『愛着の魔法』   作:ヤン・デ・レェ

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ケダモノのこころ

大きな鹿の胸からは、細く長い糸を引きながら、血が滴り。

 

私は、濃い獣の臭いに顔を顰めながら、その大きな生き物の命が、生前の通り道から逸れて、猟師の付けた傷跡から流れ出ていくところを、ただ、黙って視ていたのだ。

 

眼差しの先で、土の上に広がった赤黒い血は、ゆっくりと固まりつつあった。

 

抜け殻は冷えていき、猟師の慣れたナイフ捌きに翻弄されて、あっという間に肉塊へと姿を変えた。

 

この、赤く、晴れやかな生命力を閉じ込めた肉の山が、私と、私のヴァイターへの供物となり、その供物は遠からず、私と彼の目の前に晩餐として饗されるだろう。

 

鹿の肉は量も多く、実に味わい深いもので、独り占めするには惜しまれる代物だった。

 

ヴァイターにとっては、殊更にそうであるらしく、猟師が鹿を肉に変えてから、肉の山が大皿一つに収まる量に落ち着くまで、それほど長い時間は要らなかった。

 

そこが、私と彼の違いで、私が彼に毒されたところだろうな。

 

本来の私ならば、好いものを率先してよそに放り投げる真似はしなかっただろうに、今の私にはそれが出来る。

 

私はヴァイターが好む真似を好み、ヴァイターと自分の思考が重なるたびに歓喜の情を抱くのだから。

 

まぁ、ヴァイターは他人にモノを呉れてやるのを好んでいるわけではなく、持て余すことを好まないだけなのだが…。

 

結果、同じ振る舞いに帰結するのだから、根の形状を論じるのは些事と退けることにする。

 

何はともあれ、重要なこと、それは一つ。

 

鹿を殺した猟師が私たちの目の前まで、死んだ鹿を担いでやってきて、私と彼にこう言った。

 

「近頃、森で人の声が聞こえるんでさ…誰かが助けてくれと叫んどるようだったので、その声を聴いた村の若い衆が見に行ったんですが、そこには何もなくて…」

 

「まだ、別に何が起こったわけでもありゃしませんが、どうにも不気味でして…どうにかなりはしませんでしょうか」

 

ヴァイターはこの話を聴いて、すぐさま猟師が住む村に向かうことを決めた。

 

私は当然、彼に伴い村へと向かうことに決めた。

 

その日の夕飯は、皿の上に乗った大ぶりの鹿肉との格闘に終始した。

 

晩餐に際して、私とヴァイターは猟師と同じ卓を囲んだ。

 

鹿肉は我々を大いに満足させた。

 

豊かな量と、深い味わいと、澄んだ脂と、閉じ込められた熱と、全てに不足などなかった。

 

謝辞を告げられて猟師は喜び、猟師の真心をヴァイターは喜び、私は肉の味とヴァイターの喜色に喜んだ。

 

猟師が去った後で、私はいつも通りに床に就き、いつも通りにヴァイターの腕の中に納まった。

 

眠りに落ちて間もなく、夢を見た。

 

夢の中でヴァイターは私に告げた。

 

「それは君の食べ物ではない」

 

何が。

 

声は優しいが、確固たるものを孕んだ声には、何人をも屈服させる説得力があった。

 

彼の声一つを除けば、何一つ確かではなかったが、答えよりも先に、朝が届いた。

 

鳥の囀る声を聞き流して、愛する人の声を聴く。

 

私は起きられないふりをして、彼の手を煩わせた。

 

そうして、明くる朝、支度を終えた私とヴァイターは、猟師に先導してもらいつつ村へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

動物以外の『動物』の死骸を見たのは、おそらくこの時が初めてだった。

 

人間というものは、案外と食いでがあるらしく、残されていたものから察するに、まず最初に腹を食い破って内臓を喰らい、その後で肉付きのよい太腿や二の腕を順に食らいつくしたようだった。

 

骨は残されていたので、遺灰には困らなかったが、現場を先に抑えたのが遺族だったことは悔やまれた。

 

