盤上の反逆者   作:stein0630

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夜が明ける少し前、王城の窓はまだ青かった。

 

燭台の火が弱まり、祖父の執務室に積もっていた古い紙の匂いが、冷えた朝の空気に押し出されていく。ステファニー・ドーラは椅子にもたれたまま、一睡もしていない顔でルルーシュを睨んでいた。

 

「……で」

 

掠れた声だった。

 

「いつまで黙ってるつもり?」

 

ルルーシュは帳簿から視線を上げる。

 

「何をだ」

 

「名前よ」

 

即答だった。

 

「あなた、私に従えだの、王にするだの、代理思考だの、好き放題言ってるくせに、自分が何者かはろくに明かさないじゃない」

 

「必要になれば言うと伝えた」

 

「今がその必要な時でしょ」

 

ルルーシュは数秒だけ彼女を見た。

 

疲れている。苛立っている。だが、逃げてはいない。昨日の夜なら、彼女は自分の感情に押し流されていた。今は、感情を抱えたまま立っている。

 

それで十分だ。

 

「……ルルーシュ・ランペルージ」

 

「え」

 

「俺の名だ」

 

ステファニーは一拍遅れて瞬きをした。

 

「それ、本名?」

 

「偽名を教えるほど器用な信頼構築は好まない」

 

「いや、普段のあなたなら普通にやりそうだけど」

 

「失礼だな」

 

「どの口が言うのよ」

 

ルルーシュは書類を閉じた。

 

「だが、公の場でその名を使うつもりはない」

 

「は?」

 

「必要なのは、俺の戸籍でも血筋でもない。盤に立つ役割だ」

 

彼は机の上に置かれた、先王のノートを指先で叩く。

 

「貴様の祖父は、王というものを一人の人間だとは考えていない。王位とは、選択の総体だ。誰を使うか、何を捨てるか、どの敗北を許すか――その連なりが王だ」

 

「だから?」

 

「だから今日、貴様が人前に出すべきは“ルルーシュ・ランペルージ”ではない」

 

ルルーシュは淡々と言った。

 

「ゼロだ」

 

ステファニーの顔が、露骨に訝しくなる。

 

「……何よそれ」

 

「呼び名だ」

 

「雑!」

 

「十分だろう。意味もある」

 

「どんな」

 

ルルーシュは窓の外へ視線をやった。

 

王都の朝は貧しい。だが、死んではいない。市場の煙、荷馬車の軋み、遠くの怒鳴り声。終末ではなく、停滞の匂いだ。

 

「この国の盤面は、今、空位だ」

 

彼は静かに言う。

 

「王が不在で、意思が散っている。なら、その空白を一時的に埋める名としては悪くない」

 

「……自分を空白扱いするの?」

 

「まさか」

 

ルルーシュは薄く笑った。

 

「ゼロは空ではない。起点だ」

 

その笑みに、ステファニーは少しだけ押し黙った。

 

分からない。分からないが、分からないまま流していい言葉ではない――そういう響きだけはあった。

 

「準備をしろ」

 

ルルーシュが立ち上がる。

 

「朝一番で謁見の間に出る。正式な継承戦の確認はそこで行われるんだろう」

 

「ええ。王位継承戦の最終確認と、ゲーム内容の確定。そこで双方が条件を呑めば、そのまま誓約が封じられる」

 

「なら、その前が勝負だ」

 

「前?」

 

「本戦ではない。条件戦だ」

 

ステファニーが眉を寄せる。

 

「昨日からそればっかりね。ゲームそのものより、ゲームの前を取るって」

 

「当然だ」

 

ルルーシュは即答した。

 

「人類種の強みは、盤に置かれた後の力ではない。盤がどう定義されるかを奪うことだ」

 

彼は先王の最後の一文を思い出す。

 

――人類種に残すべき最後の領土は、土地ではなく、解釈である。

 

「貴様らは弱い」

 

「いきなり喧嘩売るのやめて」

 

「事実だ。魔法に劣る。身体能力に劣る。感覚にも劣る。なら、勝負は力の総量ではなく、意味の取り方でやるしかない」

 

ステファニーは口を開きかけ、それから閉じた。

 

