盤上の反逆者   作:stein0630

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正午の光は、王城の大広間にだけ妙に白く落ちていた。

 

磨き切れていない石床。高窓から差し込む光。臨時で組まれた観覧席には、貴族、商人、文官、兵士、下働きに至るまで、エルキア中の「勝者に取り入る準備だけは早い連中」が詰め込まれている。ざわめきは大きい。だが、ただ騒がしいのではない。空気が、賭け金の匂いを吸っている。

 

王位継承戦。

 

それ自体が、すでにこの国最大の見世物だった。

 

その中央に、盤があった。

 

ルルーシュ――いや、ゼロは、入場した瞬間に歩みを止めた。

 

「……ほう」

 

ステファニーが、彼の半歩後ろで小さく息を呑む。

 

盤、と呼ぶにはあまりに巨大だった。

 

大広間の中央いっぱいに切られた白黒の升目。人ひとりが立てるほどの広さを持つマス目が八列八行、正確に並んでいる。その両端には、白と黒に分かれた人影が整列していた。

 

兵士。騎士。僧正。塔兵。女王役。王役。

 

全員が、それぞれの駒を模した衣装を纏い、ただの飾りではない意志をその目に宿している。

 

盤面が、生きていた。

 

「……チェスじゃ、ないじゃない」

 

ステファニーが低く呟く。

 

「いいや」

 

仮面の奥で、ゼロの声がわずかに低くなる。

 

「これこそ、この世界のチェスだ」

 

対面では、クラミー・ツェルがすでに黒の王席に立っていた。彼女の背後で、フィール・ニルヴァレンが一歩引いた位置に控えている。約定通り、盤面からは距離を取っている。直接の接触はない。だが、その“いかにも何もしていない”立ち位置が、かえって鼻についた。

 

「ご覧の通りです」

 

クラミーが静かに言う。

 

「本戦は、王権決定戦用チェス。一般的な盤上遊戯ではなく、“生きた駒”による実戦形式」

 

観客席がどよめく。

 

ゼロは反応しない。

 

だが内心では、昨日までの記録が音を立てて繋がっていた。

 

だから、敗者たちは似た顔をしていたのか。

 

盤面の優劣を読んでいたのではない。自分が“盤を支配している”と錯覚させられたまま、最後に足元から崩されていた。

 

「確認する」

 

ゼロが言うと、場の視線が一斉に彼へ集まる。

 

「ルールの読み上げを」

 

書記官が慌てて前へ出た。巻物を広げ、緊張した声で告げる。

 

「本戦は、王役二名を中心とする生体チェス。各駒は定められた移動権限を持ち、王役の命令または自律判断により行動する。勝利条件は通常のチェスに準ずるが、各駒には士気および忠誠判定が存在し、王の命令であっても、明白な無意味または自殺的行為と判断した場合、拒否権を持つ――」

 

ざわめきが一段深くなる。

 

ステファニーが横で顔を引きつらせた。

 

「拒否権……?」

 

「続けろ」

 

ゼロが促す。

 

「各駒は、自身の王の勝利に資すると認める範囲で自発行動可能。敵駒との交戦、占有、進退は駒ごとの性質と士気に依存する。なお、試合中の盤外からの助言・誘導・干渉は禁ずる」

 

ゼロはわずかに顎を引いた。

 

予想通りだ。

 

これは盤上の計算だけで決まるチェスではない。王がどう見られるか、どう信じられるか、その全部が手数に換算される。

 

「質問がある」

 

クラミーが目を細める。

 

「どうぞ」

 

「各駒は、現在の盤面全体を認識しているのか」

 

書記官が答える。

 

「完全ではありません。自軍配置と近接状況、及び王からの指示を基準に判断します」

 

「敵駒の意図は」

 

「推測の域を出ません」

 

「なるほど」

 

ゼロは続ける。

 

「次。駒の忠誠判定は、命令の内容のみか。それとも王自身への評価を含むか」

 

今度は書記官が答えに詰まり、審判役の老臣が口を挟んだ。

 

「……含む。王が信頼に足るか、勝ちへ導けるか、その認識も大きい」

 

「十分だ」

 

ゼロはそれ以上訊かなかった。

 

もう必要なものは揃っている。

 

支配と命令だけでは勝てない。

 

この盤では、駒に“そう動く意味”を飲ませなければならない。

 

それはまるで、皮肉だった。

 

「怯みましたか?」

 

クラミーが、冷えた口調で言う。

 

「異邦の方には重かったでしょう。この国のチェスは、駒を置いて終わりではありませんから」

 

「違うな」

 

ゼロは彼女を見た。

 

「ようやく、王が盤に存在する遊戯になった」

 

その返答に、観客席のどこかで息を呑む音がした。

 

