夏。
夏と言われても、ここでの生活でそれを実感することは少ない。
白い壁。白い床。白い天井。
空調は整えられていて、常に快適な温度になっている。ベッドのシーツも清潔だ。
つい数ヶ月前まで俺の住んでいたオンボロアパートと比べれば天地の差がある。
働かなくてもいいし、毎日3食の食事も保証されている。
ここは天国だ。
入院最高! 病院最強! 病気最凶!
……。
などとふざけてみても、それが空元気の類であることは、俺自身がよくわかっていた。他でもない俺のことだ、嫌でもわかってしまう。
急に倒れて病院に搬送。
突きつけられたのは、手足が動かなくなるか、死ぬかの2択。
ここは地獄の入り口。いや、地獄そのもの。じわりじわりと絶望が迫りくる、白い地獄──
「朝! 朝だよ! お兄さん起きてる!? もう10時なんだから、ちゃんと起きないとダメだよ!!」
俺の病室に、この場所に似つかわしくない少女が、この場所に似つかわしくない声で現れた。
それは天使。
医者が良い顔をしなくなる限界にまで伸ばした黒髪をふわりと浮かせ、天真爛漫に笑う元気な少女。
もし年齢どおりに学校に通っていればクラスの人気者だっただろう、ここにいてはいけないはずの少女だ。
「ね! 私イチオシのせるりちゃんの配信、ちゃんと見た? リンク送ったやつ! せるりちゃん、ほんっとかわいいんだよね。あんまり喋りは多くないかもだけど、笑ったときのあの清楚な……(略)」
好きなもののこととなると、こうして早口になってしまう残念な少女だ……。
天使は堕落した。堕天使だ。
「窓開けていい? ……あっつーい!!」
いや開けるなよ。何やってんだ。
施設によっては窓に格子が付けられていたり、網戸が打ち付けられているらしい。ゲームで見た。身投げ防止だ。本当かは知らないけれど。
俺はそこまで危惧されていない。今は。まだ。
「ねー、外行こうよ〜。おひさまを浴びないと身体が腐っちゃうんだ……よっ?」
行かねーよ。
怖いこと言うな。あながち間違いでもないのが困る。
こことは違う区画にいるだろう、もうほとんど身体が動かなくなった老人達がいる。寝たきりのその身体がどうなっているのか、想像すると気分が悪くなってしまう。
誰かが無許可でベッドに乗っかってくるのを感じる。目を合わせれば、
光合成なら1人でしてこい。
結局、俺は外に出た。看護師さんに許可を得て、購買の前を通り抜けて中庭へ。
木陰のベンチに並び、他愛のない会話をする。
「でね、その時にせるりちゃんは綺麗な声で笑うの。ふふふふふ、って。あれずっと聞いてたいな〜。音声作品? っていうの、せるりちゃんにもやって欲しい。耳かきと、耳ふー」
いや、それは駄目だろう。推しになんてものを求めているのだ、この13歳の少女は。
俺にもASMRを聴いていた趣味があるが、それは高校生からのことだ。子供にはまだ早い。
というか、外に出てまでVTuberの話をしている。ここに来る意味、あった?
「夏だね〜。もう8月。お盆の最後の日は、ついにVNIVEARTHの合同コラボだよ! 楽しみ〜!」
服の襟元摘んで汗を煽ぎながら、笑顔を絶やさないこの少女。はたして、この笑顔は空元気なのだろうか。
本当は学校に行きたいか──だなんて、口が裂けても聞くことなんてできない。
「あーあ、学校行きたいな〜」
お前が言うんかい。
「だって今年から中学だよ! 制服はあるのに、一度も登校してない! ね、お兄さん。制服着てきたげよっか?」
いらねーよ。
「なんでさ。JCの制服姿だよ! 今しか見れないよ?」
JCとか言うな。
「あの清楚なせるりちゃんを見習って育った女児だよ?」
だから女児とか言うなって。ネットの悪い影響だ。
お嬢様、そのような言葉遣いはいただけませんね。はしたないですよ。
「ふふふふ……。あははは! その言い方やめて〜! ふふふ。じゃあなんて言えばいいのさ」
……淑女とか?
