― ――銃声が、凍てついた函館の大気を鋭く切り裂いた。
乾いた爆発音は、妙に遠くへ、そして底冷えのする空間へと響き渡る。
腹を深く穿たれた激痛が遅れて押し寄せ、熱を持った内臓が軋む。衝撃に耐えかねて、世界の色彩が斜めに傾き、足元の感覚が急速に失われていった。
それでも、“鬼の副長”と呼ばれたその男――土方歳三は、なおも泥と血にまみれた雪の上に踏み留まっていた。
(……まだだ)
柄を握り締める指に、最後の力を込める。
新政府海軍……西郷隆盛の旗の元に集った、最新鋭の銃器を携えた軍勢を、一人残らずこの手で叩き斬るまでは。たとえ肉の器が砕けようとも、魂の刃を折るわけにはいかない。
――そのはずだった。
「……なん……」
喉の奥から漏れたのは、あまりにも虚しい気息だった。
ドサリ、と鈍く重い音を立てて、土方歳三の巨体は純白の雪の上に崩れ落ちた。本来の彼を知る者であれば、あるいはこう叫んで怒ったかもしれない。
『歳さん? あの人は砲弾で撃たれても死やしないさ! 一体何度、そんな修羅場を潜り抜けてきたと思ってんのよ!』と。
だが、この時の土方は違った。
その二週間前。かつて共に時代を駆け抜けた沖田総司も、芹沢鴨も存在しないこの時代において、自他共に“最強”を冠するに最も近い男――殺気も気配すら完全に断ち切る「音無しの剣」の遣い手・高柳又四郎との死闘。その激闘の果てに負った致命的な深手は、頑健な彼の肉体を着実に蝕んでいた。身体的にも、万全の状態からは程遠かったのだ。
純白の雪の上に、鮮烈な赤が広がる。
だが、その鮮血は北の大地の凍てつく寒さの中で、瞬く間に黒く変色していった。土方は仰向けに倒れたまま、蒼穹を見上げていた。
函館の冬空は、驚くほどに澄み渡っている。鉛色の雲の切れ間から差し込む光が、やけに目に痛かった。
(……ああ)
肺にはもう、空気が入らない。腹の感覚は、とうに消え失せていた。
――散りどきだ。
長年、泥と血に塗れた幾多の戦場を渡り歩いてきたからこそ、それが痛いほどよく分かった。散るべき場所で散り、果てるべき時に果てる。武士としての本懐が、そこにあった。
「……」
唇を微かに動かそうとするも、もはや肉体には一滴の力も残っていない。声すら出なかった。ぼやけていく視界の裏で、脳裏に去来したのは、遠い昔に散っていった戦友たちの顔だった。
近藤勇。
沖田総司。
永倉新八。
そのほかに名を連ねた数多の英傑たち。そして、名もなく泥にまみれて斃れていった隊士たちの残影。
(……すまねェ)
それは誰に対する謝罪か、あるいは生き残れなかったことへの報告か。自分でも判然とはしない。
だが、不思議と胸のうちは凪いでいた。悔いはなかった。
(俺は……精一杯、咲き誇ることができた)
最後まで前へ。退くことなく、ただ己の信念のままに走り抜けた。
――それだけで、十分だった。
視界がゆっくりと、眩い白に溶けていく。
地響きのような戦闘の音も、冷たい風の音も、すべてが遠ざかり、やがて完全に消え去った。こうして土方歳三は、蝦夷の地にて――確かに、その生涯を戦死の二文字で閉じゆく、はずだった。
◆
暗く狭い。だが、どこか微かな温もりと、羊水のような懐かしさを感じさせる空間。
(……何だ、ここは)
意識は奇妙なほどに鮮明だった。しかし、肉体は己の思い通りに動かない。乳飲み子の未熟な神経系は、意志の命令をうまく伝達できずにいた。耳に届くのは、規則正しい鼓動。だがそれは、自分のものではない。もっと小さく、もっと頼りない、別の命の脈動だった。
(……どこだ、ここは。俺は確かに、函館で……)
妙な浮遊感と圧迫感が、胸の奥を満たしていく。
(……目が見えねぇ……)
自分が置かれた状況すら理解できぬまま、思考は再び深い闇の中へと沈んでいった。
――それから、長い、長い時間が通り過ぎた。
大正の初め。ひっそりとした山あいの町に、一人の子が生まれた。
その産声は、どこか控えめだった。決して泣かないわけではない。ただ、肺活量や生命力の問題ではなく、その声には無駄な焦燥や恐怖が一切含まれていなかった。ただ生存本能に従って声を響かせているだけで、どこか冷めていた。
さらに、母親の目から見ても、我が子の目の据わり方は尋常ではなかった。赤子特有のぼんやりとした焦点の定まらない瞳ではなく、生まれ落ちた瞬間から周囲の人間を鋭く探るようなその眼光は、どう考えても異常だった。
それもそのはずである。たとえ肉体がどれほど幼くとも、その魂は紛れもなくあの“土方歳三”その人なのだから。
そして、我が子を気味悪がり始めるのに、母がそう時間はかからなかった。
初めのうちは、「変わった子だね」と周囲に笑いながら、母自身も自分に言い聞かせるように過ごしていた。
だが――それも長くは続かなかった。
泣かない。いや、泣くには泣く。しかしそれはあくまで肉体の反射としての号泣であり、感情の揺らぎに伴うものではなかった。ふと、あやそうとして目が合う。その瞬間、母は毎度のように背筋が凍るような寒気を覚えた。
(……この子は、いったい何を見ているの?)
