――自分が優勢だと、信じ切っている顔だ。
「……何それ」
記録束を覗き込んでいたステファニーが、眉を寄せた。
「負けた人の顔を並べて、急に哲学みたいなこと言わないで」
「哲学ではない。症状だ」
ルルーシュは羊皮紙を机に広げたまま、一本の炭筆で幾つかの終盤図を丸で囲った。
「見ろ。三局目、五局目、八局目。いずれも終盤で、敗者は守勢に回るべき局面だった。にもかかわらず、全員が似たような攻め筋に寄っている」
「似たような、って……」
「“今、自分が主導権を握っている”人間の手だ」
彼は一つの棋譜を指でなぞる。
「普通なら、ここで受ける。受けて、細く繋ぎ、相手の決め手を消す。だがこいつらは受けない。勝ちに行っている。しかも、勝てると信じている形でな」
ステファニーは盤面を見下ろした。
昨夜から何度か似たような局面図は見せられていたが、正直、彼の言う“顔”までは分からない。だが、そこに並んでいる手がどれも妙に前のめりであることだけは、彼女にも分かった。
「……悪手ってこと?」
「そう単純でもない。雑な自滅なら、ここまで似た崩れ方はしない」
ルルーシュは椅子の背にもたれ、目を閉じた。
「自分の読みが当たっていると、先に信じ込まされている」
「信じ……込まされる?」
「そうだ。盤面の評価ではなく、“評価した後の確信”に手を入れられている」
ステファニーの背筋に、冷たいものが走る。
「それ、できるの」
「森精種ならな」
「でも、昨日あんたが追加した条件で、試合中の魔法干渉は不正になるんでしょ」
「試合中はな」
その一言で、彼女は黙った。
試合中でなければ。
つまり、試合の前に、盤に座る前に、認識の底へ何かを滑り込ませることはできるかもしれない。少なくとも、ルルーシュはそう見ている。
「……じゃあ、どうするのよ」
「検証する」
彼は顔を上げた。
「昨夜から今朝までの接触記録は?」
「持ってきたわよ」
ステファニーが机へ束を置く。侍女、給仕、執事、書記、来客、挨拶。細かい字で整然と並んだ一覧に、ルルーシュの目が滑るように走った。
「飲み物は全部、城の中。寝具も。香は焚いてない。見舞い客は私の叔母と、書記長と――」
「ここだ」
炭筆の先が止まる。
「フィール・ニルヴァレン」
ステファニーが息を呑んだ。
「昨夜の門前だけじゃない。朝も来てるの?」
「礼節上の挨拶、とある。継承戦前日の候補者に対する、他国賓客からの見舞いだ」
ルルーシュが鼻で笑う。
「実に結構な作法だ」
「でも私、会ってないわよ。侍女が“体調が優れないので面会は辞退する”って断ってくれたもの」
「面会が目的ではない」
彼は紙束の二枚目を抜く。
「こっちだ。応対した侍女の記録」
ステファニーが覗き込む。
そこには、簡単な会話と共に、受け取った小箱の記述があった。『精神安定の香石。大切な勝負前に、気持ちを落ち着ける森精種のまじない』。
「……何、これ」
「貴様は知らなかったか」
「知らないわよ! そんなの見てない」
「だろうな。見る前に俺が止めている」
ルルーシュは机の隅に置かれていた布包みを指した。今朝、侍女の持ち物を確認させた際に回収した箱だ。
ステファニーが顔をしかめる。
「最初から押さえてたの?」
「押さえられるものは押さえる」
彼は包みを開いた。
中から出てきたのは、掌に乗るほどの薄い青石だった。磨かれてはいるが高価そうには見えない。むしろ、わざと無害に見せているような、嫌な自然さがある。
「……ただの石じゃないの」
「ただの石を、森精種がわざわざ“精神安定”などと名づけて持ってくるか?」
ルルーシュは石に触れないまま、近くに置いてあった安物のチェス盤を引き寄せた。
「昨日言っただろう。安っぽい盤の方が、癖が出る」
「その意味、まだ分かんないんだけど」
「こういうことだ」
