季節は、巡った。
雪は解け、湿った土の匂いが山あいに戻り、やがて鬱蒼とした木々の間で蝉が喧しく鳴き始めた。
悲鳴嶼の営む寺での暮らしは、外の世界の喧騒から切り離されたように静かだった。
「ほら、もっとゆっくりでいいんだよ」
「うん……!」
子どもたちの無邪気な笑い声。弾むような足音。
それは、かつて土方歳三が生きた血塗られた戦場には、決して存在しなかった音だった。
(……騒がしいな)
そう心の中で呟きながらも、不思議と、そのざわめきは不快ではなかった。むしろ、凍りついた魂の奥底を少しずつ溶かすような、奇妙な温もりを帯びてさえいた。
幼い肉体は、驚くほど順調に育っていた。だが、その内側に宿る魂の輪郭は、微塵もぶれていない。
(……鈍ってねェな)
庭の片隅で、木の枝を削って作った木刀を握りしめる。一閃、空気を裂く。ヒュン、と鋭い風切り音が鳴り響いた。
「すごいね、歳ちゃん!」
俺より年下の少女――沙代が、丸い目をパチパチとさせて感嘆の声を漏らす。
この世界に生まれ落ち、物心ついた頃、寺の主である大男・悲鳴嶼行冥がこの名を与えてくれた。
“悲鳴嶼歳玄(ひめじま としはる)”
それが、今世での俺の新しい名だ。
拾われてから数年。俺は毎日のように木の枝を振り続け、前世で培った剣戟の感覚をこの小さな肉体に叩き込んできた。
頭では理解していても、いかんせん身体が軽すぎる。もっと重い刀の負荷、筋肉のうねり、骨の軋みが欲しい。
(……いかんせん、幼すぎるか)
そう苦虫を噛み潰したような顔をした時だった。
「……また剣を振るっているのか? 歳」
背後から、低く静かな声が降ってくる。振り返るまでもない。この寺の絶対的な支柱――悲鳴嶼行冥だ。
「……」
言葉を発するにはまだ喉の構造が幼く、億劫だった。だから、ただ鋭い視線を向けるだけに留める。
「……その動き。誰に教わったものでもない。……まるで、何千、何万の死線を潜り抜けてきた者のそれだ」
悲鳴嶼は、見えていないはずの濁った瞳を向けながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……お前は、生まれながらにして“天賦の才”を抱いているようだ」
こいつは、俺が“2度目”の人生を歩んでいることなど知る由もない。……言うつもりもなかったが。
「今日こそ俺と勝負しやがれ、歳玄!!」
唐突に、青臭い怒気を孕んだ声が割り込んできた。寺の子供の一人、獪岳(かいがく)だ。歳玄よりも一、二歳年上の少年だった。
「えぇ〜、またやるの、獪岳〜? 昨日もボロ負けしてたじゃん」
「うるせぇ!! 今日こそは叩き伏せてやる!!」
「お前とやるのは飽きた……兄貴、俺と一本やってくれねぇか?」
獪岳が俺に初めて絡んできたのは、半年前のことだった。
皆から離れ、一人で黙々と剣の修練を重ねる俺が面白くなかったのだろう。少しばかり痛い目を合わせてやろうと挑んできたのが、この奇妙な関係の始まりだった。
当然、子供のチャンバラごっこなどではない。本気で殺陣の理合いを叩き込んだ俺に、獪岳が敵うはずもなかった。完敗した彼は、年下の俺に子どもたちの前で良いようにあしらわれたことがよほど悔しかったらしく、それ以来、毎日のように突っかかってくるようになった。
「っ! この、クソガキが……!」
「っ! 歳ちゃん、危ないっ!」
頭に血を上らせた獪岳が、怒りに任せて不意打ちの木刀を振り下ろす。
「甘ぇよ」
視線ですら追えるような単調な軌道。歳玄はわずかに体を沈め、その一撃を紙一重で躱すと同時に、流れるような身のこなしで獪岳の鳩尾(みぞおち)へと掌底を叩き込んだ。
「ぐはっ……!」
「はい、今日も獪岳の負けぇ〜!!」
「もう諦めなよ、かっこ悪いな〜」
「そうだよ! 元はといえば獪岳が突っかかったのが悪いんだろ!」
「にしても、歳は相変わらずすげぇなぁ……」
いつの間にか周囲に集まっていた寺の子どもたちが、やんややんやとやじを飛ばす。
「う、うるせぇ……! ちきしょう、覚えてやがれ……!」
獪岳は悔しさに顔を歪め、腹を押さえながら、そのまま寺の裏の林へと走り去っていった。悲鳴嶼は、その様子をどこか悲しげに、憂いを帯びた表情で見つめていた。
◆
獪岳とのいざこざから数日が過ぎた、ある夏の夜。
その夜は、やけに奇妙だった。風がぴたりと止み、山肌を包み込んでいた虫の音も、鳥の鳴き声も、すべてが嘘のように途絶えている。
(……妙だな)
布団の中で、パチリと目を見開く。この底冷えするような静寂は、自然のそれではない。皮膚の産毛が逆立つような、異質な気配。
そして次の瞬間――
(っ……!?)
