先生たちと別れてからも、施設の中はうるさかった。
壁の向こうで銃声が重なる。
短い破裂音。
何かが倒れる鈍い音。
警報は切れずに鳴り続け、赤い非常灯が通路を薄く染めていた。
その全部を背中で聞きながら、第8班《トレイス》は反対側の深部へ進んでいた。
先輩の読み通り、警備はかなりそちらへ寄っている。
今までなら巡回がいてもおかしくない通路が、妙に静かだった。
「……本当に薄いですね」
ユウが小声で言うと、先輩は前を見たまま返した。
「だから今のうちだ」
アノミマスはさらにその先を見ている。
白い横顔は静かなままだが、目だけは落ち着かない。
「糸は」
先輩の問いに、アノミマスは小さく答えた。
「……近い」
ユウは息を浅くした。
近い。
その一言だけで、通路の温度が少し変わる気がする。
遠くでは先生たちが戦っている。
それでも第8班はそちらへ行かない。
今追うべきなのは、別の線だ。
「見るなよ」
先輩が短く言った。
「え?」
「音に引っ張られるな。糸だけ見ろ」
「……はい」
図星だった。
さっきから壁の向こうの戦闘音がどうしても気になる。
先生たちはどう動いているのか。
アビドスの面々は無事か。
そんな考えが頭をよぎる。
でも先輩は、それを切る。
今ここで必要なのは関心じゃない。
追跡だ。
アノミマスがまた角を一つ曲がる。
通路の先はさらに暗く、管理外区画のような空気になっていた。
壁の端に古いパネル。
床には使われていない搬送レール。
人を見せる場所ではなく、物を通す場所だ。
その時、前方で慌ただしい足音が跳ねた。
先輩の手が上がる。
「止まれ」
第8班が止まる。
角の向こうから飛び出してきたのは、戦闘員ではなかった。
白衣まがいの上着。
端末ケース。
顔には露骨な焦り。
研究職らしいカイザー職員だった。
「……っ!」
男は第8班を見た瞬間、反射で向きを変えようとした。
だが遅い。
先輩が一歩で詰める。
短い制圧。
男の身体が壁へ叩きつけられ、次の瞬間には床へ押しつけられていた。
「動くな」
「離せ! 私は研究主任だぞ!」
「だからだ」
先輩の声は冷たい。
ユウもすぐに寄る。
息は上がっている。
でも目の前の男を見た瞬間、少しだけ拍子抜けした。
普通だ。
少なくとも見た目は。
黒い影みたいな身体でも、妙な発光でもない。
ただの、追い詰められたカイザー職員に見える。
それでも、ここまで糸を引いてきた相手だ。
「……この人が、観測者ですか」
思わず出た声に、先輩はすぐには答えなかった。
押さえつけた男を見下ろしたまま、数秒だけ黙る。
それから低く言った。
「……本当にそう見えるか」
「え」
「先代が探し回った対象が、こんなにあっけないものなのかと思ってな」
ユウは息を呑んだ。
その違和感は、たぶん正しい。
目の前の男は小さい。
怯えている。
狡猾さも、底知れなさも、何か決定的なものが足りない。
その時、アノミマスが小さく近づいてきた。
白い少女は男をじっと見て、少しだけ眉を寄せる。
「……違う」
先輩の視線が動く。
「何がだ」
「似てる。でも、違う」
ユウの背筋に冷たいものが走る。
「糸は?」
「ある。でも、人じゃない」
先輩の目が細くなる。
「身体を見ろ」
「はい」
ユウはすぐに男の上着へ手を伸ばした。
男が激しく抵抗する。
「やめろ! 触るな!」
「ユウ、懐だ」
「はい!」
内ポケットに指が触れた瞬間、妙な熱があった。
取り出す。
手のひらに収まる程度の黒い遺物。
欠片のようでいて、妙に形が整っている。
それを引き抜いた瞬間、アノミマスが小さく息を呑んだ。
「……それ」
男の顔色が変わる。
「返せ!」
ユウは反射で一歩引いた。
遺物の表面には、見覚えのないはずの嫌な気配がまとわりついていた。
それでもなぜか、今まで追ってきた“観測者の匂い”に、確かによく似ている。
先輩が低く言う。
「なるほどな」
「これが……」
