カイザー施設の見取り図が、モニタの上に白く浮かんでいた。
旧市街の広域地図とは違う。
もっと人工的で、もっと息の詰まる図面だった。
外周フェンス。
搬入口。
警備塔。
管理棟。
地下区画。
無駄がない。
整いすぎていて、逆に気分が悪い。
先輩はモニタの前に立ったまま、いつも通り短く言う。
「今回の目的は制圧じゃない」
ユウは端末を開き、表示された情報を追う。
「内部侵入。資料確認。搬送記録の確保。観測者の痕跡があれば最優先で拾う」
先輩の指先が、施設内部のルートをなぞる。
「見つかれば戦闘になる。だから見つからないのが理想だ」
机の端で補助端末を操作していた支援担当が言葉を継いだ。
「カイザーに発見された時点で、資料焼却か対象移送の可能性が上がる。静かに入って、静かに持ち帰れ」
ユウは小さく息を吐く。
旧市街の時みたいな、“前へ出る圧”とは違う。
今回は最初から最後まで、息を潜める側だった。
「正面は囮が引き受ける」
モニタが切り替わる。
施設正面ゲート。
警備塔。
監視線。
その外に、赤く引かれた誘導線。
「囮部隊はヘルメット団に偽装する」
ユウは少しだけ目を瞬いた。
「ヘルメット団に?」
「カイザーが一番雑に反応しやすい相手だ」
先輩の声は平坦だった。
「重戦車まで見せれば、正面警備は外に寄る」
「つまり、“また面倒な連中が来た”って思わせるんですね」
「そうだ」
雑な襲撃。
頭の悪そうな威嚇。
でも中身はきっちりした囮運用。
ユウは少し嫌そうな顔をする。
「そんなのアリなんですか」
「通ればいい」
先輩の返しは即答だった。
「正面で律儀に名乗る方が馬鹿だ」
その通りだったが、少しくらい丸めてほしい。
先輩はさらに言う。
「囮が警備を引いたら、第8班《トレイス》は南側の保守導線から侵入する」
モニタの一角に細いルートが浮かぶ。
正面とは違い、外からは目立たない。
保守員や点検要員が使うための線なのだろう。
戦闘向きではない。
だからこそ潜入向きだった。
「完全に空いてるわけじゃない」
支援担当が補足する。
「巡回はある。最小接触で抜けろ。見つかった場合は独自判断で処理。ただし騒ぎを大きくするな」
「……かなり嫌な任務ですね」
ユウが本音を漏らすと、先輩が短く返した。
「嫌で済むなら軽い」
「そういう言い方します?」
「事実だ」
窓際ではアノミマスが静かにモニタを見ていた。
白い横顔は少しだけ硬い。
「……いや」
小さな声だった。
ユウはそちらを見る。
先輩もすぐ反応した。
「まだ嫌か」
アノミマスは少し間を置いて頷く。
「うん」
「糸は」
「見える。でも、いや」
先輩はそれ以上無理に聞かなかった。
ユウも何も言えない。
嫌なのに、見る。
怖いのに、追う。
たぶんそれが、第8班が観測者を追う時のいつもの形なのだろう。
ブリーフィングが終わる頃には、部屋の空気はかなり静かになっていた。
旧市街任務の時のような派手さはない。
でも、だからこそ落ち着かない。
静かに入って、見つけて、持ち帰る。
その途中で線が切れたら、また終わらない。
移動車両の中でも、空気は重かった。
ユウは窓の外を流れる景色を見ながら、端末に目を落とす。
カイザー施設。
未登録搬送。
旧施設接触。
観測者痕跡疑い。
文字だけ並べると、ひどく乾いて見える。
でも、その乾いた文字の奥にあるものが一番嫌だった。
「今回、旧市街みたいに派手じゃないですね」
思わずそう言うと、先輩は前を見たまま答えた。
「見つかれば派手になる」
「それはそうなんですけど」
「なら静かなうちに入れ」
反論の余地がなかった。
やがて車両は、施設近くの一時待機地点へ滑り込む。
すでに囮部隊の準備は終わっていた。
遠目には本当にヘルメット団みたいだった。
雑な外装。
荒っぽい塗り。
通信波形まで少し粗く見せてある。
だが近くで見れば、雑なのは見せ方だけで、中身はきっちり整っている。
道路脇では重戦車が一両、低く唸っていた。
威嚇用。
放置できない脅威を外に作るための駒だ。
「……本当にやるんだ」
ユウが小さく言うと、支援担当が肩をすくめた。
「相手が一番反応しやすい音に化ける。それだけだ」
「普通じゃないですよね」
「レイヴンでは普通だ」
その基準はやっぱりおかしい。
短い無線が入る。
『囮部隊、展開開始』
正面側へ車列が動く。
少し遅れて砲声。
威嚇。
だが軽くはない。
施設の外周灯が一斉に切り替わり、警報が走る。
『カイザー警備、正面寄せ確認』
『東西警備線、移動中』
『今だ。第8班、侵入開始』
先輩が短く顎を引いた。