それは赤子の目ではない。目の前の人間を値踏みし、その底意を測っているような、底知れぬ冷徹さを宿した眼差しだった。
どれだけ慈しみを込めて抱き上げても、母親に安心したように縋りつこうとはしない。ただ、じっとこちらを冷ややかに観察するだけ。愛情のキャッチボールが成立しない恐怖が、母の心を徐々に蝕んでいった。
「……気味が悪い」
ある日、ふと漏れたその呟きは、日を追うごとに確信へと変わっていった。
ある夜、物音に目を覚ました母が目撃したのは――。暗闇の中、微動だ名せず、ただ虚空の天井を見つめ続ける赤子の姿だった。月明かりに照らされたその瞳は、暗闇の中でも爛々と輝いているように見えた。
(……寝て、いない?)
その目は、まるで修羅場で夜を越す百戦錬磨の兵士のように、冴え渡っていた。赤子特有のあどけなさは微塵もなく、そこにあるのは冷徹な思考の気配だけだった。
――限界だった。
恐怖と重圧に耐えかねた母の心が、音を立てて折れたのは、それから間もなくのことだった。
◆
しんしんと雪が降る、厳寒の冬の夜。山は静まり返り、冷気がすべての音を吸い込んでいた。
そんな中――一つの小さな影が、人里離れた寺の門前にそっと置き去りにされた。
「……っ」
薄い布に包まれたその子は、やはり泣かなかった。ただ、静まり返った夜の闇を、冷めた目でじっと見据えている。
(……捨てられた、か)
状況を理解するのに時間はかからなかった。理由も、なんとなく察しがついた。あの母親の怯えようを見れば、化け物を見るような目を向けられ続けるよりは、こうして見捨てられた方がまだ腑に落ちる。
(……まぁ、いい)
感情の波風は、ほとんど立たなかった。怒りも悲しみもなく、ただ冷徹な事実として受け止めていた。
それよりも――
(……寒ィな)
乳飲み子の未熟な肉体が感じる容赦ない寒気の方が、よほど現実的だった。
ギィ……と、古びた寺の戸が重い音を立てて開く。
重厚で、しかし静かな足音が、雪を踏みしめながらゆっくりと近づいてくる。
そして――
「……南無阿弥陀仏」
低く、地底から響くような、しかし不思議と穏やかな静けさを湛えた声。
その大男こそが、後に鬼殺隊の“柱”と呼ばれる僧――悲鳴嶼行冥だった。
彼は生まれつき視覚を持たない。肉眼で世界を見ることは叶わない。
だが、研ぎ澄まされた感覚で彼は理解していた。
そこに、確かに一つの小さな命が凍えながら存在していることが。
「……こんな夜に、置き去りにされたのか」
悲鳴嶼はゆっくりと膝をつき、凍える赤子へと大きな、それでいて繊細な巨手を伸ばした。
その瞬間――
(……でかいな)
土方の内側の意識が、わずかに反応した。
ただの世捨て人の僧ではない。
纏う“気配”の質が、常人とは根本的に違っていた。
(……強ェ)
言葉にすればそれだけのものだった。だが、それは戦場をくぐり抜けた者だけにわかる、本能的な確信だった。“生き残る側の人間”が放つ、圧倒的な修羅の気配と、それ以上に深い慈悲の匂い。
「……まだ乳飲み子の赤子ではないか」
悲鳴嶼は赤子をそっと抱き上げる。その常人離れした巨体からは想像もつかないほど、その腕は驚くほど優しく、そして絶対的な温もりを湛えていた。
「大丈夫だ。ここには、お前と同じように行き場のない子供たちが集っているからな。もう怯える必要はない」
◆
寺子屋。そこには、十数人の子供たちが暮らしていた。飢えた者、親に捨てられた者、世の理不尽に家族を奪われた者――様々な事情を抱え、それでも懸命に明日を生きようとする子どもたちの巣窟。
その輪の中に、土方歳三は身を投じることになった。
「新しい子だよ!」
「ちっちゃいなー!」
「名前はなんていうんだろ?」
子どもたちが物珍しそうに、無邪気に顔を覗き込んでくる。その瞳には濁りがなく、純粋な好奇心だけがあった。
だが――国の修羅場を越えてきた魂を持つ赤子は、その輪の中で冷めた眼差しを崩さない。
(……)
(……ちっ。ガキの真似事なんてやってられるかよ)
その赤子は、相変わらず泣き声をあげることもなく、ただじっと冷めた目で子どもたちを見返すだけだった。
「……ふむ。今はまだこの場所に慣れていないだけだ。いずれ慣れれば、きっと他の子どもたちとも仲良くできるさ」
悲鳴嶼が静かに、慈愛を込めた声でそう言った。
(……仲良く、ねぇ)
土方はその言葉を心の中で咀嚼し、わずかに自嘲めいた笑みを浮かべる。
(俺が、か)
剣を振ルい、血を啜り、修羅の道を駆け抜けた男。
“鬼の副長”と恐れられた自分が、この平和な寺の片隅で、子どもとして穏やかに生きるなどと。
(……笑わせる)
だが――その日から、土方歳三は再び“守る側”としての数奇な人生を、もう一度歩み始めることになる。
それが、やがて来る――血を吸い、牙を剥く「鬼」と人間が死闘を繰り広げる、残酷で険しい時代へと繋がっていくとも知らずに。