『愛着の魔法』   作:ヤン・デ・レェ

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賢き子供たち

自分の可愛がりが結果的に、人類に仇する怪物を生み出してしまった…というヴァイターの認識は、実際には幾つかの事実と偶然が重なり招かれた勘違いに過ぎない。

 

第一に、彼が『賢き子供たち』と呼ぶところの、非常に古い時代に生まれ、ヴァイターに手ずから養育された魔族は当時、既に独り立ちを果たしており彼の手を離れてはいたものの。

 

その段階においても、ヴァイターの薫陶も灼かに、人食を好まず、集団を形成し、礼節を重んじ、高度に発達した社会性に基づいて秩序だった暮しを営んでいた。

 

彼らは非常に洗練された魔法の使い手を多く有していたが、人里からは敢えて距離をとり、未開の地を新たに切り拓いて隠れ里を構築しては、それぞれの地に根を張りつつ、互いに連絡を取り合うなどの活発な交流を行っていた。

 

彼らは人間に擬えられることを好まず、あくまでも魔族としてのプライドを有していたが、彼らは同時に他の魔族と同質の存在として扱われることにも激しい拒否反応を示していた。

 

あまりにも長い年月を生きてきたヴァイターにとって、多少知恵が回る程度でしかなかったモンスターを魔族という知的な人類に育成する上で掛かった時間と資源は、まったく惜しまれるものでもなく、また特筆すべき苦労に見舞われたものでもなかった。

 

だが、それは彼にとっての話であり、彼がゼーリエと出会う前の段階で流暢に人語を使用し、美形の人型を採るに至った魔族は突然変異種を除けば皆無であり、その突然変異種にしてみても、例示するまでもない程に、お粗末な音と形での表面的な擬態でしかなかった。

 

対して、賢き子供たちは更に千年以上以前の段階で、魔族にとっての形質的な最新の進化段階を超えていたのである。

 

彼らにとって、道具、言葉、文明、文化、そして感情と魔法までもを彼らの種族に齎し、剰え高度に発達した知的存在である魔族を以てしても歯牙にもかけないヴァイターの存在感は、崇め奉るにも過分なありさまであったと言えよう。

 

まして、薫陶を受けた自分たちと、そうではなかった者たちとの進歩の程度を比較したときに、自分たちが有する明らかな優越性を、転じて他の魔族の圧倒的な劣等性を確認した以上は、彼らを育て導いてきた存在の言葉こそが、真実、説得力と効力を兼ね備えていることを、これ以上ないほどに絶対的に訴えていたのだから。

 

賢き子供たちは、徹頭徹尾、教育により生み出された最優秀の人類種としての自負を獲得し、その誇り高い性質を満たすための基準をヴァイターに求めた。

 

ある時のことである。

 

賢き子供たちは一堂に会して、彼らが崇敬するヴァイターに教えを乞うた。

 

「ヴァイター様、我々はどうすれば最も優れた人類に足り得るのでしょうか」

 

問い掛けを任せられたのは、ゼーリエは疎か、他の子供たちの中でも最も若く、しかし、最も賢いと噂されることも多いクヴァールという魔族だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

クヴァールは魔族として非常に誇り高く、また魔法にも絶対の自信を持っていたため、他の魔族が進化の過程で人間に擬態してきたのに対して、断固として自分の生まれながらの姿を変えなかった。

 

なぜならば、彼にとっては最初に与えられたものがすべてであり、そのすべてを賭して生存競争に勝ち抜くことこそが生物としての、ひいては魔族としての本懐を遂げる上で重要な覚悟だと解釈していたからだ。

 

まして、彼らは他よりも遥かに大きな寵愛を、遥かに長く受け続けてきたという自覚があった。

 

最上のものを与えられたというのに、どうして授けられたものを捨てて、わざわざ、より下等な形質を選択するというのか。

 

そもそも、奪うために発達した形質を取ること自体が、ヴァイターに忠実なこの若い魔族にとっては裏切りにも等しい嫌悪を喚起したのである。

 

例え、それが合理的な選択であったとしても、である。

 

