「……つぎ、オムライス」
アノミマスがぽつりと言ったのは、昼前の静かな部室だった。
ユウは端末から顔を上げる。
「お、もう次決まってるのか」
「……きいろい、ごはん」
「そこなの?」
「……すきそう」
ユウは少しだけ笑う。
「まあ、好きだけど」
向かいで端末を見ていた先輩が、顔も上げずに言う。
「作るなら卵を無駄にするな」
「まだ作るって決まってないでしょ」
「お前が乗るとだいたい決まる」
「言い方が雑なんですよ」
アノミマスは少しだけ考えてから、また小さく言う。
「……れい、まく?」
「いや、あの包むやつは難しいぞ」
「……れんしゅう」
「やる気あるなあ」
先輩がそこで短く挟む。
「まず薄焼きを破るな」
「もう失敗前提なんですか」
「成功前提で言っても現実は変わらん」
「ほんと容赦ないな……」
それでもユウは少しだけ笑っていた。
こういう会話が自然に出るくらいには、この部室の空気にも慣れてきた。
窓の外の光はやわらかく、部室の中もいつも通りだった。
アノミマスは静かで、先輩は淡々としていて、ユウはその間で雑務を片付けている。
前なら、この静けさの中にいてもどこか居場所が定まらなかった。
今は少なくとも、机のどこに何を置くべきか、どの端末が不安定か、先にやるべき確認が何かくらいはわかる。
ユウは回収記録の簡易整理を終えると、備品表へ目を落とした。
「卵って、今どのくらい残ってましたっけ」
「六」
先輩の返答は早い。
「数えてるんですか」
「担当だからな」
「料理担当って、そこまで細かく見てるもんなんですね」
「見ないと足りなくなる」
もっともだった。
アノミマスが小さく言う。
「……たまご、たいせつ」
「それはそう」
「特にオムライスやるならな」
ユウがそう返すと、アノミマスはほんの少しだけ頷いた。
そこで先輩は、ようやく端末から少しだけ視線を上げた。
アノミマスがこうして、次に何を作りたいかを自分から口にするのは珍しい。
見る。覚える。静かに真似る。
そういうことはあっても、「次」を先に言うことはあまりない。
しかも相手はオムライスだ。
見た目で興味を持ったのだろうが、それでもちゃんと“やってみたい”側へ踏み込んでいる。
先輩はその小さな変化を、口には出さなかった。
ただ、悪くないとは思った。
会話はそこで一度途切れる。
先輩は端末へ戻る。
ユウは記録を揃える。
アノミマスは動画で見つけたらしい料理の手順を、静かに何度も見返している。
それだけだった。
それだけなのに、こういう時間は妙に落ち着く。
「ユウ」
先輩が不意に呼ぶ。
「はい」
「昨日の整理、上げたか」
「半分は」
「半分で止めるな」
「今やります」
「最初からやれ」
「今それ言います?」
「今だから言う」
ユウは小さく息を吐きながら端末を取り直す。
こういうやり取りも、最初の頃ほど刺さらなくなった。
きついのはきつい。
でも、先輩が本気で見ていない相手には、そもそもここまで細かく言わないのもわかってきている。
「……ゆう、また顔」
「しんでる?」
「……半分」
「半分なら生きてるな」
ユウがそう返すと、アノミマスの口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑ったと言うには小さい。
でも第8班では、それで十分だった。
昼を回る頃には、部室の空気はさらに静かになっていた。
報告書の整理。
備品の確認。
資料の端末転記。
派手さは何もない。
だが、何も起きない時間ほど、こういう小さい作業が積み重なる。
ユウはふと顔を上げる。
「今度オムライスやるなら、買い出しってどこまで足りないですかね」
「卵、ケチャップ、鶏肉、玉ねぎ」
先輩は即答した。
「もう決まってるじゃないですか」
「お前が聞いた」
「そうだけど」
アノミマスが小さく言う。
「……けちゃっぷ、いる」
「オムライスにそれないと始まらんからな」
「……あかい」
「そうだな、赤い」
ユウが笑う。
先輩は相変わらず表情をあまり変えない。
でも止めもしない。
こういう日があるのは悪くない。
ユウは素直にそう思う。
追跡もない。
火種もない。
戦場の匂いもしない。
ただ部室で、次に何を作るかなんて話をしている。
それだけのことが、妙にありがたかった。
だから最初に違和感を覚えた時も、ユウはすぐにはそれを大きなものだと思わなかった。
午後に入る頃、廊下を通る足音が少し増えた。
誰かが走っているわけじゃない。
怒鳴り声が飛んでいるわけでもない。
でも、人の出入りが目に見えて多い。
ユウは端末から顔を上げた。
「……なんか今日、外ちょっと騒がしくないですか」
先輩は端末を見たまま言う。
「そうだな」
「そうだな、じゃなくて」
「気づいたなら遅くはない」
