最初に気づいたのは、部屋の扉が静かに開く音だった。
里屋ユウはベッドの上で支給端末をいじっていた手を止め、反射的に顔を上げる。
夕方。点呼と装備確認が終わって、今は寮の中も少しだけ気の抜けた時間だ。
扉のところにいたのは、アノミマスだった。
白い髪。
白い横顔。
そしてその手には、小さな財布が握られている。
「……どこ行くの」
ユウが聞くと、アノミマスは少しだけ立ち止まった。
「売店」
相変わらず小さい声だった。
聞き返すほどじゃない。でも、耳を向けていないと流れるくらいの音量。
「一人で?」
「行ける」
それは、たぶん本当だ。
売店に行くだけなら、たしかに行けるだろう。
でもそれで安心できるかと言われると、少し違う。
ユウが返事に困っていると、奥のベッドから先輩の声が飛んできた。
「いい機会だ。ついて行ってやれ」
ユウはそっちを見る。
先輩は壁に背を預けて座ったまま、こっちも見ずに言った。
いかにも「最初から聞いていた」みたいな声音だった。
「自分がですか」
「担当だろ」
「それを言われると弱いですけど」
「なら行け」
ぶっきらぼうだった。
でも止めるつもりはないらしい。
ユウは小さく息を吐いて、ベッドから立ち上がる。
アノミマスはまだ扉のところにいた。逃げるわけでもなく、でも待っているとも言い切れない微妙な位置。
「……じゃあ、行くか」
そう言うと、アノミマスは一度だけ瞬きをした。
否定はしなかった。
先輩は最後に一言だけ足す。
「寄り道させるな。遅くなる前に戻れ」
「わかってます」
「あと」
そこで初めて、先輩がユウの方を見た。
「財布は本人に持たせろ」
「え?」
「会計も、できるなら本人にやらせろ。横から全部やるな」
ユウは少しだけ目を瞬かせた。
なるほど、と思う。
ただの付き添いじゃない。
ちゃんと“できることは本人にやらせる”前提だ。
「……了解です」
そう返すと、先輩はもうこっちを見なかった。
ユウはアノミマスと並んで部屋を出る。
廊下を歩き始めた瞬間、なんとなく気まずさが来た。
二人きり。
任務じゃない。
訓練でもない。
ただ売店へ行くだけ。
それだけなのに、妙に意識してしまう。
隣を見ると、アノミマスは真っすぐ前を向いて歩いていた。
歩幅は小さい。速くも遅くもない。
ただ時々、視線がユウの少し上あたりをかすめていく。
「……糸、ある?」
なんとなく聞いてみると、アノミマスは少しだけ考えてから答えた。
「今はない」
「じゃあ普通に売店?」
「売店」
「そっか」
会話が終わる。
すごい。びっくりするほどすぐ終わる。
ユウは少しだけ笑いそうになって、やめた。
たぶん今のは、会話が下手なんじゃなくて、アノミマスの中で必要な言葉だけ出ているのだ。
寮棟を抜けると、夕方のゲヘナの空気が少しだけ肌に触れた。
昼ほど騒がしくはないが、静かでもない。
どこかで誰かが騒いでいて、どこかで誰かが怒鳴っていて、それでも一応回っている。いつものゲヘナだ。
売店は寮からそう遠くない。
支部所属の生徒も、一般生徒も、それなりに使う場所だ。
歩きながら、ユウは隣の白い少女をちらりと見る。
「……何買うか決めてる?」
「少し」
「少し?」
「見てから」
「まあ、売店ってそういうとこあるけど」
アノミマスはそれ以上続けなかった。
でも少しだけ、最初よりは返事が返ってきやすい気がした。
売店の自動扉が開く。
中は明るかった。
飲み物、軽食、菓子、文具、日用品。どこにでもあるような品揃えが並んでいる。
アノミマスは入った瞬間、ほんの少しだけ足を止めた。
それから、ゆっくり店内を見回す。
ユウはその横で、あまり近づきすぎないように並ぶ。
勝手に先導するのも違う。
放りすぎるのも違う。
この距離がまだ難しい。
アノミマスが最初に向かったのは飲み物コーナーだった。
白っぽいラベルのミルク系飲料の前で止まる。
じっと見る。
隣のコーヒー牛乳も見る。
さらに別のいちごミルクも見る。
「……悩んでる?」
「白い」
「うん」
「こっちも白い」
「まあ、そうだな」
比較の基準が独特だった。
でも嫌いじゃない。
アノミマスは少し考えてから、一番シンプルなミルク飲料を一本取る。
それから今度は菓子棚へ移動した。
そこでユウは、少しだけ意外なものを見る。
アノミマスは、動物の形をした小さなビスケットの袋の前で止まったのだ。
見ている。
かなり見ている。
「……それ好きなの?」
聞くと、アノミマスは袋を手に取ったまま小さく答えた。
「わからない」
「まだ食べたことない?」
「ない」
「ああ、そういう感じか」