幸いなことに、首から上は比較的完全な状態で残されていた。

 

ただ、眼球は丁寧に摘出されており、恐らくは食べられてしまったのだろう。

 

事が起こったのは村に着く直前のことで、この前と同じような、今度はより幼い悲鳴を聴いて、村の青年が数人向かってしまったようである。

 

「止めたのだが…」

 

と、村長も家族も、そう悔やむように零していた。

 

猟師は自分が間に合ったのか、間に合わなかったのか、受け止めあぐねているようであった。

 

ただ、相手は人を喰らう、ということだけが瞭然として、私たちの前には、漠然とだが怪物の姿が浮かび上がった。

 

それは、或いは人からはかけ離れた外見を持ち、鋭い爪と尖った牙を備えており、獰猛で、性悪な、臭い息を吐きだす、不潔なケダモノに違いなかった。

 

誰もがそのように信じ込んでいた。

 

私は、相手がなんであれ、全く負ける気がしなかった。

 

私は、私の器から、未だかつて私の血を一滴たりとも溢した試しがなかった。

 

それは、私の魔法の素養からなる万全の備えに依るものであり、ヴァイターと共に暮らす中で自然と獲得されてきたものであると同時に、私自身が持てる時間の大半をそれに注ぎ込んできた結果だった。

 

私は魔法に対して絶対の自信を持ち、それを裏付ける実績を重ねてきた。

 

今や、神殿にはヴァイターを除いて私に勝る実力者は存在せず、神殿を実質的に差配しているのは私だった。

 

実績においても、才能においても、時間においても、そして何より生まれにおいても、私以上にヴァイターの隣に立つに相応しい者など存在しないのだ。

 

ゆえに、私は気負うこともなく、怪物退治を請け負った。

 

村民の懇願を受けた私が鷹揚に頷く横で、ヴァイターは超然とした面持ちで森を見つめていた。

 

森の奥で蠢く何かへと、幼子を叱るような、優しくも断固たる眼差しを向けていたのだ。

 

その日は、移動時間に半日が奪われたことで村で一晩を過ごすことになった。

 

期待と非難の混じる視線は専ら私を貫いて、純粋に安堵し、縋る人々がヴァイターの周りに押し寄せた。

 

彼らが全員はけてから、控えめな歓待の名残を、小腹を空かせた二人で食べて。

 

私はまた、彼の腕の中に納まり、眠った。

 

また、私の夢にはヴァイターが現れた。

 

彼は、同じことを言う。

 

「それは、君の、食べ物、ではない」

 

言葉を一つ一つ区切り、言い聞かせるようにゆっくりと、言葉尻まで聞き取りやすい端的かつ澄んだ声音で。

 

彼は言葉を掛け、其れは、恰も頷いたかのように、首を上下に振ったのだ。

 

ヴァイターの影の向こうで、一頭の大きな鹿が走り去っていく。

 

手を伸ばしても、届きそうにはない。

 

手を伸ばす人は居ても、そこには私とヴァイターの姿だけは無い。

 

当然だ。

 

死は特別なもので、それを免れているヴァイターこそが最も特別なのだ。

 

彼を差し置いて、どうして他の存在が特別になれようか。

 

だから私は、それを、肯定するのだ。

 

それは、ヴァイターだけが持つべきものだ。

 

少なくとも私は、彼以外がそれを持つことを望まない。

 

直に朝日の嘶きが目を衝いて、私を起こそうと試みた。

 

だが、私は彼の声が聴こえるまで動かずに、じっとそこで待っていた。

 

「ゼーリエ、朝だよ」

 

と。

 

優しい声が届いて、それでも動かない私の身体を、あの人の手が穏やかに揺するのだ。

 

魔法で根を張ったように動かない私を。

 

非力な貴方が身を寄せて、自分よりも小ぶりのエルフを一生懸命に起こそうとする姿を。

 

私は薄目を開けて楽しんで、それからようやく、何かに安心していることに気が付いた。

 

強さではどうしようも変えられないことが、今はまだ変わらず目の前で、昨日と同じように在ることへ安堵していたのだ。

 

貴方は私に笑い掛けた。

 

