訓練のあと、腕より先に頭が疲れることを、ユウはその日初めて知った。
部室の机に端末を置き、先輩から送られてきた試験機の訓練ログを開く。
画面の中には、歩幅、姿勢角、出力推移、射線、着弾位置、停止までの遅れ――思っていたよりずっと細かい数字が並んでいた。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
感想としては一つだった。
こんなの、ちゃんと見てたのか。
しかも先輩はたぶん、これを見ながらユウの動きそのものも見ていた。
部屋の向こうでは、先輩がいつものように何かを書いている。
アノミマスは窓際で静かに座っていた。
火種消しも、解析も、訓練もない日。
だからこそ、こういう“あとでちゃんと見る時間”が回ってくる。
ユウはログの最初を再生した。
黄色い試験機が立ち上がる。
初めて自分が乗ったエンフォーサー。
視点は訓練機の記録カメラと計測情報つきで、妙に客観的だった。
「……あれ、意外と立ててるな」
最初に思ったのはそこだった。
初回にしては悪くない。
先輩にもそう言われた。
実際、見返しても最初の数歩はそれなりに形になっている。
嬉しい、という感覚が少しだけ戻る。
だが、そのすぐあとだった。
「うわ、そこ危な」
停止動作が遅い。
ほんの少しだけ。
でも、そのほんの少しの遅れで、機体の爪先が区画ラインを踏み越えている。
別の場面。
射線を振る時の肩の動きが雑で、訓練区画なら問題なくても、実戦で味方がいたら危ない角度だ。
さらに別の場面。
出力の戻しが甘く、一歩目の踏み込みに無駄な力が乗っている。
試験機だから補助が入って止まっているが、あれが実戦機なら崩れていたかもしれない。
ユウの口から、自然に笑いが消えた。
「……こんなに危なかったのか」
訓練中は“動けた”と思った。
それは嘘じゃない。
でも、こうして外から見ると、動けたことと安全だったことはまるで別だとわかる。
画面を一時停止する。
そこに映っているのは、少し浮かれている自分だった。
黄色い機体の中で、うまくいった感触に少しだけ乗りかけている。
その直後に来る、先輩の声。
基礎を絶対に忘れるな。
人を殺したくなければ。
あの時は重いと思った。
今見返すと、それ以上だった。
ユウは小さく息を吐いて、端末に肘をつく。
「……あぶな」
窓際から、アノミマスの声が落ちる。
「……ゆう」
「ん?」
「顔、しずんでる」
ユウは少しだけ振り返る。
アノミマスはブランケットを膝にかけたまま、こちらを見ていた。
「そんなにわかる?」
「……わかる」
「まじか」
ユウは端末の画面を少し持ち上げる。
「訓練ログ見てたんだけどさ」
「……うん」
「思ってたより、かなり危なかった」
アノミマスは少しだけ首を傾げる。
「でも、動いた」
「動いた」
「……うれしかった」
ユウは少しだけ黙ってから頷く。
「嬉しかったよ」
それはちゃんと本音だった。
試験機とはいえ、エンフォーサーに乗れた。
動かせた。
それ自体はやっぱり嬉しい。
「でも、ちょっと怖くなった」
自分で言って、少しだけしっくり来た。
怖かったのは失敗そのものじゃない。
失敗しても、訓練だから笑って済むと思っていた自分の軽さの方だ。
アノミマスはしばらく黙っていたが、やがてブランケットを抱えたまま立ち上がった。
いつもよりゆっくりした足取りで、ユウの机のそばまで来る。
「……れいじゃない」
「え?」
「こわれてない」
ユウは少しだけ目を瞬く。
アノミマスは端末の画面を見て、それからユウを見る。
「……見た」
「うん」
「……こわかった」
「うん」
「……でも、次はわかる」
それは慰めのつもりなのだと、すぐにわかった。
大丈夫、とは言わない。
平気、とも言わない。
でも、“見たから次は違う”と、静かに言ってくれている。
ユウは少しだけ息を抜く。
「……慰めてる?」
「……うん」
「そっか」
アノミマスは少し迷ってから、空いている手でユウの袖をつまんだ。
「……ゆう、だめじゃない」
その言い方が、妙に胸に残った。
下手に優しい言葉より、ずっと効いた。
「失敗した、とは思うけど」
「……失敗、見つけた」
「うん」
「……それ、いい」
ユウはそこで、ようやく少しだけ笑う。
「ありがとな」
アノミマスは小さく頷いて、袖を離した。