「行くぞ」
ユウは封止杭のケースを背負い直す。
アノミマスが先頭。
先輩がその横。
ユウが後ろにつく。
外壁沿いの保守導線は、思っていたより狭かった。
点検蓋。
配線束。
排気ダクト。
人が使うための線ではある。
だが、人に見せる場所ではない。
施設の裏側そのものだった。
「……こういう場所、落ち着かないですね」
「静かにしろ」
「小声です」
「それでもだ」
アノミマスは前を見たまま、ぽつりと言った。
「……中、変」
ユウの背筋に、少しだけ冷たいものが走る。
外壁脇のサービスハッチから内部へ入る。
空気が変わった。
暗い。
整いすぎている。
床も壁も、必要以上に管理されている感じがある。
神秘が腐った嫌さとは違う。
もっと人工的で、人の都合で隠された嫌さだった。
通路へ出る前に、先輩が手を上げる。
三人とも止まる。
巡回の足音。
ユウは息を止める。
数秒。
靴音はゆっくりと遠ざかっていった。
先輩が動く。
第8班も続く。
施設内部は異様に静かだった。
正面では囮が騒いでいるはずなのに、その音は壁越しにかすかに届くだけだ。
ユウは思う。
旧市街みたいな、音だらけの戦場も嫌だった。
でもこういう、静かすぎる施設の中を見つからないように進むのは、それと別の意味で嫌だ。
アノミマスが一度だけ立ち止まる。
「……こっち」
白い指先が左の通路を示す。
「資料?」
ユウが小さく聞くと、アノミマスは首を横に振った。
「……糸」
先輩は何も言わず、その方向へ進路を変える。
曲がった先の廊下はさらに暗かった。
照明が少ない。
管理用か、表には出していない区画なのかもしれない。
その時だった。
遠くで、何かが弾ける音がした。
小さくない。
銃声だ。
それが一つではなく、続く。
さらに警報音が施設内部のどこかで一段上がる。
ユウが反射で顔を上げる。
「……見つかりましたね」
先輩は一瞬だけ耳を澄ませるようにして、それから短く言った。
「おそらく、他の誰かが入ってる」
「他の誰か?」
「別導線だ。囮とは音が違う」
「味方ですか」
「知らん」
即答だった。
「だが、カイザーの警備はそっちへ寄る。なら利用する」
ユウはその言葉を飲み込む。
誰かはわからない。
味方かもわからない。
でも、施設の中で別口の侵入者が暴れた。
それだけで十分、こっちには追い風になる。
「行かなくていいんですか」
「行かない」
先輩は前を見たまま続ける。
「向こうは見つかった。なら、もう隠れる必要がない。こっちはアノミマスを連れてる。混乱に寄るより、利用した方が早い」
冷たい判断にも聞こえる。
でも、間違ってはいない。
たぶんこれが、今の第8班の正解だ。
「……任せるってことですか」
「先に任せる」
先輩は短く言った。
「こっちはこっちの任務を通す。今が一番通りやすい」
アノミマスも静かに前を見ていた。
騒ぎの方には顔を向けない。
きっと今は、それでいい。
先輩が手で合図する。
「進むぞ」
第8班は施設の奥へ向かった。
壁の向こうでは警報が鳴り、遠くで銃声が重なっている。
けれどその騒ぎの分だけ、こちらの通路は薄くなっていた。
潜入は、ここからが本番だった。
さらに二つほど通路を抜けたところで、アノミマスの足がまた止まる。
「……近い」
白い声は小さい。
でも、今までより少しだけ張っていた。
「どっちだ」
「前。少し右」
先輩は視線だけで進路を測る。
ユウも息を浅くした。
近い。
また切れる前に届くかもしれない。
そう思った、その時だった。
前方の角の向こうで、人の気配が止まる。
先輩の手が即座に上がる。
アノミマスを背に入れる位置。
ユウも反射で構えた。
数秒後、角の向こうから現れたのは――生徒たちだった。
制服。
見覚えのあるアビドスの面々。
そして、その中心に立つ大人。
ユウの喉がわずかに鳴る。
(……この人が、先生)
向こうもこちらに気づき、止まっていた。
静かな施設の中で、空気だけがぴんと張る。
セリカが真っ先に声を上げた。
「ちょ、誰!? なんでこんなところにいるのよ!」
シロコは何も言わないまま、わずかに前へ出る。
ノノミは少し驚いたように目を丸くし、アヤネは露骨に警戒を強めていた。
先輩が一歩だけ前へ出る。
声は低く、短い。
「動くな」
通路の空気がそこでわずかに止まる。
「こっちに敵対意思はない」
生徒たちは先生を庇うようにしながら、すぐに攻撃の構えは取らなかった。
その判断の速さに、ユウは少しだけ驚く。
先輩は続ける。
「レイヴン所属、第8班《トレイス》」
アヤネの眉がぴくりと動いた。
「レイヴン……?」