反論したい。だが、昨夜見た祖父のノートが、その反論を細らせる。失ったものの多さは、確かに人類種の弱さを示していた。だが同時に、その弱さゆえに別の戦い方があることも示していた。

 

「……分かった」

 

やや不本意そうに、彼女は言う。

 

「でも、一つだけ確認。あなた、本当に勝つ気なのよね」

 

ルルーシュは答えない。

 

代わりに、執務室のチェス盤に視線を落としたまま言った。

 

「負ける気で盤に立つ人間がいるなら、見てみたいものだ」

 

「そういうこと聞いてるんじゃない」

 

「同じだ」

 

彼は彼女を見た。

 

「俺は勝つ。だが、“どう勝つか”は、貴様が何を王座に乗せたいかで変わる」

 

ステファニーの喉が、かすかに鳴る。

 

昨夜、答えを出せと言われた問いだ。

 

王になりたいのか。祖父の名誉を晴らしたいのか。国を延命したいのか。その順番を決めろ、と。

 

彼女はまだ完全な答えを持ってはいない。だが、昨夜よりは幾分ましだった。

 

「……私は」

 

そこで一度、息を吸う。

 

「私は、この国に“諦めるしかなかった”って言わせたくない」

 

ルルーシュは黙って聞いた。

 

「祖父が何を残そうとしたのか、まだ全部は分からない。でも、笑われたまま終わらせたくない。王位はそのために必要。国も、必要。私はそれを守りたい」

 

「守る、か」

 

「分かってる。あなたはその言い方を嫌う」

 

「嫌いではない」

 

ルルーシュは静かに言った。

 

「ただ、守るだけでは足りないと言っている」

 

「……じゃあ何て言えばいいのよ」

 

「取り返す、だ」

 

その一言に、ステファニーは目を上げた。

 

「奪われた評価を。失われた選択肢を。笑い者にされた王の意味を。全部、取り返せ」

 

彼の声は大きくない。だが、その静かな熱だけで、部屋の空気が細く張る。

 

「貴様が王になるというのは、そういうことだ」

 

数秒、彼女は何も言えなかった。

 

それは感動ではない。納得でもない。ただ、今まで自分の中に曖昧に積もっていたものに、初めて輪郭を与えられた感覚だった。

 

「……ほんと、言い方だけは格好いいわね」

 

「だけ、だと?」

 

「中身は最悪」

 

「結構」

 

ルルーシュは歩き出す。

 

「行くぞ、ステファニー・ドーラ。王にする前に、まず貴様を候補者に戻してやる」

 

謁見の間は、朝から冷えていた。

 

高い天井。赤い絨毯。使い古された玉座。絢爛さではなく、格式の残骸が威厳を支えている。人類種の王城というのは、こうも露骨に“昔は強かった”を飾るものか、とルルーシュは思った。

 

左右には貴族と重臣、王位継承の証人となる書記官、そして雑然とした好奇の視線。勝者に媚びる準備を済ませた者、敗者の顔を見に来た者、ただ騒ぎが見たい者。国が痩せる時、こうした寄生はよく肥える。

 

中央には、すでにクラミー・ツェルが立っていた。

 

昨夜と同じく、感情を削ったような顔だ。だが、削いでいるのは感情の発露だけで、警戒心まで消しているわけではない。むしろ今日は、その警戒が芯に通っている。

 

背後にはフィール・ニルヴァレン。柔らかい笑み。人当たりの良さそうな所作。けれど、見る者に“見られている”と感じさせる配置の巧さは、明らかに素人の随伴ではなかった。

 

クラミーの視線が、入場してきたステファニーに向く。次いで、その半歩後ろを歩く黒衣の男へ。

 

「……その方ですか」

 

「紹介が必要か?」

 

ルルーシュが言うと、クラミーの眉がわずかに動いた。

 

「必要でしょう。ここは王位継承戦の場です。無関係の者が口を挟む余地はありません」

 

「無関係かどうかは、これから決まる」

 

ステファニーが、そこで一歩前へ出た。

 

昨日までの彼女なら、その言葉だけで声が上擦っていたはずだ。だが今朝は違った。完全ではない。けれど、踏み出す足にためらいがない。

 

「私は、本日の王位継承戦にあたり、一名の代行者を指名するわ」

 

