玄龍門の静謐な書斎。
パチパチと小さな音を立てて香が焚かれ、微かに蓮の花のような香りが室内を満たしている 。
夕闇の迫る窓外を背に、竜華キサキは満足げに卓の上の書物をなぞると、悪戯っぽい笑みを先生に向けた。
「ふふ、先生。『株を守る』や『蛇足』を経て、随分と漢文の構造分析が板についてきたようじゃな 。ならば、その勢いを借りて、もう一つ誰もが知る故事を解剖してみようではないか。……そう、『五十歩百歩』じゃ」
キサキは扇子をパサリと閉じ、白文を広げて細い指先で最初の文字を指し示した。
孟子対曰、
「王好戦。請以戦喩。填然、鼓之、兵刃既接。棄甲曳兵而走。或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。」
恵王曰、
「不可。直不百歩耳。是亦走也。」
「さあ、孟子と恵王の問答じゃ。気合いを入れていくぞ。まずは冒頭、『孟子対曰、』……この構造、先生ならどう見るかの?」
「ええと、文頭の動作主である『孟子』が主語だね。発言を示す『曰(いう)』が述語。その間にある『対(こたえて)』は、王に応えるという状況を示す付け足しのようなものかな」
「うむ、完璧な滑り出しじゃ 。では次じゃ。『王好戦。』」
「これは基本形だね。主語は『王』。感情を示す『好(このむ)』が述語で、その対象である『戦』が後ろに来て目的語になっている 」
「その通り。漢文の最も美しい基本構造じゃな 。さて、ここから孟子の例え話が始まるぞ。『請以戦喩。』……。先生、『請』という字に見覚えはないかえ?」
「『蛇足』の時にも出てきた、願望や提案を示す目印だね 。だから主語は省略されていて、述語は一番後ろの『喩(たとえる)』。手段を示す『以戦(戦いをもって)』は構造の外側の装飾……つまり、キサキの髪飾りのようなものだ」
キサキは満足げに頷き、再び扇子を広げてパタパタと仰いだ。
「ふふ、よく覚えておったな。次は戦場の描写じゃ。『填然、鼓之、』……。音の様子を示す『填然』に惑わされるなよ」
「大丈夫。『鼓(太鼓を打つ)』が動作を表す述語で、その対象である指示代名詞の『之(これ)』《/xbig……つまり兵士たちが目的語だ。続く《xbig》『兵刃既接。』も、主語の『兵刃(武器)』が、述語の『接(交わる)』をした、という構造だね」
「正解じゃ。そしていよいよ、この話の肝である逃走劇じゃな。『棄甲曳兵而走。』」
「ここは述語が数珠つなぎになっているんだね 。述語『棄(捨てる)』に目的語『甲(鎧)』、述語『曳(引きずる)』に目的語『兵(武器)』。最後に置き字の『而』を挟んで、最終的な結果の述語『走(逃げる)』に繋がっている 」
「見事な解剖じゃ。無駄を削ぎ落とした漢文の疾走感がよく表れておる 。逃げた者たちは『或百歩而後止、或五十歩而後止』……。距離こそ違えど、『或(ある者は)』という主語が、『止(止まる)』という述語に辿り着く構造は全く同じじゃな 」
「孟子は王に問うた。『以五十歩笑百歩、則何如。』……。五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を笑うのはどうか、とな。恵王は『不可(いけない)』と答えた。たとえ百歩でなくとも、それは『是亦走也(これもまた逃げたことなのだ)』……とな。先生、最後のこの一文、構造を締めてみせよ」
「『是』が主語だね。本質を示す述語『走』があり、最後の置き字『也』が『逃げたことには変わりない!』という断定の威厳を添えているんだ 」
「その通りじゃ。本質を見失うな、ということじゃな。五十歩だろうが百歩だろうが、戦場から背を向けたという核心の述語は同じ。枝葉の数字に囚われる者は、王の器ではないと説いたのじゃ」
キサキは静かに立ち上がり、ゆっくりと先生の背後に回ると、その小さな腕で先生の首元にそっと抱きついた。微かに蓮の花の香りが先生を包み込む 。
「玄龍門の中でも、誰の失態がより大きいかでいがみ合う者たちがおるが……妾から見れば、皆『五十歩百歩』よ。大切なのは、失敗の距離ではなく、そこからどう向き直るかじゃ 」
「キサキは本当に、よく周りを見ているね。立派な門主だよ」
「ふふ、そう褒めてくれるのは先生くらいのものじゃ。……じゃがな、先生」
キサキは先生の耳元に顔を寄せ、悪戯っぽく囁いた。
「先生が、他の生徒たちに優しくしているのを見て、少しだけ嫉妬してしまう妾の心も……五十歩百歩、やもしれぬな」
「えっ?」
「他の生徒への優しさが『五十歩』だとしたら、妾に向ける優しさは『百歩』であってほしいと願ってしまう。……だが、結局のところ、其方が妾のもとへ『走』のであれば……」
キサキは先生の頬に、自らの柔らかい頬をすり寄せた。
「『是亦愛也』……かの? ふふっ、妾という逃げ場があるかぎり、先生はどこへも逃げられぬぞ?」
『孟子』