夜が、静かに更けていく。寺の祭壇に供えられた線香から、細く白い煙がゆらゆらと立ち上り、どこか寂しげな香りを漂わせていた。
あの惨劇からどれだけの時間が経っただろうか。崩れ落ちた本堂の片隅で、歳玄は静かに目を閉じていた。寺で共に暮らし、無邪気な笑い声を響かせ合っていた子どもたちの顔が、走馬灯のように脳裏をよぎる。一人ひとりの名を心の中でなぞりながら、歳玄は自身の胸の内に渦巻く黒々とした感情を抑え込んでいた。
(……守れなかった)
脳裏に焼き付いているのは、あの夜の地獄のような光景だ。むせ返るような生臭い血の匂い。子供たちの断末魔の悲鳴。骨が砕ける乾いた音。
そして、目の前で愛しい家族が蹂躙されていくのをただ見ていることしかできなかった、己の圧倒的な無力さ。
握り締めた拳が、怒りと悔しさで微かに震えていた。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。しかし、その痛みこそが、自分が今「生きている」という残酷な証明だった。
「……歳」
隣から、低く、どこか包み込むような穏やかな声がかかる。
目を開けると、そこには悲鳴嶼行冥の巨体があった。視覚を持たぬその瞳は、しかししっかりと歳玄の存在を捉えているかのようにまっすぐ向けられている。
「兄貴」
「無理に、背負う必要はない」
静かな声だった。だが、その言葉の奥底に秘められた重みは、痛いほどに歳玄の皮膚を刺した。悲鳴嶼行冥自身もまた、あの夜のすべてを背負い込んでいる。我が子同然に慈しんできた子どもたちを奪われ、自らもまたその牙を防ぎきれなかったという自責の念を、この大男は誰にも見せないまま押し殺しているのだ。だからこそ、同じ痛みを分かち合う歳玄に対して、その肩の荷を下ろさせようと優しく声をかけたのだった。
「……違ぇよ」
歳玄は、ゆっくりと首を横に振った。その小さな影には、十歳の子供とは思えないほどの凄みが漂っている。
「これは、別に背負うとか、そういう重荷じゃねぇよ」
「……」
「俺自身が忘れねぇためさ」
歳玄はゆっくりと目を見開いた。その双眸に宿っていたのは、子供のそれではない。幾多の死線をくぐり抜け、修羅の道を歩んできた男の、冷徹にして強烈な意志の光だった。
「俺は――あの時、あの化け物を斬れなかった」
あの夜の絶望的な攻防。確かに、鬼の両腕を断ち切ることはできた。新選組の副長として磨き上げた「平青眼」の極意は、間違いなくあの化け物の肉体を捉えていた。だが――斬りきれなかった。刀の質量が足りず、肉を断ちこそすれ、骨まで完全に断ち砕くことはできなかった。その結果が、あの致命的な隙を生み、さらなる絶望を呼び寄せかけた。
それが、すべてだ。言い訳の余地などどこにもない。
「……力が、圧倒的に足りねぇ」
ぽつりと零れたその言葉に、行冥は何も返さなかった。
否――返せなかった、というのが正しい。
その言葉があまりにも真っ直ぐで、あまりにも現実を直視したものであり、そして何より、自分自身が抱えていた痛切な真実そのものだったからだ。
「兄貴」
「……どうした」
「俺、強くなるぜ……今よりももっと、比べ物にならねぇくらいに強くなる」
そこに迷いは一切なかった。微塵の躊躇すらない。
「鬼を斬る」
歳玄の纏う空気が、ガラリと一変した。殺気とも闘気とも違う、研ぎ澄まされた刃のような決意が、周囲の冷気を切り裂く。
「もう二度と、あんなものは見たくねぇ。あんな風に、大切なものが目の前で理不尽に踏みにじられるのを見るのは、もう御免だ」
歳玄の脳裏に鮮明に蘇るのは、あの夜の“終わり”だ。
守れなかった命の重み。一瞬にして崩れ落ちた、穏やかな日常。
そのすべてを取り戻すことはできないとしても、これ以上同じ悲劇を繰り返させないための楔を、この世界に打ち込む必要がある。
「そのための剣を――俺は、これから振るう」