間が落ちる。

 

ざわめきが広がった。

 

「代行者だと?」

 

「先王陛下の遺言に、そんな話は――」

 

「ある」

 

ルルーシュが言った。

 

声量ではなく、言葉の芯でざわめきを切る声だった。

 

「遺言の原文を出せ」

 

年老いた書記官が、戸惑いながら巻物を開く。おそらく何度も読み上げた文なのだろう。だが、慣れで読む者ほど、文字の癖に鈍くなる。

 

「……“王位は、遊戯によって継がるものとする。継承権を持つ者は、自ら盤に立つもよし、己が名と責を賭し、王たる資質を示す最善の一手を盤に遣わすもよし――”」

 

読み上げが終わる前に、場がざわつく。

 

クラミーの目が、初めて明確に細まった。

 

フィールだけは、笑みを崩さなかった。

 

「解釈の余地がありますね」

 

クラミーが淡々と言う。

 

「“一手を盤に遣わす”は、助言者や補佐役の比喩とも取れる。継承戦そのものを他人に委ねてよいとまでは――」

 

「違うな」

 

ルルーシュは遮った。

 

「王が何か知っているか、クラミー・ツェル」

 

「……何ですか」

 

「王とは、自分の手で全部やる者ではない。必要な駒を見出し、適切な盤へ送り、勝敗の責任を引き受ける者だ」

 

彼の視線が、正面からクラミーを刺す。

 

「先王はそれを試した。だから“自ら盤に立つ”と、“最善の一手を盤に遣わす”を並列に書いた。どちらも王の資質だからだ」

 

「都合のいい解釈です」

 

「いいや。貴様にとって不都合なだけだ」

 

空気が張り詰める。

 

貴族たちの何人かが、露骨に顔をしかめた。王位の場に現れた異邦人が、当然のように話を主導している。それ自体が面白くないのだろう。

 

だが、面白くないかどうかと、反論できるかどうかは別だ。

 

クラミーは数秒だけ沈黙し、やがて口を開いた。

 

「仮にその解釈を認めるとしても、代行者が誰であるかは重大です。素性も知れない者に王位戦を任せると?」

 

「素性が要るのは、信用のためだ」

 

ルルーシュは一歩進み出る。

 

「だがこの世界で、信用は名簿ではなく賭けで得る」

 

「なら名乗りなさい」

 

クラミーが言う。

 

「あなたは誰ですか」

 

玉座の間が静まった。

 

ステファニーが横目で彼を見る。

 

昨夜聞いた名をここで出すのか。出さないのか。

 

ルルーシュは、ほんの僅かに口角を上げた。

 

「貴様らが今日知る必要のある名は、一つでいい」

 

彼はマントの襟を指先で払った。

 

「ゼロだ」

 

ざわめきが再び広がる。

 

ふざけているのかと笑いかけた者がいた。だが、その笑いは最後まで形にならない。名乗りの軽さと、声の重さが噛み合っていないからだ。

 

「ゼロ……」

 

クラミーが繰り返す。

 

「偽名ですね」

 

「名とは役割だ。今の俺に、これ以上の説明は不要だろう」

 

フィールがそこで初めて口を開いた。

 

「異邦の方にしては、ずいぶんとこの国の言葉を巧みにお使いですのね」

 

柔らかな声音だった。

 

それでいて、一音ごとに探りが入っている。

 

「学習は早い方でね」

 

ルルーシュは答える。

 

「そう……」

 

フィールの視線が、一瞬だけ彼の左目に落ちた。

 

ほんのわずか。

 

だが、その“見る”は、ただ見るだけの視線ではなかった。精霊回廊を介した観測。魔法を持たぬ者なら気づかないほど薄い、しかし確かに何かを掠める感覚。

 

ルルーシュは表情を変えない。

 

変えないまま、彼女に笑い返した。

 

「何か気になることでも?」

 

「いいえ。ただ」

 

フィールはにこりと微笑む。

 

「王様みたいな目をしていらっしゃるな、と」

 

「それは光栄だ」

 

「褒めておりませんわ」

 

「知っている」

 

その応酬に、クラミーが小さく息をついた。

 

