盤上の反逆者   作:stein0630

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王の私室だと聞かされた部屋には、一度も足を踏み入れなかった。

 

ルルーシュがいたのは、そのさらに奥――先王マハコート・ドーラの執務室だった。

 

燭台の火は弱い。机の上には、使い込まれた羽根ペン、擦り切れた帳簿、端の欠けたチェス盤。壁一面の地図には細い針がいくつも刺さり、赤と黒の糸が、失われた領土と残された街道を縫うように走っている。

 

「……なるほどな」

 

愚王。

 

笑われるには、少し整いすぎている。

 

領土の喪失記録。外交記録。敗北した賭けの内容。放棄された鉱区。譲渡した森。失った港。だが、その順番が妙だった。価値の高い場所から失っているようでいて、王都へ至る情報の流れだけは、妙に寸断されていない。写本職人の工房、地図師の家系、通訳を抱える商会、他種族の書籍を扱う古書庫――軍事にも農政にも直結しないものばかりが、執拗なほど残されている。

 

土地ではなく、知識。

 

生存ではなく、選択肢。

 

「人の部屋を勝手に漁るの、やめてもらえる?」

 

背後から棘のある声が飛ぶ。

 

ルルーシュは振り返らない。

 

「漁っているんじゃない。読んでいる」

 

「同じよ」

 

ステファニー・ドーラは、夜着の上に外套だけを引っかけた格好で立っていた。眠れなかったのだろう。怒っている顔をしているが、目の下に薄く疲労が滲んでいる。

 

「それに、そこは祖父の部屋よ。勝手に入る権利なんて――」

 

「ある」

 

「は?」

 

「今夜、この城で最もこの部屋に入るべき人間がいるとすれば、それは貴様だ。だが、貴様は入らない。なら、俺が入る」

 

「理屈になってない」

 

「感情にはなっている」

 

ルルーシュがようやく振り向く。

 

ステファニーは一瞬言葉を詰まらせた。目つきが悪いわけではない。ただ、こちらが弱い理屈を持ち出した時だけ、容赦なく切り捨ててくる目だ。

 

「……で、何が分かったのよ」

 

「貴様の祖父は、少なくともただの愚王ではない」

 

ステファニーの指先がぴくりと動く。

 

「さっきもそれ言ってたわね」

 

「そして貴様は、祖父を信じたいのか、自分が信じてきた時間を無駄にしたくないのか、その区別がついていない」

 

「っ……」

 

「図星か」

 

「失礼すぎるでしょ、あなた」

 

「失礼で済むなら安いものだ」

 

ルルーシュは机上の地図を指でなぞった。

 

「見ろ。鉱山を失い、森林資源を失い、港を失っている。普通なら国力を削りすぎだ。だが写本所と街道網だけは異常に残っている。敗北の記録も、賭けの履歴も、帳簿も処分していない。王としての体面を気にするなら、まず消すはずのものをな」

 

ステファニーは黙って地図を見る。祖父の部屋なのに、祖父の残したものを、彼女より先にこの男が読み始めている。その事実に腹が立つはずなのに、目を逸らせない。

 

「……だから何だっていうの」

 

「だから、貴様は祖父の敗北を数字でしか見ていない」

 

ルルーシュはチェス盤の前へ移った。

 

黒の王は盤上に残り、白の駒は片側へ寄せられている。終盤だ。しかも、投了寸前ではない。まだ“次”がある形。

 

「この盤、最後まで並べたのは誰だ」

 

「祖父よ。考え事をする時、よくそのままにしてた」

 

「そうだろうな」

 

ルルーシュは白の騎士を摘み、別の升へ置いた。

 

「負ける盤面を眺める人間の置き方じゃない。負ける過程の中から、次の一手だけを切り出している」

 

ステファニーが眉を寄せる。

 

「……あなた、何を言ってるのか分かりにくいわ」

 

「分かりやすく言ってやろうか」

 

ルルーシュは静かに言った。

 

「貴様の祖父は、勝てない戦場で勝とうとはしていない。だが、未来の誰かに“まだ打てる手”を残し続けている」

 

その言葉に、ステファニーは反論しようとして、できなかった。

 

否定したい。だが否定の材料がない。

 

祖父の敗北は、確かに多すぎた。悔しかった。情けなかった。けれど、部屋に残されたものはあまりにも几帳面で、あまりにも諦めが悪い。

 

「……だったら、どうして最後まで誰にも説明しなかったのよ」

 

思わず漏れた声音は、怒りよりも悲鳴に近かった。

 

「皆に笑われて、売国奴みたいに言われて、それでも何も言い返さなくて……私にだって、何も……」

 

