基礎講座
山海経の奥深く、玄龍門の静謐な書斎。
パチパチと小さな音を立てて香が焚かれ、微かに蓮の花のような香りが室内を満たしておる。
門主、竜華キサキは、卓の上に広げられた古めかしい書物を細い指先でなぞっていた。
「来たかの、先生。ふふ、玄龍門の門主を待たせるとはいい度胸じゃ。……まあ、よい。其方の顔を見れば、その程度の不敬は霧散するというもの。丁度よいところへ来た、しばし妾の講義に付き合わぬか?」
「いいの? 私でよければ、ぜひお願いするよ」
キサキは手に持った扇子をパサリと閉じ、悪戯っぽく微笑む。先生が彼女の持つ白文の基礎を記した書物に興味を示すと、彼女は満足げに頷いた。
「それで、何についての講義なの?」
「漢文じゃ」
「おお……漢文」
「先生は漢文が苦手かえ?」
「まあ、得意ではないかな……」
「漢文とは、漢字の羅列に見えて、その実は極めて論理的な『構造体』なのじゃ。返り点という補助輪を外した時、真の姿が見えてくる。……さて、まずは基礎の基礎、文構造から教えよう」
「漢文の基本は、主語 + 述語 + 目的語の順に並ぶことじゃ。これさえ見失わねば、迷うことはない」
「王飲薬」
「さて、先生。この三文字、どう分解する?」
「ええと……『王が、薬を、飲む』かな?」
「正解じゃ。主語は動作の主、つまり『王』。述語は動作そのもの、『飲(飲む)』。目的語は動作の対象、『薬』じゃな。
漢文において、述語は必ず目的語の前に来る。日本語のように『薬を飲む』と後ろに置かぬのが鉄則よ。……ふふ、妾が其方に『薬を飲ませる』時も、この順番は変わらぬぞ?」
「では、どれが述語かを見分けるコツを教えよう。漢文には、目印になる文字がある」
否定語の下: 不・非・無・勿などの下にある字は、高確率で述語じゃ。
願望・可能の下: 可(~できる)・欲(~したい)などの下も述語になる。
「例えば、王不飲薬となれば、不の下にある飲が述語だと即座に判別できる。構造を掴むには、まずこれらの『目印』を探し、そこから前後の主語や目的語、あるいは補語(場所や時を示す言葉)を特定するのが定石じゃな」
「次に、初心者が最も惑わされる置き字についてじゃ。文末の矣・也・焉や、文中の於・于・乎……これらは原則として訳す必要のない、リズムやニュアンスを整えるための文字じゃ」
「訳さなくていいの? じゃあ、無視してもいいのかな?」
「ふふ、形の上ではな。だが、これらは料理で言うところの『薬味』。
例えば、文末の也(なり)は断定や強調を加え、文中の於(おいて)は補語……つまり場所や対象を示す目印になる。
これらは主語・述語・目的語という骨組みの外側にある付着物……いわば、妾の髪飾りのようなもの。無くても妾という存在(構造)は変わらぬが、あった方が『門主としての威厳』が出るというものじゃ」
「最後にもう一つ。漢文には一度で二度美味しい……いや、二度読む特殊な漢字がある。再読文字じゃ」
「王未飲薬」
「先生、この未という字に注目せよ。これは一回目に『いまだ……』と副詞として読み、二回目に述語の下で『……ず』と否定の助動詞として読む。
つまり、この文は『王、未だ薬を飲まず』。意味は『王はまだ薬を飲んでいない』となる。
未という一字が、過去から現在へと続く『未完了』という時間軸を文に与えるのじゃ。漢文は一石二鳥を好む、合理的な言語だとは思わぬか?」
キサキは静かに立ち上がり、先生のすぐ傍まで歩み寄った。
「先生、漢文の読み解きは人生にも通ずる。枝葉の言葉や、飾り立てた置き字に惑わされてはならぬ。大切なのは、誰が、何を、どうしたのかという、揺るぎない核心を見据えることじゃ」
キサキは不敵な笑みを浮かべ、先生のネクタイを指先で軽く弾いた。
少しだけ耳を赤くしながらも、彼女は門主としての威厳を保とうと背筋を伸ばす。
「ふふ、漢文の基本は叩き込んでやった。次は、この構造を使って古の賢者たちの悪巧みを暴いてやろう。……ところで、先生。解説を頑張った妾を、少しばかり労ってくれてもよいのではないか? 具体的には……そう、その背に負ぶわせてくれるとかの」
返り点が表示するの難しいので、ここは思いきって白文で行きますよ。
白文で読めるようになるのが最終目標なら、白文として始めから読めばいいってね。