「おはよう、ゼーリエ。相変わらず、朝に弱いね」

 

「千年経っても、直らないものは直らないみたいだ」

 

貴方は呆れるまでもなく、そう言う。

 

貴方の顔は穏やかで、ただ無闇に笑ってくれないのが、当たり前すぎて泣けてくる。

 

私は言う。

 

「ならずっと、貴方が起こす必要があるな」

 

「いつまで?」

 

「私が死ぬまでは」

 

「それなら、ずっとがいいよ」

 

「なら、ずっとだ」

 

私は黙ってバンザイをする。

 

さぁ、脱がすのだ、服を。

 

今日もいつも通りに、私を着替えさせてくれ。

 

…一度降りた澱というものは、全て取り除いたと思っても、必ず再び、以前にもまして烈しく私を揺さぶるように湧いて出る。

 

であれば、芽が出る前に、この予感の原因を取り除くべきだ。

 

私に不安を覚えさせたものが何であるのか、それは知らん。

 

重要でもない。

 

重要なことは、私はそれを許し難いということだけだ。

 

森を丸ごとすべて焼き払ってでも、私は怪物を殺さねばならない。

 

そこに不安が存在したという事実さえも、私は遺しておくわけにはいかないのだ。

 

安全な日々に風穴を開けた不届き者を。

 

故に、私は今日、化け物を殺す。

 

それが何であれ、或いは、それがそうあるべくして生まれた何かであろうとも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…だが、結果としてこの日の私が殺すことになるケダモノは、たったの一匹すらいなかったのだ。

 

結局のところ、物事には始まりがあり、大抵の始まりに関わっているのが、私が隣に立つヴァイターその人だったというわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつも通りに起きて、いつも通りに身支度を終えて、私とヴァイターは森へと足を踏み入れた。

 

腕から下げられているバスケットには朝食のサンドイッチが二人分入っていて、村長の奥方が善意で持たせてくれたものだった。

 

昼食の分も持つかを尋ねられた時、珍しくヴァイターがきっぱりと断ったのが印象的だった。

 

それは、昼前までに終わらせることを断言しているようにも感じられたが、彼に攻撃的な気配は皆無であった。

 

別の考えがあるのだろうか、さても、この件の真相は、私に理解できる範疇には無かった。

 

ただ、特別な警戒もなく、いっそぶっきらぼうな足取りで森へと踏み込んだ彼の足運びは軽くも重くもなく、ただ、迷いもせず、一直線に奥へ奥へと進んでいった。

 

彼の背中を追うこと暫く、森の奥深く、大きな木の根元にある洞の前で、その無防備な背中が立ち止まり、バスケットの中からサンドイッチを一つ取り出すのが見えた。

 

「ほら、サンドイッチがあるよ」

 

そう言った彼は、私が問いかけるよりも早く、木の洞へとサンドイッチを持つ手をゆっくりと差し込んだ。

 

…後光を浴びて、現れた懐かしい匂いに、それは歓喜を感じたのであろうか、或いは…。

 

それは、サンドイッチを頬張りながら現れた。

 

すっぽりと彼の両腕の中に絡めとられて、一見すれば幼い人間の子供にも見えるそれは、しかし、人間の子供からは到底、臭うはずもない濃い死臭を纏っていた。

 

襤褸切れのようなものに身を包み、頭には大きな角を生やしていたそれは、子犬が飼い主に甘えるように、媚びた声を上げながら、頻りにヴァイターの顔を見上げては、サンドイッチに噛り付いてを繰り返した。

 

幼い子供のように見えるそれの容姿は非常に整っていて、死臭以外には不潔を感じさせる要素を持たなかった。

 

だが、ヴァイターに促されて検分した洞の中には、真新しい人間の腕が認められたのである。

 

ああ、コレが、そうなのか。

 

その時の私はそう思った。

 

そして、可及的速やかに、この汚らしい、得体の知れない怪物を、私のヴァイターから遠く引き離した上で、跡形もなく消し去らねばならないと…そう思ったのだ。

 

しかし、私が行動を開始するよりも早く、彼は子供の耳元で幾つかの言葉を呟いた。

 