「言って理解される盤面なら、とっくに理解されている」

 

ルルーシュはあっさり答えた。

 

「王は時に説明できない。説明した瞬間に潰れる手がある。特に、周囲が短期の勝敗しか見ていない時はな」

 

「そんなの、ただの自己弁護じゃない」

 

「そうだな。だからこそ、結果が要る」

 

彼は盤の前に腰を下ろした。

 

「ゲームをしろ、ステファニー・ドーラ」

 

「……は?」

 

「さっきから貴様は、感情で祖父を弁護している。俺は盤面でしか人間を信用しない」

 

「今やるの?」

 

「今だ。眠れない夜にやるべきこととしては、愚痴よりよほど建設的だ」

 

「人を寝不足みたいに言わないでくれる?」

 

「違うのか」

 

「違わないけど!」

 

ルルーシュはわずかに口元を歪めた。

 

それが笑ったのだと認識するまで、ステファニーは一拍遅れた。

 

「条件を言う」

 

彼は白の駒を彼女側へ押しやる。

 

「ゲームは貴様が選べ。だが、俺が勝てば――明日の王位戦が終わるまで、貴様は俺を自分の代理思考として扱え。必要な記録、人員、部屋、道具へのアクセスを認める。盤上での指示は、疑問を持っても捻じ曲げるな」

 

「……私が勝ったら?」

 

「俺の名を明かし、明日の件から手を引く」

 

ステファニーは盤を見た。

 

「ゲームは?」

 

「貴様が選べと言ったはずだ」

 

「……じゃあチェス」

 

即答だった。

 

祖父の部屋で、祖父の盤を挟んで。そういう選び方をするあたり、本当に不器用だとルルーシュは思う。

 

「いいだろう」

 

「ただし、手加減なしで」

 

「望むところだ」

 

二人は向かい合って座る。

 

ステファニーの初手は、迷いがなかった。馴染んだ運びだ。祖父から叩き込まれたのだろう。定石通りでいて、どこか“王を早く安全圏へ運ぶ”意識が強い。中央の取り合いより、守りの形を先に整える。

 

ルルーシュは三手でそれを見抜いた。

 

「守りから入るか」

 

「悪い?」

 

「悪くはない。弱いだけだ」

 

「いきなり感じ悪いわね!」

 

「感じで負けるなら今のうちに怒っていろ」

 

ルルーシュの駒が、滑るように前へ出る。中央を取り、彼女の整えかけた陣を横から切り崩しにかかる。

 

ステファニーは反射的に受けた。悪手ではない。だが、すでに“受ける側”に回っている。

 

「ねえ、あなたってそうやっていつも人を試すの?」

 

「試さずに信じる趣味はない」

 

「最低」

 

「王をやるなら必須だ」

 

「誰が王をやるって――」

 

「貴様だろう」

 

その一言に、彼女の指が止まった。

 

ルルーシュは見逃さない。

 

「違うのか? 王になりたいのではなく、祖父の汚名だけを晴らしたいのか? あるいは、クラミーに負けたくないだけか?」

 

「……っ」

 

駒を置く音が、少し強くなる。

 

感情が盤に出た。

 

ルルーシュはすかさず、彼女の騎士を誘うように餌を置く。

 

「貴様は王位を、目的だと思っている。だから守る。触らせない。失ったら終わりだと考える」

 

「当たり前でしょ。王が取られたら負けなんだから」

 

「だから弱い」

 

「またそれ! じゃあどうしろっていうのよ!」

 

ルルーシュは、自分の女王をあっさり前へ押し出した。

 

危険な位置。取ろうと思えば取れる。

 

ステファニーが目を見開く。

 

「……何してるの」

 

「王を守るために盤を狭くするな。盤を支配しろ。王は守るものではない。勝つために“最後まで残しておく記号”だ」

 

「そんな言い方――」

 

「気に入らないか?」

 

彼の声は冷たい。

 

「なら訊くが、守ることばかり考えて、何を残した。祖父の名誉か? 王位か? 国か? どれもまだ手の中にない。守るだけでは、王は墓標になる」

 

ステファニーの目が揺れる。

 

言い返したい。だが、盤面がそれを許さない。女王を取れば罠。取らなければ圧力が増す。彼はわざと、彼女の価値観に刃を突きつける位置へ駒を置いている。

 

「取らないのか」

 

「……そんな露骨な罠、乗るわけないでしょ」

 

「なら別のところで失うだけだ」

 

ルルーシュがビショップを切る。

 

さらにルークまで投げる。

 

盤上から、自分の大駒が次々消えていく。普通なら焦る局面だ。だが彼の手つきには一片の迷いもない。捨てているのではない。位置を買っているのだ。

 

