玄龍門の静謐な書斎。夜も更け、窓外の喧騒は遠のき、ただパチパチと香の燃える小さな音だけが室内を満たしている。キサキは卓の上の書物から顔を上げ、細い指先で扇子を弄びながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふ、先生。『株を守る』や『五十歩百歩』と、随分と熱心じゃな。漢文の構造分析がすっかり気に入ったと見える。よかろう。ならば今宵の締めくくりとして、誰もが知る『虎の威を借る狐』……『借虎威』の物語を解剖してやろうではないか」
キサキはすっと身を寄せ、白文の記された竹簡を先生の前に広げた。
虎求百獣而食之、得狐。
狐曰、
「子無敢食我也。天帝使我長百獣。今、子食我是逆天帝命也。子以我為不信、吾為子先行。子随我後観。百獣之見我而敢不走乎。」
虎以為然。
故遂与之行。
獣見之皆走。
虎不知獣畏己而走也。
以為畏狐也。
「さて、さっそく一文目からいくぞ。……妾の教えを思い出しながら、読み解いてみせよ。『虎求百獣而食之、』……。先生、構造はどうなっておる?」
「まずは状況の始まりだね。動作の主体である『虎』が主語。そして動作を示す『求』と『食』が述語になる。漢文の鉄則通り、述語の後ろには対象となる目的語『百獣』と『
「うむ、完璧な滑り出しじゃ。続いて『得狐。』はどうかの?」
「主語は前の文から続いてるから省略されてるね。動作の『得(捕らえる)』が述語で、後ろの『狐』が目的語。続く『狐曰、』も、『狐』が主語で、発言を示す『曰』が述語。ここまでは順調だよ」
「ふふ、ここからが狐の舌先三寸、面白いところじゃぞ。『子無敢食我也。』……。少し複雑じゃな」
「『子(お前)』が主語だ。注目すべきは『無敢』という部分だね。これは強い禁止を示す助動詞のような役割で、文のトーンを決める『その他』に分類される。その下にある『食』が述語で、対象の『我』が目的語。最後の『也』は断定のニュアンスを添える置き字だ」
キサキは満足げに頷き、再び不敵な笑みを浮かべる。
「その通りじゃ。そして狐のハッタリは核心へと迫る。『天帝使我長百獣。』……。先生、この『使』の役割を見抜けるか?」
「使役の構造だね。絶対的な主語である『天帝』が、『使(〜させる)』という使役の述語を放っている。その対象が目的語の『我』で、何を担当させるかという第二の述語が『長(
「見事じゃ。狐はさらに『もし今、お前が私を食べるなら、それは天帝の命令に逆らうことだ』と論理を固めていく。そしてトドメの一撃じゃ。『百獣之見我而敢不走乎。』……。この一文の魂はどこにあるかの?」
「文の後半、『敢不~乎』という反語の構文だね。これが述語の『走(逃げる)』を強く修飾している。『どうして逃げないことがあろうか、いや必ず逃げる』という強い断定を生んでいるんだ」
「その通り。哀れな虎は『以為然(その通りだと思った)』。主語である『虎』が、『然(その通り)』という目的語を『以為(思う)』《/xbig】したわけじゃな。かくして虎は狐に付き従い、森を歩く。……結末はどうなった?」
「《xbig》『獣見之皆走。』……。主語の『獣』たちが、狐と虎を示す目的語『之』を『見』、そして『走(逃げた)』。虎は気づかなかったんだね。『獣が自分を恐れて逃げた(獣畏己而走也)』という長い目的語の事実を」
キサキはパサリと扇子を閉じ、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「他者の権威を借りて、あたかも己の力であるかのように振る舞う。山海経にも、この狐のような輩はごまんといるぞ。玄龍門の……妾の威を借りて、甘い汁を吸おうとする者たちがな」
キサキは少しだけ疲れたような表情を見せると、椅子から立ち上がり、先生の横へと歩み寄った。そして、ごく自然な動作で先生の背中にぴとりと張り付くように身を預けてくる。小さな手のひらが先生の肩に触れ、背中から彼女の柔らかな体温が伝わってきた。
「……じゃが、権威を借りる狐も、見方を変えれば、巨大な虎の傍で生き抜くための『奇策』を弄したに過ぎぬ。力なき者が生き残るには、時にそうした狡猾さも必要なのやもしれぬな」
「先生。其方は、妾という虎の威を借りようとはせぬな。それどころか、時折妾の頭を撫で、子供のように扱う」
「そ、そうかな? 門主様として尊敬しているつもりだけど」
「ふふ、口では何とでも言える。……だが、それで良いのじゃ」
キサキは先生の耳元に顔を寄せ、くすくすと笑いながら、いたずらっぽく囁いた。
「もし妾が山海経を治める『虎』であるならば……先生、其方は虎を惹きつけ、操る『狐』やもしれぬ。妾はすでに、其方の言葉一つで一喜一憂し、こうして背中にしがみつくことしかできぬのだからな」
キサキは先生の背中により一層強く抱きつき、満足げに目を細めた。
「先生という『狐』に騙されたままなら……それも悪くないと、今の妾は『以為然』おるぞ?」
『戦国策・楚策』