クヴァールの根幹にはヴァイターが与えた無数の薫陶の中でも、彼がひときわ眩しく感じたものの一つ一つが、その胸の中で長いこと信念の根拠として、堅固な説得力を持ち続けてきた。

 

曰く。

 

「合理的な選択だとしても、倫理に悖り、信念に反するが如き選択は、無条件に嫌悪すべきものであり、このような選択を取ることは、真に高等な人類ならば断じてしないし、そもそも、そのような状況には陥ること自体がありえないか、そのような状況を常に打開することが出来るものである」

 

「もしも闘争に敗北し、種族が存亡の危機に瀕したとしても、これを防ぐために野蛮な行為が要求される場合は、野蛮に服従するくらいならば種族の滅亡を従容として受け入れる選択肢を迷わず採るだろう」

 

「例え、その選択の結果、本当に種族が滅びたとしても。優しさを捨てるくらいならば滅びた方が遥かにマシである」

 

「そもそも、闘争によってしか生存競争に勝ち抜けない生物は、総じて下等生物である」

 

「真の高等生物には自然の残酷な、野蛮な理を捻じ曲げる権能が備わっており、あらゆる闘争を予防し、未然に回避できて然るべきだ」

 

「真の高等生物は、より高次の目的を遵守するためならば生存本能による過酷な要求にも、超然として否を突き付けるのである」

 

「残酷に味方し、惨劇に資することでしか生存競争に打ち勝つことができないというのならば、そのような環境下での生存は、生存するに値しない」

 

「真に賢き者は、誠実と優しさを捨てるくらいならば優しいままに、弱いままに滅ぶことを選ぶのだ」

 

「優しき者の居場所がない世界に、生きるべき価値などあり得ない」

 

今なお、クヴァールをはじめとした賢き子供たちは闘争から免れていない。

 

だが、彼らは人間が形成した礼節の文化を基礎として、道徳や社会規範を独自に発展させてきた過程で、人肉食を拒絶し、人類との闘争にも、魔族との闘争にも否を突き付けてきた。

 

彼らは自分たちを更なる高みへと押し上げ、いつの日か闘争から免れ、野蛮を撲滅することに成功した、最も高次な人類へと進化するために、ヴァイターの言葉に愚直なまでに忠実に従ってきた。

 

彼らの振る舞いに事実が宿り続ける限り、ヴァイターもまた彼らの振る舞いに忠実に報いることを惜しまず、数えきれないほどの魔法を彼らに授けてきた。

 

魔法はもっぱら生活魔法と防御系魔法が多かったが、まず第一に何者からも奪われないことを是とする信条を裏切らない為にも、それらは急激に、また緻密に体系化されていき、今では非常に強力かつ生存性の高い魔法体系が賢き子供たちにより独自に形成されていた。

 

クヴァールは中でもとりわけ魔法に造詣が深い者として尊敬を集めており、実際に、賢き子供たちの魔法体系の中でも、個人の手で実用化されたものの中ではクヴァールの手によるものが最も多かった。

 

「どうすれば、より好く生きられるのか」

 

「どうすれば、より高次の欲望を満たせるのか」

 

「どうすれば、より優れた人類の高みへと昇ることができるのか」

 

クヴァールの問いに対して、ヴァイターは簡潔に答えた。

 

「とりあえず、戦争と飢餓と疫病を管理できるまで、一緒に行こうか」

 

クヴァールは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 

ヴァイターは続けて言った。

 

「どれも、今なら僕一人でも解決できるけど、それは一過性のものでしかない」

 

「恒久的とは言えない。でも、継続的になら可能だと思うんだ」

 

「手入れを怠らなければね」

 

「そして、その為には公正だが強力な第三者が必要不可欠だ」

 

「君たちが、魔族を含めた全人類種の調停者に成ってみないか?」

 

今度こそ、クヴァールは理解を得た。

 

彼らの父なる者は、途轍もない話をしているが、恐ろしいことは内容ではなく、それが実現可能であるという前提で話しており、その前提が強ち間違いではないことを…否、むしろ、過分な実績により絶大な説得力と共に繰り出している点である。