優しく頭を撫でる手と、彼の顔を見上げるそれの、無防備な顔、それを最後に。

 

彼が呟いたかと思うと、子供が居たと思った場所には、もう何も無かった。

 

食べかけのサンドイッチには、子供の歯型だけが遺されていて、それ以外には、あの襤褸きれさえも残らなかった。

 

「ゼーリエ、洞の中を見てごらん」

 

動揺する私の方へ振り返らずに、彼は私を促した。

 

「なにも、ないぞ」

 

言われるがまま見た。

 

洞の中には、奇妙なことに、先ほどまでそこにあった腕が存在していなかった。

 

否、死臭すら消えていた。

 

何が起こったというのか。

 

私にはわからなかった。

 

「そっか。なら、もう帰ろう」

 

彼はそう言い、立ち上がった。

 

彼の足取りは軽くもなく重くもなく、元来た道を、寸分狂わぬ速さで通り抜けていった。

 

 

 

 

 

 

 

村に着くと、私たちの目の前には朝と変わらぬ光景が映り込んだが、そこには何か既視感のある顔の青年が一人、村と森との境界を守るように、簡素な槍を手に立っていた。

 

袖まくりをして、健康的で筋肉質な腕を曝け出しており、森の中から現れた私たちを見て、怪訝な表情を浮かべていた。

 

「やあ、こんにちわ、実はこの森に危険な獣が出ると聞きつけて調査に来てたんだよ。一晩でいいから泊めてもらえないかな」

 

私を置き去りにして、ヴァイターはそんなことを青年に告げた。

 

神殿から来たことを告げると、青年は驚いて言った。

 

「あれ、猟師のおっちゃんとすれ違ったのかな…」

 

「たぶん、きっと、そうだよ」

 

「はぁ…でも、助かりました、不気味な悲鳴が聞こえてくるもんですから、困ってたんですよ」

 

「そうだろうとも」

 

青年は村長に許可をもらうとその場を後にした。

 

その日は村長宅に泊めてもらい、次の日の朝早く、案の定、何かの悲鳴が聞こえた。

 

幼い子供が助けを求める声が聞こえて、昨日の青年が駆け出しかけたところで、ヴァイターが代わりに行くと言い出した。

 

私は、今なおもって沈黙したまま、注意深く、現実を見つめていた。

 

ヴァイターは私を連れて、初めて森に足を踏み入れた。

 

初めて通る道を進み、初めて見上げる大木を認め、その大木の根本に洞があることを初めて知った。

 

そして、彼は恐れもなく洞に踏み込むと、一抱えもある得体の知れない何かを、文字通り犬猫の如く胸に抱いて帰ってきた。

 

初めて見るそれは、それは幼い人間の子供の姿をしていたが、到底、同じ人類だとは思えなかった。

 

大きな角を額から生やして、それは借りられてきた猫のように、安心しきって彼の腕の中に棲みついているようだった。

 

ヴァイターの目を見るが、そこに揺らぎなどなく、超然としていて、淡々と最適解を導き出すような、見たことのない難しい色を宿していた。

 

私はこの日、この瞬間に、初めて彼に畏怖を抱いた。

 

だが、それは彼に威厳を増して与えることを意味しても、私から遠く高い場所へと取り上げるような無法を働く出来事では、断じてなかった。

 

寧ろ、私は目の前の、この得体の知れない何かを抱えた、より得体の知れない存在への、ただでさえ強い執着を、生来の野心と混ぜて、より濃く烈しいものへと変質させたに過ぎなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴァイターと私はその日のうちに村を後にした。

 

彼はこれといって求めなかったが、馬を一頭、それから大きな毛布を一枚貸してほしいことを伝えた。

 

ヴァイターを知らぬものは大陸でも探さなければ見つからないほどの人であったから、村の人々は誰一人として拒まず、喜んでこれらを叶えてくれた。

 

騎乗したヴァイターの背中に私が縋り付き、彼の正面では大きな角を生やした子供が毛布に包まれて抱えられていた。

 