「いや、だから何なんですか」
先輩は返事をしない。
そのかわり、端末を閉じるまでの間がほんの少しだけ短かった。
アノミマスも窓際から顔を上げる。
「……うごいてる」
「何が?」
「……いっぱい」
ユウは少しだけ眉を寄せる。
足音だけじゃない。
遠くから低い駆動音も混ざっている。
搬送用か、整備用か、そこまではわからない。
ただ、普段より多い。
部室の扉の向こうを、二人組の隊員が早足で通り過ぎた。
続いて、別の班らしい重い足音。
短い無線。
何かが一ヶ所へ集まり始めているような気配。
ユウは立ち上がって扉の方を見た。
「ちょっと見てきてもいいですか」
「だめだ」
先輩の返答は早かった。
「え、なんでですか」
「今は部屋にいろ」
「それ、理由になってないでしょ」
「今はそれで足りる」
言い方はいつも通りだ。
だが、今は少しだけ切るようだった。
ユウもそれでようやく、これはただの騒がしさではないのだと気づく。
「……何かあるんですか」
先輩は数秒だけ黙った。
「ある」
「重いですか」
「たぶんな」
たぶん。
その言い方が逆に嫌だった。
先輩が曖昧にする時は、たいてい軽くない。
アノミマスがブランケットを膝の上で握り直す。
白い指先が少しだけ動いた。
「……ざわざわする」
ユウはそちらを見る。
「わかるのか」
「……いやな、うごき」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ沈む。
ユウは何となく喉が乾いた。
ただ人が動いているだけなのに、妙に落ち着かない。
その時だった。
先輩の端末が短く鳴る。
部室の中ではやけに大きく聞こえた。
先輩が画面を見る。
表情は変わらない。
でも、視線が一瞬だけ鋭くなる。
「来たか」
「何がです?」
ユウが聞くより早く、部室の外の空気がさらに変わった。
今度は明確にわかる。
足音が増える。
無線が短く飛ぶ。
遠くで格納区画のシャッターが動くような重い音まで混じる。
もう“少し騒がしい”では済まない。
先輩が立ち上がった。
「ユウ」
「はい」
「端末持て」
「え」
「アノミマス、準備しろ」
「……うん」
ユウの身体が反射で動く。
まだ何も聞いていない。
でもこの空気の中で、聞き返す余裕なんて最初からなかった。
「どこ行くんですか」
「格納区画だ」
「何があったんです?」
「向こうで聞け」
短い。
でも今は、その短さが逆に現実味を持っていた。
ユウは端末と認証タグを掴む。
アノミマスは静かに立ち上がる。
ブランケットは畳まれ、椅子の上へ残された。
部室を出ると、廊下の空気はもう完全に変わっていた。
モービルの搬送担当らしい隊員が早足で通る。
別班の生徒が端末を見ながら走りすぎる。
遠くの交差通路では、制圧群らしい重い装備の人影まで見えた。
ユウは思わず小さく呟く。
「……なんだこれ」
「静かにしろ」
先輩は止まらずに言う。
「いや、でも」
「今はまだ喋るな」
その声に、ユウも口を閉じる。
階段を一つ下り、渡り通路を抜ける。
普段は広く感じる本部の中が、今日は妙に狭く見えた。
人が多い。
動きが速い。
視線も落ち着かない。
ユウの横で、アノミマスが小さく言う。
「……ゆう」
「ん?」
「きょう、ごはん、むずかしいかも」
ユウは一瞬だけ息を止めた。
こんな時にそんなことを言うのが、妙にアノミマスらしかった。
「……だな」
それだけ返すのが精一杯だった。
格納区画の手前まで来た時には、もう隠しようがなかった。
重い搬送音。
金属の噛み合う音。
駆動前点検の短い読み上げ。
開いたままのシャッターの向こうでは、輸送ヘリの機影が照明の下に並んでいる。
そこにあるのは準備ではなく、もう展開の途中だった。
ユウはそこでようやく、言葉の形で理解する。
「……スクランブル」
先輩は一度だけ頷いた。
「そうだ」
「何が出たんですか」
「移動しながら共有が入る」
「軽いやつじゃないですよね」
「軽いならここまで動かない」
答えは十分だった。
区画の奥から、聞き覚えのある声が飛ぶ。
「第8班、こっち!」
相馬だった。
すでに飛行装備側の搬送担当として動いている。
手を上げる動きはいつも通り軽いのに、周囲の空気だけが軽くない。
「遅いぞ!」
「呼ばれてすぐ来たんですけど!」
「なら優秀!」
「褒めてる感じしない!」
そのやり取りさえ、今日はどこか薄かった。
相馬の向こう、輸送ヘリの後部ハッチはすでに開いている。
中では別班の隊員が固定具を確認し、誰かが地図データを転送していた。
ユウは乾いた喉を一度だけ鳴らす。
オムライスの話なんて、もう遠かった。
さっきまで部室にあったやわらかい空気は、どこかへ消えている。
今わかるのは一つだけだ。
何か大きいものが、もう動き始めていた。