 

そもそも、ヴァイターの提案が賢き子供たちの名誉を傷つけ、実益を損ねるものだった試しはなく。

 

また、彼らがヴァイターの提案を拒絶した試しも一度としてなかった。

 

答えなど、初めから唯一つと決まり切っていたのである。

 

クヴァールは平伏して言上した。

 

「ヴァイター様の御心のままに…」

 

「どうぞ、我らをどこまでも、貴方様の御手でお引き回しください」

 

「我らは、最期まで、御伴を務めさせていただきます」

 

クヴァールが代表してそう言上すると、他の子供たちも一斉に恭順を示し、ここに賢き子供たちは意志の一致を見たのである。

 

以後、ヴァイターとゼーリエが暮らす神殿には、賢き子供たちが続々と派遣されてくることとなった。

 

ゼーリエには年下の先輩が山ほどできてしまったことになり、自分以外の実力者に四六時中ヴァイターの周囲が固められている所為で、彼女の不機嫌はしばらく続くことになるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日の朝は、いつもよりも寝覚めが好かった。

 

ヴァイターの声を聴くよりも早く目覚めたのは、実に久しぶりのことだった。

 

十年か、百年か、もう何年前を最後に、彼の声を聴かずに目覚めたのか思い出せそうになかった。

 

こういう時、普通ならばすがすがしい朝を想うのだろうが、私は真逆の、損をしたという感覚を抱いたのだ。

 

都合の悪いことに、体が先に起床してしまっている所為で、二度寝はできそうになかった。

 

ベッドの上に貴方は居ない。

 

夜は甘えてくる癖に、朝ときたら…その振る舞いの、なんと薄情なことか!

 

まぁ、私が努めてズボラでいるが為なんだろうが…。

 

私も大概だな…わがままで、無いものねだりが已まないようだ。

 

寂しい気持ちも欲しがる強欲さにも、堪え性のなさにも辟易とするが…治せるものならいつだって治せるだろうに、今も変わりないのだから答えは明白だ。

 

これも、貴方の中に居座り続けるための戦略だと思えば、案外と立派な作戦と呼べるのではないか。

 

言えないか…まぁ、いい。

 

でも、仕方ないじゃないか。

 

なにもかにも、貴方が忙しそうに動き出すのが悪いのだ。

 

私に貴方の邪魔などできようはずもないと、理解していてくれてもいい頃合いだろうに…。

 

賢者ども…賢き子供たち…の所為で、神殿では肩身も狭いしな。

 

いや…私が一方的にそう感じているだけだが…ともかく。

 

ともかく、だ…。

 

最近は、すこしさびしい。

 

さびしかったのだ。

 

私は髪をぼさぼさにして、貴方の仕事を増やすことに決めた。

 

私にもっと手を掛けさせてやろう。

 

これを以て復讐としよう、そうしよう。

 

ほら、ごろごろ、ごろーん。

 

ふっ…なんとも他愛のないことだ。

 

この程度で貴方の手を煩わせるなどと…一体、何千年間、貴方が私の髪を梳かしてきてくれたことか。

 

生活魔法の泰斗である貴方の手に掛かれば、どんなにしつこい寝癖も一瞬で片が付くというのに…。

 

だが、残念だったな。

 

私は、私の髪に対してだけは魔法を使うことを禁じているのだ。

 

そういう病気だと嘘を吐いたら、貴方は案の定、病気を治す魔法を持ち出したな。

 

ふふふ、治らない病気だと告げれば「そうなのか…」と真剣な顔で櫛を手に取っていたが、あれはちゃんと嘘だぞ。

 

……。

 

…。

 

寂しい…。

 

そもそもッ…私よりも先に面倒を見ていたからなんだというんだ?

 

今、生きてる連中は全員が私よりも年下だろうに…。

 

おまけに、なんなんだ連中は、自分たちが一番の理解者であるとでも言いたいのか?

