「っ! クソガキがぁぁっ!!」
怒号とともに、巨体の怪物が大地を抉るような踏み込みを見せた。
人間離れした、常軌を逸した加速。音速すら置き去りにするかのような猛進が、一瞬にして歳玄との間合いをゼロへと縮める。
だが――。
(……落ち着いて見える)
歳玄の双眸には、怪物の軌道がスローモーションのように鮮明に焼き付いていた。迫り来る凶悪な爪が、空間を切り裂く軌跡。あまりにも直情的な、殺意だけの単調な一撃。
(単調だな。修羅場を潜り抜けた者から見れば、それはただの「暴力」に過ぎねぇよ)
歳玄は前世で培った濃厚な戦闘勘と、研ぎ澄まされた身体能力を総動員し、紙一重で胴を半歩だけずらす。
刹那、怪物の爪が通った漆黒の風圧が、歳玄の柔らかい頬の皮膚を裂き、赤い飛沫が宙に舞った。
(いいぞ……。そのまま、もっと深追いしてこい)
「ヒヒッ!! 逃げてばっかじゃ――」
怪物が得意げに嘲笑を漏らし、追撃の腕を振り抜こうとしたその瞬間。
言い終わるよりも早く、歳玄が動いた。
床板を蹴る音は、音響すらないほどの最小限。無駄な力を一切排した究極の身のこなし。死地の只中で磨き上げられた野生の嗅覚が、最短のルートを描き出す。
――怪物の、懐へ。
「なっ――!?」
(ここだ)
小さな右手にあるのは、ただの木刀だ。鉄の刃ではない。だが、そんなことは関係ない。勝負を決めるのは道具の質ではなく、振るう者の意志と理合いだ。
敵の身体を構成する、斬るべき“線”はすべて視えている。
「ふっ……!!」
ヒュンッ!! と、鋭い風切り音とともに、木刀を凄まじい横薙ぎに振り抜いた。
(……浅いっ!)
肉を断つ確かな手応えはあった。しかし、相手は常軌を逸した化け物だ。十歳の幼い肉体と木刀の質量では、相手の硬い骨格まで断ち切るには至らない。
「ヒヒッ!! 効かねェよォ!! そんな玩具で俺が倒せるかよ!」
怪物の巨大な腕が、怒号とともに猛烈な軌道で振り下ろされる。攻撃を当てるために踏み込んだ至近距離。このゼロ距離では、通常の回避行動など間に合うはずもない。
ドゴォッ!! と、凄まじい轟音が寺の板張りを揺らし、歳玄の小さな身体を容赦なく壁へと吹き飛ばした。
「ぐっ……はっ……!」
背中から壁に叩きつけられ、激しい衝撃が肺からすべての空気を奪う。
(……チッ。なんつぅ馬鹿力だ。一発食らっただけで、左腕の骨が完全にイカれちまったな……)
咄嗟に構えた左腕で受け流したものの、あまりの衝撃に骨が砕ける嫌な感触が生々しく伝わってきた。だらりと不自然に垂れ下がる左腕が、激痛の波を脳髄に送り込んでくる。
(……やべぇな、こりゃ。もう一度あの直撃を貰えば、今度こそこのガキの体はぺしゃんこだ)
死の足音が、すぐ背後まで迫っている。普通であれば絶望に染まるべきその状況で、しかし歳玄の口の端は、信じられないことに僅かにつり上がっていた。
「ヒヒッ……なんだその目は。面白い小動物だぜ、お前は」
鬼が、愉悦に歪んだ醜悪な笑みを浮かべる。歳玄は己に忍び寄る死神の気配を肌で感じながら、その胸のうちはかえって燃え盛るような歓喜に包まれていた。
そして――。
「あ?」
歳玄は、死を覚悟したのではない。ここから逆転するための、死闘のスイッチを入れたのだ。
両足を踏みしめ、半身に構える。木刀の刃は胸の位置より低く、まるで地面を舐めるように、敵の足元を狙うかのように低く構えられている。
その位置は、防御のためのものでも、ただの牽制でもない。
“最短で、敵の急所に一撃を叩き込むための軌道”
上段でも中段でもない。一見すれば隙だらけに見えるその構え。
だがその実――どこからでも一瞬で踏み込み、あらゆる方向へ斬り上げ、斬り払い、敵の懐を斬り抜けるための、無駄を極限まで削ぎ落とした戦闘の極致。
――“平青眼(ひらせいがん)”
それは、歳玄が新選組の副長として修羅の京都を駆け抜けていた時代、幾多の死線をくぐり抜けて磨き上げた実戦剣の極み。まぎれもなく、【土方歳三】という男のすべての原点である構えだった。
「キャハッ! もっと楽しませろよォ、その気色悪い構えでさあ!!」
鬼が再び、狂喜の咆哮を上げて踏み込んでくる。
今度は――先ほどよりもさらに一段と速い。殺意が純度を増し、死の気配が空間を支配する。
(……来たな)
上段から、すべてを叩き潰さんと振り下ろされる絶望の腕。
その軌道の真下へ、歳玄は微動だにせず引きつける。
(……ここだぁッ!!)
