山海経の奥深く、玄龍門の静謐な書斎 。
パチパチと小さな音を立てて香が焚かれ、微かに蓮の花のような香りが室内を満たしている 。
キサキは卓の上に広げられた古めかしい書物を細い指先でなぞり、不敵な笑みを浮かべた 。
「さて、先生。漢文の基本構造を学んだところで、『株を守る(守株)』を句読点ごとに骨の髄まで解剖してやろう。妾の教えた通り、主語、述語、目的語の順で、その理由も含めてきっちりと読み解くのじゃ 」
宋人有耕田者。
田中有株。
兎走触株、折頸而死。
因釈其耒而守株、冀復得兎。
兎不可復得、而身為宋国笑。
今欲以先王之政、治当世之民、皆守株之類也。
「分かった。それじゃあ、早速最初の一文からいこうか」
「まずはこれじゃ。宋人有耕田者。ここでの構造はシンプルじゃな 」
「主語は『宋人』。述語は『有』。そして目的語が『耕田者』じゃ。文の先頭にあり、状況の主体となるのが主語の『宋の国の人』。そして存在を示す『有(~がいる)』が述語となる。漢文の鉄則として、述語は必ず目的語の前に来る 。ゆえに、下にある『田を耕す者』が目的語となるのじゃ 」
「次は田中有株。ここは場所から始まってるね」
「ほう、先生。構造はどうなっておるかの?」
「『田中(田んぼの中に)』は場所を示す言葉だから、補語だね。その後に存在を示す述語の『有』があり、ルール通り後ろにある『株』が目的語になるんだ」
「うむ、良い着眼点じゃ。まずは登場人物と舞台の紹介というわけじゃな 」
「ここから事件が起きる。兎走触株じゃ 。先生、この構造を言ってみよ」
「主語は『兎』。続く『走』と『触』は動作そのものを表すから述語だね。漢文は無駄を削ぎ落とすから、主語に対し述語が数珠つなぎになってる 。そして述語『触』の後ろにある『株』が、ぶつかる対象である目的語だ」
「正解じゃ。そのまま続く折頸而死も同じ理屈じゃな。動作を示す『折』が述語で、その対象である『頸』が目的語。『而』は前後の動作を繋ぐための置き字のような役割を果たす接続詞じゃ 。最後は結果を示す述語の『死』で締め括られる 」
「そして、問題はそれを見た農夫の行動だね。因釈其耒而守株 」
「うむ。主語は農夫じゃが、文脈から明白ゆえ省略されておる。動作を示す
「でも、結局二匹目は来なかった。兎不可復得 」
「ふふ、そこには強い否定の意志が込められておる。ここでの『不可』は可能や願望を示す助動詞のような役割の目印じゃ 。そこに『復』がつくと再読文字の応用となり、『
「それで、最後は政治批判に繋がるんだね。今欲以先王之政、治当世之民 」
「察しが良いのう。『今』は時間を表し、『欲』は願望を示す述語の目印じゃ 。願望の下にある『治』が述語となり、その対象である『当世之民』が鉄則通り、後ろに目的語として置かれておる 」
「最後の一文は、皆守株之類也 。『皆』が主語で、『守株之類』が彼らの状態を示す名詞的な述語。そして最後は也という置き字で、『みんな、あの農夫と同類である!』と強く断定しているんだね 」
キサキは静かに席を立ち、窓の外に広がる山海経の景色を眺めた 。
「その通り。時代は常に流動的。かつての成功体験という名の『切り株』に座り込んで、また幸運が来るのを待つだけの為政者は、笑いものになるだけだ……とな 。これは山海経の門主たる妾にとっても、耳の痛い話よ 」
「『昔はこうだった』《/xbig》……。過去の栄光という名の『株』《/xbig》の前に座り込み、変化を拒む者は多い。じゃが、時代という兎は常に新しき道を走るもの。止まっていては、二度とその背中は見えぬ 」
キサキは振り返り、先生の手をそっと握った。
その手は小さく、しかし確かな熱を帯びている 。
「先生。其方は、妾に新しい風を届けてくれる。過去の慣習に縛られず、常に『今』を見つめる其方の傍にいるからこそ、妾もまた、株の前で腐らずに済むのじゃろうて 」
「さて、講義はここまでじゃ。……ところで先生、先ほどから其方のポケットから見えているその『新作お菓子』の包み。……もしや、妾という『株』に、兎が自ら飛び込んできた、ということかの? 」
「あはは、バレちゃったか。これ、キサキと一緒に食べようと思って買ってきたんだ。偶然じゃないよ 」
「ふふ、ならば妾の勝ちじゃな。……皆守株之類也 。だが、其方という『幸運』だけは、何度でも復得たいものじゃ 。……さあ、早く中身を見せてくれぬか? 」
【白文:韓非子・五蠹】