部屋の窓は半分だけ開いていた。
外の空気は少し乾いていて、洗った布の匂いがうっすら残る。
今日は先輩が洗濯当番だった。
部屋の隅には簡易ハンガーラックが広げられていて、タオルやインナー、洗った上着が等間隔で吊られている。
妙に整っている。
無駄に整っている。
そういうところが、なんとも先輩らしい。
ユウはその横で端末を見下ろしたまま、三回目の打ち直しをしていた。
「……違うな」
小さく呟くと、洗濯物を干していた先輩が振り向きもせずに言う。
「まだ送ってないのか」
「文面に困ってるんですよ」
「事実だけ送れ」
「それが難しいんですって」
ユウは椅子に座り直し、端末を持ったまま唸る。
「相手、先生ですよ?」
「相手が誰でも用件は変わらん」
「それはそうなんですけど」
洗濯ばさみの位置を微調整しながら、先輩は淡々と続ける。
「変に飾るな。余計に怪しくなる」
「怪しくはしたくないです」
「なら早く送れ」
雑だ。
でも間違ってはいない。
ベッドの端では、アノミマスがブランケットを膝にかけたまま、小さな菓子を食べていた。
今日はもう追跡も資料確認もさせられていない。
ただ休む日だ。
そのはずなのに、端末を睨んでいるユウの方が落ち着かない。
「……ゆう、まだ」
「まだです」
「おそい」
「うるさいなあ」
アノミマスは少しだけ考えてから、ぽつりと言った。
「……先生、逃げない」
「いや、逃げる逃げないじゃなくて」
「返す」
「まあ……返してはくれそうだけど」
その返答に、アノミマスは小さく頷く。
ユウよりよほど迷いがない。
ユウは端末を見下ろす。
送る文面は、もう大体決まっている。
でも送信ボタンを押す前で、指が止まる。
軽い気持ちで渡した連絡先だった。
施設の通路で、勢いのまま差し出したものだ。
何かあったらこれにください。
その程度のつもりだった。
それが今では、レイヴン本部案件の窓口になっている。
少しだけ現実感がない。
「ユウ」
先輩の声が落ちる。
「はい」
「その顔の時は、だいたい余計な一文を足そうとしてる」
「……なんでわかるんですか」
「わかる」
それだけだった。
雑なのに説得力だけはあるのが腹立たしい。
ユウは小さく息を吐いて、文面を整え直す。
⸻
先生、お疲れ様です。第8班のユウです。
急にすみません。
この前の施設の件で、レイヴン本部から先生に少し話を聞きたいそうです。
施設で接触していた相手のことと、その時のやり取りについて確認したいみたいで……。
以前の件も含め、敵対を前提にした話ではないので、その点は大丈夫です。
来てもらえそうなら、都合のいい時間を教えてもらえると助かります。
⸻
読み返す。
変に固すぎない。
でも軽すぎもしない。
少し気を使っている感じもある。
たぶんこれでいい。
「……送ります」
「最初からそうしろ」
「言い方!」
ユウは文句を言いながら、でも結局そのまま送信した。
送った瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
「送った」
「そうか」
先輩の返事は短い。
洗濯物を干す手は止まらない。
ユウは端末を持ったまま、しばらく画面を見ていた。
すぐ返ってくるとは限らない。
そもそも先生だって忙しいはずだ。
ホシノを助け出したばかりで、アビドス側も落ち着いていないだろう。
なのに。
「……はや」
思わず声が漏れた。
返信が来た。
先輩が少しだけこちらを見る。
アノミマスも顔を上げた。
ユウは画面を開く。
⸻
端末に届いた通知を見た時、先生は少しだけ手を止めた。
差出人の名前には見覚えがある。
第8班のユウ。
施設の薄暗い通路で会った少女だった。
勢いのまま連絡先を差し出してきた、少し軽くて、でも悪い意味ではなくまっすぐな子。
先生はメッセージを開く。
⸻
先生、お疲れ様です。第8班のユウです。
急にすみません。
この前の施設の件で、レイヴン本部から先生に少し話を聞きたいそうです。
施設で接触していた相手のことと、その時のやり取りについて確認したいみたいで……。
以前の件も含め、敵対を前提にした話ではないので、その点は大丈夫です。
