ゲヘナ特務執行隊「レイヴン」   作:ゴリさん39

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第8話 ついて行ってやれ 

 

 最初に気づいたのは、部屋の扉が静かに開く音だった。

 

 里屋ユウはベッドの上で支給端末をいじっていた手を止め、反射的に顔を上げる。

 夕方。点呼と装備確認が終わって、今は寮の中も少しだけ気の抜けた時間だ。

 

 扉のところにいたのは、アノミマスだった。

 

 白い髪。

 白い横顔。

 そしてその手には、小さな財布が握られている。

 

「……どこ行くの」

 

 ユウが聞くと、アノミマスは少しだけ立ち止まった。

 

「売店」

 

 相変わらず小さい声だった。

 聞き返すほどじゃない。でも、耳を向けていないと流れるくらいの音量。

 

「一人で?」

 

「行ける」

 

 それは、たぶん本当だ。

 売店に行くだけなら、たしかに行けるだろう。

 でもそれで安心できるかと言われると、少し違う。

 

 ユウが返事に困っていると、奥のベッドから先輩の声が飛んできた。

 

「いい機会だ。ついて行ってやれ」

 

 ユウはそっちを見る。

 

 先輩は壁に背を預けて座ったまま、こっちも見ずに言った。

 いかにも「最初から聞いていた」みたいな声音だった。

 

「自分がですか」

 

「担当だろ」

 

「それを言われると弱いですけど」

 

「なら行け」

 

 ぶっきらぼうだった。

 でも止めるつもりはないらしい。

 

 ユウは小さく息を吐いて、ベッドから立ち上がる。

 アノミマスはまだ扉のところにいた。逃げるわけでもなく、でも待っているとも言い切れない微妙な位置。

 

「……じゃあ、行くか」

 

 そう言うと、アノミマスは一度だけ瞬きをした。

 否定はしなかった。

 

 先輩は最後に一言だけ足す。

 

「寄り道させるな。遅くなる前に戻れ」

 

「わかってます」

 

「あと」

 

 そこで初めて、先輩がユウの方を見た。

 

「財布は本人に持たせろ」

 

「え?」

 

「会計も、できるなら本人にやらせろ。横から全部やるな」

 

 ユウは少しだけ目を瞬かせた。

 なるほど、と思う。

 

 ただの付き添いじゃない。

 ちゃんと“できることは本人にやらせる”前提だ。

 

「……了解です」

 

 そう返すと、先輩はもうこっちを見なかった。

 

 ユウはアノミマスと並んで部屋を出る。

 廊下を歩き始めた瞬間、なんとなく気まずさが来た。

 

 二人きり。

 任務じゃない。

 訓練でもない。

 ただ売店へ行くだけ。

 

 それだけなのに、妙に意識してしまう。

 

 隣を見ると、アノミマスは真っすぐ前を向いて歩いていた。

 歩幅は小さい。速くも遅くもない。

 ただ時々、視線がユウの少し上あたりをかすめていく。

 

「……糸、ある?」

 

 なんとなく聞いてみると、アノミマスは少しだけ考えてから答えた。

 

「今はない」

 

「じゃあ普通に売店?」

 

「売店」

 

「そっか」

 

 会話が終わる。

 すごい。びっくりするほどすぐ終わる。

 

 ユウは少しだけ笑いそうになって、やめた。

 たぶん今のは、会話が下手なんじゃなくて、アノミマスの中で必要な言葉だけ出ているのだ。

 

 寮棟を抜けると、夕方のゲヘナの空気が少しだけ肌に触れた。

 昼ほど騒がしくはないが、静かでもない。

 どこかで誰かが騒いでいて、どこかで誰かが怒鳴っていて、それでも一応回っている。いつものゲヘナだ。

 

 売店は寮からそう遠くない。

 支部所属の生徒も、一般生徒も、それなりに使う場所だ。

 

 歩きながら、ユウは隣の白い少女をちらりと見る。

 

「……何買うか決めてる?」

 

「少し」

 

「少し?」

 

「見てから」

 

「まあ、売店ってそういうとこあるけど」

 

 アノミマスはそれ以上続けなかった。

 でも少しだけ、最初よりは返事が返ってきやすい気がした。

 

 売店の自動扉が開く。

 中は明るかった。

 飲み物、軽食、菓子、文具、日用品。どこにでもあるような品揃えが並んでいる。

 

 アノミマスは入った瞬間、ほんの少しだけ足を止めた。

 

 それから、ゆっくり店内を見回す。

 

 ユウはその横で、あまり近づきすぎないように並ぶ。

 勝手に先導するのも違う。

 放りすぎるのも違う。

 この距離がまだ難しい。

 

 アノミマスが最初に向かったのは飲み物コーナーだった。

 

 白っぽいラベルのミルク系飲料の前で止まる。

 じっと見る。

 隣のコーヒー牛乳も見る。

 さらに別のいちごミルクも見る。

 

「……悩んでる?」

 

「白い」

 

「うん」

 

「こっちも白い」

 

「まあ、そうだな」

 

 比較の基準が独特だった。

 でも嫌いじゃない。

 

 アノミマスは少し考えてから、一番シンプルなミルク飲料を一本取る。

 それから今度は菓子棚へ移動した。

 

 そこでユウは、少しだけ意外なものを見る。

 

 アノミマスは、動物の形をした小さなビスケットの袋の前で止まったのだ。

 

 見ている。

 かなり見ている。

 

「……それ好きなの?」

 

 聞くと、アノミマスは袋を手に取ったまま小さく答えた。

 