彼は石を盤の端へ置く。
「高価なものは、それ自体の価値で警戒される。だが、安い小道具は“ついで”に滑り込みやすい」
「……え」
「香石。お守り。縁起物。勝負前の慰労品。名目はいくらでもある。しかも人類種は精霊を見ない。だから、“見えない補助線”を一本引かれても気づけない」
ステファニーは青石を睨んだ。
昨夜から感じていた焦りが、別の形で固まっていく。敵は盤面でぶつかってくるのではない。盤に座る前から、こちらの中へ勝負を仕込んでくる。
それが分かってしまうと、ぞっとした。
「じゃあ、今までの挑戦者も……」
「おそらく、似た手で触られている」
ルルーシュは記録束を叩いた。
「礼節。激励。見舞い。勝負前の穏やかな一言。直接の命令でも、露骨な幻惑でもない。“大丈夫だ、君は勝てる”という確信だけを底へ落とす」
「最低」
「そうだな。だが上手い」
彼は淡々と言った。
「強制ではない。だから気づきにくい。しかも、本人の自尊心と混ざる。自分でそう思ったとしか感じない」
ステファニーは拳を握る。
「……じゃあどうするのよ。私じゃなくてあんたが打つにしても、向こうは今度あんたに何かしてくるかもしれない」
「させない」
あまりにもあっさりした答えに、彼女は目を瞬かせた。
「簡単に言うけど」
「簡単だ。会わせなければいい」
ルルーシュは立ち上がる。
「今日から試合まで、俺は誰にも素顔を見せない。接触も切る。飲食は指定したものだけ。盤の確認は試合直前、公開の場で行う。贈答品、香、布、手袋、書簡――こちらへ渡る可能性のあるものは全部検分する」
「……素顔を見せない?」
「それに」
彼はそこで一拍置いた。
「ゼロが必要になる」
ステファニーが目を細める。
「またそれ」
「また、ではない。ここから先は、むしろ本題だ」
ルルーシュは窓辺へ向かい、外套の襟を整えた。
「ルルーシュ・ランペルージは、この国に何の正当性も持たない。昨日今日現れた異邦人だ。だが、“王の空席に差し込まれる仮面”なら話は別だ」
「仮面……」
「王は常に素顔で機能するわけではない」
低く、しかしはっきりした声だった。
「時に民衆は、人間ではなく記号へ従う。記号だからこそ、恐れ、期待し、意味を乗せることができる」
ステファニーは彼の横顔を見た。
昨夜から、彼は何度も王という言葉を使ってきた。だが今のそれは、勝つための理屈だけではなかった。もっと個人的で、もっと慣れた響きがあった。
「……あんた、仮面を被ることに慣れてるのね」
ルルーシュの目が、ほんの僅かに動く。
「そう見えるか」
「見えるわよ。嫌なくらい」
沈黙が落ちる。
気まずさではない。踏み込みかけた問いの前で、互いに一歩止まる沈黙だった。
先に破ったのは、ルルーシュだった。
「仮面は便利だ」
窓の外を見たまま、彼は言う。
「人は顔に責任を押しつける。だから逆に、顔を奪えば、言葉と役割だけが残る」
「それ、自由ってこと?」
「いいや」
そこで彼は薄く笑った。
「逃げ道がなくなる、ということだ」
ステファニーは何も言えなかった。
それは格好つけた台詞に聞こえた。聞こえたくせに、妙に軽くなかった。言い慣れた理屈ではなく、何かを本当に捨ててきた人間の言葉だったからだ。
「作らせる」
「何を?」
「仮面だ」
「は?」
「全面を覆う必要はない。視線を切り、表情の読みを外し、なおかつ“役割”として成立する形。過剰に豪奢である必要はない。むしろ、記号として単純な方がいい」
「……今から?」
「今からだ」
「間に合うの?」
「間に合わせるのが城の仕事だ」
彼は振り向き、当然のように言った。
「貴様、王候補だろう」
「そういう使い方されるの!?」
「有効資産は活用する」
「言い方!」
怒鳴りながらも、ステファニーはすでに廊下へ向かっていた。腹立たしい。腹立たしいが、今この瞬間に必要なものを一つずつ切り出してくるこの男の速度は、否応なく人を動かす。