「……先輩、そういうの先に言う」
「うん」
「……ゆう、止まった」
「止められた、が正しいかな」
少しだけ笑う。
でも、軽い笑いではなかった。
その時、向こうの机から先輩の声が飛んできた。
「聞こえてるぞ」
ユウが肩をすくめる。
「盗み聞きしないでくださいよ」
「距離が近いだけだ」
先輩は手を止めずに続けた。
「で、見てどうだった」
「……危なかったです」
「どこが」
ユウは画面を見直す。
「一歩目の出力、ちょっと強すぎました。停止も遅いです」
「射線も甘い」
「そこもです」
「他は」
ユウは少しだけ迷ってから言う。
「うまくいってる気になってたのが、たぶん一番危なかったです」
部屋が少しだけ静かになった。
やがて、先輩が短く言う。
「そうだ」
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
ユウは端末へ視線を戻す。
褒められたわけではない。
でも、見当違いでもないらしい。
先輩はようやく手を止めて、椅子にもたれた。
「動けること自体は悪くない」
「はい」
「イメトレが全部無駄だったわけでもない」
「はい」
「だが、感覚が噛んだ時ほど雑になる」
ユウは頷く。
それは、さっきログで見た通りだった。
「気持ちよく動いた時ほど、基礎に戻れ」
先輩の声は平坦だった。
怒っているわけではない。
脅しているわけでもない。
ただ、何度もそういう場面を見てきた人間の声だ。
「そこで浮くと事故る。事故で済めばまだいい」
「……はい」
「実戦機は、試験機より重い。速い。止まりにくい」
ユウは無意識に姿勢を正す。
「お前が今日見たのは、かなり優しい側だ」
優しい側。
その言葉が妙に残った。
黄色い試験機でさえ、あれだけ重かった。
なら黒い実戦機は、どれだけ違うのか。
格納庫で見上げた隊長機の姿が、頭の中で少しだけ別の意味を持ち始める。
「先輩」
「何だ」
「先輩も、最初こんな感じだったんですか」
先輩は少しだけ黙った。
ユウは聞きすぎたかと思ったが、やがて返ってきた声は予想より静かだった。
「最初は誰でも浮く」
「……やっぱり」
「そこで何を壊すかの違いだ」
ユウは息を止める。
先輩はそれ以上詳しくは言わなかった。
だが、その短さだけで十分だった。
誰かを見た。
あるいは何かを見た。
だからあの時、あそこまで強い声で言ったのだろう。
ユウは画面を閉じる代わりに、もう一度最初から再生した。
今度は“動けたか”じゃなく、“どこが危ないか”を見る。
最初よりずっと面白くない。
でも、こっちの方が大事だ。
アノミマスが小さく身を乗り出す。
「……まだ見る」
「見る」
「……好き」
ユウは少しだけ笑った。
「好きだよ」
「でも」
「うん。好きなだけじゃ駄目なんだろうな」
その言葉に、アノミマスは小さく頷く。
「……うん」
それから少しだけ考えて、また静かに言った。
「……でも、好きなら覚える」
ユウがそちらを見る。
「え?」
「……好きなら、ちゃんと見る」
アノミマスはブランケットの端を握ったまま、ゆっくり続ける。
「……ゆう、見てる」
ユウはそこで、少しだけ力が抜けた。
そうかもしれない、と思った。
怖くなった。
でも目を逸らしてはいない。
今もこうして、ログを見返している。
それはたぶん、駄目なことじゃない。
「……ありがと、アノミマス」
「……うん」
玲音は再生中のログを見つめる。
黄色い試験機。
少し浮かれている自分。
その直後に来る、先輩の冷たい声。
嬉しかった。
今も嬉しい。
でも、嬉しいだけで触っていいものじゃない。
その当たり前が、ようやく少し自分の中に入ってきた気がした。
しばらくして、先輩が立ち上がる。
「ユウ」
「はい」
「次回までに停止動作と射線管理の項目、要点三つにまとめろ」
「うわ、宿題追加だ」
「嫌か」
「嫌じゃないですけど」
「ならやれ」
「はいはい」
反射みたいに返してから、ユウは少しだけ言い直す。
「……やります」
先輩はそれに短く頷いた。
アノミマスがブランケットを整えながら、ぽつりと呟く。
「……ゆう、ちょっと大人」
「ちょっとだけな」
ユウはそう返しながら、端末を閉じた。
機体の重さ。
兵器の重さ。
言葉の重さ。
まだ全部はわからない。
でも、少しだけ前よりわかった気がする。
それだけで、今日の復習には意味があった。