第8班《トレイス》の部室は、静かな時ほど生活感が出る。
ユウは最近になって、ようやくそれが少しわかるようになってきていた。
最初の頃は、部室にいても落ち着かなかった。
どこに何があるのかも曖昧で、先輩が立てばつられて立ち、何か言われる前に一拍遅れて動く。
そういう時間の方が長かった気がする。
でも今は違う。
棚のどこに封止杭の予備が入っているか。
回収箱のラベルがどの順で並んでいるか。
簡易端末の充電が切れやすいのがどれか。
そういう細かいことが、前より少しだけ身体に入っている。
その日のユウは、机に広げた回収記録の束を、種類ごとにまとめ直していた。
「これ、先に上げるのは遺物反応ありの方でいいですよね」
向かいで端末を見ていた先輩が、顔も上げずに答える。
「そうだ」
「簡易所見は昨日の分を流用で?」
「流用するな。書き直せ」
「やっぱりですか」
「昨日の案件と今日の案件は違う」
いつも通りだった。
厳しい。
でも、前よりは何を言われるか予想できる。
ユウは小さく息を吐いて、記録用紙を一枚抜き直した。
「……前ならこれ、たぶん怒られてましたよね」
「今も怒ってるが」
「いや、そういう意味じゃなくて」
先輩はそこでようやくユウの方を見た。
「前なら流用したあとで見つかってたな」
「うわ、言い方」
「事実だ」
ユウは顔をしかめたが、否定はできない。
前ならたしかに、楽をしようとして余計に面倒を増やしていた気がする。
窓際では、アノミマスが静かに本を読んでいた。
今日は追跡も解析もなく、比較的平和な日だ。
白い髪に午前の光が当たって、少しだけ透けて見える。
ユウは回収記録をまとめ終えてから、次に備品表へ手を伸ばす。
「封止杭のケース、二本補充します」
「一本でいい」
「え、でも昨日使いましたよね」
「使った。だが今日補充予定が入る」
「……あ、フォージですか」
「そうだ」
その返答がすぐ出た自分に、ユウは少しだけ内心で驚いた。
前ならそこまで頭が回らなかった。
今は、部門の流れが少しずつ見えるようになってきている。
それが嬉しいかと聞かれると、たぶん嬉しい。
「どうした」
先輩が短く言う。
「いや、ちょっとだけ慣れてきたかもって思って」
「遅い」
「もうちょっと褒めるとかないんですか」
「今ので十分だ」
「どこがだよ……」
ユウがそう返すと、アノミマスが本から目を上げてぽつりと言った。
「……ゆう、最近ちょっと早い」
「お、アノミマスまで」
「……前より」
「比較が現実的だなあ」
でも、その言い方の方がたぶん正しい。
速くなったわけじゃない。
前より少しマシになっただけだ。
それでも、そう言われると悪くなかった。
昼前、雑務が一段落したところで、先輩が机の上に一冊の薄い資料を置いた。
「ユウ」
「はい」
「昨日の続きだ」
表紙を見る。
E系列機体基礎構造・初級補足
「うわ」
「露骨だな」
「いや、やるって言いましたけど」
「言った」
「言いましたけど、平日の昼に自然に差し込まれると思ってなくて」
「自然だろ」
「この部室ではそうかもしれないですけど……」
ユウは資料をめくる。
昨日見た時より少しだけ内容が頭に入るようになっている。
完全に理解できるわけではない。
でも、わからない場所がどこかは前より見える。
先輩が指先でページを軽く叩く。
「昨日の訓練ログで出た停止遅れ、原因はここだ」
「出力の戻し方ですか」
「それだけじゃない。重心移動が遅い」
「うわ、またそこか」
「そこを誤魔化すな」
「誤魔化してないです」
「誤魔化したい顔をしてる」
妙に当たるのが腹立たしい。
ユウは資料を睨みながら、小さく唸る。
「実機の方が楽しいんですよね……」
「基礎から逃げるな」
「わかってますって」
「口だけ軽いな」
「先輩が重すぎるんですよ」
先輩はそれ以上は返さなかった。
代わりに、ユウの前に別のページを開いて見せる。
「ここ」
「……あ」
神秘干渉時の出力制限。
昨日、ユウが途中で頭を抱えたところだ。
「そこを飛ばすと何が起きる」
「制御遅延……と、武装誤作動」
「さらに」
「停止判断が遅れる」
「そうだ」
ユウは小さく息を吐く。
やっぱり全部繋がっている。
格好いい機体の話だけ見ていればいいわけじゃない。
知れば知るほど、機械の重さより運用の重さの方が前へ出てくる。
「……ロマンがない」
「命はある」
「返しが強いなあ」
アノミマスが本を閉じて、小さく言った。
「……ゆう、また顔がしんだ」
「勉強中はいつもこうなんだよ」
「大袈裟だ」
先輩の返しは容赦がなかった。
それでも、ユウは資料を閉じなかった。
閉じてもたぶん、あとでまた同じところへ戻されるだけだ。
昼を回る頃には、机の上に広げた資料と記録と予備端末で、部室はいつもより少しだけ散らかっていた。
ユウはようやく一段落して、背もたれへ体を預ける。
「……ちょっと休んでいいですか」
「五分」
「短いなあ」
「甘いな」
「今の会話、どっちがです?」
返答はなかった。
先輩は別の端末を見始めている。
アノミマスはまた窓際へ戻っていた。
ただ、今度は本ではなく、端末で何か動画を流しているらしい。
小さく色の動く画面が見えた。
ユウは何気なくそちらを見る。
「珍しいの見てるな」
アノミマスが視線だけ上げる。
「……ごはん」
「ごはん?」
画面には、フライパンの上で焼かれる丸い肉だねが映っていた。
料理番組らしい。
「ハンバーグか」
「……うん」
「腹減るな、それ」
ユウがそう言うと、アノミマスは少しだけ画面へ視線を戻した。
「……きれい」
その一言だけが、妙に耳に残った。
夕方、報告を上げて備品を戻し、部室の中がようやく普段通りの静けさへ戻った頃だった。
廊下の向こうが、少しだけ騒がしい。
ユウは顔を上げる。
「なんか、外ちょっと慌ただしくないですか」
先輩は端末を見たまま言う。
「他部門だ」
「最近ちょいちょい忙しそうですよね」
「ある程度はな」
それだけで会話は切れた。
ユウも深くは追わない。
追って答えが返る時と、返らない時があるのは少しずつわかってきていた。
今は返らない方らしい。
だからユウは、回収箱の位置を揃え、資料を閉じ、端末の充電を確認する。
いつもの日だ。
少なくとも今はそうだった。
アノミマスはまだ端末を見ている。
先輩は変わらず淡々としている。
ユウも前より少しだけ、この部室の時間の流れに乗れるようになってきた。
それで十分だった。
こういう日が、ちゃんと“いつもの日”としてあるのは悪くない。
戦う話も、追う話も、重い話もある。
でも、それだけだとたぶん息が詰まる。
窓際では、アノミマスの端末にまだハンバーグが映っている。
部室の明かりはやわらかく、先輩は変わらず淡々としていて、ユウも前より少しだけこの空気に馴染んでいた。
それで十分だった。
少なくとも、この時はまだ。