静かに、だが確固たる決意を告げる歳玄の横顔を見つめ、行冥はゆっくりと目を閉じた。
巨体の男の胸の内で、熱い何かがうねりを上げて脈打つ。
「……そうか」
絞り出すような、短い言葉。
だが、その一言に込められた決意の重みは、計り知れなかった。
「ならば――私も、共に行こう」
「……あぁ」
二人の間に、これ以上の言葉は必要なかった。
互いの背中を預け、同じ地獄の底へ降り立つための契りが、今ここに結ばれたのだった。その時だった。しんと静まり返った寺の廊下から、軽やかな、しかし芯のある足音が近づいてくる。
障子がすっと音もなく開き、柔らかな、まるで春の陽気のような気配が部屋の中にすっと差し込んだ。
「話は、きれいにまとまったようだね」
穏やかで、しかしどこか不思議な響きを持つ声が響く。
そこに立っていたのは、煤けた黒髪を垂らし、穏やかな笑みをたたえた少年――産屋敷耀哉だった。
「……いつから聞いてたんだよ」
歳玄が少しだけ不機嫌そうに、眉間を寄せて問う。
耀哉は困ったように、しかし優しく微笑むだけだった。
「最初から、というわけではないさ。ただ、大切な話の結びだけを、ね」
「……チッ」
「だが、とても素晴らしい覚悟だったよ」
耀哉はそう言って、目の前に座る二人を静かに、慈しむような眼差しで見つめた。
その瞳はどこまでも温かい。だが同時に、すべての運命を見通しているかのような、底知れない深さと鋭さを秘めていた。
「鬼と戦う道は、決して平坦なものではない。君たちが想像しているよりも、はるかに険しく、理不尽な茨の道だ」
「……」
「多くの命を見送り、時には自分自身の心すら見失いそうになるほどの絶望が、彼方で待ち受けている」
静かに、しかし一言一言を噛み締めるように耀哉は言葉を紡ぐ。
「それでもなお、鬼を狩り、その剣を振るう覚悟はあるかい?」
問われる。それは脅しでも、試練のための脅し文句でもない。純粋な選択の提示だった。
だが――
「あるに決まってんだろ」
間髪入れず、迷いなど一瞬たりとも見せずに、歳玄は言い放つ。
その力強い瞳に映るのは、揺るぎない未来だけだった。
「……そうか」
耀哉は深く、静かに頷いた。その表情には、深い納得の色が浮かんでいた。
「ならば――君たちは、鬼殺隊の本拠地へと来るといい」
空気が、再びピリリと張り詰める。
「私の誇る剣士たちと共に、その力を貸してほしい」
それは、命令ではなかった。
だが、お願いというにはあまりにも重い、未来のすべてを託すような声音だった。
「……面白ぇ」
歳玄は、ふっと口の端を不敵につり上げた。
その表情は、かつて新選組の副長として修羅場を駆け抜けていた頃の、不敵な笑みそのものだった。
「ちょうどいい。このまま中途半端なままじゃ、俺の魂が収まらねぇと思ってたところだ」
歳玄はゆっくりと上体を起こす。
まだ、あの夜の戦いで受けた体中の傷や骨折の痛みが、鈍く軋むように主張している。だが、そんなものは今の彼にとってどうでもよかった。肉体の痛みなど、精神の燃え盛る闘志に比べれば些細な問題に過ぎなかった。
その夜、二人は、運命の歯車を大きく動かす新たな道を選び取った。
鬼を狩る者としての、血塗られた修羅の道を。
そして――歳玄の中で、長らく眠りについていた“剣”が、静かに、だが確かな殺気を伴って目を覚ました。
それはまだ、ほんの始まりに過ぎない。
やがてその剣は、無数の型へと昇華され、極限の技へと磨き上げられていくことになる。
まるで桜のように――美しく、そして残酷なまでに儚く散りゆく者たちを斬り伏せる、最強の剣へと。
◆
それから、一月(ひとつき)の時間が過ぎた。
秋の気配が深まりつつある山道を、歳玄と行冥の二人は黙々と歩いていた。行き着いたのは、とある険しい山の麓だった。
「……ふぅ。にしても、随分と人里離れた場所だな」
額に滲んだ汗を拭いながら、歳玄が周囲を見回す。