子供は恐ろしく従順で、媚びるようにヴァイターの一挙手一投足に反応しては、頻りに甘えて見せた。

 

ヴァイターの手は、そのたびに優しく、撫でるように動かされていたが、視線は遥か遠くへ向けられていた。

 

私はなぜだか、嫉妬も不満も抱かなかった。

 

ただ、言い表しようのない不安がまた、どこからともなく湧いて出たことを感じていた。

 

こんな感覚は初めてのはずなのに、こびりついていたものが浮かび上がるように、それに既視感を覚えたのだ。

 

馬は嵐のように早く走り、風が泣くように耳元で囁いた。

 

風の冷たさも、馬の脚が激しく跳ね飛ばす泥の汚れも、私と彼とには魔法で届きようもなく、不愉快なことなど何一つないというのに。

 

私にできることは、ただ、これまでになく遠く感じる彼を、この場所に、私の目の前に、ただずっと繋ぎ留めておくために、ぎゅっと強く、抱く力を込めることだけだった。

 

遠くに神殿が見えるまでに、私の中の心細さは癒えていた。

 

だが、それは遠からず再び訪れる、聖痕が開く痛みに悶えることを予感させる、遠雷でしかないことを、私は知っていたのだろう。

 

手綱を握りしめていた彼の手が、私の熱く、強情に固まった手の甲を、解きほぐすように撫でるから。

 

私は言い知れない安堵と、与えられたそれが、いずれは、もはやどこにもなく、誰も知り得ない、誰でもない誰かと同じ結末を辿るのではないかと…。

 

福音の剥奪を恐れ、福音の剥奪から免れるのであれば、あらゆる悪徳にも求められれば応じるであろう程に、私はその温かさの虜となっていた。

 

角を生やした子供に、貴方はハンノキを意味する名を与えた。

 

貴方が何を思い、何を願い、何を籠めたのか。

 

私は知り得ない。

 

ただ一つ、この人もどきに関して一つだけ言えることがあるとすれば。

 

あの日、貴方が拾わなければ、こいつはいずれ、貴方を除くすべての我々に牙を剝いたであろう、ということだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私に咬みついた不安の得体を、私は遠からず知った。

 

貴方がこの得体の知れない人もどきに接する姿を見るうちに、それは氷解し、私に不道徳な安堵感と、それから一際醜い優越感を与えたのだ。

 

ハンノキの小僧。

 

アレや、周囲の人間に接するいつもの貴方を観察するうちに、貴方にとっては一部の例外をのぞいて、獣もケダモノも、大して差異が無いということを、私は十全に理解するに至った。

 

貴方は人間の子供に教えるのと同じように、ハンノキの小僧にも言葉を教え、魔法を教え、愛情を注ぎ、叱ったり褒めたりする。

 

それは、人間に対するものと確かに同じで、だが、決定的に私に対して注いできたものとは異質のものである。

 

私の記憶にある限り、貴方が儀式としてではなく祝福を与えたのは、間違いなく私ひとりであった。

 

貴方はこれまで、数多の人々に儀式的に祝福を与えつつも、その実、当人でさえ気づかぬうちに、私自身に掛けられた魔法と同質のものを発動させまいとしてきた。

 

このことに気付いているのは私だけだろう。

 

まず間違いなく、私だけだ。

 

この事実に気づくまで、私でさえ千年以上の時間がかかったのだ。

 

この、たった一つの重大な事実を知る為だけに。

 

そして、貴方は、自ら気づかないままに、選り好んで祝福を与えていて、そのうちのたった一つの症例こそが、嗚呼、私なのである。

 

ハンノキの小僧は、きっと大きく育つだろう。

 

誰よりも、恐ろしく強く育つだろう。

 

或いは、歴史を動かし、変えることまでするかもしれないな。

 

だが…貴様は、ヴァイターから選ばれはしなかった。

 

ただその一点のみにおいて、貴様は生まれながらにして哀れである。

 

どんなに強くあろうとも、どんなに賢くあろうとも、どんなに慈悲深くあろうとも。

 

貴様は、私の、不安足り得ない。

 

どんな権力も必ず衰える。

 

