新しい部屋は、思っていたより普通だった。
もちろん、普通と言い切るには少し無理がある。
同じ部屋にいるのが、目つきの悪い精鋭の先輩と、全体的に白くて静かなアノミマスなのだから、空気まで普通なわけがない。
それでも、里屋ユウが想像していたような特別区画や隔離室ではなく、ちゃんと寮の一室だった。
ベッドが三つ。
机が三つ。
収納が三つ。
広くはないが、生活するには足りる。
その部屋へ荷物を置いた直後、先輩――氷室シオンはユウに向かって言った。
「とりあえず、部屋のルール決める」
声はいつも通り平坦だった。
訓練課程で何度か相手をしてもらった時と同じ、無駄のない喋り方だ。
「ルールって、そんな厳しい感じですか」
「厳しくしないと面倒が増える」
言い方は冷たいが、内容は案外まともだ。
いや、この先輩はいつもそうだ。
言葉が足りないだけで、やっていること自体はだいたい正しい。
アノミマスは、そんな先輩の少し後ろに立っていた。
ユウとはまだ距離がある。
視線は時々こちらへ向くが、立ち位置は明らかに先輩寄りだ。
先輩は指を折るようにして、必要事項だけを並べていく。
「門限と点呼は落とすな。危険物を机に出しっぱなしにするな。使った装備は戻せ」
「それはまあ普通ですね」
「お前は普通だからな」
「その言い方、便利ですね」
「便利だから使ってる」
まるで悪びれない。
ユウは少しだけ顔をしかめたが、否定はできなかった。
先輩はそこで、アノミマスの方へ視線をやった。
「あと、こいつを一人にするな」
ユウもつられてアノミマスを見る。
「少なくとも、お前が担当の間は勝手に置いていくな。移動する時は誰が付くか確認しろ。夜に出ようとしたら止める」
「夜に出るんですか」
「たまにある」
「たまにで済ませていい話ですか、それ」
「今まで済ませてる」
済ませてるのか。
本当に。
その時、アノミマスが何もない空中の少し上へ視線を向けた。
「……糸」
小さい声だった。
「今はあるのか」
「ない」
「ならいい」
先輩はそれだけで会話を終わらせた。
ユウだけが、やっぱり置いていかれている。
「えっと、今の確認必要なんですか」
「必要だ」
「詳細聞いていいですか」
「そのうち慣れる」
ユウは小さく息を吐いた。
この人、本当に“慣れろ”で押し切るなと思う。
ベッドの位置を見た先輩が言う。
「ユウ、お前は入口側。アノミマスは窓側。私は真ん中」
見た瞬間に意味がわかる配置だった。
「……壁役ですね」
「そうだ」
あっさり肯定されて、ユウは少しだけ納得する。
この人はたぶん、最初からこういう位置に立つ人なのだ。
前に出る時も、部屋の中でも。
最後に先輩はユウへ言った。
「無理なら無理って言え」
「え?」
「わかったふりするな。抱え込むな。できないなら聞け」
その言葉だけは、ぶっきらぼうなのに妙にまっすぐだった。
「……はい」
「お前のことだ」
「わかってます」
半分くらいしかわかっていなかったが、今はそれでいい気がした。
アノミマスは相変わらず先輩の後ろ寄りだ。
ユウに懐いているわけではない。
でも、露骨に拒絶もしていない。
それだけで、今は十分だった。
少し部屋の空気が落ち着いたところで、ユウは先輩へ向き直る。
「……先輩」
「何だ」
「時間あるなら、訓練お願いしてもいいですか」
先輩の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「今日のうちにか」
「だめですか」
「だめじゃない」
即答だった。
「十五分後、訓練場」
それだけ告げて、先輩は踵を返す。
訓練課程の時からそうだった。面倒そうに見えて、断るより受ける方が早い。