「しゅくじょって……。わかった、清楚な淑女になるよ」
満足したなら何よりだ。
「制服……お兄さんは大人だから、スーツだよね。ここに来る前はこういうの着てたんだよね?」
愛用のタブレットを起動すると、画像を見せてくる。太陽光で見えねーよ。
そこに映っていたのは、某家庭教師マフィア漫画を画像検索した結果だった。
へー、こういうの読むんだ。
「アニメを見たことあるだけ。入院中は暇だもん。tvvltterとかplxlvでイラスト見たりとかも。漫画もいつか読みたいなー」
俺も読んだことのある漫画だ。家に帰れば全巻あるから、今度外出許可が貰えたら、取ってこようかな。
ついでに俺の好きな漫画も持ってこよう。某公衆電話で未来と現代を行き来するバトル漫画とかも気に入るだろうか。現代と未来。似たようなコンセプトがあるし。
ちょっと独特なものに触れたがる子だから、俺が趣味で集めていた全2〜3巻ばかりの打ち切り漫画コレクションも喜ぶかもしれない。
俺の企むことも知らず、なんか10年後の嵐の守護者が好きだとか語っているので、じゃあ俺は独立暗殺部隊の方の嵐の守護者かなーと返す。
別に喧嘩になることでもない。みんなかっこいいよねと話が膨らんだ。
……黒いスーツの少年が並んでいるタブレットの画面を見て、俺は少しだけいじわるをしてみたくなった。
そんな真っ黒だと、スーツじゃなくて喪服だぞ。
からかうように言うと、少女はわかりやすく口を尖らせた。
「ぬーっ。いいでしょ、かっこいいから。お兄さんにも似合うと思うんだけどなー、黒いスーツ。じゃあ何色のスーツ着てたの?」
黒だけど……。
「ぬーっ!」
ごめんて。ネクタイは黒じゃなかったし。
まあそんなに立派な職場じゃなかったのもあって、仕事中は基本白衣だったし、スーツなんてほとんど着ていなかった。
「じゃあ学生の時は? 学ラン? ブレザー?」
黒い学ラン。
「黒じゃん! もー! ……。……か、彼女さんとか、いたの?」
どうだったかなぁ。適当に誤魔化しておく。というか、今はいない前提なんだ……。
「えー、いなそ〜……。デートとか……したこと、あるの?」
13歳の女児は、こういう話題に興味があるのか。
「かっこいい服着て行かないとだよね……! お兄さんあんまりちゃんとした服着てるイメージないし。……そうだ、私が選んであげよっか? アロハシャツとか着て行ったらダメなんだよ?」
んなもん着るわけねーだろ。
ちょっと荒く言ってみると、きゃー、と言いながら笑い、両手を胸元に寄せて身体を縮こませる。
可愛いけどさ。だいぶ余裕だなこいつ。
「はーあ、お盆の最後かぁ……。まだまだ先だなぁ」
すぐに話題はVTuberに戻る。VTuber。彼女の最推しの箱、VNIVEARTH。
お盆か……。そう言えば、お盆期間と定期検診が被る。病院は外来受付くらいやってると思うけど、医者のスケジュールもいつも通りなのだろうか。
「うーん、いつもは火曜日だけど、水曜日にずれると思う……よ。去年は水曜日だった」
あんまり嬉しそうには答えない少女。定期検診の日は疲れてしまうようで、いつも元気な彼女も少しぐったりしている。
医者の話を聞いて気分が落ち込むこともあるのだろう。そういう日こそ詩星せるりに配信をして元気づけて欲しいけど、逆に配信はない方がゆっくり休めるから控えてという思いもある。
うーん、どうにかならないものか。10分だけ配信して貰うとか……。無理だな。
腕組みをして唸っていると、隣に座る少女は俺をさて置きイヤホンで曲を聴き始める。
また詩星せるりだろう。室内でも聴いてるくせに、屋外でも……。視線で文句を訴えてみると、しょうがないなぁ、とでも言いたそうな顔でイヤホンを片方渡して来た。
「ちょっとだけだよ」
受け取る。使用済みイヤホン。何も問題はないけど、こういうのに抵抗が出てくるのは何歳くらいだろうか。
俺なんかにこんな懐いてくれるのはありがたいけど、もう少し警戒心を持った方がいいと思う。
夏だからって、薄着だし。白いワンピースはとても似合っているけれど、いかんせん防御力が低い。
いっそスーツを着ろ。そうだ、そのために制服を着て来させるか。
「〜〜♪」
イヤホンを半分こしたところで、俺は放置のままだ。少女は詩星せるりの曲を聴きながら、一緒に歌うようにして口ずさんでいる。
そこで、なんとなく。
聞いてみる。
……VTuber、やってみたい?