どんなに強い、価値のある物でも、いずれは朽ちる。

 

必ず終わりは訪れるのだ。

 

だが…ヴァイターから祝福を受けたこの身に、栄枯盛衰などあり得ない。

 

彼に愛されている限り、私に不安はなく、私は常に満たされ続ける。

 

少なくとも、今のところは…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにもし名前を与えるとすれば、魔族と呼ぶのが適切だろう。

 

モンスターが人型に進化したものだとすると、その名前は種族名としてこの上なくしっくりときた。

 

ただ、僕には、人間と魔族との見分け方が、今もって不可解だった。

 

魔族を初めて見たのは、まだモンスターの域を出ない頃だっただろうか。

 

その頃の僕には、家族と呼べるものがいなかったから、代わりになるようなものが欲しかったんだろう。

 

だからだろうか、この、学習能力の高い動物を飼ってみようなどと考えたのは。

 

人の形をしていなかったそれに、人の形の方が都合がよいことを教えてしまったのは、おそらくは僕であろう。

 

言葉も魔法も知恵も、言ってしまえば僕が与えてしまった。

 

理由だなんて、大層なものはなかった。

 

大義も、反抗心も、まして悪意など。

 

あろうはずもなかったのだ。

 

ただ、無邪気にも、この賢い動物を可愛がった。

 

脅威が無い状態を提供しあう関係性を、原始的な家族として教え。

 

身を守る手段として、また快適に暮らす手段として魔法を教えた。

 

賢さには限度があるように見えたから、賢くなる魔法を掛けてしまったのが、僕の一番の失敗だったのかもしれない。

 

あの子たちは、確かに賢く、僕に忠実だった。

 

決して裏切ることはなかったし、僕も裏切らなかった。

 

ただ、あの子たち以外も、そうだとは限らないのだと、つい先日、思い知らされる羽目になった。

 

彼らは人型に育ち、言葉を話し、賢く、思いやり深く、忠実で、魔法を扱うのに長けた種族へ成長し、あろうことか、人間を食べ始めたのだ。

 

僕は、今まで、人間と彼らを別物だと考えてきたのだが、このことで彼らが全くの同類だということを知った。

 

彼らの違いは、多くの場合、人間は魔族を殺すために殺すが、魔族は人間を食べるために殺すということだろう。

 

そう言いつつも、魔族は人間しか食べられるものがない、というわけではないのだ。

 

彼らは、同族嫌悪をしているように見えて、僕は非常に悲しかった。

 

彼らは僕の身柄を尊重してくれるが、僕の思想を尊重してくれるとは限らないのだ。

 

感謝してくれなくていいから、仲良くして欲しかった。

 

お礼もいらないから、好いことの為に、魔法なり、知恵なりを利用して欲しかったのに…。

 

僕は神輿の上で宙ぶらりんのまま、無為に時間を過ごしてきたように思う。

 

目の前まで来てくれた誰かにしか、僕は役立てたという実感が湧かなかった。

 

それだって、根本的な解決にはなっていないのだろう。

 

だが、その虚しさを埋めるように、僕のもとにはゼーリエが現れたのだ。

 

彼女のような子供が、僕の前に現れたのは初めてのことで。

 

だから、僕は、彼女の中に希望を見た。

 

何か特別なことは起こらなくても、傍に居てくれたのなら、僕も、変わるきっかけを得られるかもしれないと、そんな希望が漠然と降ってきたからだ。

 

それで…それまで、心の底から祝福する気がおきなかったことを振り返り、僕は一縷の願いを込めて、彼女のすべてが満たされるようにと祝福を捧げた。

 

果たして、今の彼女が幸せなのかは知らないが…今日、彼女のおかげで僕は過去の自分を一つ乗り越える機会に恵まれた。

 

その魔族に見覚えなど無かった。

 

けれど、もう一度、今度こそ、優しい、思いやり深い子供を育てなければ。

 

そう思い、僕は目の前の子供に、もう一度、まっさらな時間を与えた。

 

幸い、この子が食い殺したのは一人きりで、それも辿れる範囲の出来事だったからよかった。

 