ステファニーはようやく気づく。

 

「まさか……最初から」

 

「遅い」

 

次の一手で、彼女の王は逃げ道を三つ失った。

 

女王を守るためにずらした歩兵、祖父の癖を真似て残した騎士、その全部が、王自身の通路を塞いでいた。

 

「チェック」

 

低く告げられた声に、ステファニーは息を詰める。

 

まだ詰みではない。

 

だが、もう勝ちの目はない。

 

三手後。

 

五手後。

 

いや、もっと前――彼が女王を差し出した時点で、彼女は“守るべきもの”の優先順位を間違えたのだ。

 

最後の一手を置かれた時、盤上は静かだった。

 

「……チェックメイト」

 

ステファニーは盤を睨んだまま、しばらく動かなかった。

 

悔しいのだろう。悔しいが、ただ強かっただけではないと分かってしまったから、余計に腹が立つ。

 

「言ったはずだ」

 

ルルーシュが立ち上がる。

 

「貴様は王位を守っている。だが、王になる人間は、時に王位すら使う」

 

「……最低」

 

「褒め言葉として受け取っておく」

 

ステファニーは顔を上げた。

 

「これで、あなたの勝ち。約束は守るわ」

 

「当然だ」

 

「でも一つだけ。私を馬鹿にしたまま使おうとしたら、絶対に反発するから」

 

「結構。従順なだけの駒は脆い」

 

「人を駒って言ったわね今」

 

「言ったが?」

 

「ほんっとに性格悪い!」

 

怒鳴りながらも、さっきより声に芯が戻っている。

 

泣く寸前の顔ではなくなった。盤の上で負けたことで、逆に“何に負けたのか”を直視し始めたからだろう。

 

ルルーシュはその変化だけで、今夜のゲームに十分な価値があったと判断した。

 

「では次だ」

 

「まだあるの?」

 

「ある。貴様には知らせておくべきことが一つある」

 

「何よ」

 

ルルーシュは一瞬だけ、左目に触れた。

 

「俺の武器だ」

 

廊下に出ると、夜番の老執事がちょうど通りかかった。白髪をきっちり撫でつけた、古い城に似合う男だった。ステファニーを見るなり一礼する。

 

「お嬢様、こんな時間まで――」

 

「少し協力してもらう」

 

ルルーシュが言うと、執事は怪訝な顔をした。無理もない。見知らぬ男が、王城の奥で当然のように口を挟んでいるのだ。

 

「安心しろ。危害は加えん」

 

「それ、信用できる感じがまるでしないんだけど……」

 

「なら貴様が見ていろ」

 

ルルーシュは執事の正面へ立つ。

 

「目を合わせろ」

 

「……?」

 

怪訝に思いながらも、執事は視線を上げた。

 

その瞬間、赤い鳥のような紋様が、ルルーシュの左目に走る。

 

ステファニーが息を呑む。

 

「な……」

 

「三歩、後ろへ下がれ」

 

命令は、静かだった。

 

次の瞬間、執事の顔から表情が抜け落ちる。彼は糸で引かれたように、きっかり三歩、後ろへ下がった。

 

ステファニーの背筋に冷たいものが走る。

 

「何、それ……」

 

「俺の世界の力だ」

 

ルルーシュは執事から視線を外さずに言う。

 

「人に命令を刻み込む。一度だけ、絶対に逆らえない」

 

ステファニーの顔色が変わる。

 

恐怖。警戒。怒り。理解。全部が一度に来た顔だった。

 

「そんなの、反則じゃない!」

 

「反則なら今頃、この世界が弾いている」

 

ルルーシュは再び執事を見据える。

 

「今この場で、俺との賭けを受けると宣言しろ」

 

執事の口が開く。

 

「……あなたとの、賭けを……受けます」

 

言葉は発せられた。

 

だが。

 

何も起きない。

 

あの、誓約が成立する時のわずかな張りつめた感覚がない。空気は沈黙したままだ。世界が、その宣言をゲームの成立として認めていない。

 

ルルーシュは目を細めた。

 

「やはりな」

 

ステファニーは執事とルルーシュを交互に見た。

 

「今……確かに言ったわよね」

 

「ああ。だが成立していない」

 

「どうして」

 

「命令だからだ」

 

ルルーシュは左目の紋を消し、執事から視線を外した。執事ははっと我に返り、何が起きたのか分からないまま困惑している。

 

「この力は行動を強制する。口も手足も動かせる。だが、この世界は“従うこと”と“同意すること”を別に扱う」

 

彼は静かに続けた。

 