ユウはその背中を見送りながら、小さく気を引き締めた。
*
十五分後。
訓練場で向き合った先輩は、やっぱり隙がなかった。
模擬用装備へ換装したアサルトライフル。
背中のシールド。
訓練課程でも何度か見た姿だ。
だから初めてじゃない。
でも今日は少し違った。
今までは、訓練担当の先輩の一人。
強いし、怖いし、一度も崩せたことがない相手。
でも今日は違う。
これから同じ部屋で暮らして、同じ任務で動く、自分の固定の先輩だ。
だから、いつもより意味が重い。
「いつでも来い」
先輩が言う。
ユウは息を整えて踏み込んだ。
最初の一歩は悪くなかったと思う。
訓練課程の頃より足は速くなっている。
タイミングも少しは読めるようになった。
それでも届かない。
先輩は下がりすぎず、逃げすぎず、必要な分だけ捌く。
ユウの勢いを殺して、構えを崩し、気づけば逆に喉元か脇腹へ模擬銃口が来て終わる。
「踏み込みが浅い」
短い指摘。
ユウは一度距離を取った。
まだ息はある。
だが先輩は、本当に余裕そうだった。
「もう一本」
ユウが言うと、先輩はわずかに顎を引く。
「来い」
二本目。
三本目。
四本目。
やるたびにユウは少しずつ崩し方を変える。
正面。角度。間合い。引いてから入る形。
でも先輩は、その全部に最小限で対応してくる。
一度も崩れない。
それがユウにはきつかった。
勝てないことじゃない。
届いていないことが、毎回きちんとわかるのがきつい。
「……っ、まだ」
「焦るな」
短い声の直後、手首を押さえられる。
次の瞬間には体勢が崩れ、ユウは床へ膝をついていた。
「崩したいなら、先に自分が崩れるな」
ユウは息を荒くしながら顔を上げる。
先輩はまだ立っている。
シールドすら使っていない。
「……一回くらい、崩れてくださいよ」
思わず本音が漏れた。
先輩は少しだけ黙ってから言う。
「お前が崩せるならな」
嫌味ではなく事実だった。
だから余計に悔しい。
「もう一本やるか」
「……先輩、余裕ありますよね」
「ある」
「即答ですか」
「嘘つく意味がない」
その正直さがひどい。
でも嫌いじゃない。
ユウが立ち上がると、訓練場の端に白い影が見えた。
アノミマスだった。
いつからそこにいたのかはわからない。
ただ静かにこちらを見ている。
いや、正確にはユウと先輩の間あたりを見ているようにも見えた。
「……見てますね」
ユウがぼそりと言う。
「気にするな」
「先輩の後ろじゃない」
「たまにある」
先輩はそれだけ言った。
ユウはもう一度構え直す。
その日も結局、一度も崩せなかった。
訓練が終わる頃には、ユウの肩は重く、呼吸は荒く、額には汗が浮いていた。
対して先輩は、軽く息を整えただけでいつもの顔に戻っている。
「悪くない」
帰り際、先輩がぽつりと言った。
ユウは少しだけ目を瞬かせる。
「……今の、自分に言いました?」
「他に誰がいる」
「初めて聞きました」
「初めて言った」
それだけ言って歩き出す。
ユウは少し遅れて、その背中を追った。
出口近くで、アノミマスが待っている。
視線は先に先輩へ向く。
でも次の瞬間、ほんの少しだけユウの方も見た。
何も言わない。
小さい声も出さない。
ただ立ち位置だけが、最初より少し違っていた。
先輩の真後ろではなく、ほんの少し横。
ユウから見ても、前より少し近い。
それだけで十分だった。
部屋へ戻るまでの短い廊下を、三人で歩く。
前に先輩。
その少し後ろにアノミマス。
そして自分。
普通じゃない部屋で、普通じゃない相手と暮らす。
でもそれが嫌なわけじゃない。
ユウは少しだけ痛む肩を回しながら思う。
たぶんここから先、思っていたよりずっと長くて、面倒で、でも悪くない日々が始まるのだ。