 

はぁ…これで、私の腹が立てばなぁ…。

 

困ったものだ…満たされているというのも。

 

いざ、改めて考えてみると、なんて残酷なことだろう。

 

私は、満たされたままだ。

 

貴方が私に掛けた魔法は、私の野心を殺すことに役立ったようだな…。

 

だが…魔法とは常に解釈の余白がつきものだ。

 

私は、どうやら連中から貴方を実力で奪い取ることも、策略で奪い取ることも許されていないようだが…。

 

連中とぶつかることなしに、連中よりも優れていることを示すこと自体は可能であるように感じるな。

 

私の身に流れる、全能感が阻害されないということは、つまり、そういうことだろう。

 

…作るか、貴方を招く場所を。

 

私が恣にできる、そういう、貴方と私の為だけの居場所を。

 

玉座でも、茣蓙の上でも、石の上でも構わないのだが…この際だ、座り心地のいい椅子を用意してご覧に入れようじゃないか。

 

連中がするよりも遥かに上手に、連中がするよりも遥かに速やかに、連中がするよりも遥かに厖大に、貴方の為の力と成ってやろう。

 

その為にも…まずは、一人二人、私の意を汲んで動ける程度の『弟子』を育てるとしようか。

 

連中が貴方に向けるような崇拝は御免だが、取り敢えずは使える奴が欲しいな。

 

それと、出来れば私のヴァイターに色目を使わないやつが好い。

 

こういうとき、男でも油断できないことは知っているからな…慎重に選定するとしよう。

 

…結局、『幸福の魔法』は使えず仕舞いか…いいや、まだだ。

 

道は永い。

 

私はまだ、貴方の背中を追っている途中だ。

 

だが、いつか必ず、貴方の横顔を見るだろう。

 

私は、貴方に置いて逝かれるつもりも、貴方を置いて逝くつもりも毛頭ない。

 

ずっと、一緒だ。

 

ずっと…ずっと…。

 

と、足音が聞こえてきたな…なら、寝たふりをするとしようか。

 

ふふふ…私の寝癖におののくがいい。

 

「ゼーリエ?おはよう、朝だよ」

 

ぐー…ぐー…。

 

「また、なのかな?うーん、すごい寝癖だよ?この短い間にどれだけ寝返りを打ったのさ…やっぱり、僕がしっかり捕まえて寝ないと暴れちゃうのかな?」

 

コクコクコク!!!

 

「寝ながら頷いてるし…聞こえてるのかな?」

 

ギクっ…ぐ、ぐー…

 

「いや、寝てるなぁ…ほら、起こすよ?」

 

うーん、むにゃむにゃ…おやおや、貴方は、私の育ての親であるところのヴァイターじゃないか。

 

こんな朝早くから何用で?

 

仕事は賢人どもに割り振ればいいだろうに。

 

「いや、急激に雄弁だな…って、おはよう、ゼーリエ」

 

「…うん。おはよう」

 

「朝ごはん、できてるよ?」

 

「知ってる。ただ、なんだ、先に寝癖を直さないと」

 

「知ってる。それと、寝癖を直すのは僕だからね」

 

「そうだ。何千年も前から、そのことは決まっているんだ」

 

「まったくそのとおり」

 

そう言って、ヴァイターは私を非力な体全体で包み込むように抱きかかえると、鏡の前の椅子へと移し替えてから、無駄を省いた足取りで私の後ろに回り、優しく、絹を扱うような手つきで髪に触れた。

 

「ゼーリエって、生活魔法だけは不得意だよね」

 

手に持った櫛は、何代目だろうか。

 

朽ちては魔法を掛けなおして、それでも朽ちてを何度繰り返しただろう。

 

艶やかなそれには、私と貴方の時間が沁みこんでいる。

 

髪を梳き始めてすぐに、貴方はいつも通りにそう言って。

 

私も、いつも通りに、ばつが悪そうな、わざとらしい苦笑を浮かべて言う。

 

「ああ、どうにも、それだけは苦手でな」

 

嘘である。

 

もう、なんか凄い嘘である。

 

ハチャメチャに嘘である。

 

実は一番最初に覚えたのが生活魔法全般だったりするのだ。

 

だって、貴方が好きな魔法は、生活魔法ばかりじゃないか。

 