二人が鬼殺隊への入隊を決意したものの、産屋敷耀哉はすぐに前線へと送り出すことはしなかった。なぜなら、今の彼らのままでは、一匹の雑魚の鬼を相手にするのすら命取りになることを、耀哉が誰よりも見抜いていたからだ。
力、知識、戦闘の経験、そして何よりも――鬼と戦うための「理合い」。何もかもが、決定的に足りていない。
その現実に気づいていた耀哉が、二人を厳しく鍛え上げるためにとある人物を紹介したのである。
『あそこにはね、二世代前の鬼殺隊をその圧倒的な武力で支え、頂点に君臨していた元・「柱」なる者が隠れ住んでいる。彼に認められれば、君たちの剣は本物の牙を剥くだろう』
耀哉がそう告げていた場所が、まさにこの山だった。
山道はどこまでも険しく、冷たい空気が肺を刺すように冷たい。足場も悪く、普通の人間に登り切ることは到底不可能なほどの難所だった。
その過酷な道のりの果て――山頂の開けた平地にて、彼らを待っていたのは、一人の男だった。
年の頃はおそらく三十代前半。
長身で、一見すると痩せているようにも見えるが、その全身から放たれる気配には一切の隙がなかった。無駄な脂肪が極限までそぎ落とされた肉体は、まるで鋼鉄のバネを何重にも束ねたかのような脅威的な弾力を秘めている。
男は静かに、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
その瞳は――周囲の景色とはあまりにも不釣り合いな、淡い黄金色(こがねいろ)をしていた。まるで、すべてを見透かすような、鋭く、そして冷たい輝きを湛えた眼差しだった。
「……君たちがお館様の言っていた、未来の剣士候補というわけか」
男の声音は低く、静寂の山に響き渡った。
「私は――桜庭 綾之丞(さくらば あやのじょう)。……そして、元・鬼殺隊剣士だ」
「……元、ねぇ」
歳玄の顔が、わずかに曇るのが分かった。
「元」という言葉の裏に隠された意味を、修羅場を潜ってきた直感が察知する。
「逃げたのか?」
歳玄の口から、挑発とも取れる鋭い言葉が飛び出した。
周囲の空気が、一瞬にして氷点下にまで凍りついたかのように重くなる。行冥が「歳……!」と制止しようと動いたが、当の桜庭綾之丞は怒るどころか、微動だにしなかった。
「……ふむ。いい質問だ、小僧」
綾之丞は冷ややかに微笑み、その黄金色の瞳を歳玄に据えた。
“逃げたのか”という問いを、彼は決して否定しなかった。
「私はただ、運良く“生き残った”だけだ。……あの地獄のような戦場で、仲間たちが次々と肉片に変わり、食い潰されていく中で、醜くも生き延びてしまっただけの敗残者さ」
その一言に込められた重み。数々の絶望をその目で目撃し、自らも血を流してきた者にしか出せない、圧倒的な諦念と凄みがそこにあった。
行冥は、その言葉の奥にある深い闇をすぐに理解した。
この男は――“地獄の底を覗き、今なおその亡霊に取り憑かれている側”の人間なのだと。
「お前たちを、この私情を挟んでまで鍛え上げる理由は一つしかない」
綾之丞は、冷徹な視線を二人に向けて言い放つ。
「――無駄死にさせないためだ。貴様らのような半端者が、何の知識も技術もなくあの化け物どもの前に立てば、一秒も持たずにゴミのように食い荒らされる。それが分かっているからこそ、お館様は私に白羽の矢を立てた」
静かだが、絶対の拒絶と意思がそこにはあった。
「だが、口裏だけが達者な若造を育てるほど、私の暇は潰せやしない」
スッ、と綾之丞の右手から、木刀が静かに抜かれた。刃を向けられたわけではないが、その構えだけで空間の密度が変わった。
「お前たちに、本当に鬼と渡り合うだけの『才能』があるか。……まずはこの私に見せてもらう」
――次の瞬間世界が歪んだ。
「っ……!?」
歳玄の視界の中から、綾之丞の姿が完全に消失した。
残像すら残さない、目にも留まらぬ超絶的な踏み込み。
(――背後か!!)