戦場で幾度となく感じてきたもの以上の、いや、それすら遥かに凌駕する濃密な殺気が、夜気を切り裂いて押し寄せてきた。
(……何か、いる)
一瞬の迷いもなく、身体を起こす。まだ幼く、柔らかい骨格が軋む音がした。だが、そんなものを気にかけている暇はない。
――ギィ……古びた寺の引き戸が、音もなく不気味に軋んだ。
(……来やがったか)
足音はしない。物理的な足音など立てる必要のない、異形の存在。
その直後――ドンッ!!…と寺の分厚い壁が、凄まじい衝撃とともに内側から弾け飛んだ。
「――――ッ!!」
子どもたちの悲鳴が、闇夜を引き裂く。漂ってきたのは、耐えがたいほどの生臭い血の匂い。
そして――
「……ヒヒッ、人間だ、人間がたくさんいやがる……」
そこにあったのは、もはや人間ではない“何か”だった。不気味に肥大化した異形の腕。歪み、溶けたような顔立ち。人間を喰らうことだけに特化した、悪夢の化身。
「下がっていなさい……!!」
悲鳴嶼が、一瞬の遅れもなく前に出た。その圧倒的な巨体が、怯える子どもたちを庇うように立ちはだかる。
だが――
「う、うわぁぁ!!」
「に、逃げろ……! 殺されるっ!」
「きゃぁぁぁっ!!」
残された子どもたち――歳玄と沙代以外の3人は、恐怖のあまり悲鳴嶼の制止を聞く余裕もなく、逃げ出そうと走り出した。
「馬鹿野郎……! 兄貴の言うことを聞け!」
歳玄が鋭く声を張り上げるが、時すでに遅かった。
「ヒヒヒッ!! 逃がすかよォ!」
入り口付近へ走り出した子どもたちに、怪物の影が瞬時に襲いかかる。鮮血が天井に飛び散り、幼い命が無惨に刈り取られた。
(……くそっ……! どうする……? 兄貴は目が見えねぇ……。この化け物を相手に、全員を護り切るなんて不可能だ……! ここは、俺がやるしかねぇ……!)
「ヒヒヒッ……! 以前に『あのガキ』が言っていた通りだったなァ! こんな山奥の寺に、美味そうな人間が隠れてやがるとはな!」
「……『あのガキ』だと?」
怪物の言葉の端々に、歳玄の頭脳がピタリと反応する。
――あのガキ。まさか、数日前に寺を飛び出した……。
「お前はどうする? 乳飲み子のガキめ、無駄に足掻いて泣き喚いてみるか?」
怪物が歪んだ笑みを浮かべながら、血塗れの巨体を歳玄へと向ける。これまで人間の修羅、幾多の化け物のような剣士とは相対してきた。だが、肉体も理不尽も超越した「本物の化け物」と対峙するのは、これが初めての経験だった。
「……ふっ、はっは……。おもしれぇ……。無駄かどうか、その身で確かめてみやがれ」
「だ、ダメだ、歳玄っ……! お前は逃げろ……!!」
歳玄の纏う戦闘の気配を敏感に察知し、悲鳴嶼は慌てて血相を変えて叫んだ。
「……無理だ。どうせこの化け物は、俺たちを一人残らず喰い殺すまで逃がしゃしないさ」
「ヒッヒッヒ! よく分かってるじゃねぇか、ガキ!」
「なら……! ならば私が残る……! お前が沙代を連れて逃げろ、歳玄!」
悲鳴嶼は自らが盾となり、歳玄に沙代を連れて逃げるよう促した。だが、歳玄は冷徹に首を横に振る。
「……そりゃあ無理だ、兄貴」
「な、なぜだ……!」
「この闇の中だ……。この化け物の気配を振り切りながら、森の獣道を子どもを抱えて駆け抜けるなんて、俺のこの幼い体じゃあ絶対にできない……」
「……っ!」
「……だが、アンタ……兄貴ならできるだろ。普段から、盲目でありながら麓まで迷わず降りているアンタの足なら……!」
「しかし……!! 私がここに残れば、お前が……!」
「……頼むよ。これが最善だ」
歳玄の声音には、迷いが一切なかった。それは幼子のそれではなく、幾多の死線をくぐり抜けてきた百戦錬磨の将の響きだった。
「それに、知ってんだろ? 俺は強いぜ……。前(前世)からそう簡単にはくたばらねぇ男なのさ……だから――」
歳玄は低く構え、地の底から這いずるような気魄を爆発させた。
「――早く走れッ!!」
「っ……!?」
普段の物静かな“歳玄”からは想像もつかない、圧倒的な統率力と気迫に呑まれた悲鳴嶼は、息を呑んだ。
躊躇する時間はなかった。悲鳴嶼は涙を呑み、泣き叫ぶ沙代を片腕でしっかりと抱き締めると、寺の壁をブチ破る勢いで闇夜の森へと飛び出した。
「逃がすかよォ!!」
怪物が悲鳴嶼たちの背中を狙って跳ぼうとする。
「――行かせねぇよ」
地面を蹴り、その進路に立ち塞がったのは、小さな幼子の姿をした土方歳三だった。
「……ふっ。ここが、また別の散り際か……いや、違うな」
怪物が苛立ちを露わにし、歪んだ顔を歪めて叫ぶ。
「何をボソボソと気色悪い独り言を吐いてやがる……!」
歳玄は、かつて新選組の副長として数々の修羅場をくぐり抜けた時と同じ、底冷えのする笑みを浮かべた。
その瞳には、恐怖の色など微塵もなく、ただ冷徹なまでの闘争の炎が揺らめいている。
「――お前程度じゃ、俺の命は奪えねぇっつってんだよ、化け物が」
「っ……! このクソガキがァァァッ!!」
怒号とともに、怪物の異形の爪が夜気を切り裂き、歳玄へと凄まじい殺意をもって叩き込まれた。