「え!? 私が!? いやぁ、そんなの恐れ多いし……。でもまぁ憧れないこともないというか、できることなら……。でも最後まで配信できるかわからないし、大勢の前で雑談なんて、私には難しいと言いますか……。でも、や、やりたくないわけじゃ、ないけどぉ……」
満更でもないらしい。
じゃあ、そうだな。暇だったらそのうちガワを作ってあげよう。
見た感じそんなに難しいものでもない気がするし、調べればどうにかなるだろ。
「本当!? え、え〜、私が? 私がVTuber……? えへへ……どーかなー?」
にへにへと、照れたような困ったような笑顔。素直じゃないなぁ。
そんな未来も、あるのかもしれない。俺の作ったモデルで個人勢のVTuberになって……。
ともすれば、詩星せるりとコラボしてしまうような。
夢のような、光景が。どこかに。
*
お盆になると、同じく入院中のおじいさんの、知り合いの組合がどうたら〜からスイカの差し入れがあった。
わざわざ俺の病室まで、俺の分のスイカとスプーンを持って少女が訪れた。
「おいし〜。そだ、せるりちゃんの好きな食べ物はメロンなんだよ。清楚だよね。メロンも食べたいなぁ〜」
あの嘘くさいプロフィールね。あんまメロンの話題しないし、清楚ぶってるだけだよ──と、まぁこんなことわざわざ言わないけど。
スプーンを咥えるのは清楚な淑女の姿ではありませんよ、お嬢様。スイカをくださった方に感謝していただきましょう。
「ぬ〜。口うるさいおじいちゃん……」
ここまで頻繁に他の患者のところに行くのは、あまり良くないことだ。けれども、この少女に関しては周囲からお目溢しを貰っている。
病は気から。そんな言葉がある。
以前、看護師さんに言われた。俺が来てから、あの少女が笑顔でいることが多くなったと。
笑顔でいられるのならば、それに越したことはない。
医者を含め、患者達と別け隔てなく接して笑顔を振りまく少女だ。10年と少ししか生きていない少女が無事退院できることを、多くの人が願っている。
いっそ俺と少女を同じ部屋にしようかという案が一瞬だけあったが、俺と医者、そして本人、全員が拒否したことによってなかったことになった。
さすがに同じ部屋は嫌なんだ……。
医者曰く。朝起きて、身支度をしてこちらに向かうことが、彼女にとって前向きな良い習慣になっているんだとか。
ふ、ふーん。身支度してるんだ。
へぇ……、そう。
第2水曜日に変更された定期検診を乗り越えて、いよいよ待ちに待った日がやってくる。
『それでは。VNIVEARTH夏の合同コラボ、始まりますっ!』
詩星せるりの宣言によって幕を開ける全体コラボ。普段ろくにコラボもしないVNIVEARTHライバー達が、一堂に介する特別な日だ。
……ただ、全体コラボと言ってもただ同時になんとなく某サンドボックス系クラフトゲームをやっているだけで、企画としてはあまりにも、なにもなかった。
だがそれでも、この少女にとっては大好きが集まった場所。目的もなく夜遅くまでゲームをしているだけの様子を、嬉しそうには眺めていた。
……俺の隣で。
合同コラボということで、いつもより遅くまで配信が続くことは告知がされていた。
あろうことかこの少女は、配信が行われている夜中に病室を抜け出して、いつものタブレット片手に俺のベッドに来てしまったのだ。
何やってんだ。バレたらどうすんだよ。
「おふとん丸めて来たから平気! いいでしょ、今日くらい。あんまり遅い時間になると、ちょっと怖いし。
……見回りの人が来たら教えてね!」
どこが平気なのか。まあ同じ部屋の人も理解してくれてるらしいし、どうにかなるか。
「同じ部屋のお姉さんからチョコもらったんだった。お兄さんも食べる?」
夜遅くにチョコレート……!? いけません、健康に悪いですよ。チョコレートに含まれるカフェインは質のよい睡眠を妨げます。それに歯磨きをした後です、そんな甘いものをこんな時間に食べてしまっては虫歯になってしまいます。
「うざ……」
平仮名2文字に黙らせる俺。落ち込んだようにして見せると、少女は悪戯っぽく笑う。