正面に構えた木刀を、信じられない速度で水平に、そして深くえぐるように一閃させた。
「んなっ……!? ばっ――あ!?」
歳玄の振り抜いた木刀が、鬼の予測を超えた軌道を描き、その両腕の付け根を正確無比に両断した。
噴き出す黒い鮮血。切り飛ばされた二本の腕が、宙を舞う。ただの小生意気なガキだと侮り切っていた化け物は、己の腕を紙細工のように切り落とした、自分より遥かに小さな存在を前にして、驚愕に目を見開いた。
「……はぁ……はぁ……。どうだ、これでテメェの片腕は終わりだぜ……」
「がっ……てぇ……おのれ、このガキ……!」
「両腕を使えねぇテメェのその首など、恐るに足りねぇ……はぁ、はぁ……」
歳玄は肩で息をしながらも、冷徹な殺気を込めた眼光を鬼に向ける。
「……残念だったな、クソガキ」
「……あァ……? んなっ……!?」
絶句したのは歳玄だった。切り落とされたはずの鬼の両腕の断面から、気泡のような肉片がうごめき、凄まじい勢いで再生を始めている。
(……っくそ……! やっぱ、この生温い十歳の肉体じゃあ……これ以上の無茶は身体が持たねぇか……!)
それ以上に、身体を流れる血液の循環が追いつかない。齢十歳を超えたばかりの未発達な器官で土方歳三の苛烈な記憶と技量を再現し続けた反動が、限界を超えた疲労となって全身を襲う。意識の淵が、急速に黒い闇に引きずり込まれていく。
「ヒッヒッヒ……! てこずらせやがって、このクソガキが! よくも痛い思いをさせてくれたな……! その細腕から順に、骨ごとバリバリと生きたまま食い千切ってやるぜ!!」
歪んだ笑みを浮かべ、再び巨体をうねらせて歳玄へと歩み寄る怪物。
(……ここまでか。流麗に散るには、ちとばかり未練が残るが……まぁ、悪くねぇ人生だったな)
そう、意識の糸がプツリと途切れかけた、その瞬間――。
バギャァァンッ!!世界を揺るがすような凄まじい轟音が響き渡り、寺の隣の壁が内側から粉々に粉砕された。
凄まじい風圧とともに、飛来した何者かの圧倒的な一撃が、鬼の巨体を文字通り吹き飛ばした。
(……あぁ……やっぱり、戻ってきちまったか、あの人は……)
立ち込める土煙の向こう側、そこにそびえ立つ背中に、歳玄は見覚えがあった。
「遅れてすまない……!! 大丈夫か、歳っ!!!」
血相を変え、鬼の気配を追って戻ってきた悲鳴嶼行冥が、瓦礫を掻き分けて歳玄の小さな身体へと駆け寄り、その腕の中にそっと抱き締めた。
「……あぁ……こんな、小さな体に……すまない、すまない……!」
悲鳴嶼の震える巨体に抱かれながら、歳玄は視界の端で、凄まじい負傷を確認した。己の体の至る所から血が流れている。特に左腕は、異様な角度でねじ曲がり、見る影もないほどに腫れ上がっていた。
悲鳴嶼の嗚咽を聞きながら、歳玄の意識はついに完全に暗闇へと沈んでいった。
「と、歳ぃぃぃぃぃぃっ……!!」
愛しい家族を、守るべき子供たちを傷つけられた絶望と怒り。歳玄の意識が途切れたのを確認した瞬間、悲鳴嶼行冥の中で、何かが完全にブチ切れた。
「貴様ら……人間を喰らう化け物どもめ……! 許さない……絶対に、必ず殺してやる……!!」
鬼がふらりと起き上がり、背後から無防備な悲鳴嶼へと鋭い爪を突き立てようと忍び寄る。
その瞬間――。
「ぐはっ……!?」