「命令は、誓約にならない。強制は、合意にならない。つまり俺は、人を動かせても、契約そのものを捏造できない」

 

ステファニーはようやく、それを飲み込んだらしい。

 

恐怖だけではない、別の色が表情に混じる。

 

「……万能じゃ、ないのね」

 

「当然だ」

 

「でも危険すぎる」

 

「それも当然だ」

 

ルルーシュは一歩近づいた。

 

「だから見せた。貴様が俺を使うにせよ、俺に使われるにせよ、どこまでが武器で、どこからが通じないのかは知っておくべきだ」

 

「使われるってはっきり言うのやめてくれる?」

 

「言葉を飾ると判断が鈍る」

 

ステファニーはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。

 

「……分かった。少なくとも、今ので一つは分かったわ」

 

「何だ」

 

「あなた、最低だけど、雑ではない」

 

ルルーシュは僅かに眉を上げる。

 

「それは褒めているのか?」

 

「すごく不本意だけど、今は」

 

執事はまだ困惑していたが、ステファニーが「今のことは忘れて」とだけ告げると、長年仕える者らしい従順さで一礼し、去っていった。

 

その背を見送ってから、ルルーシュは執務室へ戻る。

 

机の引き出しを順に確認し、帳簿の束を裏返し、地図の額縁まで外す。ステファニーは半ば呆れながらも、もう止めようとはしなかった。

 

「そこまでして、何を探してるのよ」

 

「敗北の意図だ」

 

「……詩人みたいな言い方」

 

「嫌いか?」

 

「胡散臭い」

 

「正しい評価だ」

 

額縁の裏から、一冊の薄いノートが落ちる。

 

革表紙。飾り気はない。だが、手垢のつき方が尋常ではない。祖父が何度も開いたものだと、ステファニーにも一目で分かった。

 

「それ……」

 

ルルーシュが開く。

 

中にはゲームの記録が並んでいた。相手、賭けたもの、失ったもの、得たもの。そして最後の欄にだけ、短い一文が書かれている。

 

――負けてよし。写本師三名残る。

――港一つ失う。代わりに外交文書の閲覧権確保。

――東街道放棄。禁書庫への通行権維持。

――民の記憶に残る敗北は、時に勝利より価値がある。

 

ステファニーの目が見開かれる。

 

「……何、これ」

 

「貴様の祖父の収支報告だ」

 

「収支……?」

 

「領土や資源ではない。未来のための」

 

ルルーシュはページをめくる。

 

後半になるほど筆圧が強い。焦りが増しているのではない。時間が足りなくなっている。

 

さらに最後のページ。

 

そこには、たった一行だけ記されていた。

 

――人類種に残すべき最後の領土は、土地ではなく、解釈である。

 

ルルーシュの目が、細くなる。

 

「面白い」

 

「ど、どういう意味よ」

 

「まだ確定ではない。だが一つ分かった」

 

彼はノートを閉じ、ステファニーを見る。

 

「貴様の祖父は、国を守っていたんじゃない。もっと厄介なものを守っていた」

 

「厄介なもの?」

 

「“人類種が世界をどう読むか”だ」

 

ステファニーは完全に理解できたわけではない顔をした。

 

だが、祖父の部屋に残された敗北が、ただの負け犬の言い訳ではなかったことだけは、もう否定できない。

 

ルルーシュはノートを机に戻し、燭台の火を指で遮るようにして言った。

 

「そして、クラミー・ツェルの背後に森精種がいるなら、奴らが狙うのもそこだ」

 

「……つまり?」

 

「明日の勝負で、敵は貴様の判断を狂わせる。なら、こちらは判断そのものの土台をずらす」

 

ステファニーが息を呑む。

 

「そんなことできるの?」

 

ルルーシュは薄く笑った。

 

「できるさ。相手がゲームを選ぶなら、こちらは“ゲームと認められる条件”を選べばいい」

 

「条件……?」

 

「明日、正式に賭けが封じられる前に、俺が一度だけ口を出す」

 

「ちょっと待って、それができるの?」

 

「できるようにする」

 

「どうやって」

 

ルルーシュは窓の外、夜の王都を見た。

 

古びた城。痩せた国。終わりかけた王家。だが、終わってはいない。

 

「貴様の祖父は、最後まで“次の一手”を残している」

 

彼の声は低く、しかしはっきりしていた。

 

「なら俺はそれを使う。明日、クラミー・ツェルが向き合うのは、貴様だけじゃない」

 

ステファニーが、無意識に問い返す。

 

「……誰と?」

 

ルルーシュは振り返った。

 

燭台の火が、左目の奥を赤く掠める。

 

「敗北の使い方を知っている王だ」

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