クラミーの顔に変化はない。だが、フィールの笑みがほんの少しだけ深くなる。

 

面白がっている。

 

そして、測っている。

 

「配置につけ」

 

審判の声が響く。

 

ステファニーは、白側の王席へ続く階段の手前で足を止めた。王席に立つのは代行者たるゼロだ。彼女は盤外の観覧席、その最前列に用意された継承者席へ回るしかない。

 

すれ違いざま、彼女が低く言う。

 

「……気をつけて」

 

仮面の奥から返る声は、妙に落ち着いていた。

 

「今さらか」

 

「うるさい。そういう意味じゃなくて」

 

「分かっている」

 

ゼロは立ち止まらない。

 

「貴様はそこで見ていろ。王が何を賭け、何を引き出すのかを」

 

白の王席に立った瞬間、盤の空気が変わった。

 

白側の駒たちが一斉にこちらを見る。

 

兵士役の若者たち。騎士役の大柄な男女。僧正役の老女。塔兵役の寡黙そうな双子。女王役の、苛烈な目をした赤髪の女。

 

ゼロは一瞥で把握する。

 

弱い。統率が取れていない。いや、正確には“勝つ側の顔を忘れている”。

 

これまで何度も負けたのだろう。王が決まらないまま、負けるたびに自分たちの価値も削られていく。そういう国の駒だ。

 

だが、終わってはいない。

 

終わっている人間の目ではない。

 

「開始前に一つだけ許可を」

 

ゼロが言う。

 

審判が眉をひそめる。

 

「何だ」

 

「自軍への開戦宣言だ。盤外助言には当たらんだろう」

 

老臣は一瞬迷い、やがて頷いた。

 

「……許可する。ただし簡潔に」

 

ゼロは笑った。

 

「善処しよう」

 

そして、白の駒たちへ向き直る。

 

視線が、全員に流れる。

 

兵士たちは緊張している。騎士は品定めしている。女王役は露骨にこちらを試している。誰一人、初手から忠誠を捧げるつもりはない目だ。

 

結構。

 

その方がやりやすい。

 

「聞け」

 

声は大きくない。

 

だが、盤の上に落ちた瞬間、妙に遠くまで届いた。

 

「貴様らに命じるつもりはない」

 

数人の表情が変わる。

 

「それは助かる」とでも言いたげな顔だ。ゼロは内心で冷ややかに笑う。

 

早い。安堵するには。

 

「なぜなら、この盤で王の命令は絶対ではないからだ。拒否できる。疑える。逃げることもできる」

 

ざわめきが走る。

 

観客ではない。白の駒たちの間にだ。

 

王席に立った初手で、自分の権限の限界を自分から言う王は珍しいのだろう。

 

「だから、俺が今からするのは命令ではない。提案だ」

 

ゼロは一歩前へ出た。

 

仮面が白光を鈍く返す。

 

「負け犬のまま終わるか。あるいは、勝利の側に立つか。好きに選べ」

 

数秒の沈黙。

 

兵士役の一人が、思わず口を開いた。

 

「勝利の側って……アンタ、昨日来たばっかの余所者だろ」

 

「そうだな」

 

「じゃあ何で、そんなこと言えんだよ」

 

「簡単だ」

 

ゼロの声が、そこで少しだけ低くなる。

 

「勝つ者の顔をしているからだ」

 

空気が止まった。

 

傲慢だった。

 

あまりにも、あからさまに。

 

だが、その傲慢さが空虚でないと、一瞬で分かってしまう声でもあった。

 

女王役の赤髪の女が、じっとゼロを見たまま言う。

 

「随分と大きく出るじゃないか、仮面野郎。もしアンタの読みが外れたら?」

 

「その時は、俺が最初に負けを背負う」

 

即答。

 

「だが、貴様らに無意味な死に方だけはさせない」

 

その一言で、今度は騎士役の男が目を細めた。

 

「……死に方、ね」

 

「この盤で駒は消える。だが、消え方には価値の差がある。無駄に消えるのか。勝ち筋を開いて消えるのか。その違いも分からず王を名乗るほど、俺は愚かじゃない」

 

女王役が笑う。

 

嘲笑ではない。面白がる笑いだ。

 

「なるほど。口は達者らしい」

 

「評価は勝ってからでいい」

 

ゼロは言った。

 

「今はただ、覚えておけ。俺は貴様らを“使う”。だが、安くは使わない」

 

その言葉に、ステファニーは観覧席で小さく息を呑んだ。

 

最低だ、と思った。

 

同時に、ルルーシュらしい、とも思った。

 

優しいふりで誤魔化さない。駒だと分かった上で、それでも意味を与えると宣言する。残酷だが、不誠実ではない。

 

審判が開始を告げる。

 