セリカは露骨に怪しそうな顔をする。
「いやいや、急に出てきて敵じゃないって言われても怪しいでしょ!?」
「怪しむのは正しい」
先輩は淡々と返した。
「その上で言う。こちらは別件調査でこの施設に入っている。そちらの行動を妨害する意図はない」
先生がそこで初めて口を開いた。
「君たちもカイザーを追っているのか」
「元は別班案件だ。今は違う」
「違う?」
「観測対象の痕跡が出た」
その言葉で、先生の目つきが少しだけ変わった気がした。
シロコが短く聞く。
「観測対象?」
先輩は答えを濁した。
「今ここで全部は話さない」
「でも敵じゃない、ってことは本当?」
ノノミの声はやわらかいが、内容はちゃんと核心だった。
「本当だ」
先輩は即答した。
「同行はしない。だが、そちらの捜索対象を発見した場合は情報を流す」
先生が小さく返す。
「こちらは人を探している」
ユウは少しだけ眉を寄せる。
「人?」
「ホシノだ」
名前だけではわからない。
ユウが反応する前に、先輩が短く聞いた。
「特徴は」
アヤネが一歩だけ前へ出る。
「ピンク髪の小柄な女子生徒です。アビドスの制服を着ています」
シロコが短く足す。
「眠そうに見える」
セリカがすぐに言い足した。
「でも強いわよ。かなり」
ノノミが小さく頷く。
「見ればたぶん、わかると思います〜」
先輩は数秒で情報を飲み込んだように言う。
「了解した。こちらの主任務は変わらない。だが、任務遂行中にその特徴と一致する対象を確認した場合は報告する」
その返しに、アビドス側の空気が少しだけ変わる。
完全な信頼ではない。
でも敵でもない。
それで十分だった。
その時、アノミマスがふいに先生の方を見た。
白い横顔が少しだけ止まる。
「……」
ユウはその変化に気づく。
アノミマスが、珍しく“人”を見て少し引っかかったような顔をした。
「どうした」
先輩が短く聞く。
アノミマスは小さく首を振った。
「……なんでもない」
そう言ったが、ユウには少しだけ嘘っぽく聞こえた。
先生が一歩だけ前へ出る。
「わかった。こちらも君たちに敵対するつもりはない」
ユウは少しだけ息を吐いた。
これで話は終わる。
そう思った、その時だった。
先輩が言葉を切ろうとした瞬間、ユウは反射みたいに端末を取り出していた。
「あ、じゃあ何かあったらこれにください」
「ユウ」
先輩の低い声が飛ぶ。
でももう遅い。
ユウは先生の方へ、自分の連絡先コードを表示していた。
「緊急用でいいので。こっちも、もし見つけたら流します」
一瞬だけ、通路の空気が妙な沈黙になる。
アヤネが目を瞬く。
セリカは「えっ」みたいな顔をする。
ノノミは少し困ったように笑い、シロコはユウを静かに見ていた。
先生はほんの少しだけ驚いた顔をしたあと、静かに頷く。
「……わかった。ありがとう」
端末同士が短く反応する。
識別交換完了。
ユウはそこで初めて、自分がわりと勢いでやったことに気づいた。
「じゃ、じゃあ、そういうことで」
「軽い」
先輩の声が横から刺さる。
セリカが半分呆れたみたいに言う。
「いや、連絡先渡すの早くない!?」
「え、いや、その方が早いかなって……」
「そこは否定しにくいですね……」
アヤネが小さくため息をつく。
先生は少しだけ苦笑していた。
「こちらも何か見つけたら連絡する」
「お願いします」
ユウがそう返すと、先輩は一瞬だけ目を閉じた。
たぶん呆れている。
それでも、その場では止めなかった。
「行くぞ」
先輩が短く言う。
「これ以上同じ場所にいる意味はない」
その言葉で、第8班は再び動き出す。
アノミマスが先。
先輩がその横。
ユウは一度だけ後ろを振り返る。
先生とアビドスの面々も、まだこちらを見ていた。
敵意ではない。
でも、完全な信頼とも違う。
それで十分だと思った。
通路を曲がって先生たちの姿が見えなくなってから、先輩がようやく口を開いた。
「ユウ」
「はい」
「なんで自分の連絡先を渡した」
ユウは歩きながら視線を逸らす。
「……いや、その方が早いかなって」
「班の共通連絡を使え」
「その場でそこまで頭回らなかったんですよ」
「軽い」
「でも先生、悪い人には見えなかったですし」
少しだけ沈黙。
先輩は呆れたように、小さく息を吐いた。
「だからって即座に個人連絡を出すな」
「怒ってます?」
「呆れてる」
「すみません……」
その横で、アノミマスが小さく言った。
「……ゆう、先生に懐いた」
「懐いてない」
「早い」
「アノミマスまで言うのかよ」
ユウがそう返すと、白い少女はほんの少しだけ口元を緩めた。