彼女はフィールほど感覚で測らない。だが、測れない相手に対する警戒は、むしろ正確だった。

 

「……いいでしょう」

 

彼女は言った。

 

「代行者については、その解釈を争っても時間の浪費です。先王の文言がそこまで開いているなら、認めざるを得ません」

 

場がざわつく。

 

彼女が退いた、というより、退くべき地点を見極めて切ったのだとルルーシュは判断した。賢い。無理に押せば、自分の正当性を傷つけると分かっている。

 

「では本題に入りましょう」

 

クラミーの声が、さらに冷える。

 

「本日の継承戦。私は、遊戯としてチェスを提案します」

 

予想通りだった。

 

ざわめきは今度、納得混じりだ。王位戦。知略。人類種。無難で見映えがいい。しかも、クラミーが得意とするならなおさら好都合。

 

ステファニーが無意識に息を呑む。

 

ルルーシュは見ない。見なくても、その反応は分かる。

 

「チェス、か」

 

「不満ですか?」

 

「いいや」

 

ルルーシュは即答した。

 

「むしろ好都合だ」

 

ステファニーがぎょっとする気配が横から伝わる。

 

クラミーの瞳が僅かに揺れた。意外だったのだろう。怯むか、条件交渉に入るか、少なくとも即答では来ないと見ていた。

 

「受けよう。王位、貴様の今後の一切の統治権、そしてステファニー・ドーラの継承権を賭けて」

 

「当然です」

 

「ただし」

 

ルルーシュの声が、そこで切る。

 

「条件を三つ追加する」

 

クラミーの表情がわずかに硬くなった。

 

「ゲーム内容はチェスとする。盤、駒、時計、記録用紙は王城の備品から用意し、試合前に双方で確認する。会場は公開。傍聴を許す。盤外からの助言、手信号、使い魔、魔法的干渉を含む一切の外部介入は不正と定義する」

 

場がざっと波立つ。

 

クラミーの沈黙は短かった。

 

「……それは、あまりに一般的です。わざわざ追加するまでもない」

 

「なら問題あるまい」

 

ルルーシュは一歩も退かない。

 

「不正を禁ずるのは盟約の第八。だが、人類種は魔法を知覚できない。ゆえに、“見えない干渉”の可能性に関してだけは、事前に定義を明確にしておく必要がある」

 

「私が不正をすると?」

 

「言っていない。だが、言われたくないなら、なおさら呑むべきだ」

 

クラミーの視線が、鋭くなる。

 

「随分と無礼ですね」

 

「王位を賭ける場で礼儀に逃げるな」

 

冷ややかに返され、謁見の間の温度がさらに下がる。

 

ルルーシュは続けた。

 

「貴様が勝つにせよ負けるにせよ、後で“裏があった”と囁かれた王は弱い。正当性を欲するなら、条件の透明性は貴様の利益でもある」

 

フィールが、そこで柔らかく口を挟んだ。

 

「面白い理屈ですこと。ですが、“魔法的干渉”などという曖昧な言葉を入れれば、試合後に何とでも言えてしまいますわ」

 

「曖昧か?」

 

ルルーシュの視線が、今度は彼女へ向く。

 

「なら明確にしよう。試合中、会場内外を問わず、盤面に影響を与える意図をもって術式・精神感応・幻惑・感覚操作を行うこと。それを不正と定める」

 

この瞬間、フィールの笑みが、ほんの一枚だけ薄くなった。

 

見逃せる変化ではない。

 

小さい。だが確かだ。

 

ルルーシュは内心で確信を深める。

 

やはりそこだ。

 

クラミーは一度だけフィールを横目で見た。確認ではない。癖だ。自分の背後がどれだけ動けるか、無意識に測る目。

 

「……そこまで言うなら、私は構いません」

 

クラミーが答える。

 

「公開も、不正定義も受け入れましょう。ただし、そちらも同様です。あなたのその……異様な自信の根拠が、盤外の何かでない保証はありませんから」

 

「無論だ」

 

ルルーシュは淡々と頷く。

 

「こちらも会場内では一切の外的手段を使わない」

 

ステファニーが、横で僅かに彼を見る。

 

その言葉の意味を知っているのは、今この場で彼女だけだ。

 