悲鳴嶼の身体から迸った怒気の奔流だけで、怪物の身体が凄まじい衝撃波に弾き飛ばされた。
「なにがっ……ぐああっ!?」
何が起こったのかを理解する暇すら与えない。悲鳴嶼行冥は、視覚なきその瞳から大粒の涙を零しながら、眼前の怪物に向かって巨体の拳を容赦なく叩きつけた。
「や、やめっ……ぐあぁっ……!」
ただひたすらに、奪われた者たちへの哀しみと、我が子同然に案じていた歳玄を傷つけられた怒りを、その拳に込めて。
すでに怪物の頭部は原形をとどめておらず、肉の塊へと変貌していた。
だが、悲鳴嶼の怒りは収まらない。
拳を振り下ろす手が、止まらない。
轟音と肉が砕ける音が、冷たい夜気を震わせ続ける。
そしてその凄惨な破壊の宴は――地平線から朝日が昇り、世界を黄金色の光で包み込むまで、決して止まることはなかったのだった。
◆
(……いてぇ……体中の節々が、軋むように悲鳴を上げてやがる……)
激しい痛みと、窓から差し込む眩しい朝日で、歳玄は意識を取り戻した。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、ぼやける視界の端で周囲の様子を確認する。
(ここは……どこかの診療所か……?)
消毒液の匂いと、整えられた寝具。そこは寺の粗末な床ではなく、しっかりとした医療設備に似た一室だった。
しばらく天井を眺めていると、障子戸を優しく叩く音が聞こえた。
「おや、目が覚めたかい?」
静かに開いた扉の向こうから現れたのは、歳玄よりも幾分か歳上の、しかしどこか達観したような穏やかな物腰の少年だった。煤けた黒髪を垂らし、色素の薄い瞳をしたその少年は、静かに微笑んでいた。
「私の名前は、産屋敷耀哉(うぶやしき かぐや)と言うんだ。君が悲鳴嶼歳玄で間違いないかい?」
「……俺の名前を、なんで知ってやがる」
警戒心を隠さず鋭く問う歳玄に対し、産屋敷耀哉は微動だにせず答えた。
「それは、行冥から直接聞いたからさ。君の無事を、彼は心底安堵していたよ」
「っ……! そうだ、兄貴は!? 兄貴はどこだっ! あの化け物に襲われて……っ!」
目の前の謎の少年から悲鳴嶼の名を聞いた瞬間、歳玄は激しく寝台の上で身を起こそうとした。しかし、全身を走る激痛に顔を歪める。
「落ち着いて。急に動くと傷に障るよ」
「落ち着けるわけがねぇだろっ……!」
「大丈夫。“今”は……別室で、静養しているだけさ」
耀哉の口調に含まれた、どこか深みと哀しみを湛えた言い方に、歳玄は言い知れぬ違和感を覚えた。
そこから、産屋敷耀哉によってあの夜の顛末が語られていった。
あれは「鬼」という、人間の肉を食らい生きる正真正銘の化け物であること。
奴らは驚異的な再生能力や人間を凌駕する身体能力、そして「血鬼術」と呼ばれる妖術のような異能を操るということ。
そして、その鬼を討滅するために組織された「鬼殺隊」という部隊があり、その頭首が今目の前にいるこの少年であるということ。
鬼を完全に葬る方法は二つのみ。
一つは、鬼殺隊が所持する特殊な鉱石で鍛えられた「日輪刀」によって首を斬り落とすこと。
そしてもう一つは、太陽の光に直接晒してその肉体を焼き尽くすこと。あの夜、悲鳴嶼行冥は圧倒的な暴怒と素手による凄まじい連打の末に鬼を追い詰め、結果として朝日が昇るまでその場から逃がさず、太陽の光によってあの鬼を討伐したのだということ。