来てもらえそうなら、都合のいい時間を教えてもらえると助かります。
⸻
読み終わって、先生は小さく息を吐いた。
「やっぱり来たか」
独り言みたいな声だった。
不思議ではない。
施設の中でレイヴンの第8班と接触した。
しかもその場には、こちらが話していた相手とは別に、彼らが追っている線もあったらしい。
そして、最初にぶつかった件も、今では誤認戦闘として整理されている。
先生側から見れば正体不明の黒い武装部隊。
レイヴン側から見れば、美食会に同行する身元不明の大人。
事情聴取のあと、双方の認識違いだったことは確認済みだ。
だから今回の呼び出しも、敵対の延長ではない。
少なくとも、表向きはそう考えていい。
もっとも、気楽でいられるほど先生も鈍くはない。
少しだけ考える。
レイヴン本部。
事情確認。
施設で接触していた相手。
その時のやり取り。
つまり、あの不気味な“黒服”のことだ。
先生は端末を持ったまま、視線を落とした。
ユウの文面は、かなり気を使っている。
敵対ではないとわざわざ書いてあるあたり、向こうもその前提をはっきりさせたいのだろう。
少なくとも、呼びつけるための文章ではない。
ちゃんと来てほしいという頼み方をしている。
それに、あの場で見た限り、第8班の先輩が本気でこちらを危険視しているなら、ユウに連絡役など任せないはずだ。
つまりレイヴン側としても、警戒はしているが、話す価値があると見ている。
「……行った方が早いか」
先生は小さくそう言って、端末を操作した。
⸻
ありがとう。
事情はわかった。
応じるよ。都合は合わせられる。
日時と場所が決まったら教えてほしい。
⸻
送信してから、少しだけ考える。
レイヴン。
エンフォーサー。
あの白い少女。
観測対象。
そして、黒い服の男。
施設の中では、全部がまだ別々の線だった。
でも今はもう、別々のままではいられないところまで来ているのかもしれない。
ホシノは取り戻した。
それでも終わっていないものがある。
先生は端末を置き、静かに息を吐いた。
今度は自分が、彼らの場所へ行く番だった。
⸻
「来るそうです」
ユウは端末の画面を先輩へ見せた。
先輩は一目だけ確認して、短く頷く。
「なら本部へ上げる」
「……普通に返ってきましたね」
「普通の大人だろ」
「いや、そうなんですけど」
ユウは画面を見下ろしたまま、少しだけ気を抜いた。
もっと探るような返事が来るかと思っていた。
あるいは少し時間が空くかと思っていた。
でも、拍子抜けするくらいまっすぐだった。
その横で、アノミマスがぽつりと言う。
「……ゆう、先生と連絡してる」
「してるけど」
「もう知り合い」
「そんな大したもんじゃないだろ」
「連絡先ある」
「それはまあ、あるけど」
ユウがそう返すと、アノミマスは少し考えてから頷いた。
「……知り合い」
「基準が軽いなあ」
先輩がそのやり取りを聞きながら、小さく息を吐く。
「軽いのはお前だ」
「まだ言います?」
「本部案件の連絡を個人端末で始めたやつには言う」
「ぐうの音も出ない……」
ユウは端末を握り直した。
軽い気持ちで渡した連絡先だった。
でも今は、そこから少しずつ話が大きくなっている。
施設。
観測者。
名前のついた痕跡。
先生。
そして、本部。
たぶんここから先は、もう前みたいな“なんとなく嫌な案件”では済まない。
先輩が最後のタオルを干し終えて、ハンガーラック全体を見た。
「ユウ」
「はい」
「明日は案内だ」
「……本部まで、ですよね」
「そうだ」
先輩は平然としている。
でもユウの方は、平然とはいかなかった。
先生が来る。
レイヴンに。
しかも本部へ。
あの通路で会った時とは、たぶん空気が全然違う。
ユウは小さく息を吐いた。
「ちょっと緊張してきました」
「今さらだ」
「そういう言い方しかできないんですか」
「できるが、これで足りる」
アノミマスがブランケットを膝にかけたまま、小さく言った。
「……先生、来る」
「来るな」
「……また会う」
ユウはその声を聞いて、端末の画面をもう一度見た。
明日、先生がレイヴンへ来る。
その事実だけで、部屋の中のいつもの空気が少しだけ変わった気がした。