ギアスを使わない――少なくとも会場内では。

 

それをあえてここで切った。つまり彼は、すでに別の勝ち筋を前提にしている。

 

「それでいいわね、ステファニー様」

 

クラミーが向き直る。

 

「これ以上、条件で時間を浪費する気はありません」

 

ステファニーは一瞬遅れて、だがはっきりと頷いた。

 

「……ええ。受けるわ」

 

「では」

 

書記官が前へ出る。

 

「双方、継承戦の条件確認を」

 

巻物が広げられる。王位。統治権。継承権。敗者は勝者の王権に服する。遊戯はチェス。代行者は各一名まで。公開試合。盤外助言禁止。魔法的干渉の定義追加。確認の文言が、一つずつ読み上げられる。

 

ルルーシュはその間、クラミーを見ていた。

 

彼女は落ち着いている。落ち着きすぎている。

 

焦りがないのではない。条件の追加があっても、なお勝算が崩れていない顔だ。つまり、彼女の手はこの条件の外にあるか、あるいは条件そのものを逆用できる位置にある。

 

フィールもまた、笑みを崩していない。

 

ならば、術式の行使は試合中ではない。前だ。

 

視界、認知、記憶、選好――どこかにすでに仕込みがある。

 

「アシェンテ」

 

双方の声が重なる。

 

空気が閉じた。

 

誓約が成立する。

 

王位継承戦は、明日の正午。形式は公開チェス。舞台は王城大広間。

 

謁見の間にいた者たちの顔が、一斉に変わる。もう噂ではない。もう様子見でもない。盤が閉じた以上、誰もが勝者につく算段を始める。

 

書記官が下がると、クラミーはルルーシュへ静かに言った。

 

「一つ、忠告しておきます」

 

「聞こう」

 

「王様ごっこは、観客の前ほど滑稽に見えるものです」

 

ルルーシュは笑った。

 

「そうだな。だが、滑稽さを恐れる王は、見世物小屋の幕すら上げられない」

 

クラミーの目が、僅かに険しくなる。

 

フィールが、その緊張をほどくように一歩出た。

 

「では、明日を楽しみにしておりますわ。ゼロ様」

 

その呼び名を、わざと少しだけ甘く言う。

 

「ええ。私もです、森精種」

 

ルルーシュが返すと、フィールの笑みが今度こそ一瞬だけ止まった。

 

種族名で返した。

 

つまり、ただの異邦人ではない。彼は彼女が誰で、何を背負っているかを理解した上で、あえてそこへ触れたのだ。

 

「お上手ですこと」

 

「貴様ほどではない」

 

クラミーとフィールが去っていく。

 

彼女たちの背を見送りながら、ステファニーはようやく息を吐いた。張っていたものが一気に抜けたせいで、その場に座り込みそうになる。

 

「……死ぬかと思った」

 

「早いな。試合は明日だ」

 

「比喩よ!」

 

彼女は小声で怒鳴ったあと、周囲の視線を思い出して咳払いした。

 

だが、怒鳴りたい気持ちは本物らしい。廊下へ出た途端、勢いよくルルーシュを振り向く。

 

「ちょっと! 公開だの魔法だの、あれ全部わざとでしょ!」

 

「当然だ」

 

「しかも“会場内では外的手段を使わない”って何よ。わざわざ会場内って言ったわよね?」

 

「言った」

 

「やっぱり!」

 

ルルーシュは歩みを止めない。

 

「敵は盤の上で勝つ必要がない。盤の上で勝ったように見せればいい。なら、こちらは盤に座る前の盤を奪う」

 

「……それ、どういう」

 

「貴様」

 

ルルーシュが唐突に立ち止まり、振り向く。

 

「チェスで、自分の王がどこにいるかを忘れるか?」

 

「は?」

 

「忘れるかと聞いている」

 

「忘れるわけないでしょ。何なの急に」

 

「そうだろうな」

 

彼は静かに言った。

 

「だが、見えているのに正しく認識できないなら?」

 

ステファニーの表情が、そこで固まる。

 

「……まさか」

 

「まだ仮説だ」

 

ルルーシュは先へ進む。

 

「だが今日の反応で、敵が“試合中の盤”より、“試合に臨む人間の認識”へ先に手を入れている可能性は高くなった」

 