「王位継承戦、開始。アシェンテ」

 

「アシェンテ」

 

声が重なった瞬間、盤の輪郭が淡く光った。

 

閉じた。

 

もう、この盤の内側では、誤魔化しは通じない。

 

初手は黒だった。

 

クラミーが、迷いなく言う。

 

「兵、一歩前へ」

 

黒の中央兵が即座に動く。

 

躊躇がない。訓練だけではない。王への信頼か、あるいはそれに近い確信がある。

 

ゼロはそれを見て、数秒だけ考えた。

 

中央制圧。定石。だが、ここで重要なのは形ではない。黒の兵が、命令を“疑わず”動いた事実だ。

 

「こちらも兵、一歩」

 

白兵が前に出る。

 

だが、黒ほどの切れはない。

 

わずかな間があった。足を動かす前の、確認する癖。

 

二手、三手。

 

盤面は定石に沿って進む。

 

観客席は静かだ。普通のチェスなら、この段階では退屈な時間だろう。だが、この生体盤では違う。誰がどんな声で命じ、駒がどう反応するか、その全部が“手”になっている。

 

クラミーは無駄がない。

 

短く、的確に、必要以上の感情を乗せない。駒もそれに応え、綺麗に動く。機械的ではない。むしろ、“迷う余地がないほど、勝ち筋が見えている”側の運びだ。

 

対して白は、まだ硬い。

 

ゼロの命令に従ってはいる。だが、“この王なら行ける”という熱までは届いていない。

 

四手目。

 

黒の騎士が、白の兵へ圧をかける位置へ跳ぶ。

 

白の兵が、一瞬だけ足をすくませた。

 

見えている。

 

敵の圧だけではない。自分が狙われていることを、必要以上に大きく認識している。

 

「気にするな」

 

ゼロが言う。

 

「歩兵三番、そのまま保持。騎士二番、展開」

 

白の騎士が動く。

 

だが、半歩遅い。

 

ゼロは仮面の奥で目を細めた。

 

やはりだ。

 

盤の上での干渉はない。だが、黒の駒は“自分たちが主導している”顔をしている。白の駒はまだ、“押されているように感じる”反応が抜けていない。

 

仕込みは、盤面そのものではなく、勝敗の温度差に出ている。

 

「白の王、遅いですね」

 

クラミーが淡々と言う。

 

「考える時間が多い方が優秀とは限りませんよ」

 

「知っている」

 

ゼロは即答する。

 

「愚か者ほど、早く決断したがる」

 

観客席がざわつく。

 

クラミーは何も言わず、次の手を出す。

 

黒の僧正が斜めに滑り、白の女王役へ長い圧をかける位置に立つ。

 

赤髪の女王役が舌打ちした。

 

「チッ……こっち見てやがる」

 

「見られているだけで怯むな」

 

ゼロが言う。

 

「貴様は何だ」

 

「は?」

 

「女王だろう」

 

「当たり前だ」

 

「なら、盤の半分は元から貴様の射程だ。相手の視線に意味を持たせるな」

 

女王役が、そこで口の端を吊り上げた。

 

「……上等」

 

彼女は自ら一歩前に出る。

 

それは命令ではなかった。

 

王の言葉に、自分で意味をつけて動いた。

 

ゼロは内心で一つ頷く。

 

ここだ。

 

この盤で重要なのは、命令の正確さだけではない。駒が、自分の役割を“思い出す”ことだ。

 

六手目。

 

黒が王側から圧を強める。

 

白の一角が、目に見えて息苦しくなる。兵たちの目が揺れ始める。観客席もざわつき、空気がじわじわと「黒が押している」方向へ傾く。

 

ステファニーは手すりを握り締めていた。

 

分からない。

 

盤面そのものの有利不利は、まだ決定的ではない。だが、白側がじわじわ押し込まれている“感じ”だけは、嫌なほど伝わる。

 

「何なの……これ」

 

「空気よ」

 

隣で、年嵩の書記が青い顔で呟いた。

 

「この形式、盤面だけ見てると遅れるんです……皆、“流れ”に引っ張られる」

 

流れ。

 

曖昧なくせに、最悪な概念だとステファニーは思った。

 

その時だった。

 

白の兵の一人が、黒騎士に圧されている最前線で、明らかに動きを鈍らせたのは。

 

ゼロが指示を出す。

 

「兵三番、保持。騎士との連結を優先」

 

兵は動かない。

 

半拍、沈黙する。

 

観客席がざわめいた。

 

「おい……」

 

「拒否か?」

 

兵の若者が、歯を食いしばったまま叫ぶ。

 

「無茶だ! ここで踏ん張っても潰されるだけだろ!」

 

白側に緊張が走る。

 

クラミーの瞳が、初めてほんの少しだけ光った。

 