本能が警告を発する。
歳玄は思考よりも早く体をひねり、持っていた木刀を背後へと全力で振り抜いた。
ガキィィンッ!!耳をつんざくような激しい衝撃音が山道に響き渡り、木刀同士が激突した衝撃で凄まじい火花が散った。
「ほう……。反応は、悪くないな」
背後に回り込んでいた綾之丞が、片手で歳玄の全力の一撃をいとも簡単に受け止めていた。まるで子供の遊戯をあしらうかのような余裕の表情だった。
「だが、“見えている”だけでだな」
「……っ……ぐっ……!」
次の瞬間、歳玄の腹部に、重戦車の突撃を受け止めたかのような凄まじい衝撃が叩きこまれた。
ドンッ!!と空気を切り裂く音とともに、歳玄の小さな身体が宙を舞い、数メートル先の地面へと勢いよく叩きつけられた。
「がっ……は……っ!」
衝撃で肺の空気がすべて押し出され、激しい痛みが全身を駆け巡る。地面を転がりながら、歳玄は必死に息を吸い込もうともがいた。
「歳……!!」
親友の危機に、行冥の巨体が怒号とともに動き出した。
目が見えぬはずのその巨躯が、音の気配を頼りに綾之丞へと突進し、その巨大な拳を容赦なく振り下ろす。
「お前もだ、大男」
だが、綾之丞は動じない。紙一重でその拳をかわし、さらに踏み込む。
ドッ!と一瞬で間合いが詰められる。行冥の巨体が放つ圧倒的な膂力すら、綾之丞の前では子供の戯れのように無力化されていた。
(速い――! 目で見えないだけじゃない、気配そのものが消えている……っ!)
行冥が再び拳を繰り出すが、その拳は虚空を捉えるだけで、綾之丞の衣服の裾すら掠めることはできない。
逆に、綾之丞のカウンターが容赦なく行冥の懐へと突き刺さる。
「遅い」
鈍い、しかし内臓を揺らすような重い音を立てて、行冥の巨体すらもあっさりと吹き飛ばされた。
圧倒的――。あまりにも理不尽で、絶望的なまでの実力差だった。
「……話にならん。呆れて物も言えんな」
綾之丞は木刀を下ろし、冷ややかな視線を地面に這う二人に投げかけた。
「今のお前たちは、“鬼の姿を見る資格すらない”、ただの虫けらと同然だ。そんな有様でよくもまぁ、鬼を斬るなどと大口を叩けたものだ」
悔しさが、その場の空気を満たしていく。
歳玄は口の端から滲んだ血を乱暴に拭い、歯を食いしばりながら震える体を無理やり起こした。
(くそっ……! 何もできなかった……! あの男の動きの理合いすら、掠めることすらできなかった……っ!)