そして意識は配信へ戻る。メインは配信。俺は添え物。求められているのはただのセンサー役だ。
ここで片方のイヤホンを貰うのも悪いので、俺は俺で、自前のスマホで視聴する。
イヤホンは片耳だけ。しゃーない、看護師さんが来たら教えてあげるとしよう。
『あっ、黒宮院さん! そんな雑に置いたら……』
『あ゛ぁーん? 大丈夫だってぇ、せるりちゃん。このくらいへーきへーき! あっはははは!!』
『黒宮院先輩、詩星先輩が困ってはるやろ。……あんまええ加減なことしてますと、燃やしますよ?』
『あ、あーっ、オレ整理しますよ! 任せてください!!』
10人を超える所属ライバーが集まってはいるものの、配信上で関わるの面子は固定されている。
詩星せるりと交流があるのは、2期生から4期生まで数人しかいない。
最初にデビューした一期生は3人中2人がもう辞めてしまっていて、残った1人は普段からメン限配信に籠もっているばかりで詩星せるりと話すことはない。
そこでリスナーとあまり良くない話をしているらしい。このコラボにも参加しているはずだが、どこか違う場所でリスナーと雑談をしているだけなのだろう。
5期生以降とも詩星せるりはほとんど接点がないし、よって俺も見ることがない。
『ははは……オレそれだと死にますって。待って待って、勘弁してくれよ……』
画面にいるのは4人。その内1人だけが男性ライバーだった。VTuber全体で見ても、VNIVEARTHの中でも、男性ライバーというのは希少だ。
メインのファン層は女性ライバーを目的とした男性リスナーが占めている。となれば男性というだけで反感を買い、普段の配信ではコメントを荒らされている。
今は他のライバーもいるから抑えられているが、コメント欄は常に罵詈雑言で埋められており、本名や住所などの個人情報も出回っているらしい。
よく辞めないなと思う。目立ったファンもおらず、アンチから向けられる悪意の中、彼は気丈に振る舞っている。
金をもらったとしても、俺には到底できない仕事だ。
お盆の最終日というタイミングもあって、大した企画性もないこの配信はあまり人が集まることはない。
だとしても、少女と見たこの配信は、俺にとってかけがえのない、大切な記憶だ。
視聴している途中、本当に看護師が巡回来て、2人で慌てて布団の中に隠れる場面があった。
普段は寝ている時間。親に隠れて秘密で夜更かしをしているかのような、あるいは修学旅行の夜のような。
この時間が、どうしようもなく、特別なものに思えた。
そして夜遅く。まだ配信が続いている一方で、この少女が寝落ちをしてしまうという事件が起こる。
なんとか起こすことができたのだが、危うく成人男性が女子中学生をベッドに連れ込むという最悪の事態になってしまうところだった。
*
VNIVEARTHの合同コラボが終わってしまうと、もう直近のイベントごとはなくなってしまう。
どこかしょげた様子の少女を見かねて、俺は看護師さんにある提案をした。
拒否された。
頼んだ。断られた。そこをどうにかと頼んだ。断られた。とにかく頼み込んだ。許された。
何かあったら俺が全責任を負いますよ、という誓約書を書かされたが、別に俺には後も先もないので問題はない。
それに、本当に何かがあったら許可を出した病院が悪いのだ。カスの思考。
──8月の終わり。夜の暗い野外へ、俺は少女を連れ出した。
中庭。そこで俺は、看護師さんに頼んで買ってきて貰った線香花火を差し出した。
それを見て、輝く瞳。暗闇の中に、電気も炎もなく明かりが灯った気がした。
水を汲んだバケツを用意して、火災にならないように注意した上で、ライターの火を点ける。
言うほど遅い時間でもなかったので、数人の看護師や他の患者たちが集まってしまった。
少女を知る人たちで賑わい、手元の動きに不信のない者は、同じように花火を手に取った。
咎める者はいない。
見知った顔に囲まれながら、月明かりと線香花火が照らす中で、俺達は笑っていた。
夏。
俺にとって、この少女と過ごした時間は今までの人生で一番、夏休みのように感じられた。
今はもうどこにもない未来の話。