崩れる。

 

そういう期待が見えた。

 

ステファニーの喉が詰まる。

 

だがゼロは、怒鳴らなかった。

 

怒鳴る代わりに、静かに訊いた。

 

「名は」

 

兵の若者が面食らう。

 

「……は?」

 

「名を言え」

 

「ジル、だけど」

 

「そうか、ジル」

 

ゼロの声は、驚くほど冷静だった。

 

「では問う。貴様は、潰されるから退くのか。それとも、勝ち筋が見えないから退くのか」

 

「そ、それは……」

 

「どちらだ」

 

ジルの目が揺れる。

 

「……見えない、からだ」

 

「なら、見せてやる」

 

ゼロは盤を見据えたまま言った。

 

「貴様が一手耐えれば、女王が横に通る。女王が通れば、黒の僧正は下がるしかない。僧正が下がれば、騎士二番が中央を割る。そこまででいい。貴様に求めるのは、その一手分だ」

 

兵の若者が息を呑む。

 

観客席も静まる。

 

三手先。

 

盤面の計算が、一気に言語化された。

 

「……本当に、通るのか」

 

「通す」

 

即答だった。

 

「王がそう言っている」

 

その瞬間、白の女王役が、盤の向こうでにやりと笑った。

 

「面白い。なら通ってやるよ」

 

白の騎士役も、槍を握り直す。

 

「三手先か。やっと話が見えてきたな」

 

空気が、変わった。

 

ほんの僅か。だが確かに。

 

ジルが前を向く。

 

「……分かった。やる」

 

黒騎士の圧に、白兵が踏みとどまる。

 

クラミーの眉が、初めてわずかに動いた。

 

彼女は次の手を出す。黒僧正、さらに圧。王側からの包囲継続。普通ならここで白の士気は折れる。

 

だが、折れない。

 

ジルが一手耐えたからだ。

 

白の女王が滑る。

 

長い射線が通る。

 

黒僧正の位置が、一気に不安定になる。

 

観客席がどよめいた。

 

「おい、通ったぞ」

 

「今の、最初から読んでたのか?」

 

クラミーの視線が、盤ではなくゼロへ刺さる。

 

仮面は何も答えない。

 

ただ次の指示だけが落ちる。

 

「騎士二番、中央突破。女王、その射線を維持」

 

白騎士が笑う。

 

「了解だ、王様」

 

今度は、命令が軽い。

 

重くないからこそ、よく通る。

 

黒の中央に穴が開く。

 

そこで初めて、クラミーが息を吸い直した。

 

彼女は盤を読んでいる。読んでいるが、それだけでは足りなくなり始めている。黒の優位そのものが崩れたわけではない。だが、“白は押されている側”という空気が、さっきの数手で確かに切れた。

 

フィールが、盤外で静かに目を細めていた。

 

笑ってはいない。

 

見ている。

 

その視線の先で、ゼロはゆっくりと口を開いた。

 

「聞け、白の駒」

 

盤上の全員が、思わずそちらを見る。

 

「この遊戯は、王が駒を並べるチェスではない」

 

彼の声は、先ほどより少しだけ高く、よく通った。

 

「貴様らが自分の価値を忘れた瞬間に負ける盤だ。なら、覚えておけ。兵は壁ではない。騎士は飾りではない。女王は脅し文句ではない。王は――」

 

そこで一拍。

 

仮面の奥の声が、冷たく、鋭く落ちる。

 

「勝たせるために立っている」

 

白の駒たちの目つきが変わる。

 

熱狂ではない。

 

もっと実務的で、もっと危険な変化だった。

 

“この王に乗れば、勝ち筋が見える”

 

その認識が、一気に共有されたのだ。

 

クラミーはそれを見て、はっきりと表情を変えた。

 

初めてだった。

 

無表情の仮面に、明確な警戒が走る。

 

「……なるほど」

 

彼女が低く呟く。

 

「あなた、駒を使っているんじゃない」

 

ゼロは答える。

 

「当たり前だ」

 

次の瞬間、白の盤全体が、音を立てて前へ出た。

 

さっきまで押されていた空気が、まるで最初から嘘だったかのように、こちらへ返ってくる。

 

黒の前列に、わずかな乱れ。

 

小さい。だが見逃せない。

 

自分たちが押していると信じていた側が、初めて“押し返される側”の顔をした。

 

ゼロはそれを見て、仮面の奥で静かに笑った。

 

見えた。

 

この盤の本当の主戦場が。

 

駒の移動ではない。確信の占有だ。

 

ならば、奪うべき王座はもう一つある。エルキアの王位ではない。盤上の全員が“どちらが勝つ側か”と信じる、その座だ。

 

そしてそこへ、今、白の王が手をかけた。

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