扉のところで彼女は足を止め、振り返る。
「……ねえ、ルルーシュ」
「何だ」
「その仮面、敵を欺くためだけに被るの?」
短い沈黙。
彼はすぐには答えなかった。
答えなかったが、否定もしなかった。
「違う」
やがて返ってきた声は、少しだけ低かった。
「俺自身を、盤に固定するためだ」
ステファニーは眉を寄せる。
意味は全部は分からない。だが、“自分を守るため”とは違うことだけは分かった。
「……変な人」
「今さらだな」
「うるさい」
吐き捨てるように言って、彼女は廊下へ飛び出していく。
残された執務室で、ルルーシュは青石を見下ろした。
気休めのような顔をした呪い。
実に、この世界らしい。
力は露骨に振るわない。だが、だからこそ厄介だ。命令ではなく確信。支配ではなく合意のふりをした誘導。暴力を禁じた世界は、むしろこうした“自分で選んだと思わせる技術”を極限まで研いでいる。
――面白い。
本当に、腹立たしいほど面白い。
昼前。
簡素な工房に、城の職人たちが半ば悲鳴を上げながら集められていた。
「無茶よ、無茶。半日でそんなもの――」
「文句は後で聞くわ。今は作って!」
ステファニーが怒鳴る横で、ルルーシュは紙に素早く線を引いていた。
額から鼻梁にかけて流れる鋭い輪郭。片眼側へ重心を寄せた非対称。口元は隠さない。言葉を奪うためではなく、言葉に重さを与えるためだ。視線は切る。だが完全には閉ざさない。盤を見る時だけは必要になるからだ。
「もっと単純でいい」
彼は職人の一人に言う。
「装飾は削れ。意味を増やすな。記号は一目で読める方が強い」
「き、記号って……」
「仮面は顔ではない。旗だ」
職人がぽかんとする。
ステファニーだけが、その言葉の嫌な正しさを理解した。
数時間後。
試作の第一号が運ばれてきた時、工房の空気が少し止まった。
白でも黒でもない、鈍い光沢の面。片眼側に落ちる斜線。冷たいのに、妙に人を見返してくる形。
ルルーシュは何も言わず、それを受け取った。
軽く、しかし安っぽくはない。持った瞬間に自分の顔を消す重さがある。悪くない。
「……それ、被るの」
ステファニーが言う。
「そのために作らせた」
「似合いそうなのがむかつく」
「褒め言葉として受け取ろう」
彼は仮面を持ったまま、青石の方へ視線をやった。
「もう一つ、確認する」
「まだあるの?」
「ある。重要だ」
ルルーシュは侍女の一人を呼ばせた。今朝、香石を受け取った若い侍女だ。怯えた顔で部屋へ入ってくる。
「お、お呼びでしょうか……」
「安心しろ。責めるつもりはない」
ルルーシュはそう言って、青石を机の上へ置いた。
「これを受け取った時のことを、順番に話せ」
侍女は戸惑いながらも答える。
フィールが来たこと。笑顔だったこと。『お嬢様はきっと大丈夫』と優しく言ったこと。これを枕元に置けば落ち着くと勧めたこと。
「その時、何か変だったことは?」
「い、いえ……ただ」
「ただ?」
侍女は首をかしげた。
「その方のお声を聞いていると、何だか、こちらまで安心してしまって……ああ、本当に大丈夫なんだって、そんな気がして……」
ステファニーが、顔をしかめる。
ルルーシュは侍女へ一歩近づいた。
「目を合わせろ」
ステファニーが息を止めた。
左目の赤い紋様が走る。
「この部屋を出た後、今から一時間の間に、誰から何を言われても、この香石のことを一切口外するな。そして、一時間後、最初に会った人間へ“今日はよく眠れそうです”と言え」
侍女の瞳から色が抜ける。
「……はい」
数秒後、彼女は何事もなかったように一礼し、部屋を出ていった。
ステファニーは腕を組んだまま、嫌そうな顔をした。
「ほんと、その力嫌い」
「知っている」
