ブルーアーカイブ入試対策委員会   作:蒼雲しろ

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蛇足

 山海経の書斎は、夕暮れ時の柔らかな光に包まれている。

 

 キサキは満足げに筆を置くと、茶器から立ち上る湯気を細い指先で楽しむように眺めた。

 

「ふふ、先生。先ほどの講義で構造の重要性は身に染みたようじゃな。では、調子に乗ってもう一節、今度は誰もが知るあの愚かな振る舞いについて語り合おうではないか。……そう、『蛇足』という故事についてじゃ」

 

 キサキは扇子をパサリと開き、卓の上に新しい白文を広げた。

 


 

楚有祠者。

賜其舎人巵酒。

舎人相謂曰、「数人飲之不足。一人飲之有余。請画地為蛇、先成者飲酒」一人蛇先成。

引酒且飲。

乃左手持巵、右手画蛇曰、「吾能為之足」未成、一人之蛇成、奪其巵曰、「蛇固無足。子安能為之足」遂飲其酒。

為蛇足者、終亡其酒。

 


 

「まずは冒頭の二文じゃ。楚有祠者。賜其舎人巵酒。さて先生、この一文目の主語は何じゃ? そして述語がどこにあるか、見抜いてみせよ」

 

「ええと……主語は『祠る者』で、述語は(あり)(~がいる)』かな?」

 

「正解じゃ。楚の国という場所を示す補語の中に、祭祀を司る者がおり、それが全体を規定しておる。

 

 

「問題はその次じゃな。賜其舎人巵酒

 

「ここでの述語は(たまわす)。これは二つの目的語 を取る特殊な形をしておる。誰に、何を、という順序じゃな。つまり『其の舎人(家来)に、巵酒(大杯の酒)を、与えた』という意味になる。構造を掴めば、誰が何をしたか一目瞭然というわけじゃ」

 

 

「さて、酒を賜った舎人たちは困った。数人飲之不足。一人飲之有余。この二つの文は、美しい対比構造を成しておるな」

 

「うむ。ここで使われている『之』は目的語として、前文の『巵酒』を指しておる。注目すべきは文末の『不足』『有余』じゃ。否定語『不』の下にある(たる)は述語となり、対する(あり)もまた存在を示す述語として機能しておる。足りないか、余るか。この論理的な二択が、彼らを『勝負』へと駆り立てたのじゃな」

 

 キサキは少し喉を鳴らして笑い、茶杯を口に運んだ。

 

 

請画地為蛇、先成者飲酒()ふ』は願望や提案を示す助動詞のような役割の目印。彼らは『地面に蛇を描き、最初に完成させた者が酒を飲もう』と決めたわけじゃ。……ふふ、実に単純明快な勝負ではないか」

 

 

「続けるぞ。まずは前半の一人蛇先成じゃ。先生、この『蛇』はどういう役割を果たしておると思う?」

 

「一見目的語に見えるけど……これは後ろの述語である『成(完成させる)』にかかっているんだね。『一人の男が、蛇の絵を、先に完成させた』。勝負の決着がついた瞬間だ」

 

 キサキは少し身を乗り出し、楽しげに目を細めた。

 

「そして問題はその後じゃ。引酒且飲『且』という字は、前の述語『引(引き寄せる)』と、後ろの述語『飲』を繋ぐリズム……いわば置き字に近い装飾として機能しておる。酒を手に取り、そのまま飲もうとした。まさに勝利を確信した動作じゃな」

 

 

「しかし、ここで彼は余計な色気を出した。左手持巵、右手画蛇『持』『画』が述語、『巵』『蛇』が目的語じゃ。そして彼は豪語した……吾能為之足とな」

 

 キサキは不敵な笑みを浮かべ、空中に指で蛇を描く真似をする。

 

「主語は『吾』。可能を示す『能』の下にある『為(なす)』が述語じゃ。そして目的語が(これ)(=蛇)』『足』の二つ重なっておる。『私は、この蛇に足を付け足して描くことだってできるのだぞ』……。慢心が招く、無意味なこだわりじゃな」

 

 

「その余計な『足』を描いている間に、別の者の蛇が完成してしまった。……奪其巵曰、蛇固無足

 

「ここでの述語は(うばふ)じゃ。誰から何を、という二つの目的語を従える形が、勝利が手からこぼれ落ちる疾走感を表しておる。そして奪った側の言い分が振るっておるな。(もと)より』という一文字は、後ろに続く否定の述語(なし)を強く修飾する目印じゃ。『蛇には、もともと足など無いのだ』と断定しておるのじゃよ」

 

 キサキは少し息を切らし、吸入器を手に取った。

 深く吸い込み、落ち着きを取り戻すと先生をじっと見つめる。

 

 

「仕上げは反語じゃ。子安能為之足(いづくんぞ)は反語を導く目印。『どうして足など作れようか、いや作れるはずがない』という強い否定。結果は終亡其酒『亡(失う)』という述語が、彼の自業自得な結末を決定づけておるな」

 

 キサキは静かに立ち上がり、先生のすぐ傍まで歩み寄ると、その小さな手で先生の服の裾をぎゅっと握りしめた。

 

「物事には適量というものがある。必要以上の装飾や、蛇に足を書き足すような無意味なこだわりは、かえって本質を損なうものじゃ。……これは、玄龍門の規律を正そうとする妾にとっても、肝に銘ずべき教訓よ。余計な手出しが、せっかくの成果を台無しにすることもあるからの」

 

「先生。妾は門主として、常に完璧でありたいと願っておる。じゃが、時にはその気負いすぎて『蛇足』を犯してしまうこともあるやもしれぬ。……そんな時は、其方が妾の手を止めておくれ。余計な『足』など描かずとも、妾はそのままで十分であると……そう、教えてほしいのじゃ」

 

 潤んだ瞳で先生を見上げ、彼女は少しだけ甘えるように肩を寄せた。

 

「さて、今日の講義はこれでおしまいじゃ。……ところで先生。今、妾の頭に向かったその手。……それは、講義の範疇を超えた『蛇足』かの? それとも……妾が何度でも(また)()たい、特別な『真心』かの?」

 




【白文:戦国策・斉策】 
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