これといって使いどころのないものまで、余計な知識を一番若い時の脳みそに叩き込む羽目になった私には同情するよ、まったく…。

 

だからといって、楽しくなかったわけじゃない、からな。

 

そこだけは、間違えるなよ、そこだけは。

 

「こんなに素直な髪質なのに、どうしてあんなに寝癖が付くんだろうね」

 

「どうしてだろうな、まったく心当たりがない」

 

まったく、こころあたりが、まったくない。

 

不思議なことはあるものだ。

 

「ねー」

 

気の抜けた声の裏側に、気遣いを察知。

 

残念だが、その手は私には通じないぞ。

 

「あ、何度言ったかわからないが、寝癖が付かなくなる魔法を使っても無駄だぞ?私の寝癖には貫通魔法が付与されている。私が言うんだから間違いない」

 

そうなのだ。

 

だから、永遠の朝を、私の寝癖を直すことから始めて欲しいんだ。

 

この先もずっと。

 

貴方が頑張れば頑張るほどに、私は張り切って寝癖を拵えるぞ。

 

「えぇ…それは、凄くない?」

 

「そうだろう、私はスゴイ」

 

「それは知ってる。誰よりも知ってるよ、ゼーリエ」

 

「う、うん…そうだろうな」

 

「ああ。そうなんだ」

 

そこからは、もう、ただ優しい時間が流れた。

 

私は何も言わず、鏡の中の自分を…見ていると見せかけて貴方のことだけを見つめていた。

 

嗚呼、今日も、きれいで、かわいくて、うつくしい。

 

私のヴァイター。

 

私は、貴方が望んだとおりに、もっともっと遠くへ行こう。

 

だが、そこには必ず、貴方にもついてきてもらおう。

 

貴方の居場所は私が作る。

 

貴方はずっと、私の傍に居て欲しい。

 

ただ、貴方を見ていられるだけでも…。

 

「さ、終わったよ。朝ごはんを食べよう。温め直すから、ちゃんと椅子に座って待ってるんだよ?」

 

「ああ、わかった」

 

「ゼーリエ?…まだ眠たいの?」

 

「いや、ただ…なんとなく」

 

「なんとなく?」

 

「安心して、いるような、そんな感じだ」

 

「うん、そっか…それは、とても好いことじゃないか。じゃあ、もう少しだけ、安心してから来てもいいよ」

 

「いや、行こう」

 

「もういいの?」

 

「いや、貴方が行ったら、ほら、意味がないだろう?」

 

「……」

 

「…」

 

「それも…そうだね」

 

「ああ、そうして欲しい」

 

私も、貴方も、わずかな時間だったけれど二人きりだったな。

 

私も、貴方も、何も言わなかったけれど、自然と私は膝の上に納まっていて。

 

鍋が再び温まるまで、私と貴方は静かなまま、なんとなく、そうしていたのだ。

 

何の意味もなくて、何の目的もなくて。

 

だが、それでよかったのだ。

 

なぜなら、鍋が温まる頃には、私の寂しいは、すっかり仕舞われてしまっていたのだから。

 

きっとまた、そのうち顔を出すんだろう。

 

その時が、待ち遠しいような、なんとも言えない余韻が、私は一入、愛おしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の貴方は忙しそうにしていて、頻りに人間やドワーフやエルフの権力者と言葉を交わす機会が増えていた。

 

それに加えて、あちこちに出向いていって、貴方が嫌っている便利な魔法を使ってやることも増えていた。

 

貴方は悲し気な表情こそ浮かべなかったが、少しだけ、ほんの少しだけ疲れているのを、恐らく私だけが気づけていた。

 

雨を降らせたり、麦の実りを好くしたり、家畜を肥やしたり、泉を綺麗にしたり、はぐれ魔族を賢人どもの集落に接収したりと…八面六臂の活躍だな。

 

でも、夜が来て、寝る時間が来ると。

 

貴方は、ちゃんと時間を守ってベッドに上がってくれるのだ。

 

私は夜が怖くないし、貴方も別に怖がっているわけではないのだろう。

 

