旧市街任務の余韻が、ようやく薄れてきた頃だった。
第8班《トレイス》の部室にも、少しずついつもの時間が戻ってきていた。
端末を開く。
確認事項を見る。
机に肘をつく。
そういう小さな動作が、やっと“普通”の速さでできるようになってきていた。
だからこそ、その通知音は妙に冷たく聞こえた。
先輩の端末が短く鳴る。
先輩は画面を一度見て、ほんの少しだけ目を細めた。
その小さな変化を、ユウは見逃さなかった。
「……何か来ました?」
「第8班に回ってきた」
「何がですか」
先輩は端末を投げるでもなく、机の中央へ置いた。
「別班案件だ」
ユウは少しだけ眉を寄せる。
「別班案件なのに、なんでうちに?」
「元はな」
短い返答だった。
元は別班案件。
でも今は違う。
その言い方だけで、ユウにはだいたい嫌な予感がした。
窓際にいたアノミマスも、先輩の声に小さく顔を上げていた。
白い横顔は静かなままだが、視線だけが少しこちらへ寄る。
「見るぞ」
先輩がそう言って、共通表示用の端末にデータを開く。
最初に出てきたのは、簡潔な案件概要だった。
カイザーコーポレーション
関連搬送記録追跡
旧施設接触履歴あり
未登録回収物の移送疑い
現場残留反応、一部未分類
ユウは画面を追いながら言った。
「カイザーの案件、ですよね」
「そうだ」
「それなら他班が追ってるやつじゃ……」
「追っていた」
先輩が言い直す。
「途中から観測者の痕跡が出た」
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
ユウは無意識にアノミマスを見る。
アノミマスは表情を変えていない。
でも、指先だけが少し止まっていた。
「……観測者」
ユウが小さく繰り返す。
その呼び名は知っている。
先輩が時々、ごく短く触れるだけの相手だ。
掴めない。
薄い。
でも、確実にいる。
それが第8班の追っている“観測者”だった。
先輩は端末を操作し、現場写真を出す。
旧施設の一角。
カイザーの搬送車両らしきもの。
破損した格納箱。
散らばった記録媒体。
一見すれば、ただの回収失敗にも見える。
だが次のページで、ユウは眉をひそめた。
「……なんだこれ」
残留反応の観測図。
本来なら乱れるはずの線が、一部だけ妙に整いすぎていた。
先輩が言う。
「痕跡が切られてる」
「切られてる?」
「消えたんじゃない。最後だけ見えなくされてる」
ユウは少し黙った。
「それが観測者のやり方ですか」
「毎回だ」
先輩の声は低かった。
「近くまでは行ける。かなり近くまでな」
「でも捕まらない」
「最後で糸を切られるからだ」
そこでアノミマスが、机の近くまで歩いてきた。
白い指先が写真の端で止まる。
「……これ、いや」
「アノミマス?」
アノミマスは少しだけ黙り、それから小さく言った。
「糸が、きれいすぎる」
先輩の視線がすぐに向く。
「切られてるか」
アノミマスは頷いた。
「……うん。見えないように、切ってる」
部屋が静かになる。
ユウはその言葉を反芻した。
ただ逃げるんじゃない。
追えなくなるように、最後だけ痕跡を切る。
だから見失う。
「じゃあ、第8班でも」
「捕まえきれない」
先輩が言った。
「喉元までは行く。だが毎回、最後だけ逃がされる」
その言い方に、ユウは少しだけ息を止めた。
届いていないわけじゃない。
追えていないわけでもない。
最後だけが足りない。
だからずっと終わらない。
「……面倒くさいですね」
「そうだ」
先輩はあっさり頷く。
「だから何年も続いてる」
ユウは端末へ目を戻す。
カイザーの搬送記録。
旧施設。
未分類の残留。
そして途中から混じった観測者の痕跡。
「で、今回のカイザー案件は」
「追う」
即答だった。
「別班が追っていた線はそのまま使う。だが、この痕跡が出た時点で第8班の領分でもある」
「正式に?」
「正式にだ」
先輩は通知ログを開いて見せる。
共有理由
調査継続
観測対象痕跡疑い
第8班確認要請
短い文面だった。
でも、それで十分だった。
便利屋みたいに何でも押しつけられたわけじゃない。
呼ばれる理由がある。
そのことが、ユウには少しだけ重かった。
「……また、でかいの来ましたね」
「まだ資料だ」
先輩が言う。
「現場に出ると決まったわけじゃない」
「そういう言い方する時、だいたい出ますよね」
「勘が悪くないな」
褒められている気はしない。
アノミマスはまだ写真を見ていた。
やがて、小さく言う。
「……行きたくない」
珍しかった。
アノミマスが、案件に対して先に嫌だと言うことは少ない。
先輩もそれをわかっているのだろう。
声が少しだけ低くなる。
「そんなにか」
「うん」
「でも、見る必要はある」
アノミマスはすぐには答えなかった。
やがて、ほんの少しだけ頷く。
「……知りたいから」
ユウはその一言を聞いて、何も言えなくなった。
怖い。
嫌だ。
それでも知りたい。
たぶん、それが今の第8班全員に共通することだった。
先輩が端末を閉じる。
「今日はここまでだ」
「え、もう終わりですか」
「資料を見て終わりじゃない。頭を整理しておけ」
「はい」
「次は現場かもしれん」
そう言って、先輩は立ち上がった。
ユウは椅子にもたれたまま、さっきまで表示されていた写真のことを思い出す。
綺麗すぎる痕跡。
最後だけ切られた線。
アノミマスの「いや」という声。
静かな部屋の中に、不穏だけが残っていた。
旧市街のあとの日常は、たしかに戻ってきていた。
でも、その日常の中へこうして新しい嫌な案件は入ってくる。
しかも今回は、新しいというより――
ずっと追っていた線が、また目の前に現れた。
そんな感じに近かった。
ユウは小さく息を吐く。
「……観測者、か」
まだ実体は見えない。
でも一つだけはわかる。
近くまでは行ける。
それでも最後に逃げられる。
その繰り返しの先に、また自分たちは立たされるのだ。