「わからない」

 

「まだ食べたことない?」

 

「ない」

 

「ああ、そういう感じか」

 

 ユウは隣の値札を見る。高くはない。

 財布を握っている細い指が少しだけ強くなっているのが見えた。

 

「それも買う?」

 

「……いい」

 

「なんで」

 

「今は、これだけ」

 

 アノミマスはミルク飲料を少し持ち上げて見せた。

 ユウは一瞬だけ迷ってから、袋菓子の方を手に取る。

 

「じゃあこっちは自分が買う」

 

 アノミマスがこっちを見る。

 

「だめ」

 

「え」

 

「自分で買う」

 

 意外だった。

 でも、その言い方にはちゃんと意思があった。

 

 ユウはすぐに引く。

 

「……わかった。じゃあ、自分で持っとく?」

 

 アノミマスは数秒だけ黙って、それから小さく頷いた。

 財布とミルクとビスケット。両手が少し忙しそうだ。

 

「持てる?」

 

「持てる」

 

「無理なら言って」

 

「無理じゃない」

 

 少しだけ早かった返答に、ユウは内心で笑う。

 こういうところ、案外子どもっぽい。

 

 レジは空いていた。

 アノミマスが自分から前に立つ。

 ユウは少し後ろに下がった。

 

 先輩の言った通り、会計はできるなら本人にやらせる。

 たぶん今は、その“できるなら”の場面だ。

 

 アノミマスは財布を開いて、中の小銭をじっと見た。

 数える。

 少し止まる。

 また数える。

 

 危うい。

 でも、完全にわからない感じでもない。

 

 ユウは口を出しかけて、止める。

 

 レジの店員は支部の事情をある程度知っているのか、急かさず待ってくれていた。

 ありがたい。

 

「……足りる」

 

 小さな声でアノミマスが言う。

 それから小銭を一枚ずつ出していく。

 

 時間はかかった。

 でも最後まで、自分で払った。

 

 レシートを受け取る手つきは少しぎこちなかったが、それでもちゃんと終わった。

 ユウはそこでようやく、小さく息を抜く。

 

「できたな」

 

 アノミマスはこっちを見た。

 表情は大きく変わらない。

 でも、ほんの少しだけ空気が違った。

 

「できた」

 

 小さな声だった。

 でも、さっきまでより少しだけはっきりしていた。

 

 その時だった。

 

 売店の奥、文具コーナーの方へ視線を向けたアノミマスの足が止まる。

 

「……糸」

 

 ユウの肩が少しだけ強張る。

 

「あるのか?」

 

「少し」

 

 アノミマスは文具棚の端へ寄っていく。

 ユウもついていく。

 

 そこにあったのは、細い銀色のしおり紐がついた小さなメモ帳だった。

 ただの文具だ。

 危ないものには見えない。

 でもアノミマスは、その紐を見ていた。

 

「それ?」

 

「似てる」

 

「糸に?」

 

 アノミマスは頷く。

 それから少しだけメモ帳を手に取って、また棚へ戻した。

 

「買わないのか」

 

「今日は、いい」

 

「そうか」

 

 ユウはそれ以上聞かなかった。

 たぶん、聞いても全部はわからない。

 

 売店を出る頃には、外の空は少しだけ色を落としていた。

 帰り道、アノミマスはミルク飲料のキャップを開けようとして、少しだけ手間取った。

 

 ユウは手を出しかけて、また止める。

 

「……開ける?」

 

 聞くと、アノミマスは数秒悩んでから、小さく言った。

 

「お願い」

 

 それだけで少し驚いた。

 ちゃんと頼るんだ、と思う。

 

 ユウはボトルを受け取り、キャップを開けて返した。

 

「はい」

 

「……ありがとう」

 

 その声は相変わらず小さい。

 でも、ちゃんとユウに向いていた。

 

 寮へ戻る途中、アノミマスは最初ほど先を歩かなかった。

 先輩の後ろに隠れるような位置でもない。

 気づけば、ユウの半歩後ろくらいにいる。

 

 それだけの違いなのに、ユウには妙に大きく感じられた。

 

 部屋の扉を開けると、先輩はベッドに座ったまま顔を上げた。

 

「遅くはないな」

 

「普通に売店行って帰ってきただけです」

 

「見ればわかる」

 

 先輩の視線がアノミマスの手元へ落ちる。

 ミルク飲料。

 動物ビスケット。

 ちゃんと自分で持っている。

 

「会計は」

 

「本人がやりました」

 

「そうか」

 

 短い返事。

 でも少しだけ、それでいいと言っている感じがあった。

 

 アノミマスは先輩の方へ行くかと思ったが、少しだけ迷って、それからユウの机の近くで止まった。

 

 ユウは一瞬だけ固まる。

 

 白い少女は無言のまま、動物ビスケットの袋をユウの方へ少しだけ差し出した。

 

「……半分」

 

「え?」

 

「買えたから」

 

 ユウは数秒遅れて意味を理解した。

 それから、少しだけ笑う。

 

「……じゃあ、一枚もらう」

 

 アノミマスは小さく頷いた。

 

 先輩はそれを見て、何も言わなかった。

 ただ、ほんの少しだけ視線が柔らかくなった気がした。

 

 任務でも訓練でもない。

 ただ売店に行って、飲み物と菓子を買って帰ってきただけだ。

 

 それでもユウには、その帰り道がたぶん小さくなかった。

 

 アノミマスはまだ先輩の後ろがいちばん安全なんだろう。

 でも、そこから少しだけ出てきた。

 

 それで十分だった。

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