だが、何かが貴方を不安にさせてしまうのだということも、私は理解していた。

 

もう、すっかり理解できてしまうまでに、私と貴方は永いこと一緒に居るのだから。

 

それでも…知らないことばかりで、貴方のことで新しく知ることなどは、あって当たり前のことなのだ。

 

私は貴方のことを全て知ることなどできないし、貴方とて、私の全てを知ることなどできないだろう。

 

だが…貴方が私の全てであることだけは、疑いのない事実になってしまって久しいんだ。

 

私は、貴方に魔法を掛けられて、それからずっと、貴方のことだけを見てきた。

 

貴方の手で、他ならぬ貴方以外への野心を殺されて、唯、貴方への野心だけを、あの日から燃え続けているものだけを、今も抱えて生きているんだ。

 

貴方の所為だろう。

 

世の中は、退屈なまでに平和過ぎて、どうにも恰好がつかないな。

 

私のように、壊すことが得意な者など、世間ではお呼びではないのだ。

 

或いは、娯楽として消費される対象程度にはなれるのかもしれないが…。

 

いずれにせよ、私はこのまま、貴方の隣で苔生したって構わないんだよ。

 

栄達も、なにもいらない。

 

ただ、一つだけ、貴方だけが、私と互いに触れあえるだけの傍に居てくれるのなら。

 

貴方を見続けることができるのなら。

 

どんなに野心を焚きつけても、私の幸せは、貴方以上も貴方以下も望んでくれやしないんだ。

 

この、とろ火の幸福に、ずっとずっと焼かれ続けているんだ。

 

一日の最初に満足して、日中、構ってもらえなくて不貞腐れて、そして今、嗚呼、夜に眠る今今、貴方は縋るように私を抱き締めて、その瞳に初めて無垢の安堵を浮かべるのだ。

 

嗚呼、今を置いて、私は安心も、幸福も、絶頂も、之に優るものを知り得ないのだ。

 

永く連れ立ち歩いてきた影が、肉体を得て立ち上がり、生身の私にぴったりと吸い付くように、虚構の幸福は実現されて、虚像は過去になり得て、実像が今に追いつく様な、現実がよもや理想へと覿面に痺れて、私と貴方は深い微睡みにおちていく。

 

「おやすみ、ヴァイター」

 

「おやすみなさい、ゼーリエ」

 

「心配ない、私は貴方を置いて逝かない。貴方も、私を置いて逝ったりしない」

 

「うん、君が言うなら安心だ」

 

「そうだ。だから、明日も私の寝癖を直してくれ」

 

貴方は、もう眠っただろうか。

 

夢の中で、寂しくないか。

 

貴方の夢の中に、私はちゃんと棲んでいるのか。

 

貴方の持つ弱さを、ちゃんと、守れているのか。

 

貴方が弱さを捨てることなく、この先もずっと、私の隣にいてくれるように。

 

「…何が不安なんだ、と思うだろう?」

 

「私にも、わからない」

 

「貴方は、私ではないし。私は、貴方ではない」

 

「けれど、だからこそ、無神経にも宣おう」

 

「だいじょうぶ。…なのだと」

 

「貴方は、大丈夫だから」

 

「だから、ゆっくりとおやすみなさい」

 

「私のヴァイター」

 

規則的な寝息を聞き届けてから、私はいつも通りに、貴方の耳元で安心を囁く。

 

貴方は、私の寝言を、覚えていないだろうけれども。

 

誰のものでもないこの時間に告げる言葉にこそ、私は真実が宿ると信じたい。

 

偽りではないのだと。

 

例え、それが偽りだとしても…それは虚偽などではなく、いずれ実現されるために生まれた虚構なのだと。

 

言い知れない不安に襲われて、弱った貴方が愛おしい。

 

貴方を傷つけるのに武力など必要ない。

 

誰かを傷つける言葉一つで、貴方の心は容易く傷つく。

 

貴方の心は脆すぎる。

 

繊細に過ぎて、きっと強すぎる愛情にも当然の如く耐えかねるだろう。

 

