手順。
支部間接続。
どれも必要だった。
どれも重かった。
だがユウの中に残ったのは、もっと単純な形だった。
勝ち筋を作る。
そのために前へ出る。
担当者が最後に告げる。
「各班は一時間後出動準備。詳細資料は端末へ共有済み。再確認の上、搭載区画へ移動」
それで会議は終わった。
椅子が引かれる音が一斉に重なる。
でも、だらける空気は一切ない。
立ち上がった瞬間に、全員がもう次の動きへ入っていた。
先輩も同じだった。
「戻るぞ」
「はい」
ユウは端末を抱えて立ち上がる。
アノミマスも静かに続いた。
会議室の外へ出ると、さっきまでよりさらに空気が速い。
無線が飛ぶ。
認証タグが更新される。
搬送担当が走らずに急ぐ。
誰も声を荒げないのに、全体がもう出動前だった。
「……ほんとに始まるんですね」
思わず漏れた声に、先輩は前を見たまま答える。
「もう始まってる」
「会議が始まりじゃないんですね」
「確認だ。開始はもっと前だ」
その言い方に、ユウは少しだけ背筋を伸ばした。
部屋へ戻ってからの一時間は短かった。
装備確認。
弾薬確認。
識別タグの再更新。
端末の同期。
班ごとの簡易共有。
先輩はいつも通り無駄がない。
ユウが一つ確認を終える頃には、先輩はもう次の手順に入っている。
アノミマスは静かだったが、動きは止まらない。
必要なものだけを持ち、必要な位置に立っている。
やがて、搭載区画への移動命令が来た。
搬送区画の空気は、会議室以上に“動いていた”。
床誘導灯が点き、搬送員がラインを確認し、モービルの隊員がタグの照合をしている。
上空ではすでに、複数のローター音が重なっていた。
指定された機体は、これまで見たどのヘリよりも大きかった。
黒い輸送ヘリ。
腹が広く、側面は分厚く、乗り込むための後部ハッチが口みたいに開いている。
ただ停まっているだけなのに、機体そのものが「急げ」と言っているようだった。
「……これ乗るんですか」
ユウが思わず言うと、トウカが横から笑う。
「今さら何言ってんの、新人。今日は歩きじゃない」
トウカはすでに搬送タグを付け替えていた。
いつもの軽さはある。
でも、今日は完全にモービルの顔だ。
「これ、ストラティオスですよね」
「そう。今日は輸送仕様。人員と機材をまとめて前へ送る」
言いながら、トウカはハッチの中へ視線をやる。
「座席少ないから詰めろよ。荷物扱いされたくなかったら早く乗れ」
その軽口に少しだけ救われる。
先輩が先に乗り込む。
アノミマスが続き、ユウもその後に入った。
機内は思っていたより狭かった。
広いはずなのに、人と装備と固定具が並ぶと一気に圧が出る。
ベルトを締め、端末を固定し、ライフルを脚の間へ収める。
ハッチがまだ閉じないうちに、ローター音が一段重くなった。
ユウはふと外を見た。
その瞬間、隣の空域を滑るように並んできた機影が目に入る。
細い。
速い。
輸送ヘリとは明らかに違う輪郭。
機首が尖り、武装ポッドを抱えた攻撃ヘリが、こちらにぴたりと速度を合わせていた。
「……アパッチ?」
思わず声が漏れる。
トウカがハッチ際で振り返った。
「気づいた?」
「いや、気づくでしょあれ!」
輸送ヘリの横に付き、わずかに前へ出る位置で並走している。
ユウはその機影を見たまま呟く。
「攻撃ヘリも参加するんですか」
先輩が当然みたいに答えた。
「広域汚染だ。輸送だけで済むと思うな」
それだけで、今回の規模がまた一段重くなる。
ただの移動じゃない。
ただの護送でもない。
前線まで運ぶ輸送ヘリに、攻撃ヘリが追従している。
つまり、空の上からもう戦場前提なのだ。
「そんな顔するな」
先輩が短く言う。
「驚くのは勝手だが、今さらだ」
「いや、今さらっていうか……想像よりちょっとだいぶ大きくて」
「それが合同任務だ」
機体がわずかに浮き上がる。
床から振動が伝わってきた。
ハッチ越しに見える地面が少しずつ遠ざかる。
風が強くなり、外の音が機体の振動と混ざっていく。
その横で、攻撃ヘリ――アパッチがぴたりと付いてくる。
細く、低く、鋭い。
輸送ヘリが“運ぶ戦場”なら、あちらは“切り開く戦場”みたいだった。
ユウは無意識に息を呑む。
レイヴンは思っていたよりずっと大きい。
思っていたよりずっと、最初から全部を戦場として動かしている。
ベルトを締め直した手に、少しだけ力が入る。
その時、隣でアノミマスが小さく呟いた。
「……今日は、遠い」
「何が?」
「糸」
先輩がすぐに返す。
「今は追うな」
「うん」
それで終わる。
でも、その短いやり取りだけで、ユウの胸の奥に重さが残った。
遠い。
つまり、まだ向こうは先だ。
これから自分たちは、その先へ飛んでいく。
機内の誰も無駄口を叩かない。
トウカでさえ、今は搭載確認と無線の方が先らしい。
機体の振動、ローター音、短い応答。
その全部が混ざって、出動の実感だけが濃くなる。
ユウは小さく息を吐き、端末を握り直した。
勝ち筋を作る。
中心点を見つける。
止める場所を示す。
やることは決まっている。
輸送ヘリの窓の向こうで、アパッチがわずかに機首を振った。
そのまま二機は護衛位置を保ち、黒い機体群は旧市街方面へ進路を取る。
会議室で聞いた話が、ようやく本物の形になった気がした。
もう後ろには戻れない。
日常は支部に置いてきた。
ここから先は、レイヴンが大きく動く側の時間だ。
アパッチ レイヴン仕様
レイヴンが広域任務や重汚染区域への進出時に随伴させる攻撃ヘリ。
主兵装は機首下ガトリングガン、レーザー誘導ミサイル、ロケット弾ポッド。
加えて、上部のロングボウ・レーダーにより索敵・目標捕捉・地形越しの探知を行い、輸送ヘリや地上部隊の進路確保を支援する。
今回のような合同任務では、輸送ヘリの直掩と先行火力投射を兼ねる形で参加する。