だが、歳玄の瞳の光は死んでいなかった。
恐怖に縮こまるどころか、その奥底で、かつての土方歳三としての闘争本能が、より一層激しく、黒々とした炎を燃え上がらせていた。
負けた。歯が立たなかった。それがどうした。
ここからはい上がって、あの男の喉笛を捉えてみせればいいだけの話だ。
その歳玄の異様な眼差しを、綾之丞は見逃さなかった。わずかに、その黄金色の眉がピクリと動く。
「……ほう。いい目だ」
綾之丞の口元に、冷徹な中にも確かな手応えを感じさせる笑みが浮かんだ。
「その敗北感を飲み込み、なおも牙を剥こうとするその性根だけは褒めてやろう。……合格だ」
「……は?」
「明日から、本当の意味での『地獄』を見るぞ。覚悟しておけ」
冷たく、しかし血の沸くような宣告を告げると、綾之丞は背を向けて奥の小屋へと歩み去っていった。
――◆ 特訓開始
翌朝、まだ周囲の山々が深い藍色の闇に包まれ、冷たい朝露すら凍りついているような、日も昇りきらない早朝の時間。
「起きろ、いつまで寝ている」
綾之丞の容赦ない声とともに、木刀の柄で地面が激しく叩かれる音で、二人は叩き起こされた。
「起きたら、まずそこに立て」
指し示されたのは、急勾配の崖っぷちだった。
寒風が吹き荒び、一歩間違えば谷底へ転落しかねない危険な場所。
「まずは基礎だ。……お前たちのその緩みきった肉体と呼吸を、根本から叩き直す」
綾之丞が告げた最初の修行。それは、剣術の素振りでも、型を覚えることでもなかった。
■ 修行①:呼吸の強制
「吸え」
「……は?」
歳玄が思わず聞き返す。
「耳が遠いのか? 死ぬほど空気を吸い込めと言っているんだ」
綾之丞の纏う気配が、一瞬で厳格なものへと変わる。
意味が分からないまま、歳玄も行冥も、言われるがままに冷たい山気を胸いっぱいに吸い込んだ。肺が冷気に焼かれるような感覚が走る。
だが――
「甘い。浅いぞ」
鋭くしならせた木刀が、容赦なく歳玄の背中を打ち据えた。
「ぐっ……!!」
衝撃のあまり、吸い込んだ空気が一気に吐き出される。
「肺の奥まで使え。ただ空気を胃に流し込むような呼吸では、鬼の圧倒的な再生力と筋力の前では一巻の終わりだ。……呼吸が浅い剣士は、鬼殺隊において三流以下のエサでしかない」
綾之丞の冷徹な指導が続く。
鬼殺隊の戦士たちが使う「全集中の呼吸」。
それは、ただの深呼吸などではない。肺の隅々、無数にある肺胞の細部にまで大量の酸素を無理やり取り込み、その酸素を血液の奔流に乗せて全身の細胞の隅々にまで送り届ける極限の技術だ。心拍数を意図的に極限まで跳ね上げ、体温を異常なまでに高めることで、人間でありながら鬼と同等の、あるいはそれを凌駕する超人的な筋力、硬度、そして驚異的な治癒力を一時的に発揮させる。血管が破裂し、筋肉の繊維が悲鳴を上げるほどの負荷に耐え抜いて初めて成し得る、禁断の肉体改造法だった。
「吸って、吐いて、再び吸え。限界だと思っているその壁の、さらにその向こう側に酸素を送り込め!」
その後――延々と、ただひたすらに呼吸の訓練が続けられた。
吸って、吐いて、また吸う。肺が引き裂かれるような痛みが走り、視界がチカチカと明滅する。酸素の急激な取り込みにより、脳が異常な興奮状態に陥り、手足の先が痺れていく。
だが、地獄のような苦しみの果てに、歳玄はふと気づいた。
(……あれ? 体が……軽い?)
激しい痛みの向こう側で、自分の体内の血の巡りが劇的に変化していくのが分かった。心臓が猛烈な勢いで鼓動を打ち、全身を熱い血潮が駆け巡る。これまで幼い肉体ゆえに感じていた枷や鈍さが、嘘のように霧散していく。
視界が信じられないほどに研ぎ澄まされ、数メートル先を飛ぶ一匹の虫の羽音すら、明確に耳に届くようになった。
(これが……呼吸の力……!)
「……ふむ。少しは、感覚を掴んできたか」
遠くで見守っていた綾之丞が、わずかに目を細めて頷いた。
「それが、『全集中の呼吸』の基礎だ。……だが、まだスタートラインに立ったに過ぎん。ここから先は、その呼吸を絶やさず、走っても、斬られても、死の淵に立っても乱さないための地獄が待っている」
黄金色の瞳に、残酷なまでの光が宿る。
歳玄は、折れかけた左腕の痛みを歯を食いしばって堪えながら、しっかりと自身の足で大地を踏み締めた。
前世の記憶と、今世の肉体。そして鬼殺隊としての新たな呼吸が、彼の内側で混ざり合い、静かに、だが確実に、最強への扉を開き始めていた。