貴方を傷つけようとしなくても、貴方は勝手に傷ついてしまう。

 

誰かが傷つけられるのを見るだけで、貴方は酷く無力感に襲われ、どうしようもない悲しみを噛み締めるのだ。

 

どうでもいい誰かの、些細な悪口にも傷ついてしまって、自分に向けられたわけでもない悪意に苦しめられる。

 

私を捨てた誰かのことを、最も憎んでいるのは私だろうな。

 

だって、貴方はこんなにも弱い。

 

私を捨てた誰かのことを、当時の貴方の周囲に侍っていた人々が血眼になって探したのにも納得だ。

 

女神が、貴方だけにこれほど偏った寵愛を注いだ理由も、考えてみれば簡単な話だった。

 

貴方は、あまりにも弱すぎる。

 

これだけの加護があっても尚、辻褄が合わないほどに。

 

貴方は、この世界で生きるには弱すぎる。

 

だが……。

 

誰か。

 

誰か、私を産んだだけの誰か。

 

私は貴様のことが憎いが、それと同じくらいに…否、それ以上に感謝している。

 

私の運命は、貴様の無思慮と幸運のお陰で、恐らく、この世界で最も美しい生命と交わることができたのだから。

 

そして女神よ、この脆弱な子供を私に授けてくれたことに感謝します。

 

二度と、お前の御許に還ることはありませんが、どうぞそこから私と彼との蜜月をお楽しみください。

 

私は貴方の御許に産み落とされ、貴方の御手にあやされ、貴方の愛情を貪り育ち、糧としてきたものに倍する愛情を、無条件に貴方へ捧げ続けるでしょう。

 

そこに意味などなく、帰る場所などなく、ただ、目の前の貴方の御心を守り通すが為に。

 

私は、貴方の為に、喜んで無為となる。

 

世界の余白となり、疲れた貴方が漂う時の為に、その隣に立ち続ける。

 

私は使う当てもない力を蓄え、磨き、決してそれが使われない為に、それを持ち続ける。

 

貴方の前では、未来すらも無力だ。

 

それでも、私の未来は貴方と共にある。

 

私の未来には、ただ貴方がある。

 

何も変えられずとも、ただ静かな場所で、貴方は優しく微笑んでいるのだ。

 

数えきれない今を積み重ねて、私は飽きもせずに、同じ姿を目に焼き付けるのだ。

 

虫の声も聞こえない夜の沈黙の中で、貴方の心臓は雄弁に訴える。

 

この今を、貴方を、そして私自身を。

 

陰りのない月が天に咲き、永遠の蛍火の如く奮い。

 

私は貴方の胸に、そこに淀む闇へと身を投げ出して、埋まった心臓の真上で、擽るような口付けを紡ぐ。

 

小さな家の外で、闇夜は匂い立ち、神殿の火は夜に飽いた誰しもの僥倖になるかとばかり、揺らめき、寿ぎ、ゆえに朝を待たずに朽ち果てん。

 

熾火を大事に育て、責め立てる闇を宥めそやし、或いは之から逃がして、逃がして、遠くまで。

 

尽きぬように、尽くして。

 

浴びぬように、庇い立て。

 

浸らぬように、潤して。

 

ただ、温めて、この夜を追い越せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

君は少し早く起きて、彼女が起きるのを待つ。

 

寝顔をしばし見つめて。

 

ただ、見つめて待ち。

 

何事も起こらないことに安堵して、動かない彼女に焦れながら。

 

要らぬ心配をして、やましい気持ちが勝手に強まる。

 

眠る彼女の手を取るなどして、頬を寄せたりしてみる。

 

彼女が起きないのをいいことに、それだけして朝の支度をする。

 

しばしの別れ。

 

華奢な君より尚小さな、彼女を優しく起こすまでの僅かな別れの時間を。

 

君は時に忘れたように粗雑に扱い、時に思い出したように惜しみ、そしてまた忘れて、また思い出す。

 

壊れ物のように丁寧に触れて、数打ちを扱うように乱雑に触れて。

 

好い時も悪い時も、日々は、そうして過ぎていったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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