「でも今の、何の意味があったの」
「二つある」
ルルーシュは答えた。
「一つ。俺の命令は成立した。つまり、少なくともこの侍女には事前干渉が深く入っていない」
「もう一つは?」
「向こうの反応を見る」
「反応?」
彼は仮面を机へ置いた。
「もしフィール・ニルヴァレンが、この侍女を経由した“仕込み”に意識を置いているなら、香石が止まった時点で何らかの確認に動く。さらに、この侍女が一時間後に不自然な台詞を言えば、“何か別の干渉が入った”と気づくかもしれない」
ステファニーが目を見開く。
「……わざと揺さぶるの?」
「当然だ。こちらだけが読まれる盤など、ゲームにもならない」
彼は仮面を持ち上げる。
「敵がこちらの認識へ触れてくるなら、こちらも敵の認識へノイズを入れる」
「でも、試合中はその力使えないんでしょ」
「使わない」
ルルーシュは鈍い光の面を、ゆっくり自分の顔へ当てた。
「だから、その前に盤を乱す」
仮面がはまる。
次の瞬間、部屋の空気が変わった。
顔が隠れたからではない。隠したことで、そこにいた男が別の輪郭を持ち始めたからだ。個人ではなく、役割。素顔の感情ではなく、演出された意思。
ステファニーは息を呑んだ。
さっきまでそこにいたルルーシュと、同じ声で、同じ体格で、同じ位置に立っている。なのに、明らかに別の何かに見える。
「……何それ」
思わず出た声は、驚きとも恐れともつかないものだった。
仮面の奥から、低い声が返る。
「ゼロだ」
その二音は、名乗りというより、宣言に近かった。
ステファニーは何も言えなくなる。
仮面が彼を偉く見せているのではない。仮面を被った瞬間、彼自身が“そうあるべきもの”へ自分を寄せている。その変化が分かってしまったからだ。
「……ほんとに、あんた」
彼女はようやく言った。
「仮面の方が本体みたいね」
ゼロは、ほんの僅かに口元だけで笑った。
「そう見えるなら、上出来だ」
その時、部屋の外で慌ただしい足音が止まった。
老執事が息を切らせて入ってくる。
「お、お嬢様……フィール・ニルヴァレン様が、先ほど急にお帰りになられました」
ステファニーが振り向く。
「え?」
「それと……応対した侍女が、一時間ほど前から妙に落ち着いておりまして、“今日はよく眠れそうです”と」
ルルーシュは何も言わなかった。
だが仮面の奥の視線だけが、静かに細くなる。
読まれていた。
少なくとも、あちらは香石の経路が切られたことを察した。ならば逆に、こちらの仮説はほぼ確定だ。
ゼロが、ゆっくりと執事へ向き直る。
「大広間の準備は」
「は、はい。明日の公開戦に向け、盤と席の配置が――」
「変更だ」
「へ?」
「対局席の背後に、観客席との距離を取れ。候補者以外の近接を禁ずる。盤の左右に書記を一名ずつ。さらに」
仮面の奥の声が、低く落ちる。
「試合開始直前まで、対戦者の私室と通路を完全に分離しろ。クラミー・ツェル、フィール・ニルヴァレン、及びその随員との偶発接触も含めて、全て禁止だ」
老執事が目を白黒させる。
「そ、それは……」
「王位戦の公正のためだ」
ゼロは一歩前へ出た。
「それとも、この国はもう、公正を守る手間すら惜しむのか?」
執事は一瞬で背筋を伸ばした。
「い、いえ! 直ちに手配いたします!」
扉が閉まる。
静かになった部屋で、ステファニーはまだゼロを見ていた。
「……ねえ」
「何だ」
「明日の相手、本当にクラミーだけ?」
短い沈黙。
ゼロは窓の向こう、王都の空を見た。
「いいや」
その答えは冷たく、そして妙に愉快そうでもあった。
「クラミー・ツェルは盤に座る。だが、その盤を“そう見えるもの”にしているのは別だ」
彼は仮面越しに、青石を見下ろす。
「明日俺が対局するのは、チェスの相手だけじゃない」
ゼロの口元が、わずかに歪んだ。
「認識そのものだ」