さらに――耀哉の口から、容赦のない事実が告げられた。
あの日、寺で生き残ったのは、歳玄と、兄貴、そして兄貴が命がけで逃がした沙代の三人だけであったこと。
行冥が鬼を討伐し、重傷を負った歳玄を背負って麓の町まで降りたこと。
しかし――。
そこに待ち受けていたのは、瀕死の子供を抱え血まみれになった行冥の姿を見て恐怖に駆られた、無知な街の住人たちの姿だった。
あの夜の凄惨な光景、そして寺でのあまりに悲惨な血の海を目の当たりにした沙代は、ショックのあまり正気を失いかけていた。彼女は混乱の極みの中で、目の前で血にまみれていた「化け物(鬼)」の恐怖の記憶を、そのまま目の前にいた大男――悲鳴嶼行冥へとすり替えてしまったのだ。
「"あれ"が……"あれ"が寺の皆を殺した化け物だ……!」と。
その恐怖に満ちた絶叫を信じ込んだ愚かな住人たちによって、行冥は人殺しの罪人として縛り上げられ、牢獄へと投獄されてしまった。それを知った産屋敷耀哉が自ら馳せ参じ、事の真相を見極めて行冥を救い出したのだと、耀哉は静かに語った。
「兄貴が……そんな目に……」
「っ……!」
産屋敷耀哉の静かな説明を遮るように、歳玄はボキボキと音を立てる痛む体を無理やり動かし、寝台から飛び降りた。行冥が入れられているという別室へ向けて、足を引きずりながら走り出す。
「兄貴っ……!!」
廊下を駆け抜け、開け放たれた部屋の前に飛び込むと、そこに座り込んで項垂れていた巨大な影があった。
「……っ! 歳……っ!?」
悲鳴嶼行冥は、自分の名を呼ぶ聞き慣れた声に驚き、その濁った瞳を大きく見開いた。
「兄貴……っ!」
歳玄は躊躇うことなく、その巨大な胸元へと飛び込んだ。
「……すまない、歳……私に力があれば……私がもっと、しっかりしていれば、みんなを……お前をあんな危険な目に合わせずに済んだのに……っ!」
助けたはずの子供たちを守れず、さらに世間からは罪人扱いをされ、悲鳴嶼行冥の心は極限まですり減り、疲弊し切っていた。彼は子供のように大粒の涙を流し、自らを責め続けていた。
「何言ってんだよ、馬鹿野郎」
歳玄は、その折れた左腕の痛みを忘れ去ったかのように、力強く悲鳴嶼の大きな腕を掴んだ。
「兄貴は俺たちのために、あの化け物……鬼に真っ向から立ち向かってくれたんだろ。兄貴が命を張って俺を庇ってくれたから、俺はこうして生き延びている……。だから、謝るなよ。……ありがとう、兄貴」
「……っ……歳……歳……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、悲鳴嶼行冥の堰を切ったような涙はさらに溢れ出し、彼は小さな歳玄の体を壊れ物でも扱うかのようにしっかりと抱き締め、声を上げて号泣した。
ずっと一人で背負い込み、誰にも言えずに飲み込んでいた恐怖と孤独が、その温もりによって少しずつ溶かされていく。
しばらくして、産屋敷耀哉が使用人たちを引き連れ、心配して駆けつけてきた。しかし、その場にいる二人は周囲の視線すら気に留めることなく、互いの存在を確かめ合うようにただ泣き濡れていた。
その日は一日中、二人きりで寺の無残に散った家族や子どもたちの亡骸を静かに弔いながら、静寂の中で過ごしたのだった。