ただ…どんな理由があっても、人類の為だけに魔族という種族を否定することはできなかった。

 

彼らは、言ってしまえば人間が他の動物に振りかざしている、そういう振る舞いと同質の振る舞いを、人間に対して振りかざしているだけのことなのだから。

 

僕は、そのことを、善いとも悪いとも思わない。

 

だが、命を弄ぶ振る舞いは好きではないし、その動物から抵抗する権利そのものを奪うことは、その生存の権利そのものを否定することにも等しいことだと思うのだ。

 

滅ぼすなら抵抗を受けて当然だ。

 

それも、想像を絶する激しさを伴う抵抗を。

 

奪う限りは、奪われる覚悟がなければならないだろう。

 

そうでなくては、辻褄が合わないじゃないか。

 

否定するからには、否定されて当然なのだ。

 

何かを否定する振る舞いは、自らが必ずや否定されることを、言うまでもなく承知した旨を宣言することにも同義なのだ。

 

そして…願わくば、これから先の僕は、その必要がない状態を生み出し、守り続けられるように、その為に自分の力というものを利用したいのだ。

 

共存することがなくとも構わない。

 

ただ、別々の場所で、同じように穏やかに日常を送れるというのならば、これ以上に求めることはないだろう。

 

違うものは違うのだし。

 

人でも食べてしまうような熊と人間が共存しているだなんて、一体誰が思っているというのか。

 

それでも、彼らは少なくとも互いを滅ぼそうとは考えていないわけで。

 

アリの巣に無心で水を注ぐ程度の無神経さを持っていても、アリを踏まないように避けることはできるわけで。

 

そこには、特別な利得も、意味も、恩恵も何もないけれども、そのことに何の問題があるというのだろう。

 

完全な心を共有できなければ、憎まれて殺されたり、或いは種族ごと滅ぼされる必要があるとも。

 

完全な心を持っていれば、同族殺しや同族食いが許容されるとも。

 

そのようなことは、僕には到底思われないのだ。

 

無関心でも構わないよ。

 

無知でも、無邪気でも、無分別でも構わないよ。

 

ただ、違う場所で、顔を合わせることがなくても、何事もなく生きていられた方が好いに決まっているじゃないか。

 

どこで生きていたって構わないし、どんな幸せを抱えていても、それは当人の自由だろう。

 

だけど、惨たらしく誰かが殺されるのを見たいとは思わない。

 

エゴで結構だ。

 

僕は聖人君子なんかじゃない。

 

ただ、そんなものは不愉快だからと、あっちへ行けと、どこか他所でやってくれと言っているだけなんだ。

 

ただし、僕が生きている限り、この大陸に僕の目が届かない『他所』と呼べる場所があるのか、は甚だ疑問だけれども。

 

共存できればすればいい。

 

共存できなければそれでもいい。

 

ただ、冷静になれないのなら、お互いに近づくんじゃない。

 

足りないものがあるなら僕が与えよう。

 

話し合いが上手くいかないのなら、喜んで手伝おう。

 

困っているなら進んで手を貸そう。

 

ただし、互いに言葉の意味を理解できる限り、捕食目的以外での殺し合いはダメだ。

 

そんなものは辻褄が合わないし、なによりも野蛮だろう。

 

話し合いではどうにならなくて、どうしても我慢ならない時だけは、仕方がないから。

 

その時だけは、お互い、満足するまで殴り合いなさい。

 

保護具をしっかりと着けてから、両者、正々堂々と殴り合って決めるのです。

 

喧嘩なんて、どうでもよくなるまで殴り合いなさい。

 

終われるなら、もう、何でも構わないと、そう思うまで殴り合いなさい。

 

気が済むまで、殴り合いなさい。

 

全てを投げ出したくなるまで、吐くものが無くなるまで、殴り合いなさい。

 

そうして、終わってから、お互いに謝り合えたなら。

 

この先も、仲良くできなくても別に構わないから、今だけは、ただ抱き締めて、褒めてあげようじゃありませんか。

 

それで、いいじゃないですか。

 

僕は、然う、思うんだけどなぁ。

 

 

 

 

 

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