ユウは隣の値札を見る。高くはない。
財布を握っている細い指が少しだけ強くなっているのが見えた。
「それも買う?」
「……いい」
「なんで」
「今は、これだけ」
アノミマスはミルク飲料を少し持ち上げて見せた。
ユウは一瞬だけ迷ってから、袋菓子の方を手に取る。
「じゃあこっちは自分が買う」
アノミマスがこっちを見る。
「だめ」
「え」
「自分で買う」
意外だった。
でも、その言い方にはちゃんと意思があった。
ユウはすぐに引く。
「……わかった。じゃあ、自分で持っとく?」
アノミマスは数秒だけ黙って、それから小さく頷いた。
財布とミルクとビスケット。両手が少し忙しそうだ。
「持てる?」
「持てる」
「無理なら言って」
「無理じゃない」
少しだけ早かった返答に、ユウは内心で笑う。
こういうところ、案外子どもっぽい。
レジは空いていた。
アノミマスが自分から前に立つ。
ユウは少し後ろに下がった。
先輩の言った通り、会計はできるなら本人にやらせる。
たぶん今は、その“できるなら”の場面だ。
アノミマスは財布を開いて、中の小銭をじっと見た。
数える。
少し止まる。
また数える。
危うい。
でも、完全にわからない感じでもない。
ユウは口を出しかけて、止める。
レジの店員は支部の事情をある程度知っているのか、急かさず待ってくれていた。
ありがたい。
「……足りる」
小さな声でアノミマスが言う。
それから小銭を一枚ずつ出していく。
時間はかかった。
でも最後まで、自分で払った。
レシートを受け取る手つきは少しぎこちなかったが、それでもちゃんと終わった。
ユウはそこでようやく、小さく息を抜く。
「できたな」
アノミマスはこっちを見た。
表情は大きく変わらない。
でも、ほんの少しだけ空気が違った。
「できた」
小さな声だった。
でも、さっきまでより少しだけはっきりしていた。
その時だった。
売店の奥、文具コーナーの方へ視線を向けたアノミマスの足が止まる。
「……糸」
ユウの肩が少しだけ強張る。
「あるのか?」
「少し」
アノミマスは文具棚の端へ寄っていく。
ユウもついていく。
そこにあったのは、細い銀色のしおり紐がついた小さなメモ帳だった。
ただの文具だ。
危ないものには見えない。
でもアノミマスは、その紐を見ていた。
「それ?」
「似てる」
「糸に?」
アノミマスは頷く。
それから少しだけメモ帳を手に取って、また棚へ戻した。
「買わないのか」
「今日は、いい」
「そうか」
ユウはそれ以上聞かなかった。
たぶん、聞いても全部はわからない。
売店を出る頃には、外の空は少しだけ色を落としていた。
帰り道、アノミマスはミルク飲料のキャップを開けようとして、少しだけ手間取った。
ユウは手を出しかけて、また止める。
「……開ける?」
聞くと、アノミマスは数秒悩んでから、小さく言った。
「お願い」
それだけで少し驚いた。
ちゃんと頼るんだ、と思う。
ユウはボトルを受け取り、キャップを開けて返した。
「はい」
「……ありがとう」
その声は相変わらず小さい。
でも、ちゃんとユウに向いていた。
寮へ戻る途中、アノミマスは最初ほど先を歩かなかった。
先輩の後ろに隠れるような位置でもない。
気づけば、ユウの半歩後ろくらいにいる。
それだけの違いなのに、ユウには妙に大きく感じられた。
部屋の扉を開けると、先輩はベッドに座ったまま顔を上げた。
「遅くはないな」
「普通に売店行って帰ってきただけです」
「見ればわかる」
先輩の視線がアノミマスの手元へ落ちる。
ミルク飲料。
動物ビスケット。
ちゃんと自分で持っている。
「会計は」
「本人がやりました」
「そうか」
短い返事。
でも少しだけ、それでいいと言っている感じがあった。
アノミマスは先輩の方へ行くかと思ったが、少しだけ迷って、それからユウの机の近くで止まった。
ユウは一瞬だけ固まる。
白い少女は無言のまま、動物ビスケットの袋をユウの方へ少しだけ差し出した。
「……半分」
「え?」
「買えたから」
ユウは数秒遅れて意味を理解した。
それから、少しだけ笑う。
「……じゃあ、一枚もらう」
アノミマスは小さく頷いた。
先輩はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線が柔らかくなった気がした。
任務でも訓練でもない。
ただ売店に行って、飲み物と菓子を買って帰ってきただけだ。
それでもユウには、その帰り道がたぶん小さくなかった。
アノミマスはまだ先輩の後ろがいちばん安全なんだろう。
でも、そこから少しだけ出てきた。
それで十分だった。