「認識って……幻覚とか、そういうこと?」

 

「単純な幻覚ならまだ親切だな。もっと厄介かもしれん。自分の思考だと信じたまま、判断だけをずらされる類だ」

 

ステファニーの背筋に冷たいものが走る。

 

もしそれが本当なら、公開で盤を整えても、何の意味もない。自分の中に仕込みがあるなら、堂々と負けさせられる。

 

「……そんなの、どうしろっていうのよ」

 

ルルーシュは一瞬だけ、彼女を見る。

 

「簡単だ」

 

「全然そういう顔じゃないんだけど」

 

「自分で盤に座るな」

 

「は?」

 

「今回の継承戦、盤に座るのは俺だ」

 

「それは知ってる」

 

「知っているなら慌てるな。敵が貴様に仕込みを入れているなら、それは貴様をプレイヤーと見ているからだ。つまり、こちらの最初の勝ちはもう始まっている」

 

ステファニーは数秒考え、それから目を見開く。

 

「……あ」

 

「ようやくか」

 

「つまり、向こうは私に何かしてるかもしれない。でも実際に打つのはあなた。だから、仕込みが空振るかもしれない……?」

 

「可能性は高い」

 

「でも、もしあなたにも何かされたら?」

 

「なら、その時は別の手を打つ」

 

「雑!」

 

「雑ではない。多層だ」

 

ルルーシュは廊下の窓際に立ち、王都を見下ろした。

 

遠くの市場がもう動き出している。明日の正午、この国の視線は一斉に大広間へ集まるだろう。王位戦というのは、それ自体が劇場だ。舞台装置、観客、役者、筋書き、そして裏方。あまりにも見慣れた構図で、笑いそうになる。

 

違うのは、銃がないことだけだ。

 

「今からやることは三つだ」

 

彼は言った。

 

「一つ、貴様の過去の対局記録を全部集める。クラミー・ツェルの公開対局もな。二つ、この城で昨夜から今朝まで、貴様に接触した人間を洗い出す。飲食、寝具、香、書類、見舞い、全部だ。三つ――」

 

「三つ?」

 

ルルーシュの口元が僅かに歪む。

 

「チェス盤を一つ、用意しろ。できれば一番安っぽいのでいい」

 

ステファニーは呆れた。

 

「本番は王城の備品を使うって今決めたじゃない」

 

「だからだ」

 

「だから?」

 

「高価な盤は、人を騙す時にかえって邪魔になる。安い盤の方が、癖が出る」

 

「……何言ってるのかよく分からないんだけど」

 

「理解は後でいい。手を動かせ」

 

ステファニーは文句を言いかけ、それからやめた。

 

昨日までなら、“どうして”を先に求めていた。今は違う。どうしてか分からなくても、この男が盤面を見ていることだけは分かる。

 

それが腹立たしいほど、少し安心できた。

 

「分かったわよ、ゼロ様」

 

わざと皮肉っぽく言ってやる。

 

するとルルーシュは振り返りもせずに答えた。

 

「その呼び方は人前だけにしろ」

 

「え?」

 

「貴様には別に、名を隠す必要がない」

 

ステファニーが瞬きをする。

 

「じゃあ……普段は何て呼べばいいの」

 

短い沈黙。

 

そのあとで返ってきた声は、さっきまでの“ゼロ”よりわずかに低く、素顔に近かった。

 

「ルルーシュでいい」

 

彼はそう言って、歩き出す。

 

ステファニーはその背中を見送った。

 

王のようで、王ではない。味方のようで、そうとも言い切れない。信用していいのか分からない。けれど、少なくとも今の彼は、自分の側の盤に立っている。

 

それだけは確かだった。

 

そして、その日の昼前。

 

ステファニーの元へ、昨夜の侍女、執事、給仕、書記、見舞い客の一覧が届くよりも先に。

 

ルルーシュは、クラミーの公開対局記録の中に、一つだけ奇妙な共通点を見つけていた。

 

彼女が勝った全ての終盤で、対戦相手はほとんど同じ顔をしている。

 

追い詰められた顔ではない。

 

むしろ逆だ。

 

――自分が優勢だと、信じ切っている顔だ。

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