「本人じゃない」
先輩は男を見下ろしたまま続ける。
「持たされていた餌だ」
ユウは遺物を見つめた。
似ている。
でも違う。
アノミマスの言葉が、そのまま胸に落ちる。
届いたと思った。
やっと掴めるのかと思った。
でも違った。
これが観測者案件なのか。
こういうふうに外されるのか。
悔しさというより、まず先に妙な空白が来た。
それから少し遅れて、腹の奥が重くなる。
「……そういうことか」
小さく漏れた声に、先輩が答える。
「糸は間違ってない。神秘由来ではある」
「でも、相手そのものじゃない」
「そうだ」
先輩は即答した。
「観測者は最初から、自分を追わせる気がない」
その一言がやけに重かった。
床に押さえつけられた男はまだ喚いている。
「離せ! 私は命令に従っただけだ! 知らん! 本当に知らん!」
先輩が男の腕をひねり上げる。
短い悲鳴。
「悔しがるのは後だ」
低い声だった。
「身柄を押さえる。遺物を回収する。ここでの任務はまだ終わってない」
ユウは息を飲み、すぐに頷く。
「はい」
アノミマスは遺物を見たまま、小さく言った。
「……似てた」
「十分だ」
先輩は短く返す。
「だからここまで来れた」
その言葉に、ユウは少しだけ救われる。
完全に外れたわけじゃない。
追っていた線は確かにあった。
ただ、本物の喉元ではなく、その手前に置かれた餌だった。
先輩が無線を開く。
「第8班。対象一名拘束。神秘由来遺物を一基回収。回収班を寄こせ」
短く、必要なことだけ。
別回線で、遠くからまだ銃声が響いている。
先生たちの方だろう。
けれど先輩はそちらを見ない。
「ユウ」
「はい」
「拘束補助」
「了解」
「アノミマスは下がれ。遺物から離れすぎるな」
「……うん」
ユウは素早く拘束具を取り出す。
研究職の男はまだ何か喚いていたが、もう聞く価値は薄い。
供述は後だ。
今は持ち帰れる形にする方が先だった。
先輩が短く言う。
「向こうは向こうで通す」
ユウは一瞬だけ壁の向こうの音へ意識を向けかけて、すぐ戻す。
「……任せるんですね」
「任せる」
即答だった。
「こっちは拾うものを拾った。これ以上深入りする理由はない」
その判断は冷たい。
でも、正しい。
ユウにももうわかる。
先生たちは自分たちの目的を追っている。
第8班は第8班の成果を押さえる。
ここで無理に全部を混ぜない方がいい。
先輩が回収した遺物をユウへ一瞬見せる。
「これだけでも十分重い」
「……はい」
「持ち帰れば次に繋がる」
それがレイヴンの勝ち方だった。
やがて回収班到着までの時間が返る。
数分。
先輩は時計を見るでもなく言った。
「受け渡したら撤収する」
「素早いですね」
「長居する理由がない」
ユウは少しだけ口を引き結ぶ。
たしかにそうだ。
本人はここにいない。
でもダミーは回収した。
カイザー職員は押さえた。
ここで熱くなっても得るものは少ない。
悔しさだけを残して、必要なものだけ持って引く。
それが今の第8班の答えだった。
アノミマスが小さく言う。
「……切れてない」
ユウがそちらを見る。
「え?」
「ほんとの糸じゃない。でも、完全には消えてない」
先輩の視線がわずかに動く。
「遺物側に残ってるか」
アノミマスは静かに頷く。
「少しだけ」
それで十分だった。
今ここで追いきれなくても、次はある。
少なくとも、何も残らなかったわけじゃない。
ユウは遺物を見つめながら、小さく息を吐いた。
これが観測者案件。
初めて触れたその線は、思っていたよりずっと嫌で、ずっと狡猾だった。
でも、だからこそ追う価値があるのだとも、少しだけ思った。
遠くで銃声がまた重なる。
先生たちは、きっともう別の答えへ近づいている。
第8班はその場に行かない。
行かずに、自分たちの拾ったものを持って引く。
同じ施設の中にいたのに、向かった先は少し違った。
それでよかったのだと、ユウは自分に言い聞かせた。